2025年4月 8日 (火)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第498回「教育はどこへ行く その2」

ブッシュ政権で教育調査官を務めたニューヨーク市立大のダイアン・ラビッチ教授による、「すべての子どもたちに基礎学力をつける」と聞いた時は感激したが、現実にはそうはいかず、4年後から反対に転じたといい、「落ちこぼれゼロ法」の失敗の理由を二つあげています。

一つは、学力の低い子ほど、最寄りの学校で家の事情も知る慣れた先生に教えてもらいたがる現実を無視して学校のランク付けをしたことで、下位の子の自尊心を傷つけ、やる気を失わせたこと。
もう一つは、ノルマを果たせなかった学校の改善がうまくいかず、テストのための教育が広がり、自分で考える力を失わせてしまったこと、と言っています。

「落ちこぼれをなくす」という理念について、反対する人はほとんどいないと思います。私もまた、公教育の目指す方向の一つとして、「落ちこぼれをなくす」という理念が重要であると思います。ただ、ここで問題なのは、どんな子どもが落ちこぼれかという「定義」と、どうやって落ちこぼれをなくすかという「方法」です。
当然のことながら、落ちこぼれの「定義」が違えば、それをなくすための「方法」ももちろん違うわけですから、第一義的には「定義」が重要ということになりますね。

子育てをしていると、遺伝的にはとても近い自分の子どもたちでも、子どもによって、それぞれまったく違った個性を持っていることを感じます。遺伝的には近いわけだし、育っている環境もまったく同じ(生まれてきた順序を除けば)なわけだから、他人から見れば多くが似ているのでしょうが、親から見ればそれぞれの子どもによってまったく違った個性を感じます。食べ物の好みですら、正反対なんて感じることだってあります。
子どもたちにはそれぞれ個性があって、向き不向きが全く違うにもかかわらず、それを無視して、「落ちこぼれゼロ法」と「大阪市の教育改革」は、「落ちこぼれ」を考える基準を限りなく「学力」に限定してしまっていることが大きな問題点です。
「落ちこぼれゼロ法」と「大阪市の教育改革」について、「学力とは何か」と問えば、どちらも「テストで何点取れるか」という定義になるのでしょう。橋下市長の発言を聞いていると、「優秀な子=高偏差値な子」ということでほぼ一貫しているように感じます。

「テストでいい点を取れる」ということが、「人間の価値か」ということは、いつの時代も問題になることです。米国の母親が「学校はテストのための勉強ばかり」と言っていることや、ラビッチ教授が「教育技術を学んだ教師を送り、テストの点を上げる反復練習を繰り返した結果、一時的に点は上がった学校もあった。だが、長続きしなかった。テストのための教育が広がり、自分で考える力を失わせてしまった」と言っていることから、どうやら日本も米国も同じことのようです。

私は「テストの点の悪い子」を落ちこぼれの「定義」と考えたくはないのですが、百歩譲ってそう考えたとしても、「落ちこぼれゼロ法」が落ちこぼれをなくすことに適切な法律であるのかといえば、ラビッチ教授の話から、どうやらそうでもなさそうだということがわかります。

中学3年生の中ごろに、偏差値35~40程度に低迷している、俗に言う「落ちこぼれ」という子どもたちに勉強を教えていた経験から言わせてもらうと、明らかに学習障害と言われる子どもを除けば、こちらのアプローチ次第で、1~2ヶ月で全員が偏差値で10、順位で言えば100人中後ろから4、5番だった子がほぼ真ん中くらいまで上がります。
これには、「こつ」、言い換えれば「技術」があるわけですが、実は「技術」よりもっと重要なものがあります。それは教える側と教わる側の「信頼関係」です。信頼関係を築けない子どもは、脅しても、罰を与えても、100%うまくいきません。教える側の空回りに終わるだけです。テストの点を上げるには、本人のやる気が何よりも重要な要素であり、「落ちこぼれ」と言われる子どもたちのやる気は、脅しや罰はもちろん、教えることの技術だけでは到底引き出せないからです。

つづく
2012/03/19(月)


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
掲載された元のページも現在ご覧いただけるようになっています。
https://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=50&forum_id=13

| | | コメント (0)

2025年4月 6日 (日)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第491回「炭起こし」

一昨日の晩から、孫の沙羅が
「じいちゃん、日曜日学校来て!」と騒いでいました。
「何があるの?」
「七輪で炭起こしてお餅焼いて食べるの」
「ああ。去年だったか一昨年だったか、蓮がやったやつね」
「そう。じいちゃん、来られる?」
母親の麻耶も行くらしいので、私が行く必要もなさそうなんですが、なぜか沙羅は私にこだわっていて、
「ん~、仕事あるしなあ…」と言っても、
「なんとか来られないの?」
そんなこと言われては都合をつけないわけにはいかず、なんとか行ってやることにしました。

沙羅の中では、いろいろなことがそれぞれ誰にふさわしいかという考えがあるようで、「七輪で炭をおこして餅を焼く」ようなこと、要はアウトドア系のことは私ということのようで、「来てね、来てね」と何度も念を押される始末。そういえば、蓮の時も私と麻耶で行きました。みんな炭には慣れていないようで、七輪の中にぎゅうぎゅうに新聞紙と割り箸を突っ込み、さらにその中に炭を突っ込み、まるで火事のように七輪から高い炎を上げて炭起こしをしていたのを覚えています。

