2019年2月10日 (日)

第71回「特別養護老人ホーム」

今日は困っちゃったなあ…。
都内で越境入学をさせていて学校でトラブルになった話を聞いたので、その話にしようって決めていたんだけれど、昨日(27日)「浦和教育カウンセリング研究所」の仕事で秩父の大滝村まで行って特別養護老人ホーム(特養ホーム)を2カ所見学させてもらったら、あまりにも大きな衝撃を受けて、他のことがすっかり頭のどこかに飛んじゃった。越境のことはまた今度にして、今頭にあること書くしかないかなあ…。

大滝村は埼玉県の一番西に位置し、群馬県、長野県、山梨県、東京都と隣接しています。たった一つの村が4つの都県と接しているなんて、それだけでもすごいね。これまで峠越えだった国道140号線の山梨県へ抜けるルートに平成10年雁坂トンネルが開通して、かなり便利になりました。子どものころの私の印象では、「埼玉県の一番奥の観光地」っていう感じでしたけれど、雁坂トンネルができたことで「秩父から甲府への通り道」っていう印象に変わりました。雁坂トンネルが開通した年に山梨県側から埼玉県側に抜けたことがあるのですが、昨日久しぶりに訪ねてみて、やはり「観光地」というイメージから「通り道」というイメージになったなあと感じました。

大滝村を訪れたのは、NPO法人の方が「教育施設を作る」についての意見を聞かせてほしいということで訪ねたのですが、大滝村を一通り回って見せていただいている中で、2カ所の特別養護老人ホームも見学させてもらいました。

大滝村はかなり激しい過疎化の波にさらされているそうで、人口流失がどこで止められるかが大きな課題だということでした。産業がないため、若年層の流失は深刻で、人口構成における高齢化が進み、子どもがいなくなってしまったため、小学校が廃校になっていました。国の問題として取り上げられている「少子化」の問題とは違った意味での「少子化」問題がここには存在していました。

「過疎」という問題は、車も通らない遠い山奥や海沿いの町の話のように思っていましたが、交通量も比較的多く、ちょっと車で走れば都会というようなところでも深刻な問題になっていることに驚きを感じました。逆に都会の近くの村だからこそ、都会への人口流失がなおさら深刻になるのかもしれません。なんとか子どもを呼び戻して、村を再生させたいという大滝村の方の気持ちがとても強く伝わってきました。
『私たちは林業の世界で生きてきましたからねえ。そんなに目先のことを考えているわけではないんですよ。20年、30年、50年後の大滝村のことを考えているんです』
街の中で生活している私たちとはまったく違う子育ての大切さがここにはあることを感じました。

「特養ホーム」は約50名の方を30名あまりのスタッフで看ているそうです。入居者の方たちは重度の認知症(介護度からいうと重度ではないそうですが、私には重度に見えました)で、「こんにちは」と声をかけても返事が返ってくる人はまれです。中にはニッコリと微笑んではっきりしない言葉で「こんにちは」と返事を返してくれる人もいるにはいますが、多くの人は表情も変えずに車いすに座ったままです。集団で話をするわけでもなく、じっと車いすに座って、時折うつろな視線をこちらに向けてくる老人の方たちに、かなり大きな衝撃を受けました。

階段から落ちないように置かれた衝立、殺伐とした食堂、かなり高い位置に設置されたドアの開閉用ボタン…。何もわからずに集団の中で生きながら、死期のくるのを待っている老人に、私たちができることはなんなのか…
今まで社会を支えてきてくれたその老人たちに何か返せるとしたら、それはこれからの社会をしっかりと支えることのできる次の世代を育てることしかないのではないか、そんなことを考えながらウチに帰ってきました。


