2024年4月14日 (日)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第322回「親の態度が子どもを決める」

「あなた、この間から鰻が食べたいって言ってたでしょ?」
「そうそう。この前も近くの鰻屋へ行ったんだけど、満席で入れなかったんだよ。お昼の混みそうな時間はちょっと外して行ったんだけどね。ここのところ2回続けてだよ。やっぱり夏は鰻っていう人多いのかねえ??? さすが(鰻消費量日本一の)浦和って感じだね」
「じゃあ、食べに行く? とにかく今お座敷取れるか訊いてみようか?」
というわけで、行きつけの鰻屋さんへ電話を入れると、今日はお座敷が取れないとの返事。今日は、孫もいないのに椅子席の食堂というのも風情がないから、お座敷で食べられるところということで、普段はあまり行かないちょっと離れた鰻屋さんへ行くことになりました。
入り口を入ると右側に伸びている広い長方形の和室にテーブルが5台。片一方の長辺に3台、もう一方の長辺は入り口があるため2台。私と妻は入り口側長辺の奥のテーブルに座りました。
ここは浦和近辺では最も安い(私の感覚ではそうだと思う)鰻屋です。私たちが行ったときには、私たちが座ったテーブルとちょうど対角の位置のテーブルに3人連れのお客が入っていただけで、あとのテーブルは空いていました。
「この鰻が2匹入ってる鰻重でいいよ。数量限定だし、2匹入って2千円以下ってかなり安いじゃん。たぶん鰻が小さいんだと思うけど」
「でもちっちゃい鰻じゃ脂乗ってないんじゃないの?」
前にも一度取ったらあまり美味しくなかったような気がしてやや迷いながらも、結局二人ともそれを取ることにして、鰻重が来るのを待っていると、小さい子どもを連れた夫に初老のおじいさんという4人のお客が入ってきて、隣の席に着きました。
そろそろ食べ終わるというころ、妻が私に、
「隣のおじいさん、あの夫婦のどっちの親だと思う?」
と聞きます。私は、それとなく隣の家族を見る(おじいさんは私のちょうど真横に座っているので横顔だけで表情がよく見えないのですが)と、おじいさんの鼻と女性の鼻がよく似ているので、一旦
「女の人のお父さんじゃないの」
と言ってはみたものの、ちょっと観察してみると、おじいさんの左隣に座っているのが男性、その男性の前に座っているのが女性、そしておじいさんの前には小さい孫。しかも女性は、食事の間中足を崩さず正座をしていることから、
「違う、違う。あれは男性の方のお父さん。お父さんの鼻が女の人の鼻に似てるからそうかなって思ったんだけど、もし女の人が娘さんならお父さんの隣に座るよね。それにあの女の人ずっと正座してるし、姿勢を崩してないからあれは男の人のお父さん」
と言いました。
「そうそう、そうだよね。私も男の人とお父さん、似てないなって思った。きっとお母さん似なんだね。さっき話してる声が聞こえてきたら、“~です”ってお父さんに対して全部丁寧語使ってたから、男の人のお父さんだよね」
「たぶん、そうだと思う」
「あのお子さんもおとなしいよね。2歳くらいかなあ? あんなに小さいのに声もしないよ」
「そうだね。お母さんが正座して、姿勢を崩してないから、そういうせいもあるんじゃないかな。お母さんがおじいさんにも丁寧に接してるしね。さっき帰ったけど、あっちのテーブルに3人連れのお客(対角の位置にいた客)いたでしょ。つい立てがあるから体全部は見えないけど、座布団2枚使って足を通路の方に伸ばして座ってて、つい立ての脇から素足が見えてたの。つい立てがあるから他のお客にあまり気を遣わないんだと思うけど、さすがに裸足が見えるとあんまり感じのいいもんじゃないね。もし、あのグループに小さい子どもがいたら、騒がしかったかもよ。たぶん、隣の子どもみたいじゃないと思う」
「そうだね」
小さい子どもはいなかったので、何とも言えないけれど、たぶんその通りになるんじゃないかな???
子どもは親を見て育つもの。親がどういう態度で、生きているかは子どもに忠実に反映します。子どもがどうにもならないとき、ただ子どもを叱るのではなく、一番反省しなくてはいけないのは親ということですね。
 
 
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

 

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2024年4月 9日 (火)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第315回「気づかぬうちのゼロトレランス方式の浸透」