その時学校から配られたプリントには、新聞紙と割り箸に火をつけたら、そこへ炭を入れ、七輪の下の方にある空気窓からうちわであおいで風をたくさん送るように書いてありました。実際にやってみればわかるんですけれど、これは大きな間違い。炭が充分赤くなって、上から炭を足す場合は、それでもいいのですが、新聞紙と割り箸を燃やした直後に下の窓からうちわで風を送ると、新聞紙の燃えかすが一気に上に舞い上がってしまいます。
うまく火を起こすには、新聞紙と割り箸にほどよく火が回ったところで炭を入れ、新聞紙と割り箸の火がほぼ消えるくらいまで待って(炎が収まったころには炭の角の部分にはやや火が移っています)、なるべくうちわを七輪に近づけ、一気に上からあおぎます。
この時のこつは、うちわで送った風が効率よくすべて七輪の中に入るように、できるだけうちわを七輪に近づけ、小刻みになるべく強く(腕が痛くなるくらい)あおぐこと。こんなに勢いよくあおいだら消えてしまうんじゃないかと不安になりますが、強くあおげばあおぐほど、炭のはじに着いていた火が広がり、ぱちぱちと音をあげ始めます。
「ぱちぱち」音がし始めたらあおぐのを止め、炭から炎が上がるのを確かめれば炭起こしは終了。七輪の炭を起こすくらいなら、まあ1~2分もあれば充分ですかねえ。
どのグループも配られたプリントを見ながら、その通りやろうとしてなかなかうまくいかず、いくつかのグループは私が手伝いました。

今日は、そのようなプリントはなくて、模造紙様のものに手順が書いてあるだけ。しかも蓮の時に比べれば、炭のおこし方についての説明はおおざっぱ。説明がおおざっぱなことで、どのグループも試行錯誤しながらとはいえ、大人の知識をフルに発揮して炭起こしをしていたので、逆に蓮の時よりはうまくいっているようでした。

今日とてもおかしかったのは、私が新聞紙と割り箸が燃えている中に炭を入れようと、ビニール袋から素手で炭を出したとたん、若い女性の先生に「あぶない」と言われたこと。私に言ったのかどうかは定かではないけれど、うちのグループでその瞬間に何かしようとしていたのは私だけ。沙羅もその先生の言葉が私に向けられたと感じたらしく「じいちゃん、軍手した方がいいよ」と言いました。そんなことから考えると、おそらく私に向けられた言葉かと・・・。先生は「炭はトングでつかむもの」と杓子定規に思っているらしく、素手でつかんでは、何か危険(手を切る? 七輪に入れる時にやけどする?)と感じたのでしょう。

私が炭を素手で持ったのは、素手で持つことでその炭の特徴というか、性質というか、そんなものを感じて、餅を焼くにはどれくらいの炭を七輪に入れるかとか、この炭の火力はどれくらいかといったものを知りたかったわけですが、炭はトングで挟んで入れるものと思っている若い先生にはちょっとそこまではわからなかったようです。

無事、1~2分で炭起こしは終了、あっという間にお餅も焼けて食べ終わりました。うちのグループが片付けに入ろうかというころ、まだ炭を起こしているグループもありましたので、いかに早く作業が済んだか…。でも、こういう作業というのは早く済めばいいというものでもなくて、他のグループと同じような早さで作業を進めることも、ある意味大事なことなので、今日については大成功のような、大失敗のような・・・。

私が子どものころ、まだ学校のストーブは石炭のだるまストーブ。クラスの誰もがストーブ当番というと紙に火をつけ、薪に火をつけ、石炭に火をつけ、という作業をしていたものです。今日も七輪の中にぎゅうぎゅうに新聞紙を突っ込み、その上に牛乳パックをちぎったものを突っ込み、さらに炭を突っ込み、その周りにまるで何かの宗教の儀式のように割り箸をいっぱい直立させているのを見ると、思わず吹き出しそうになりました。あまりに炭を起こしすぎたところは、お餅が真っ黒焦げになってしまったんですよね。
これはなかなか経験がないとわからないことですけど、餅を焼くにはほとんど炭はいらないんです。だからこういう経験をさせているんでしょうけれど、先生方もあまり慣れていないようで、まだまだ皆さん修行が足りないというところでしょうか(笑)

もし、七輪でお餅なり、肉なり、サンマなり、焼いてみたい人は、ぜひ前述のやり方、試してみてください。間違いなく、炭起こしに3分とかかりませんから。
2012/01/30(月)


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
掲載された元のページも現在ご覧いただけるようになっています。
https://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=50&forum_id=13

| | | コメント (0)

2025年4月 4日 (金)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第479回「学校教育はどこに向かってる?」

「沙羅ちゃん、今日音楽会だって?」
「うん!」
「何時から?」
「1時半から」
「午後からなんだぁ! じゃあ、行けるかもしれない」
「うん、わかった! でもね、演奏中は入れないから、遅れると見られなくなっちゃうよ」
「沙羅ちゃんたちは何番目?」
「1番最初。1時半から校長先生のあいさつとかがあって、それが終わったらすぐ」

おーっ、まるでクラシックの音楽会のよう。
会場の体育館は明るい上、演奏中でも会場内での移動は出来る。もちろん、私語は慎むにしても、保護者の人数分の椅子があるわけではないので、自分の子どもがよく見えるように立ち見の保護者が移動したり、ビデオ撮影、写真撮影もOK。にもかかわらず、演奏中は入場できない? 意味わかんなーい!

