2022年4月30日 (土)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第269回「家族って何?」

ドイツ・ミュンスターの市立劇場で専属ダンサーとしてモダンダンスを踊っている長男・努(つとむ)が3年ぶりに、夏の休暇を利用して帰ってきました。前回、一時帰国したときも、ここに登場させたような気がしたのでバックナンバーを調べていたら、なんと「第120回」(ちょうど3年前だから当たり前だけど)。「早いもんだなあ」というか「ずいぶん長かったなあ」というか…。私とは12歳違いで、12月で38歳になります。19歳で渡欧して、一時期日本に戻ったこともありましたが、20年というもの、ほとんどヨーロッパ暮らしです。
前回の帰国は4年ぶりでした。そして今回は3年ぶり。1年というのは長いようでそれほど長いわけではなく、その1年の間に何か大きなことが起こるというのは事故でもない限り少ないのですが、3年、4年というのは、短いようで長くて、その3年、4年の間に、生活に大きな変化が起こったりします。前回努が帰国したときは、努がドイツにいるうちに、妹の麻耶が結婚し、二人の子どもを出産し、そして離婚をし、家に出戻っていました。努にとっても、麻耶の子どもたちの蓮と沙羅にとっても、初めて会うわけですから、ちょっとくらいは人見知りでもするのかなあと思いきや、会ったとたんに蓮も沙羅も努にべったり。伯父さんと甥・姪の関係ってこんなもの?とびっくりしました。
そして今回の帰国までの3年間に、祖父と祖母の二人が亡くなってしまいました。前回の帰国の時には、一緒に海水浴に行ったのでしたが、その約1年後に祖父、さらにその1年後に祖母。努の意識の中には、一緒に海水浴に行った元気な祖父と祖母のイメージ(とはいえ、その時すでに祖父は91歳、祖母は88歳でしたから、次回帰国の時には、二人とも亡くなっているかもしれないという気持ちもすでにあったと思いますが)があったのでしょう、翌年、祖母が亡くなったことをメールで知らせると、大きなショックを受けた様子のメールが返ってきました。
そして次の年、祖母の死を電話で告げられた努が返した言葉は、
「次はお母さんかあ…」。
その時はみんな、努の言葉をとても唐突な、大げさな言葉として受け止め、
「まったく何言ってんだろうね、努は!」
と、あまりにも飛躍したと思える努の言葉を、ちょっとバカにした感じで受け止めていたのですが、今回戻ってきた努に翔が「次はお母さんかあ…」の受け止め方の話をすると、「お前たちはさあ、いつもそばにいるだろっ。だからわかんないんだよ。ずっと離れていてみろっ。おじいさんが死んで、おばあさんが死んで、次はお母さんかあって、必ず順番考えるから!」
と努は言いました。
努が成田に着いた6月25日には、私の父がかなり悪い状態でした。私の父と努とは血のつながりはないわけですが、成田に着いたその足で私の実家へ寄った努は、疲れを口にすることもなく、父の介護の手伝いをしてくれました。休暇で、身体と心を休めに帰国したはずの努でしたが、私の父が亡くなるまでの10日間というもの、とても積極的に父の介護にかかわり、看取ってくれました。義理とは言え、努にとって「おじいちゃん」と呼べる最後の存在であった父の最期を見届けることで、実の祖父母の死に立ち会えなかったという自分の気持ちの寂しさを、少しでも埋めようとしているようでした。
「せっかく休暇で帰ってきて、楽しい夏休みを過ごそうと思ってたんだろうに、父のことで休暇の半分を使わせちゃって悪かったねえ」
と私が言うと、妻は、
「いいんじゃないの、あの子にとっても。熊谷の父と母の死には立ち会えなかったわけだから。あの子にとって家族として、家族の死に立ち会う経験ができたっていうことは大事な経験だったと思うよ」
と言いました。