文部科学省が日本での「ゼロトレランス方式」導入の調査研究を検討という報道がなされて、2年以上が経ちました。
「ゼロトレランス」とは、「トレランス(寛容)がゼロ(ない)」、「不寛容」という意味で、教育現場では「ゼロトレランス方式」を「毅然とした対応方式」などとも言っています。具体的には、学校が規則とその規則を破ったときの罰則を定め、例外なく遵守するということです。1970年代頃から深刻化した、学級崩壊や生徒による銃や薬物などによる様々な事件に対処するため1990年代にアメリカで導入された方式で、例えば「喫煙は保護者呼び出し」「万引きは停学一週間」とか、とにかく決めた規則は例外なく実行するというもので、守らないと即処分ということになります。
私立の高校などでは、かなり前からはっきりと導入されているところも多く、ある一定の成果は上げています。「毅然とした対応」ということ自体は私も反対ではありません。けれどもそれは、あくまでルールを破ったことにより処罰の対象となる生徒に対しても、教育の対象としての立場をその後も保証するという条件の下で、反対ではないのであって、処罰をするということが、単純に処罰の対象となる生徒の排除が目的であるとすれば、とても賛成できるものではありません。それは、まだ善悪の判断がすべて正しくできるとは言えない教育の対象足るべき子どもたちから、成長する機会を奪ってしまうだけでなく、疎外感、孤独感といった感情を持った子供たちを増やしてしまうという結果を生むことになるからです。
とはいえ、私立高校での「ゼロトレランス方式」導入というのは、入学試験での合格、不合格がある以上、ある意味、生徒がその学校に在籍できるのか、できないのかの裁量は高校側にあるわけで、私立高校が導入に前向きであったとしても、ある程度はやむを得ないのだろうとも思います。逆に、「ゼロトレランス方式」を導入しているからということで、その高校を選ばないという子ども側の選択もあり得るわけですから。
先日孫の授業参観と給食試食会に娘の代わりに参加して、びっくりしました。まだ小学校に入学して3ヶ月にもなっていないこの時期に「ゼロトレランス方式」とも取れる指導方法が取られていたからです。見ているそういう指導法をとっている先生方が圧倒的で、まだ6歳にしかならない子どもたちに、まるで犬や猫をしつけるように細かいことまでことごとく大声で注意し、立たせない、歩かせな、しゃべらせない(給食の最中も一切私語は許さない)ということを徹底しているのです。
「できない子は外へ出てもらいますからね」
もちろん、高校ではないので停学、退学ということではありませんが、「まじめに授業を受けようとしている他の子どもたちに配慮して、問題行動を起こす子どもたちを寛容度ゼロで排除する方式」をとっているわけです。先生方が「ゼロトレランス方式」で臨んでいるという意識を持っているかというと、どうもその辺ははっきりしませんが、子どもたちに行われていることは、まさにゼロトレランス方式。本来の目的は、まじめにやろうとしている子どもたちの権利を守ることなのに、怒鳴ることでかえって怒鳴られている子どもたちに焦点を当ててしまって、まじめにやろうとしているおとなしい子どもたちが、その怒鳴り声に萎縮し、隅に追いやられているという感じ。
私たちが知らないうちに、こんなところまでゼロトレランス方式が浸透してきているんだと大きな危惧を感じました。6歳の子どもたちには、まだまだ心の教育が必要。一律にゼロトレランス方式で排除するのではなく、むしろ寛容度100%で、優しく見守ってあげることこそ6歳の子どもたちには必要なことなのにと強く感じた2日間でした。
 
 
 
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2024年4月 5日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第314回「危機管理 その2」

ある日の小学校の懇談会。
「何日か前なんですけど、ベランダで洗濯物を干していたら、K社の社宅の屋上に子どもたちが上がっていました」
「Yさんのところのベランダからだったら、ちょうど正面だもんね」
「それがね、屋上に柵がないんですよ。だから、屋上の端まで行けば、下が見える状態」
「えーっ、うっそー!」
「本当だよ。Mさん知ってた? 4,5人だったかな? 屋上を走り回ってるからもし落ちたら大変だと思って。柵がない屋上に子どもたちが上がれるっていうことにびっくりしました」
するとK社の社宅に住んでいるMさんが、
「そうなんです。屋上には柵はないんです。前にも上がっている子どもたちがいて、注意はしたんですが…」
「屋上って、子どもたちだけで簡単に上がれちゃうんですか? 普通、屋上に通じる扉には鍵がかけてあって、上がれないようになってますよね」
「うちの建物はそういう構造じゃなくて、屋上は工事関係の人しか上がれないように、扉で通じてないんです。屋上に上がるには、最上階の廊下から壁に取り付けてある鉄のはしごで上がるんです。屋上に居住者が入るっていうことを想定していないので、柵がないんです」
「へぇ、なるほどね。でも誰でもそのはしご、上がれるんですか?」
「一応、はしごの先が床から120センチくらいは浮いていて、昇りにくくはなっているんですけど…」
「それくらいじゃあ、子どもたちは簡単に昇っちゃうんですね、きっと。K社の社宅のことだし、建物の構造の問題だから、小学校の懇談会で話し合ったからってどうっていうことじゃないけれど、Yさんの話で、子どもたちが危険な状況にさらされているっていうことはわかったから、そういう危険な場所が学区内にどれくらいあるのか、PTAで調査してもらえるよう、提案しましょうよ。K社の社宅の屋上の話は“屋上に子どもたちが上がっていた”っていうことを、Mさんから社宅の皆さんに伝えてもらえばいいんじゃないかな」
「そうですね」
この話は後日PTAの役員会に報告され、PTAで学区内の危険箇所の洗い出しと点検をすることになり、実際に何カ所か危険な箇所が指摘され、地域にも呼びかけて対策を取ってもらうことになりました。
次の懇談会のとき、K社の社宅に住むMさんから、
「社宅の最上階に設置されていた鉄のはしごの件ですが、子どもの手が届かない高さまで切ってもらうことになりました。今は、脚立を利用しないと屋上に上がれないようになっています」
懇談会全体にホッとしたという空気が流れました。
杉並区の小学校で、児童が屋上に取り付けられた採光用のドーム方カバーを破り、吹き抜けを1階まで転落するという事故がありました。普段は屋上に通じる扉には鍵がかけられ、児童だけでは、屋上に入れないようになっていたにもかかわらず、事故にあった児童以外の足跡が他のドーム型のカバーにも付いていたそうです。建築に関わった業者は、児童は屋上に入らないと聞いていたと言い、ドームの周りに柵は設けていなかったそうです。
杉並区和田にある小学校で事故があったとこのニュースが流れたとき、「あれっ?」と思ったのは私だけでしょうか。例の「夜スペ」や「PTAの廃止」で一躍脚光を浴びた「杉並区和田」だったからです。私に言わせると「何かあるんじゃないかなあと思っていたら、やっぱり」という感じ。小学校での事故ですから、直接は関係ないと思うかもしれませんが、大人たちがどっちの方向を向いて子どもたちと関わっているかということは子どもを守る上で大変重要なことです。大人が外に向けて何かを発信することに夢中になっているときは、こういうことはよく起こるものです。
K社の社宅の場合も一歩間違えば大変な事故につながったわけですが、「子どもを守る」というただそれだけの視点が末端の一人ひとりの保護者のところまで浸透していたため、大きな事故につながる前に対策が取れました。「他がやっていない何かをやる」ということではなく、日常の何でもない生活をどう過ごすか、そんなところに視点を当てた危機管理が重要なのだろうと思います。
事故にあった子どもの行動を責めるのではなく、何人もの子どもたちがドームに乗っていたことに気づかなかった学校や教育委員会の気のゆるみを厳しく糾弾すべきだと思います。
 