私も音楽をやっていたので、演奏中に会場に入られるのが気になることはわからなくはない。舞台上だけが明るく、客席がほぼ真っ暗な状態で後方のドアが開くと、舞台からはけっこう気になるし、演奏の音以外何も聞こえず、咳をしたり、ときに息をしたりするのもはばかられるような緊張感の中では、演奏中の入場が禁止なのは当然です。でも小学校の音楽会の目的は子どもたちが精一杯歌うことにもあるわけだし、それを保護者に見せることにもあるはず。沙羅の言ったことがどこまで本当かは定かではないけれど、とにかく子どもたちにそこまで厳しく感じさせる必要があるのだろうか、要するに子どもたちが騒がないようにするための脅し?と思いながら、沙羅の話を聞きました。

仕事の関係で、行けるとしても1時半ぎりぎり。沙羅の言ったことを信じるとしたら、1分でも遅れるわけにはいかないので、時間を気にしつつ、校長先生の話はどれくらいの長さかわからないので、1時半に間に合うように沙羅の通う小学校へ向かいました。そこまでぴりぴり時間を気にしていなくてはならない自分が、おかしくも思えましたが…。
1時半を目指したおかげで、校長先生の話にも間に合いました。

沙羅の演奏の前に、開会宣言、校長先生の話、教頭先生の話、演奏中の諸注意があったのですが、これがまたわけがわからない。話の内容は理解できるし、それほど変なことを言っているわけではないんですが、どういうわけかやたらと敬語を使う。ところがこの敬語が誰に対して使っている敬語なのかわからない。私も敬語の使い方は下手なので、というかよくわかっていないので、「今のおかしい」と妻にときどき指摘されるくらいなんですけれど、そんな私が聞いていても、かなりひどい。
敬語というのは、敬語を使う立場の人間と、敬語を使われる立場の人間がいて成り立つもの。にもかかわらず、それがはっきりしないものだから、保護者に対して敬語を使い、子どもたちに敬語を使ったと思ったら、今度は教員に対して敬語を使っている。そんな曖昧なしゃべり方をしているものだから、とうとう主語につく助詞までがおかしくなって、「が」なんだか「は」なんだか「を」なんだか、めちゃめちゃになっちゃって…。
演奏中の諸注意だけは子どもたちに対して上から目線だから、立ち位置がはっきりしていたけれど、校長先生の話と教頭先生の話は立ち位置が定まらない。学校の現場の混乱を象徴しているような話っぷり。誰が誰のために何をすべきで、何をしようとしているのか、そこの部分が欠落して、批判されないよう表面だけを取り繕おうとしているんでしょうね。
それが教員の質の低下をごまかそうとしているものなのか、保護者の暴走に歯止めをかけるための戦略なのかは別にして、とても心配なことですが、学校教育が芯のあるしっかりしたものではなく、うわべだけの学校ごっこのようなものに成り下がっているように感じました。
2011/10/31(月)


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
掲載された元のページも現在ご覧いただけるようになっています。
https://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=50&forum_id=13

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第473回「学校がなくなる」

「Kさんが電話ほしいんだって。電話番号、そこに書いといたけど」
「なんだろっ? 珍しいね」
「何にも言ってなかったけど」
他人の家に電話をするのはほぼ夜9時までと決めているのですが、PTA役員をやっている時でさえ、電話がほしいなどと言ってきたことのないKさんが「電話がほしい」なんてよほどのこと。すでに午後10時を回ろうとしていたのですが、とにかく電話してみることにしました。
「もしもし、大関ですが…」
「ああ、大関さん、どうも」

PTAの役員を一緒にやった奥さんからの電話だと思い、「奥さん、いらっしゃいますか」と言おうとしたその瞬間にご主人が話し始めたので、ちょっとビックリしました。
「お電話いただいちゃってすみません。中学校のことなんですけど、聞いてますか? 今、1年生が7人しかいなくて、このままだと来年廃校になりそうなんです。来年度、40人以上生徒が集まらなかった場合は、廃校にするって。突然なんですよ。1年生が少ないのはわかってたけれど、廃校なんていう話はこれまでなかったんです。それが突然廃校なんていう話されても…。1年生が7人なのに、いきなり40人以上なんて言われたって、今の6年生が全員そのまま中学に上がったって、ぎりぎりですよ」

「今年、小学校を卒業した子もそれくらいいましたよね?」

「卒業した子はいましたけど、ほとんど別な中学校に行っちゃったんです。中学校が何も手を打ってこなかったから。中学校は選択制でしょ、だから他の学校はいろいろ宣伝してるんです。説明会を何度も開いたりして…。なのにうちの学校は何もしない。だから生徒をみんな取られちゃったんですよ」

「最近、中学校とはあまり関わってないので知りませんでした」

「廃校にならないように何とかしようっていう気がないんですよ。教育委員会から“40人以上にならなかった場合は廃校”っていう説明があっただけで、中学校も結局教育委員会側ですよね」

「教員はどこの学校に行っても同じですからね。むしろあまり小規模校だと一人ひとりの負担も多くなるし、校長先生だって、本当のところ小規模校よりは大規模校の校長の方がいいでしょ。おそらく教育委員会の既定路線ですよね、すでに。今年7人で、来年もそんなもんなら、教員の人件費とか、学校の維持費とか、市内の他の中学校と比べたら生徒一人あたりの市の負担額はかなり多くなっちゃうでしょ。そう考えると、教育委員会の既定路線をひっくり返すのは難しいですよね。財政的にそれだけの余裕はないだろうし…。この地域の人口が増える可能性があって、子どもの数もこれから増えるかもしれないっていうんならすぐ廃校っていうこともないんでしょうけど…」

「とにかく40人ていうのをもう少し少なくしてもらって、教育委員会に対して、3年でも2年でも猶予がもらえるよう運動しようって言ってるんです。それと小学校の卒業生には地域の中学校へ進学してもらえるようにって。大関さんなら何かいい考えがないかなあと思って…」