**2003年7月28日(月)掲載**
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2007年7月10日 (火)

父の死

7月6日午前4時7分、父は永眠しました。

父は第2次大戦当時、海軍甲種飛行予科練習生として、霞ヶ浦の航空隊にいました。今でも毎年、同期の方々の集まりを行っているのですが、今年は、6月17日に会津東山温泉で行われました。数年前から歯茎の状態が悪く、形状がどんどん変わってしまうため、入れ歯を何度作り直してもうまく合わなかったこと、目先の具現化された生き甲斐がなかったこと等もあって、「食べる」という「欲」がなくなり、痩せ細り、体力も限界に来ていました。会津までの数時間が果たして耐えられるのか、甚だ疑問ではありましたが、数ヶ月前からそれに参加することを一つの糧として生きてきたという父の状況もあり、全く大げさではなく、それに伴う疲労のための「死」も覚悟で、連れて行きました。

「同期の会」では、精一杯の気力と体力を振り絞って、宴会に参加しました。自分がそこにいることの意味や参加している同期の皆さんのことが果たして理解できているのか…、それもよくわかりませんが、すでに亡くなってしまった戦友の皆さんに黙祷し、そして全員で「同期の桜」を歌い出すと、父も精一杯「同期の桜」を歌っていました。

残念ながら、翌日、会の皆さんと最後まで予定をこなすことはできませんでしたが、なんとか一泊して無事帰ってきました。チェックアウト後すぐに帰路につき、午後1時頃には自宅に戻りましたが、その日の父はいつになく興奮しているようで、普段は夜9時過ぎには自室に戻り寝てしまうのに、この日ばかりは12時くらいまで起きていて、曾孫と遊んだり、話をしたりしていました。

けれども、やはりそれが引き金となり、とうとう食べることに対する「欲」だけでなく、体力もなくなり、7月6日、亡くなったのです。

腹膜炎で死にかけたり、癌で大腸を数十センチも切除したりと、何度か大きな手術は経験しましたが、「俺はどこも悪いところがない」と本人が言うように、確かに現在の父には、病名がつくようなものは一切ありませんでした。周りで見ているものには、明らかに何らかの医療行為が必要としか映らないのですが、父自身がそう考えていると言うことは、「治療」という範疇のものが一切できないということであり、父の「生」は、父の生きる意欲次第ということでもあります。

会津から帰宅して2日目、食べ物も飲み物もほとんど口にせず、気力も体力も限界と思い、救急車を呼んだこともありましたが、父は断固拒否。「俺はどこも悪くないんだ! やることがないから、ここで寝てるんだ!」と言う父を入院させることはできませんでした。

「やることがない」父の、唯一の「やること」が、曾孫と食事をし、遊ぶことでした。我々がいくら呼んでも部屋から出て来ようとしない父も、

「ひいじいちゃん、ご飯だよ!」

という曾孫の呼びかけにだけは反応し、必ず食卓までやって来ます。もうすでに立つことすらままならなかった死の2日前は、這って食卓までやって来ました。

曾孫たちはそれを見て、「ひいじいちゃん、赤ちゃんみたい!」と言うのですが、それは父をバカにしているのではなく、むしろ、よだれを垂らし、紙おむつをし、悪臭を放っている「ひいじいちゃん」をまったく差別の対象として扱っていないことの表れでした。大人なら、手を触れることすらはばかりたくなるような状態の父に、頬摺りすらするのです。そんな曾孫たちと食事をし、遊ぶこと、それが父の唯一の「生」への絆だったのです。

7月5日、私と蓮と沙羅で、「七夕飾り」を作りました。蓮は、まだすべてのひらがなが書けるわけではありませんが、「またひこうきとばそうね」と書きました。沙羅は、ひいじいちゃんの絵を一生懸命描きました。

大人が声をかけると強く手を振り拒否をするのに、「ひいじいちゃん!」と声をかけながらおでこや頬をツンツンと突っつく曾孫たちには、時に笑顔すら浮かべ、握った手を握り返したりするのです。