ドイツへ帰る前日、努と妻が話をしていました。
「家族っていいよねえ。どんなに離れていても、こうして帰ってくれば無条件で受け入れてくれる。もちろん、僕も受け入れる。そういう関係なんだよね。僕も今まで、そういう関係のものを作ってこなかったけど、やっぱり作りたいなって思うよ」
「ふーん。そんなふうに考えてたんだぁ…」

成田空港で、搭乗者のゲートをくぐった努に、蓮と沙羅が一生懸命手を振っていました。そして努も一生懸命手を振り返していました。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第266回「曾孫の威力 後編」

7月6日午前4時7分、父は永眠しました。通夜は実家の近くにあるお寺の会館を借りて行うことになりました。これから通夜へ向かうところです。まだ父は、実家にいます。たった今、曾孫の蓮と沙羅が自宅から実家へやってきて、お線香を上げました。

父は第2次大戦当時、海軍甲種飛行予科練習生として、霞ヶ浦の航空隊にいました。今でも毎年、同期の方々の集まりを行っているのですが、今年は6月17日に会津東山温泉で行われました。数年前から歯茎の状態が悪く、形状がどんどん変わってしまうため、入れ歯を何度作り直してもうまく合わなかったこと、目先の具現化された生き甲斐がなかったこと等もあって、「食べる」という「欲」がなくなり、痩せ細り、体力も限界に来ていました。会津までの数時間が果たして耐えられるのか、甚だ疑問ではありましたが、数ヶ月前からそれに参加することを一つの糧として生きてきたという父の状況もあり、全く大げさではなく、それに伴う疲労のための「死」も覚悟で、連れて行きました。

「同期の会」では、精一杯の気力と体力を振り絞って、宴会に参加しました。自分がそこにいることの意味や参加している同期の皆さんのことが果たして理解できているのか・・・、それもよくわかりませんが、すでに亡くなってしまった戦友の皆さんに黙祷し、そして全員で「同期の桜」を歌い出すと、父も精一杯「同期の桜」を歌っていました。

残念ながら、会の皆さんと最後まで同行することはできませんでしたが、一泊して無事帰ってきました。午後1時頃には自宅に戻りましたが、その日の父はいつになく興奮しているようで、普段だと夜9時過ぎくらいには自室に戻り寝てしまうのに、この日ばかりは深夜0時くらいまで起きていて、曾孫と遊んだり、話をしたりしていました。

けれども、やはりそれが引き金となり、とうとう食べることに対する「欲」だけでなく、体力もなくなり、6日に亡くなったのです。

何度か大きな手術は経験しましたが、「俺はどこも悪いところがない」と本人が言うように、確かに病名がつくようなものは一切ありませんでした。しかしそれは、「治療」という範疇のものが一切できないということであり、父の「生」は、父の生きる意欲次第ということでもあります。

会津から帰宅して2日目、体力も限界に来たと判断し、救急車を呼んだこともありましたが、父は断固拒否。「俺はどこも悪くないんだ! やることがないから、ここで寝てるんだ!」と言う父を入院させることはできませんでした。「やることがない」父の、唯一の「やること」が曾孫と食事をし遊ぶことでした。我々がいくら呼んでも部屋から出て来ようとしない父も、
「ひいじいちゃん、ご飯だよ!」
という曾孫の呼びかけにだけは反応し、必ず食卓までやって来ます。もうすでに立つことすらままならなかった死の2日前は、這って食卓までやって来ました。

曾孫たちはそれを見て、「ひいじいちゃん、赤ちゃんみたい!」と言うのですが、それは父をバカにしているのではなく、むしろ、よだれを垂らし、紙おむつをし、悪臭を放っている「ひいじいちゃん」をまったく差別の対象として扱っていないことの表れでした。大人なら、手を触れることすらはばかりたくなるような状態の父に、頬摺りすらするのです。そんな曾孫たちと食事をし、遊ぶこと、それが父の唯一の生への絆だったのです。