娘から一度、中学校の1年生が少ないっていう話を聞いたことがありました。
その時に、7人しかいないと聞いたような気はするのですが、50人以上の小学校の卒業生がいて、まさか7人しかいないなどということは夢にも思わなかったので、あまり本気で話を聞かなかった気がします。
確か「中国人の子どもたちは小学校統合(3年前、うちの地域の小学校が隣の小学校と統合し、うちの地域の小学校が残りました)のときにもだいぶ引っ越したみたいだから、ほとんどどこかへ移っちゃったんだろ」(統合になった団地の小学校にはかなりの数の中国人の子どもがいましたが、小規模な小学校での子どもたちの学力に不安を持ったのか、多くの家庭が引っ越してしまいました)などと言ったように思います。
ところがKさんの話を聞いて、状況がまったく違うことがわかりました。規模がどんどん縮小する地域の中学校では、好きな部活動にも入れない、学力の低下も心配ということで、中学校の選択制を利用して、地域とは別な中学校に進学してしまったということのようでした。

廃校になった場合も、隣の中学校まではそれほど距離があるわけではありませんが、間に線路があるため、我が家のある地域は、中学校のない孤立した地域のようなイメージになります。中学校の存廃は、学校だけの問題にとどまらず、地域全体の大きな問題であることは間違いありません。平島のYさんが「学校の存続は島の存続に関わる」と強い危機感をお持ちになっていたのもよくわかります(第469回参照)。
地域から中学校がなくなるということは、これまで地域の中に生活の拠点のあった中学生が生活の拠点を地域外に移してしまうということであり、それは地域内に暮らす大人の人間関係をも希薄にさせてしまうことにつながります。特に中学校の選択制により、地域からより離れた学校を選ぶ生徒が多ければ多いほど(中学校に魅力がないというよりは、むしろ小学校における楽しい学校生活の欠如がそういう状況を生むのではないかと思います)、状況は深刻です。

地域力の再生が叫ばれる中、決して商工業地域でない、東京のベッドタウン、人口密度の高い住宅街でありながら、まるで過疎化が進行しているような状況は、地域社会の危機と言ってもいいのかもしれません。果たして、来年度の中学校の存廃がどうなるのか、推移を見守りつつ、何とか存続できるよう私なりに努力をしたいと思います。
2011/09/20(火)


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
掲載された元のページも現在ご覧いただけるようになっています。
https://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=50&forum_id=13

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第472回「朝のあいさつ運動」

「ちわ」
「ちわ」
中学校のころのバレーボール部のあいさつはこんな具合。もちろん「こんにちは」の略なので、正確には「ちは」なんでしょうが。基本的にはすれ違ったりするときに、後輩が先輩に対して先に「ちわ」とあいさつをします。それに対して、「ちわ」ときっちり返してくれる先輩もいれば、ちょっと頭を下げてくれる先輩、もしかしてほんのちょっと目が笑ったかな?という先輩、まったく無反応の先輩…様々です。
まだそのあいさつに慣れないころは「ちわ」と言うのが照れくさくて、声が小さくなってしまうこともあったのですが、小さくなりすぎると、
「もっとしっかりあいさつしろよ」
と先輩に怒られたりしました。そんなことがあると、
「あいさつしたってちゃんとあいさつを返さない先輩だっていっぱいいるじゃん!」なんて内心ムッとするんですが、中学生や高校生にとって(特に強豪と言われる部では)先輩は絶対的存在。
「ほらっ、言ってみろ!」
なんて言われ、
「はい、“ちわ!”」
「まだ声が小さい」
「“ちわ!”」
「いつもそういう風にあいさつしろよ」
かなり封建的ですが、そんなことがあったもんです。いじめに近い部分もあるので、いろいろ指導も入り、最近は少なくなったんでしょうね。息子や娘のときは、あまり強い運動部に入らなかったということもあるんでしょうが、あまりそういうこともなかったように記憶しています。

その代わりと言っていいのか、私がPTAの用事で中学校を訪ねると、必ずすれ違う生徒全員が「こんにちはぁ!」と声をかけてくれました。中には遠くの方から、「こんにちは~!」と大声で叫んでくれる生徒もいて、こちらが同様に大声で叫ぶわけにもいかず、その生徒にわかるように大きく頭を下げたり、ちょっと手を挙げて気づいたことを示したりと苦労することもありました。

先日、孫の沙羅が忘れ物をして、娘の麻耶が慌てて沙羅の後を追ったことがありました。沙羅に追いついたのは、ちょうど小学校の正門前。すると正門周辺に多くの地域の方がいて、子どもたちに「おはようございます」と声をかけていたんだそうです。以前から、校長先生や教頭先生が校門のところに立って、通学してくる子どもたちに声をかけてはいたのですが、さすがにそれが大勢になると麻耶にも違和感があったようで、
「忘れ物届けに行ったら大人がたくさんいるっていうのは、ちょっとばつが悪いよねえ」
とそんな言い方をしました。
「へえ、そんなに大勢いたんだ?」
と話を聞いていくと、どうやら「ばつが悪かった」のではなく、大勢の大人が、一人の子どもに次から次へと「おはようございます」とあいさつをし、それに対して子どもが大人一人ひとりに「おはようございます」と返していたのに違和感を感じたようで、
「だんだん声が小さくなって、うつむいていっちゃう子もいるし、だんだん声が大きくなって最後は怒鳴っちゃう子もいたよ」
と話しました。

様々なところで「あいさつ運動」とか「一声運動」とかが行われていますが、あいさつを「運動」にしてしまうと、あいさつが形骸化してしまって、本来のあいさつの意味が薄れてしまいます。(第408回参照)
お互いにあいさつをすることはいいことですけれど、本来のあいさつの意味が失われないよう、形にとらわれないあいさつ運動にしてほしいものですね。
2011/09/12(月)


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
掲載された元のページも現在ご覧いただけるようになっています。
https://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=50&forum_id=13

| | | コメント (0)

2025年4月 1日 (火)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第432回「学芸会が消えた!」