 
 
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第312回「喫煙」

最近、「禁煙」あるいは「分煙」の動きが加速しています。公共の施設はもちろんレストランや喫茶店、果ては路上まで、あらゆるところで喫煙者は肩身の狭い思いをする羽目に。
うちの陶芸教室が現在の浦和駅前のエイペックスタワーに移ったのが5年前。それまでの南浦和の教室では、教室内につい立てで仕切った喫煙場所が決められていて、たばこを吸う人は、そのつい立ての陰で吸っていました。一応、窓のそばに設置してあったので、たばこを吸うときは窓を開けて吸います。とは言え、煙は上に上がりますから、天井を伝わって教室全体に広がるし、風の向きによっては、窓の外に出るどころか、逆に教室の中に入ってくることもあります。会員全体の割合からいうと、圧倒的に吸わない人が多いにもかかわらず、どちらかというと「吸わない人が我慢をしている」という感じ。
ところが、エイペックスタワーに移ってからはというと、建物も新しい上、教室の内装も真っ白。特に「禁煙」ということを私の方から強く指示した覚えはありませんが、何となく自然に「禁煙」の流れができて、たばこを吸う人は教室を出て、タワーの通路で吸うようになりました。もちろん通路にも屋根はありますが、冬になると北風は吹くし、時にはまるで台風のような突風も吹きます。そんなことで今は、すっかり「吸う人が我慢している」という感じ。そういう状況なのに、吸う人にとってはさらに逆風が吹いて、まずエイペックスタワー敷地内の共用スペースはすべて禁煙に。さらにさらに、駅周辺の道路も「路上喫煙禁止地域」に指定されて、歩きたばこはできなくなってしまいました。皆さんなんとかどこかで吸ってくるようですが、人目をはばかりながらの何とも「まずい」たばこを吸っていることだろうと思います。
私はもともとたばこを吸いませんが、15年ほど前から花粉症になり、その後はとにかくひどいアレルギー症状が出て、ちょっとたばこの煙を吸っただけでも喉は痛くなる、くしゃみは出る。電車に乗れば洋服や髪の毛についたたばこの臭いが気になって、帰宅した途端、頭からシャワーを浴びて臭いを落とさないといられない始末。昔はここまでたばこを拒否してたわけではないんだけどなあ…。
さてつい先日、たばこ自動販売機成人識別ICカード「taspo」(タスポ)を福岡のたばこ販売の自営業者が、家族名義のカードを自動販売機にぶら下げ、誰でも購入できるようにしていたことが問題になりました。未成年者の喫煙をなくすという「taspo」導入の目的をまったく無視するやり方で、非難されるのも当然のことと思います。ただ、自営業者側にいわせると、「taspo」導入以来、売り上げが激減し、経営が成り立たない状況と言い、経営を維持するための最終手段ということのようです。もっとも、もともと対面販売を中心に行ってきた一部店舗やコンビニエンスストアといったところでは、逆に売り上げが何倍にも伸びているそうですが。
「たばこ」というのは、子どもから見ると大人の象徴です。成長過程で親離れをしようとする年齢になると、自然に「大人」にあこがれ、何でも大人の真似をしてみたくなります。「たばこ」もその一つで、たばこを吸うことの意味(そんなものがあるかどうかはわかりませんが、私が以前勤めていた法律事務所の弁護士は、「相手方と話をしていて間が持たなくなったり、間を取りたくなるときがあるんだよな。そういうときにたばこは都合がいいんだ」と言っていました)もわからないまま、とにかく吸ってみる、そんな時期があるものです。もう時効ということでお話しすると、実は私も、中学3年生の時に1箱だけ吸ったことがあります。それ以来たばこはまったく吸うことはありませんが、ちょうどその頃は、一人で喫茶店(今はなくなってしまった浦和駅西口の「tomorrow」に毎週通っていました)に行っては「モカ」を飲んでみたりしていた時期で、思春期まっただ中というところでしょうか。誰しもそんな時期があったのではないかと思います。
未成年者に、健康に害のあるたばこを吸わせないのは大人の責任。とは言え、一日も早く大人になりたいと思うのは、子どもの常。19歳11ヶ月29日と20歳とのたった1日の差で、身体に与える害に違いがあるわけもなく、「taspo」で未成年者の喫煙を防ぐというような発想ではなく、まず率先して大人が禁煙の努力をすることが未成年者の喫煙を防ぐ最良の手段なんだろうと思います。
 