7月5日、私と蓮と沙羅で、「七夕飾り」を作りました。蓮は、まだすべてのひらがなが書けるわけではありませんが、「またひこうきとばそうね」と書きました。沙羅は、ひいじいちゃんの絵を一生懸命描きました。大人が声をかけると強く手を振り拒否をするのに、「ひいじいちゃん!」と声をかけながらおでこや頬をツンツンと突っつく曾孫たちには、時に笑顔すら浮かべ、握った手を握り返したりするのです。

死の直前、大人の呼びかけには応えなかった義父が、義父の手をそっと撫でた沙羅に対し、縦に手を振り「よしよし」という仕草をしたのにそっくりだと感じました。人間の生命の継承はこうして行われているんだ、とつくづく感じる瞬間です。

父のいなくなった部屋の時計をじっと見ていた蓮が、
「(ひいじいちゃんは動かなくなっちゃったけど)時計は動いてるね」
と言いました。


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2022年4月29日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第265回「曾孫の威力 前編」

一昨年の義父、昨年の義母に続いて、今年は私の実父が危うい状況になってきてしまいました。義父は93歳、義母は90歳。それに比べて父は79歳なのでいかにも早い気がしますが、どうもお酒がたたっているようです。若いころには一升酒は当たり前。多いときには一晩で2升くらい飲んだこともありました。とにかくお酒の好きな父です。
一時、軽い糖尿病を患ったり、腹膜炎を起こしてみぞおちから下腹部まで大きくメスを入れたり、そうかと思うと大腸癌で大腸を30センチほど切除したり…。それでも、お酒はやめませんでした。
「酒が飲めないくらいなら、死んだ方がましだ」
それが父の口癖です。
一昨年の秋、父と母を福島の温泉へ連れて行ったことがありました。参加者は、私と妻、それに孫(父と母にとっては曾孫)の蓮(れん)と沙羅(さら)です。午後3時のチェックインに合わせて宿に到着し、部屋に入るといきなり、
「おい、酒頼んでくれ!」
“いきなりかよぉ”と思いつつもフロントへ電話をかけると、
「申し訳ありません。冷蔵庫のお飲み物の他は、お部屋にはお持ちしておりません。もしよろしければ、おみやげ売り場には冷酒用のお酒も取り揃えてございますので、それをお買い求めいただき、お部屋で召し上がっていただければと思いますが…」
結局、妻がおみやげ売り場で4合瓶の冷酒を買い、それを父に渡すとあっという間に空けてしまいました。2時間ほどして食事になると、さらにお銚子2本を頼み、それもすぐに空。若いころのようには飲めなくなっている上、テンポも速過ぎたのか、他のお客もいる広間で、大の字になって歌まで歌い出す始末。なんとか部屋まで連れ戻しましたが、そこでも大の字になって歌。食事どころではなく、結局、私も妻も何も食べられませんでした。
そんな父ですから、お酒がたたるのも無理はありません。昨年痴呆の傾向が強くなり、市の相談会を訪ねると、
「うーん、アルコール性の脳萎縮症だな」と医師から言われてしまいました。
父に対しては、2つの大きな問題がありました。一つは車の運転。もう一つは、もちろん毎日飲むお酒をどうやめさせるかということでした。けれども、どちらも大きなリスクを伴います。それは、痴呆が進み始め、身体も弱りつつある父から、その二つを取り上げたときに、父の生に対する意欲はどうなるのだろうということです。
昨年秋まで車の運転をしていた父から、車を取り上げるのは至難の業でしたが、父が家の中でキーをなくしてしまったことをきっかけに、車はうまく取り上げられました。毎晩、家の前にある居酒屋でお銚子2本飲んでくる習慣は、誰かれかまわずデジカメを向けてしまうことから他の客とトラブルになったり、お酒が入るとひどくよだれを垂らしたりすることから、お店の方から「お客が減ってしまって」という話をされて、「俺があんなに世話をしてやったのにふざけるな! あんな店にはもう行かん!」とカンカンに怒って、それもなんとかやめさせることができました。
けれども思った通り、その二つのことがなくなってしまった父は、まるで抜け殻のようになってしまいました。社会との関わりの窓口を失ってしまうということは、人間にとっては「生きる」ということそのものを失ってしまうことなのです。
そんな中で、父の「生きる」意欲をかろうじてつないでいるのは、曾孫の存在です。
人間にとって、「生」をつなぐということが、どれほど「生きる」という意欲につながっているのか、そのことを実感する毎日が続いています。