「じいちゃん、今度の土曜日、来られるよね?」
「何だっけ?」
「何だっけじゃないよ! 蓮と沙羅の音楽会」
「ああ、言われてたっけ?! 忘れてた!」
「もうとっくに言っといたじゃん!」
「聞いたような気はするけど…。あんまり早く言いすぎるなよ。近くなってから言われないと忘れちゃう」
「まったくう。だから今言ってるでしょ!」
「あっそうか! わかった、わかった。たぶん行ける」

ずいぶん前に言われていた孫が通う小学校の音楽会。
すっかり忘れていたけれど、特別な用もなく、なんとか行けそうです。言われてみれば、11月3日の文化の日のあとが開校記念日で、土・日と絡めて連休にするため(? 運動会が春だったせいもあると思います)に、今年は文化の日の前の10月30日が音楽会だって言われていたような気がします。
自分の子どものことなら、当然親である私の責任で、「見に行かなきゃ」「聴きに行かなきゃ」っていう意識が強く働くので、忘れるなんていうことはないんですが、孫のこととなると、子育ての責任は本来親(私の娘)にあるわけで、無意識に「あまり関わりすぎないように」という意識が働くらしく、よく忘れます。祖父母というのは、それくらいの距離の方がいいんでしょうけどね。それが私の主義でもあるわけです。
忘れることがじゃないですよ。距離がです。

娘に言われて、なんとか忘れずに音楽会に行けて、二人の孫の演奏を聴いてきました。
うちの孫だけでなく、どの子もとても楽しそうに歌ったり、楽器の演奏をしたり・・・。こういうことがあると、子どもというのは、人に見てもらったり、認めてもらったりすることをとてもうれしく思っているんだということがよくわかります。

昨日、私がほぼ毎日通う浦和駅前のファミレスの店長が、何の脈絡もなく突然、
「最近の学校は、学芸会ってやらなくなったんですかねえ?」
と言いました。あまり意識をしたことがありませんでしたが、然り。
どの子の時からかは定かでないけれど、確かにどこかの時点から、学芸会(学習発表会)なるものはなくなっている。

長女が中学校の時、ギリシャ神話に出てくるイカロス(イカルスとも)の役を演じたことはよく覚えているのですが、小学校はいつごろまでやっていたんでしょう。
店長は、ホール係のある女性を指して、
「彼女は学芸会をやったんですよ」
そして別の若い女性を指して、
「彼女は学芸会を知らないんです」
と言いました。
私も学芸会を知っている世代です。小学校2年生の時、

おじいさんは、かぶをぬこうとしました。
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
けれども、かぶはぬけません。
おじいさんは、おばあさんをよんできました。
かぶをおじいさんがひっぱって、おじいさんをおばあさんがひっぱって、
「うんとこしょ、どっこいしょ。」
それでも、かぶはぬけません。

という「大きなかぶ」のおじいさんの役をやりました。その話を店長にすると、店長も、
「私もおじいさんの役をやりました」
とのこと。そんな学芸会から、ずいぶん多くのことを学んだ気がします。校内の文化祭などでの絵の展示や音楽会での歌や楽器の披露は盛んになってきたように思いますが、どうも学芸会は下火のよう。絵は図工の時間に、歌や楽器は音楽の時間にと、授業を即発表に結びつけてやれるものはいいけれど、劇のように授業時間中に扱いにくいものは、消えていく運命なのでしょうか。

劇の発表こそ、国語教育の神髄のような気がするんですけどねえ。国語を「読み書き」と捉えるだけではなく、表現と捉えて、文芸や演芸を教えたら国語の授業もおもしろくなると思うんですがねえ…。

私が国語を好きになるきっかけは、中学校の時体育館で行われた狂言の鑑賞会と文化祭にクラスの有志で出演した劇でしたもんね。

「あおげ、あおげ」
「あおぐぞ、あおぐぞ」
という附子(ぶす)。有名なあの一休さんの水飴をなめちゃう話です。
自分たちでやった劇は何がおもしろかったかっていえば、効果音作り。山小屋で嵐を行き過ごさせるんですけど、その効果音といったら、まるで本物の嵐のような出来映えでした。

子どもって、つまんないことから勉強に興味を持つものなんですよね。
もっとも、その後の中学校の国語の授業、高校の国語の授業、共におもしろくなかったので、国語が好きになっていた自分に気付きもしないで、それから5年間を過ごすことになっちゃたんですけど。あの時国語が好きだって気付いてたら、今ごろもっと古典を楽しめるようになってたんでしょうけど…。

「学芸会」復活で、国語の好きな子どもを作る!なあんてよくないですかねえ???
ぜひ、学芸会を復活させてもらいたいものです。
歌舞伎の市川團十郎の十八番「外郎売」(ういろううり)なんてやったら、子どもの心は釘付けですよ、絶対!
2010/11/22(月)


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
掲載された元のページも現在ご覧いただけるようになっています。
https://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=50&forum_id=13

| | | コメント (0)

2025年3月31日 (月)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第424回「“これ何?”“クッキー”の危険」

「先生がね、結婚するからもう来ないんだって!」
べそをかきながら、娘の麻耶が言いました。
「はっ? そんな話、聞いてないよ」
「A先生が今日の帰りの会で言ったもん。明日、先生の結婚式で、結婚したら先生やめちゃうから、月曜日からもう学校来ないって言ったんだもん」
「そんなわけないだろっ! そんな話、親に言わないわけないじゃないか! 何にも聞いてない」
「だって言ったもん!」
「A先生が言ったの?」
「そうだよ、A先生が言ったんだよ!」
ちょうどその時、玄関のチャイムが鳴りました。麻耶と同じクラスの“さっちゃん”です。
「さっちゃん、こんにちは。今、麻耶ちゃんとお話ししてたんだけど、担任のA先生結婚するんだって?」
「うん。明日結婚式なんだよ。学校やめちゃうから、月曜日から来ないんだって。みんな、泣いちゃったんだよ」
「そうなんだあ…」
「うん!」
私は納得がいきませんでしたが、月曜日になればわかることなので、その場は二人の話を聞き流すしかありませんでした。