一昨年の秋、死の直前、大人の呼びかけにはまったく反応しなかった義父が、義父の手をそっと撫でた沙羅に対し、縦に手を振り「よしよし」という仕草をしたのにそっくりだと感じました。人間の生命の継承はこうして行われているんだ、とつくづく感じる瞬間です。

父が息を引き取って間もなく、父の脇に座った沙羅は、じっと父を見つめ、無言ではらはらと涙をこぼしました。

死後の処置をするため、父を広い仏間へ運び出すと、

父のいなくなった部屋の時計を眺めた蓮が、

「(ひいじいちゃんは動かなくなっちゃったけど)時計は動いてるね」

と言いました。

(これはさいたま商工会議所HP「マイタウンさいたま」の連載エッセイコーナー「子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義」に掲載したものを、加筆修正したものです)

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2007年6月23日 (土)

親をどう看取るか

いよいよ父の死期が近くなりました。

昨年9月までは、車の運転もしていたました。

痴呆が進行し、危険な状況だったのですが、なかなか無理矢理取り上げるということもできないので困っていたところ、父がカギをどこに置いたかわからなくなってしまい、うまく車に乗らないという状況を作り出すことに成功。

一応車には乗らなくなったわけですが、そのために、社会との窓口のとても大きな部分がなくなってしまい、生きる意欲の減退ということにつながってしまいました。

今年に入り、ますます痴呆がひどくなり、4月には毎日通っていた近所の居酒屋さんからも「呑みに来てもらうのも限界」という引導を渡されて、万事休す。

他者との関わりがないということは、急激に人間の生きようという意欲をそぎ、食欲を失わせ、衰弱させてしまうものですね。

4月には、44キロ(体脂肪率12%)あった体重が、あっという間に40キロを切り、6月4日には、35キロ(体脂肪率8%)にまでなってしまいました。

それから20日。今では、もう体重を計ることすら不可能です。

本人は食べていると言うものの、実際には水を飲むのさえやっと。

それでも夕飯の時だけは、何か飲む気になっているので、その機に乗じて、飲み物にブドウ糖や練乳を混ぜたり、ベースになる牛乳をなるべく乳脂肪率の高いものに変えたり…。

一日のカロリー摂取量をなんとか700~800キロカロリーまではしたいと努力しているのですが、500キロカロリーもどうでしょう。

今の状態でいつまで保つのか…。

日増しに体力がなくなっていくのがわかります。

頑固な父の希望もあり、私自身も病院には入れたくないという思いは強いながら、79歳という若さを考えると、このまま自宅で死期を待つのか、それとも父の希望を無視しても無理矢理病院に入れて、体力が戻るよう努力するのか、とても迷うところです。

「父の幸せ」っていったい何なのか、もう一度よく考えてみることにします。

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2007年5月12日 (土)

親の介護

義理の両親の介護が終わった途端、今度は私の両親の介護を考えなくてはならなくなりました。

年齢的なことでいえば、私の両親の方が約15年くらい早いことになりますが、妻の方の両親が、義父93歳、義母90歳での他界と長生きだったので、私程度の年齢で、介護が現実味を帯びてくるというのは、普通のことなのだろうと思います。

介護保険法が施行されてから、介護の仕方は大きく変わりましたが、やはり最後は家族がどう介護するかということになります。

よほど豪華な老人ホームでもない限り、痴呆でもないお年寄りが、積極的にデイサービスを利用するということなど考えにくいし、うちの場合を考えても、父に「デイサービスに行けば」などということは、口が裂けても言えない。

おそらくそんなふうに考えている人って多いんじゃないでしょうか。

やや呆けかかっている父の呆けが、少しでも進行しないような手だてというのは、これまでに父が関わってきた人たちとの交流や曾孫とのひとときを過ごさせること。

いつまで続くかわからない介護は、家族にとっても負担ではあるけれど、他人の手に簡単にゆだねようという気にもなれず、かといって「大変」という感じもしないけれど、「自分にはこんなときがこないといいな。うまくぽっくり死ねないかなあ」などと考えてしまうこの頃です。

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