つづく

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2021年12月14日 (火)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第228回「義母の死 後編」

義母の手を取っても、握り返す力もありませんでした。ここに妻と私がいるということはわかっているようですが、義母にはすでに自分の意志を伝えるだけのエネルギーが残っていないように見えました。すっかり変わり果てた義母をじっとそばで見つめているのはとても辛くて、私は義母の足の方に下がりました。
しばらくすると、看護師が、先生が話をしたいと言っていると伝えに来ました。日曜日ということで、病院の体制も平日とは違い、看護師の数もほんのわずか、医師も当直の医師でしたが、前回の検査入院の時に撮ったきれいな胸のレントゲン写真と、ほんのちょっと前救急車で運ばれた直後に撮った、胸に水が溜まりすっかり白くなってしまったレントゲン写真を2枚並べて、救急隊からの連絡の時点ではそれほど深刻な状況だと思わなかったということ、ところが病院に着いたときには自分で呼吸ができる状態ではなかったこと、心筋梗塞との判断で取れる限りの処置をしたこと、あと10分到着が遅れたらその時点で亡くなっていただろうということ、そしてここ1~2日くらいが山、それを持ちこたえられるかどうかで、どちらの方向に進むかが決するであろうということを、丁寧に説明してくれました。
娘の麻耶(まや)が、孫の蓮(れん)と沙羅(さら)を連れて病院に来ました。麻耶は、昨年義父が亡くなる前の晩、蓮と沙羅を連れて熊谷から川口の自宅に戻っていました。ところが、その日の晩、父の容体が悪化し、急いで麻耶が熊谷の家に来たときには、、すでに義父が亡くなった後だったので、今回はどうしても義母の臨終の瞬間には、自分も立ち会いたいし、蓮や沙羅も立ち会わせたいと、急いで飛んできたのです。そして努を除く、子どもたち全員が、ほんのわずかな間に集まり、それぞれ義母に声をかけました。どうやら義母には、その様子がわかっているようで、それまでただ苦しそうだった義母の顔が、やや柔和な表情になったように感じられました。
月曜、火曜と一旦は義母の状態も改善に向かい、口から人工呼吸器の管を入れているので、しゃべれはしないものの、点滴をしている手をゆっくりと動かし、画用紙にサインペンで字を書いて、意志を伝えられるようにはなりました。
「今の(看護師)は、(処置が)ヘタ」とか「主治医を呼べ」とか「それは何の薬?」とか、声ではなくサインペンで書かれた文字ではあるけれど、いつもの義母らしい会話が戻ってきたので、“ここ1~2日の山”が、もしかしたらいい方向に越えられたのかな?と期待をさせたのですが、結局火曜日の深夜(水曜日の夜明け前)、息を引き取りました。
最後に画用紙に書いた言葉は、「生か死か?」という言葉でした。とても親切で優しい男性の看護師さんが、義母のベッドでの姿勢を替えに来たとき、義母は、自分が生の方向に進んでいるのか死の方向に進んでいるのかを看護師さんに尋ねたのでした。
「生か死か?」
看護師さんは、義母からサインペンを受け取ると、画用紙に書かれた「生」の文字をはっきりと強いタッチで、何重にも丸で囲みました。義母は小さく頷きました。
結局、その日の晩、義母の異変はその男性看護師さんに伝えられ、医師の必死の心臓マッサージの甲斐もなく、義母は息を引き取りました。義母を見つめる看護師さんの目には、私たち同様涙がいっぱい溜まっていました。
義父もそうであったように、義母の最期も孫や曾孫から何かをもらい、そして何かを伝えているようでした。それまで誰に対しても何の反応も示さなかった義父は、蓮と沙羅が手を撫でた瞬間、「よしよし」とひ孫をなだめるように手を振りました。苦しそうにほとんど何もできないでいた状態の義母も、蓮と沙羅に手を撫でられると、しっかりと蓮と沙羅の手を撫で返していました。一人一人の孫たちにも、自分は死んでいくんだということを、しっかり伝えているようにも見えました。娘や孫、そして曾孫たちに囲まれて息を引き取った義母の顔は、これですべてが終わったというような、今までに見たどんなにきれいな義母の顔よりも、さらにきれいで優しく、穏やかな顔でした。
義母の臨終に立ち会うことができた麻耶や蓮や沙羅は、きっと何かを義母から受け取ったことと思います。昨年、義父を火葬にする話を聞いたとき、「食べるの?」と聞いた蓮は、今回は黙っていました。そして、義母の骨をしっかりと箸で挟んで、骨壺に収めていました。