そして、月曜日。
PTAの役員をしていましたので、確かめれば確かめられないことはなかったのですが、麻耶が帰ってくればわかることなので、そのまま麻耶の帰りを待ちました。
「おかえり! A先生来た?」
「うん。麻耶ちゃんたちのために結婚やめたんだって」
「はっ?」
「結婚やめたから、学校もやめないんだって」
まったく話がわからないので、学校に行ってA先生に直接確かめることにしました。

「先生、ご結婚なさるんですか?」
「いいえ」
「麻耶とNさん(さっちゃん)から、結婚して退職するっていう話を聞いたんですけど」
「ああ、はいはい。昨日友達の結婚式があったものですから、結婚式をするって言ったんです」
「退職するからもう学校には来ないって言ったんですよねえ?」
「はい」
「それって、まずいでしょ! 子どもたちは真っ直ぐ受け取って、麻耶もべそかいてましたよ。帰りの会で、何人か泣いてたそうじゃないですか」
「はあ、まあ」
「子どもに嘘を言われたら困りますよ。子どもは純粋だから真っ直ぐ受け取るんです。まだ、小学2年生ですよ」
私の声がやや大きくなったらしく、少し離れたところで様子をうかがっていた女の先生も何事かと近くにやってきました。
「小さい子どもをだますようなことはまずいでしょ!」
そこでその先生が口を挟んで、
「冗談ですよ、冗談。たいしたことじゃないですよ」
「はっ? 冗談? 帰りの会で泣き出す子どもはいる、麻耶だって家へ帰ってきてA先生がもう学校に来ないってべそをかいてる。今日までそんな気持ちを二晩も引きずってたんですよ。なんで子どもたちがそんな気持ちにならなきゃならないんです! それが冗談? そんなこと言っていいわけないでしょ! 今日だって、あなたたちのために結婚やめたって言ったんでしょ?! 全然違うじゃないですか!」
「冗談なんですよ。それくらいダメなんですか!」
「ダメに決まってるでしょ! 子どもが二日間も悲しむような冗談を言って、“冗談だからいい”なんていう教師なら、教師をやめた方がいい!」
二人で“冗談だからいい”と何度も言い張るので、多少声を荒げたら、A先生には涙を流されてしまいました。それでも、“教師の冗談”で子どもの心を傷つけることの重大性を理解できないようだったので、「二度とこういうことがないように」とお願いをして帰ってきました。

実はこの後、A先生とはとてもいい関係を築くことができたのですが…。


25日の産経新聞に大阪市内の府立高校で、女生徒が家庭科の教員が自宅で作ったゴキブリ退治用のホウ酸団子を見て「これ何?」と尋ねたところ、その教師が「特製クッキー」と答えたため、教師が目を離したすきにそれを食べてしまい、病院に搬送され胃洗浄をして回復したという記事が載っていました。

教師と生徒の関係を考えれば、冗談が通用しないのはすぐわかること。例の殺人が題材の割り算の問題を出していた教師は、その前にも「みんなを殺してしまう夢を見た」と発言していたそうです。「クッキー」の教師も「殺人」の教師も「軽率だった、反省している」と述べているそうですが、教師の冗談がどんな結果を招くのか、教師はしっかり肝に銘じて、子どもたちに接してもらいたいものですね。
子どもたちに対してはどこまでも真摯であること、教師に求められる最低限のことだと思います。
2010/09/27(月)

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
掲載された元のページも現在ご覧いただけるようになっています。
https://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=50&forum_id=13

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第423回「保護者は教員を高評価?」

9月14日、朝日新聞朝刊に「教員働きぶり、保護者は教委より高評価 文科省調査」という見出しの記事が掲載されました。

「アンケートは幼稚園・小中学校・高校の教員、保護者、教育学部などの学生ら計約4万3千人と、全国の教育委員会、教職課程がある864大学を対象に、今年4~8月に実施。教員の仕事ぶりや教員養成の今後の課題などを尋ねた。」

その結果、教員の働きぶりについては
(1)「子どもへの愛情や責任感がとてもある」は保護者44%、教委18%
(2)「コミュニケーション能力がとてもある」は同じく25%、3%
(3)「子どもを理解する力がとてもある」は23%、4%。
(2)(3)のように保護者の評価が低い項目でも教委との隔たりは大きかった。教員の「自己評価」は大半の項目で教委と保護者の中間に位置しており、保護者の評価の高さが際だった。
との記事でした。

長い間PTA活動に携わってきた私としては、どう考えても受け入れがたい数字。
記事はこの後、
「文科省幹部は「保護者が我が子の通う学校の先生を意識して回答したのに対し、教委は地域の学校総体の評価をしたことにより、温度差が出たのではないか」と話す。」
と続きます。
実際、このアンケートは立場の違う人間を同じ土俵に乗せて、数字だけを取り上げて評価したものなので、まったく意味のないものです。保護者に対して、どんな方法でアンケートを実施したのかよくわかりませんが、学校、あるいは教委、あるいは文科省の名前で実施したものであるとすれば、自身の回答が子どもにどう跳ね返ってくるものなのか、強い不安を感じるので、学校や教員を悪く言うわけにはいきません。それを学校や教員が、自分たちに対する保護者の評価と受け止めるとすれば、あまりにも自分本位の解釈の仕方で愚かしい。