 
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第310回「公園ということの意味 その2」

前回、お話しした「ゴリラ公園」と京浜東北線の線路を挟んで反対側には「文蔵(ぶぞう)フィットネス広場」という公園があります。この公園もゴリラ公園同様、一般的な公園とはやや趣を異にしていて、アスレチック用の遊具がいくつかあり、その周りにランニングコースのようなコースが作られています。
朝日が昇り、明るくなると、毎日10名ほどの大人たちが、ランニングをしたり、ウォーキングをしたり、遊具を使ってストレッチをしたり…。
朝ではなく、夜利用する人たちもいます。人通りがあまりないので、夜の利用にはやや怖さもありますが、何人かグループでランニングをしたり、高校生がバットを振ったり、ラケットを振ったり…。外環の下ですから、多少の雨なら濡れることなく利用できるので、雨の日にも利用している人もいます。
ところが昼間行ってみるとほとんど人を見かけません。昼間の公園利用者といえば子どもたち。一応、子どもが遊ぶための遊具も少しは設置してあるのですが、ほんのお義理という程度。子どもが遊ぶための公園というにはほど遠く、子どもの利用はほとんどありません。
実際にその場に行ってみるとわかることなのですが、24時間日が差さない公園というものは、どことなく不気味で、怖ささえ感じます。日が差さないために木がないということも、そういった感情を抱かせる一因になっているかもしれません。公園ということの役割が、人々の心を和ませるものだとすれば、「この公園はいったい何なんだろう?」という疑問が湧いてきます。
沙羅の通っている幼稚園のそばには、さくら公園ともみじ公園(正式な名前は定かではありませんが、子どもたちはそう呼んでいます)という二つの公園があります。
「じいちゃん、今日はさくら公園で遊んでいこっ!」という日もあれば、「今日は、もみじ公園で遊んでいこっ!」という日もあります。
つい先日、そのさくら公園にある桜の木にサクランボが熟し、管理をしているおじさんが、収穫したサクランボを子どもたちに配ってくれました。1ヶ月ちょっと前には、八重桜の花びらが絨毯のように公園中を敷き詰め、まるでピンクの海を泳いでいるような気持ちになりました。
そんなとき人間は、自然と笑顔になるものです。子どもたちの楽しそうな歓声が、大人の心も和ませます。
公園で遊ばない子どもたちの事情は、公園側だけにあるわけではなく、子どもたちを取り巻く、社会的状況によるものも大ですが、外環の下の公園を見たとき、「果たしてこれが公園と言えるんだろうか?」どうしてもそんな気持ちが湧いてきてしまいます。
1992年11月、外環の和光IC~三郷JCT間が開通して今年で16年。私の花粉症が発症して今年で15年。外環を通ったときのあの排気ガスの真っ黒い様子を見るたびに、私の花粉症と外環の開通を関連づけて考えてしまいます。
日の当たらない外環の下の公園。北京オリンピックの環境問題が叫ばれる中、公園の環境はこれでいいのか…。
遊ばない子どもたち、遊ばせない親たち、もしかすると子どもの健康を守るための「動物的勘」を持っているのかもしれません。
 
 
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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第309回「公園ということの意味 その1」