 

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第227回「義母の死 前編」

義父の一周忌を目前にした先週5日(火)、90歳の義母が亡くなりました。
その電話は、先週の日曜日、9月3日、ちょうどこの連載の原稿を打っているときにかかってきました。
「母が救急車を呼んで入院したっていうんだけど、今カウンセリング中であと20分くらいかかるから、終わったときにすぐ出られるように支度してて」
慌てていましたが、ちょっと面倒くさそうな妻の声。
「またぁ?」
「ヘルパーが付き添って救急車で運ばれたって、ヘルパーステーションから電話があった」
「ふーん。じゃあ、そのころ車を取りに行って下にいるから」(駐車場が仕事場からちょっと歩ったところにあるので、急いでいるときはどちらかが先に車を取りに行きビルの下で待機しているのです)

義母は、昨年9月23日に93歳で義父が亡くなってから、一人暮らし。何度も「わが家へ来てください」と話したのですが、「もう少し家の中の整理をしたいから」と言って、朝昼晩と食事の支度にヘルパーに入ってもらって、わが家にはきませんでした。毎週欠かさず1度か2度は妻と私が熊谷の実家へ行き、夕飯の支度をして一晩泊まってくる。ここ1年間、ずっとそんな生活でした。義父が生きているころから5、6回あったでしょうか、義父の面倒を見るのがつらくなったり、こちらにちょっと甘えたくなったりしたときは、「これから救急車を呼んで入院するから」とこちらを驚かせる電話がかかってくるのです。もちろん昼夜かまわずかかってきて、夜中の3時なんていうこともありました。
「わかりました。それで今、どんな具合なんですか?」
と様子を聞き、場合によっては「こちらから飛んで行きますから」と救急車を呼ぶことを待たせたり、あるいは救急車を呼ばせたり…。「今行きますから、待っていてください」と言ったのに、熊谷に着く前に病院から「今、救急車で病院に来ましたから」と連絡が入ることもありました。
しかも一週間ほど前に胸から背中にかけて痛いからと言って検査入院し、一応心臓の様子も見てもらいましたが、結局「肋間神経痛」という診断で、8月27日(月)にたった一週間の入院で退院してきたばかり。それも、いつもだったら大したことがなくても長く入院したがるのに、今回は「もう一週間くらい入院してれば」とこちらから言ったにもかかわらず、どうも同室のメンバーが気に入らなかったのか、看護師が気に入らなかったのか、土曜日くらいから「出たい、出たい」と大騒ぎ。それで退院したいきさつがあったので、またいつもの入院騒動と高をくくっていたのです。