また教委は教委で、学校、教員を管理・監督する立場だから、学校、教員を悪く言うことはあっても、なかなか高い評価を与えるわけにはいかない。当然のことながら、高評価を与えれば、身内に甘いという社会からの誹りを免れないし、学校、教員に対する厳しい査定はしにくくなるので、管理が緩んでしまうことになります。だから、数字は開くことになる。
そんなこと子どもを育てている保護者や学校教育に関わっているものなら、すぐにわかることなのに、いったい何を考えてアンケートを採っているのやら…。

教育行政を考えたときにいつも思うことは、実際に子育てに関わったことのない人間のくだらない「やってるふり」だなあということです。しかもそれをまた、朝日新聞のような大新聞が、鬼の首を取ったような勢いで「教員、よく働いている」なんていう見出しを付けて、あたかも保護者が教員を支持しているような記事を掲載する。この記事は、調べてみても朝日新聞以外では扱われていないようなのですが、だとすればこの朝日新聞の姿勢にはあきれるばかり。

記事を丁寧に読んでみると、どう考えても見出しに問題が…。
見出しを読むと「保護者が教員を高く評価している」と受け取れますが、記事中の文科省幹部の話からして、文科省自ら保護者と教委の立場の違いを認めている(「温度差」という言葉を使ったとすれば適切ではないと思いますが)わけだから、少なくとも見出しは「教員、よく働いているかの問い、立場により数字に差」くらいがいいところでは?
そして中身は、教員の働きぶりではなくて、アンケートの結果から、「立場の違いによって数字に大きな影響が出ている」あるいは「親は学校や教員にビクビクしている」という結果を導き出す。そんなことだと思うのですが…。

この記事を見た学校相談員が、数字に愕然としていました。というか苦笑していました。この数字は、中央教育審議会に提出されるのだそうです。中央教育審議会には、自分の子どもと近所の公園で遊んだり、参観日や懇談会に毎回出席したりした人がどれくらいいるのでしょう。直接子育てに関わってきた人がいないと、また数字だけが一人歩きして、教育行政がおかしな方向に行くことになってしまいますよね。そんなことにならないよう願っているのですが…
2010/09/21(火)


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
掲載された元のページも現在ご覧いただけるようになっています。
https://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=50&forum_id=13

| | | コメント (0)

2025年3月30日 (日)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第414回「寿限無 寿限無 五劫の摺り切れ…」

子どもの虐待がマスコミを賑わすようになってから久しいですが、そんな虐待事例を除けば、親は子どもを目の中に入れても痛くないと思うほどかわいいと思うもの。そんな感覚も、時代と共に薄れているようには感じますが、あまり変わってほしくない価値観ですね。

子どもが生まれてからまず最初の親の仕事といえば、名前を付けること。これには皆さんけっこう苦労したんじゃないですかね。夫婦で意見をすり合わせて、なんとか決まったかと思うと、今度はおじいちゃんが猛反対とか…。(我が家の命名事情については第66回参照)
どうですか? 
そんな経験ありませんか。

名前を決めるときに何を大切にするかっていうのは、それぞれの親の価値観によって決まりますよね。海外の経験が長かったり、これからはボーダーレスの時代と思う人は、外国人も呼びやすい名前。サラ、エミ、エリ、エミリー、ジョー、ジョージ、ショー、シンみたいな音を漢字にしたり、日本人的な名前が好きな人は、あえてお尻に「介」を付けたり「郎」を付けたり、雄大さ、強さ、美しさなんかにこだわれば「海」だったり「拓」だったり、「香」だったり、「翔」だったり…。どうも私の想像力は乏しいらしくて、家族やどこかで関わった人の名前からしか思いつかないなあ???
ちょっと情けないですね。

さて、「寿限無」に出てくる父親(八五郎)とおかみさんは、『達者で長生きができてさ、おまんまの苦労をせずにすむような名前』と考えて、旦那寺(菩提寺)の和尚さんに名前を付けてもらうことを頼みます。そして和尚さんがいくつかあげてくれたのが、有名な「寿限無 寿限無 五劫のすり切れ…」。和尚さんは一つ一つ別の候補のつもりであげたのに、八五郎さんとおかみさんは一つに絞りきれずに「今はこれがいいと思ってもさ、あとであっちにしときゃ良かった、こっちが良かった、なんて思うにちげぇねぇんだ。だからさ、いっそのこと、これ残らずぼうずの名前にしちまおう」と全てを名前にしてしまったわけです。

『寿限無、寿限無、五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲行末、風来末、食う寝る所に住む所、薮ら柑子のぶら柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助』
こりゃ長い!
落語の落ちは、「誤って井戸に落ちた長助を助けようと、名前を呼んでいるうちにおぼれ死んでしまう」というものや「喧嘩してこぶができた長助の名前を呼んでいるうちに、こぶが引っ込んでしまった」というもの、「新学期が始まり友達が一緒に学校に行こうと長助を迎えに行ったのに、朝寝坊の長助の名前を呼んで起こしているうちに夏休みになってしっまった」というものなど、いろいろあります。

親の心理をついたおもしろい落語ですよね。最近、文科省が仕掛けているのか、NHKなどでも、落語をはじめとした言葉遊びや短歌、俳句などが子ども向けの番組で扱われるようになりました。この「寿限無」は教科書にも載っていたのでびっくりしました。孫が見ている番組を一緒に見ていると引き込まれてしっまって、孫より私の方が夢中になってしまったりして…。
孫の蓮がテレビの番組を録画したらしく、何遍も同じ番組がテレビに流れていることがありました。声を聞いていると、何となく聞き覚えのある声。
「あれ?」
「そうだよ、E君のお父さんだよ」
蓮の幼稚園の同級生のお父さんは真打の落語家「立川談慶」さんなんです。南区に住んでいるんですよ。子ども向けの番組に出ていたので驚きました。