四月に小学校に上がった孫の蓮(れん)の自転車が小さくなり、先日少し大きいものに買い換えてやりました。大人だって車を買い換えるとすぐに乗ってみたくなるものですが、子どもだって同様(いや順序が逆かな? 子どもが乗りたくなると同様に大人も乗りたくなる? 私は車を買い換えると夜中でも首都高の環状線を2、3周して来ちゃうので私中心の言い方になってます。地球温暖化が問題になっている折、不必要に車を乗り回すのはやめた方がいいですね。)で、新しい自転車に買い換えると乗ってみたくなるものですよね。私も小学校5年生の時、それまで乗っていた22インチの自転車が小さくなり、スポーツタイプの新しい自転車を買ってもらって、ほんのちょっとのつもりでその辺を乗り回しているうちにだんだん遠くまで行っちゃって、とうとう草加まで行ってしまったこと(うちは駒場のサッカー場の近くですから、往復で20キロくらいあります)ありました。私にとっては、初めての大冒険でした。新しい乗り物を手に入れるっていうことは、新しい自分になれたような、そんな気分になるものです。子どもにとっては、1ランク上の自転車に乗り換えると言うことが成長の証なんですね。
道路を乗り回すのは、ちょっと危険を伴いますが、幸いなことに、我が家の近くには、公園全体がマウンテンバイクのコースになっている「ゴリラ公園」があります。新しい自転車もマウンテンバイク風の5段変速。思う存分乗れるように、「ゴリラ公園」に行きました。
この「ゴリラ公園」は、東京外郭環状線ができたとき、道路下の用地を何にするかで、地元と道路公団の話し合いのもと、作られた公園です。まあよくある、「公園にしてやるから道路建設に反対するな」式のやり方によって、できた公園です。私の知り合いもどんな公園にするかの話し合いに加わっていて、当時は自転車用の公園ということで珍しかったことやイベントを開いたりしていたこともあり、子どもたちがけっこう集まってきていました。
「ゴリラ公園」という名前は、ゴリラ(キングコング?)が時計のポールを曲げている大きな像が建っていることから、つけられた名前です。子どもたちにとっては、その命名もよかったんでしょう。うちの子どもたちも、よく遊びに行っていました。
ところが先日行ってみると、人っ子一人いない状態。「シルバー」のおじさん(?)が整備をしていて、ホコリが立たないよう水を撒いたらしく、自転車コースのあちこちに水たまりができていました。上が道路のために雨がかからず、いつも乾燥しているので、水を撒かないとホコリがひどいんです。しかも、風が吹けばその乾燥したホコリが近隣のお宅にまで迷惑をかけるし、公園の土もどんどん減ってしまって、いまでは表層の土がほとんどなくなり、その下に入っていた大きな石がかなり顔を出している始末。とは言え、「ちょっと撒きすぎだろっ!」という感じです。
蓮と一緒に行った沙羅の自転車は小さいので、マウンテンバイクのコースには不向き。一生懸命こいだところで、どうしてもコースに負けてしまって、何度も足を着いたり、転んだり。そのうちぬかるんだところで足を着いてしまったために、靴はどろどろ、自転車もどろどろ。べそをかきかき、自転車を引きずりながら私のところへやってきました。新しい自転車で颯爽とコースを回っていた蓮はというと、泥を跳ね上げ背中が泥だらけ。二人ともそのまま自転車でピアノのレッスンに行く予定で、楽譜も持ってきていたので、かなり困った状態になってしまいました。
一生懸命水を撒いてくれた「シルバー」のおじさんに、文句を言うわけにもいかず、公園の水道で、泥を落としてピアノのレッスンに向かいました。
つづく
 
 
 
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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第306回「海軍飛行予科練習生」

「おい、俺が死んだらなあ、ヘリコプターで鹿島灘に骨を撒くんだぞ。おまえたちに頼んでおくからな!」
昨年亡くなった父は、何度も私と妻にそう告げていました。
海軍飛行予科練習生(予科練)に志願して、土浦海軍航空隊にいた父としては、特別攻撃隊(特攻隊)として鹿島灘に散った多くの仲間たちのところへ行きたいという気持ちが、ずっと消えなかったんでしょう。土浦から三沢(青森県)に移動になった直後、土浦が爆撃を受け、三沢でも同じように、移動の命令を受け三沢を出た直後に、三沢も爆撃に遭いました。父はたまたま難を逃れた数少ない生き残りなんです。(第266回参照)
「俺の人生は、余生なんだ。あの戦争で、俺の人生は終わったんだ」
と口癖のように言っていました。
そして昨日(20日)、先に逝った戦友たちのそばに父(ほんの一部だけですが)を葬ってきました。強い風で大きく荒れた海は、細かい粉になった父の遺骨を、戦友たちの眠る遙か鹿島灘の沖に、運んでいってくれたことと思います。
父の骨を撒く前に、父が予科練時代を過ごした土浦海軍航空隊跡を訪ねました。現在は陸上自衛隊武器学校となっており、中には、予科練記念館「雄翔館」、記念庭園「雄翔園」、予科練の碑「予科練二人像」などがあります。物心が付いて間もないころ、一度だけ父に連れられて来たことがありました。小さいながらもそのときの印象は強烈で、敷地内におかれた戦車、死んでいった若者たちの遺品の数々が、未だに記憶の中にあります。今回は、それを確認するように見学してきました。
入り口で簡単な受付をすれば、誰でも入れます。(平日、土・日とも午前9時~午後4時30分 茨城県稲敷郡阿見町大字青宿121-1 陸上自衛隊武器学校内)
予科練の卒業生は約24,000名。そのうちの約8割、18,564名が戦死しました。「雄翔館」には、戦死した若者の遺品や家族宛の手紙(遺書)などが、展示されています。両親に宛てたもの、叔父や親戚に宛てたもの、どの手紙を見ても、しっかりとしたとてもきれいな字で、これまで育ててくれた感謝の気持ちが綴られています。まだ二十歳にもならない若者の手紙を見ると、とても心が痛みます。
「長い間育ててくれた…」「これが最後の…」といった言葉の数々。この若者たちに「長い間」「最後の」などという言葉を誰が言わせたのだろうと怒りがこみ上げてきました。
「戦争の時は、みんなこう考えてたのっ」「戦争だから仕方ないの」という母の言葉が、まるで人ごとのようで(もちろん母も戦時中の大変な時代を生きていたわけですが)、父の「鹿島灘に骨を撒くんだぞ」という言葉とは、遙か遠いところの言葉のように感じました。
「もし、これが私の子どもたちだったら…」そんな思いが、涙をにじませます。
父がお酒を飲むたび歌っていた、「四面海なる帝国を 守る海軍軍人は 戦時平時の別ちなく 勇み励みて勉べし」という「艦船勤務」や「若い血潮の 予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でかい希望の雲が湧く」という「若鷲の歌」が自然に口をついて出てきます。
日本は、平和を取り戻しましたが、世界各地で多くの若者や幼い命が戦争によって奪われていることを思うと、平和のために何が出来るだろうかと考えさせられます。
雄翔館の入り口に二人の男性が椅子に座っていました。父と同じ予科練第14期だそうです。父同様、戦死はしなかったけれど、このお二人も戦争が人生のすべてだったんだなあと、なんだか寂しい気持ちになりました。
 