カウンセリングをやっていると、言語、非言語の大切さを痛感します。落語っていうのは言語、非言語の原点ですね。子どもとの関わりの中でも参考になることがたくさんあります。8月にその談慶さんをお招きして親子で楽しめる落語の会を開くことになりました。もし、興味があったら来てください。

最近子どもの番組で取り上げられているのとは反対に、大人向けの本格的な落語の番組がほとんど無くなってしまったように感じます。言葉の大切さやおもしろさを子どもたちにもしっかりと伝えたいですね。
2010/07/12(月)


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
掲載された元のページも現在ご覧いただけるようになっています。
https://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=50&forum_id=13

| | | コメント (0)

2025年3月22日 (土)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第364回「保護者のクレーム研究?」

「保護者のクレーム研究」
-「新イチャモン科研」教員、弁護士ら設立-
今朝(5日)の朝日新聞にそんな見出しで、「新学校保護者関係研究会」が、独立行政法人日本学術振興会の補助金を受けて発足したという記事が載っていました。
いつも親の立場からものを言ってきたつもりの私としては、この見出しを見た途端、不愉快な気分に…。

「親のクレーム」?
はっ、ふざけんじゃねえ!
自分たちのやってることは全部正しいって思い込み、クレームの中身の検証もしないで、苦情を言う親を十把一絡げにクレーマー扱いしてるのはどこのどいつだあ!
だいたい「いちゃもん」とはなんだ、「いちゃもん」とは!
(広辞苑によると「いちゃもん」とは、「文句を言うために無理に作った言いがかり」という意味です)
「筋の通らない文句」というような意味だろうが!
親が言ってることは全部筋が通ってないって言うのかよぉ!
はっ? ふざけんじゃねえよお!

すっかり、ぶち切れた気分で見出しを見ました。 
もちろんいい先生方もたくさんいて、すべての先生が悪いわけではないけれど、この程度のことは、日常的にどこかで起こっていることの一部ですよね。学校で起こっていることに注意を払っていると、必ず毎年そんなことが何度か問題になるので、学校っていうところは内容が親の目にはさらされない基本的に密室に近い状態だから、なかなか表には出にくいけれど、その辺りのことに目をつぶったり、ひた隠しにして「クレーマー」っていうのもね…。
もしかすると、そのクレームとして片付けられていることの中に、学校が抱える構造的な問題に対する指摘もあるかもしれませんよね。

今、官僚制度が批判の矢面に立たされています。年金制度や医療・介護制度、減反政策や道路・鉄道建設など、官僚主導の政策には厳しい目が向けられています。
一時教員に対しても批判が吹き上がりましたが、それが教員個人に対する批判にとどまってしまったため、学校に対する官僚主義批判には広がりませんでした。個々の学校の中に官僚主義がはびこっていると思うのですが…。
おそらく他の省庁の政策に比べ、ある意味で地方分権が進んでいること、一つ一つの学校規模が小さく、閉鎖的で、学校の中で起こったことが学校以外に広がらないということがあるのだろうと思います。
東京都の石原知事や大阪府の橋下知事が、教育行政にも手を付けようとしているようですが、現状を見ている限り、官僚主義に対する改革というよりは、「ゆとり教育」に対する批判の域から出ておらず、むしろ一旦は否定された一昔前の文部省が進めた官僚主導の教育政策に近づけようとするミニ官僚主義(地方公共団体の官僚主義で国より規模が小さいという意味で)にも見えてきます。
問題は、教員の管理をしているのが同じ仲間の教員であるということにあるのに、なかなかそこには手を付けていません。その根本的な構造が、「学校に文句を言うものは悪」という体質を作っているのではないかと感じます。

さて、朝日新聞の記事に戻りますが、ムカムカしながら記事を読んでみると、「となりのクレーマー」の著者、関根眞一氏を招いて話を聞いたそうです。
関根氏は、元百貨店のお客様相談室長で、著書で苦情を寄せた顧客への誠意ある対応の大切さを説いたとか。関根氏曰く「学校の先生には相手から学ぶべきものはないというプライドが強いのではないか。このために親と激しく衝突してしまう。それを改善してもらうのがぼくの役目です」。
この研究会を立ち上げた大阪大大学院の小野田正利教授も、「親の注文を、はなからクレームととらえず、くみ取れるものを吸収する姿勢が大切。研究会では親と学校の良好な関係をどう築くか、多面的に考えていきたい」と話しているそうです。
ありゃ? これって私が常々言っていることと同じじゃん!

記事の最後に今月出版される「日本苦情白書」の数字が一部掲載されています。「近年、自分の職場では苦情が増えていると思うか」の問いに「思う」との答えは全産業平均では39.7%なのに対し、教育では53.7%。さらに原因を聞く質問では、「こちらの配慮不足」が全産業の50.3%に対し、教育31.2%。
なんだよ、この記事。見出しがひどすぎるんじゃないの?
週刊誌やスポーツ新聞じゃないんだから、あまり読者の血圧を上げないように、朝日新聞には、もう少し内容に沿った見出しを付けてほしいものですね。
うーん、どうやら先生方は、問題があると人のせいにする傾向が強いっていうことですかね。最近、教師を通じて親を指導しようっていう文科省や教育委員会の意向が強くなったように感じます。これこそまさに官僚主義。それが教師の親を見下したような、こんな傾向を作っているんだと思います。
石原知事も橋下知事も官僚主義に抵抗しているようですが、こと教育について考えれば、親を指導しようっていう先頭に立っていますよね。それって、官僚主義の最たるものじゃないですかねえ…。
2009/07/06(月)


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
掲載された元のページも現在ご覧いただけるようになっています。
https://www.amatias.com/bbs/bbs_list.asp?current_page=50&forum_id=13

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