 
 
 
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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義】 第305回「東大の入学式」

東大の入学式が11日、日本武道館で開かれ、新入生の数を大幅に上回る保護者らで埋まった客席を前に、建築家で特別栄誉教授の安藤忠雄氏が「親離れをしてほしい」と新入生、保護者双方に自立を促すよう祝辞を送ったそうです。安藤氏の前の小宮山学長の式辞でも「新入生の幼いころを思い返し感慨もひとしおと思うが、入学式は親離れをして独立し、自らの道を切り開く旅立ちの日。温かく見守ってほしい」と保護者に呼びかける場面があったとか。日本人にとって、東大という特別な響きを持つ大学の入学式とは言え、あまりにも多い家族の出席希望に、「新入生一人に対し関係者二人まで」という制限を設けたにもかかわらず、「3人以上で行きたい」という問い合わせが、数十件も寄せられるほどの異常ぶり。そんな過保護な親子関係に一石を投じたということなのでしょうか。入学式の会場は新入生3200人の周囲を5000人の保護者が取り囲んだということだそうですから、東大側にしてみれば、いったい誰のための入学式なのかということになるのは当然。安藤氏は「自己を確立しない限り独創心は生まれない」「自立した個人をつくるため親は子どもを切り、子は親から離れてほしい」と言ったそうですが、まったくその通りです。(東京新聞webサイト参考)
入学式に参加した新入生、保護者の人たちは、この話をどう聞いたんでしょう。
ネット上のYahoo!知恵袋に、「大学になっても入学式に親が同伴するのは、おかしいですか?」との内容の質問があり、ベストアンサーに選ばれたのは「息子さんが反対しているなら、行かなくてもいいのでは?? -中略- 特に男子だと親が一緒だと…、ちょっと…ね。 -中略- それくらい自立心があった方がいいですよ。」
というものでしたが、あとの10人の解答のうち、「出ない」を支持したのはたった一人(それも附属高校からのエスカレーターらしく、ちょっと状況が違う)、あとは全員「出たっていいじゃない!」「出て何が悪い!」というスタンスの回答ばかり。ところがYhoo!サイト内のクリックリサーチでは、「大学の入学式に親が出席するのは過保護だと思う?」との質問に、64,558人中37,993人(59%)が「過保護」と答えています。知恵袋に回答を寄せた人たちは、自分が親として入学式に出たことのある人たちなので、出ることへの支持は当然として、全体としては、「過保護」というふうに考えている人たちが多いということなんですね。けれども、クイックリサーチは、「親」でない人の数が圧倒的で、もし子どもがいる人だけを対象に同じ質問を向けたとすると、「過保護ではない」と考える人の方がかなり多いのではないでしょうか。
私は以前から述べているように、今の「子育て・教育」の問題というのは、「親子の距離が近すぎること」と考えていますので、基本的には「過保護」だろうと思います。
まもなく成人を迎えようとしている(あるいは成人を迎えた)子どもたちが、ある意味親をうっとうしいと感じるのは自然で、それがないということになると、安藤氏の言う「自己を確立しない限り独創心は生まれない」ということになってしまいます。本来だったら、思春期に通り越していなければならないことが、最近の傾向として、大学になっても、社会人になっても通り越せていない。
うちのカウンセリング研究所のスタッフ募集の面接に、お父さんが付いてきたというケースが2人ありました。「娘が働くところがどんなところか確かめたかった」というお父さんの気持ちがわからないではないですが、面接をして雇う側として考えた場合、お父さんが付いてこなければ面接にこられないような大人だとしたら、採用するのは困難です。仕事で難しい局面を迎えたとき、しっかりと自分で解決していく能力があるかどうか、疑わしいからです。
親は皆、子どもの幸せを考えるものです。安藤氏や小宮山学長に言われるまでもなく、本当の子どもの幸せとは何なのか、そろそろ見つめ直すときがきているのではないでしょうか。
 
 
 
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2024年4月 4日 (木)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】 第304回「巨人と楽天」

野球の話題は初めて?
巨人のあまりの不甲斐なさと楽天のあまりの絶好調ぶりに、今日は野球の話題。もっとも直近は巨人が阪神に大勝、楽天は西武に3連敗して、勝率5割に戻っちゃいましたが…。
 
以前、サッチーこと沙知代夫人とテレビの番組でご一緒したことがあり、その後、妻が年に数回、季節の挨拶程度ではありますが、夫人とハガキのやりとりをしているので、2005年7月1日に開かれた克也氏の古稀を祝う会のご招待状をいただき、出席しました。克也氏は、まだシダックスの監督をしていましたが、次期楽天監督に就任するのではとの噂がありました。パーティでは、沙知代夫人の「この人は生涯監督が似合う。理想はカツノリ(当時は楽天の選手。2006年に現役引退。現楽天コーチ)がサヨナラホームランを打った試合で、ベンチの中でバンザーイって言ってバタッと倒れること」(日刊スポーツ参考)との楽天監督を意識したような発言もあって、どうやらまんざらでもない様子。さらにこのときお祝いに駆けつけていた原辰徳氏(現巨人軍監督)に対して、克也氏から「次期巨人軍監督」というような話もあり、すでに2人の監督就任は、ほぼ確実視されていました。
実際その通りになって現在を迎えているわけですが、今日(4月6日)現在、巨人が2勝7敗で首位阪神と5ゲーム差の5位(横浜と同率で最下位)、楽天が7勝7敗で首位西武と1.5ゲーム差の3位(日本ハムと同率)という成績。楽天の成績がいいのか悪いのか、普通のチームだとして考えれば、微妙なところではあります。もしこれが、巨人や阪神、中日といったチームの成績であったとしたら、おそらく7勝7敗の五分という星も、まだまだ「不振」と言われる星勘定ということになるのでしょう。けれどもチーム発足すら危ぶまれ、万年最下位ではないかと言われたチームであることを考えると、わずか4年で、シーズン当初ではあるとは言え、初の7連勝(これまでの連勝は5)を果たし、一旦は首位に立ったことは、ニュースです。昨日(土曜日)のTBS「ブロードキャスター」でも、野村監督が生出演(オフでない時期に、会見ではなく長時間の生出演というのには驚きました)し、大きく取り上げられていました。今の楽天の強さは、それほどのニュースということなんでしょう。
「ブロードキャスター」で取り上げていたスターティングメンバーの年俸比較にもビックリ。ちょっとはっきりした数字は忘れましたが、巨人が26億何千万円だか28億何千万円だかで、楽天が6億何千万円だか、だったように思います。にもかかわらず、巨人は弱くて、楽天は強い。
そのわけはどこにあるのか…
誰もが言うことですが、それはやはり監督の采配です。采配というのは、その試合にどういう戦術で戦うかということではなく、キャンプ(もっと言えば昨シーズンが終わってどんな補強をするかから。もっとも野村監督は「補強はフロントの仕事で、監督の仕事は与えられた選手でどう戦うかだ」と言っていましたが)からどうチームを作っていくかというビジョンです。今の巨人と楽天には、おそらくそこに大きな違いがある。選手一人ひとりが、自分自身の中に明確な目標を持つこと、そしてそれをチームとして全員が共有すること。さらに監督が選手の能力を引き出すこと。どうもそのあたりに違いがあるように思います。
楽天が球団新記録の6連勝を飾った4月2日、好投しながら最終回に2点を失い完投できなかった永井怜投手が、試合終了後ベンチからロッカールームに引き上げようと野村監督の前を通ったとき、監督が永井投手の背中を“ポーン”と勢いよく叩きました。そこから見て取れたのは、監督と選手の信頼関係、まさに「育てる」ということです。「使うのは俺だけど、実際にやるのはお前だぞ」と言っているように見えました。
それに対して、今の巨人には「育てる」ということがありません。今日、満塁ホームランを放った坂本勇人内野手(19歳)。こういう選手を育てて、初めて巨人も強さが発揮できるようになるんじゃないですかね。
教育の本質もそんなところにあるのでしょうか。できあがったものを与えるのではなく、ゼロからゆっくりでもいい、一つ一つ自ら獲得して育っていく。そういうふうにして獲得したものは、失うことがない。だから本物になっていく。それが子どもの教育にも必要なんだろうと思います。
 
楽天優勝?
あるかもしれませんね!
 
 
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第303回「誤字には気をつけて!」

娘の麻耶は、4月から大学に通うことになりました。おなじく4月から小学校に入学する息子と幼稚園の年長になる娘を持っている28歳。幼児教育を学ぶんだそうですが、果たしてどんな学園生活になることでしょう。
入試の面接では、
「あなた、その年齢になって幼児教育を学んだって、就職は難しいですよ」
と露骨に言われたとかで、合格発表があるまで不安になっていましたが、何とか合格。私に言わせれば、少子高齢化のこんなご時世。潰れてしまう大学がある中で、ごく一部の大学を除けば、学生の質はどんどん下がっているわけだから、幼児教育を学ぶ学科にとって、子どもがいて高齢(大学で学ぶという点については)で、それでも大学で学ぼうなんていう学生は、むしろ歓迎。わざわざ幼稚園、保育園に行って実習をしなければ聞けない保護者の話が、毎日だって聞けるわけだし、教材としても最適。「受からないわけないだろ」ということになるわけなんです。推薦入試だったので、まあ最終的には、大学側の選択ですから、当然「そんな遠回りをした学生はいらない」ということになれば、落ちることだってあったのですが、なんとか合格しました。
 
大学に入学すると“遊んでしまう”学生が多いからなんでしょうかねえ、まだ入学しないうちから論文提出。1本提出するとしばらくして添削されたものが返却され、それと同時に次の課題が出題されるという具合で、計3本の論文を書かされていました。
「おまえ論文なんて書けんの?」
「書けるわけないでしょ! だから代わりに書いてよ」
「いきなりそれかよぉ。おまえねえ、大学でだって書かされるんだよ。家で書いて提出するやつだけ手伝ったって、大学で書くやつはどうすんだよ!?」
「女装でもして書いてきてよ。そうしないと“あれっ、こいつ、この前の文章とずいぶん違うなあ…”って変に思われちゃう!」
「バカ言ってんじゃないよ! だから、最初から全部おまえが書けばいいだろっ!」
「まあ、しょうがないか…」
というわけで、麻耶が3本の論文を書くことになりました。(当たり前のことなんですが)
それでも一応提出前には、妻と私に「これでいいかなあ?」と見せるので、適当に目を通しては、「はぁ、まあいんじゃん」なんてやっていたのですが、「あれっ、割と書けるんだぁ」とちょっと意外な感じも受けました。妻もそう思ったらしく、「おまえ、私よりうまいかも」なんて、麻耶に言っていました。
3本ともEメールのコミュニケーションについての論文で、麻耶なりに自分の経験を織り交ぜながら、書いていました。1本目も、2本目も「大変よくできました!」みたいな評価をもらったので、3本目もそれなりの期待があったのだと思うのですが、3本目は「誤字には気をつけて! ~中略~ 図書館の本を読破してください」なんていう評が書いてあるものだから、麻耶は「字も書けないようじゃあ、図書館行って勉強しろっ!だってさ」とちょっとがっかりしたような、「やっぱりなあ」というような微妙な様子。
「へーっ、字が違ってたんだぁ。でも、図書館の本を読破しろなんていうのは、褒めてんじゃないの」
なんて言いながら、私が答案を見ていると、誤字というのは麻耶が息子の蓮をつれて小学校に「就学時健診」に行ったくだりのその「健診」という言葉。「健診」に×がつけられて、その脇に「検診」と書き加えられています。その瞬間は何も考えず、
「ふーん、“検診”を間違えちゃったんだぁ」
と麻耶に答案を返しながら、
「でも、おまえ、最初にパソコンで打ってなかったっけ? 何で間違っちゃったんだろうな? 写し間違ったのかねえ?」
「それはないと思うよ。だって“けんしん”って言われたって、私全然漢字なんて書けないから、健康の“健”なんて思いつかないもん」
それで私が“はっ!”として、もう一度答案を眺めながら、
「就学時“けんしん”て、健康診断だよなぁ? だったら“検診”じゃなくて“健診”でいんじゃないの?」
すぐにモバイルサイトの広辞苑を開いて確かめてみると、「検診」は「胃検診」とか「胸部検診」のように病気を発見するための「けんしん」で、やはり健康診断は「健診」。麻耶は麻耶で、そのときの資料を持ってきて、「就学時健康診断」と書いてあるのを確かめると、
「やっぱり“健診”でいんだぁ! 変と思ったよ、パソコンが間違うなんてさぁ」
「大学始まったら、その人のところ行ってこいよ。“先生! これ、やっぱり健診でいいんですけどぉ”って」
「なんて言うかねえ? 真っ赤になっちゃうかねぇ? ×つけて書き直してある程度ならともかく、“健診”だけなのに“誤字には気をつけて!”なんて書いちゃったからね」
まるで鬼の首を取ったような大騒ぎ。
たまたま間違ってしまった准教授(らしい)には、申し訳ないけれど、そんなつまらないことから、28歳にもなる子持ちの娘が、大学に行くということの意義や学ぶということの意義を、肌で感じているように思います。
「目当て」を見失い、事件を起こしてしまう少年少女が増える中、家庭の果たす役割と同時に学校の果たす役割も重大です。教師と生徒の関係が、血の通った人間対人間の関係になり、信頼関係を取り戻すよう、強く願っているこの頃です。
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
 

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