「ヘルパーステーションに電話して、様子聞いといて」
妻との電話を切って、すぐにいつも義母がお世話になっているヘルパーステーションに電話を入れましたが、ちょうどそのとき実家にいたヘルパーが救急車に同乗してくれたこと、そこの会社の専務さんが病院に向かっていて、こちらが到着するまで付き添っていてくれることはわかりましたが、義母の様子はわかりませんでした。病院に電話をすることも考えましたが、救急車で運ばれて間もないので、少し待つことにして、それまで打っていた原稿をそこまでにして、荷物をまとめ、車を取りに行きました。
妻が車から病院に電話を入れると、返ってきた言葉は「心筋梗塞」。義母が自分で救急車を呼び、しかも病院は実家から車で2、3分という距離なのにもかかわらず、病院に到着したときは、自分で呼吸ができなかったと…。
「意識はありますが、人工呼吸器を付けて点滴をしています。どなたが来られますか?」
妻と私は、やっと事の重大さを飲み込み、子どもたち全員に連絡をとり、義母の状態を伝えました。
1時間ほどで病院に着きましたが、そこで見た義母は、いつもの母ではなく、人工呼吸器のリズムと一緒に胸がふくらみ、やっとのことで息をしている、まったく動かない義母でした。
「お母さん、来たよ!」
妻の言葉に、ぴくっと身体が反応しました。
「あなたに会いたがっていたんだから、声かけてやってよ。わかるよ」
「お義母さん、遅くなってすみません。今来ました」
と手を取ると、義母はゆっくりとそして小さく頷きました。

つづく

 

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2021年12月 6日 (月)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第205回「命の価値」

「ケイちゃん、こんばんは!」
「かっくんは?」
「今日は来てないんだよ」
ケイちゃんは、その答えに満足できなかったらしく、
「かっくんは?」
と再び聞きました。
「来てないけど、元気だよ。今日はおうちでお留守番してるよ。ケイちゃんと一緒に遊べなくて、ごめんね」
ダウン症のケイちゃんは複雑な表情を見せながらも、ニッコリと笑いました。ケイちゃんは、うちの翔(かける)を「かっくん」と呼びます。
ケイちゃんは、私と妻が月に2回通っていた大田堯氏(元教育学会会長、元都留文科大学学長、東大名誉教授)のご自宅で開かれるサークルに、お母さんと一緒にたびたび来ていました。サークルは、午後6時から8時まで。誰でも参加でき、大田先生のお話を聞いたり、参加者同士の情報交換をしたり…。今の私にとって、子育て・教育の原点となっているサークルです。いつも1階の書斎で開かれていて、サークルの開かれている間、ケイちゃんやかっくんは、お亡くなりになられた大田先生の奥様が2階で見てくださっていたのです。
ケイちゃんは、年下の翔の面倒をよく見てくれていました。幼い翔にも、ケイちゃんの状況は飲み込めていましたが、翔にとってケイちゃんはいいお友達。会えば必ず楽しそうに遊んでいます。ケイちゃんと私たちとは、あまり会話が成立するとは言えないのですが、翔と私たちの関係はちゃんと理解していて、大田先生のお宅はもちろん、他の場所で会ったときにも、私と妻には、必ず、
「かっくんは?」
と翔のことを尋ねます。ケイちゃんにとっても翔の存在は、いいお友達だったのかもしれません。
先日、朝日新聞の夕刊に
『「健常者並み」勝ち取る 障害ある息子交通死、逸失利益求め両親提訴 』
という記事が載りました。ちょっと長くなりますが、どうしても状況を皆さんに伝えたいので、お読みになった方もいらっしゃるかとは思うのですが、ほぼ全文(一部省略しています)をご紹介します。

 階上町の田代文雄さん(47)、祐子さん(46)夫妻は、交通事故で亡くなった次男の尚己(なおき)君(当時8)への「死後の差別」と戦ってきた。損害賠償を求めた民事訴訟で、死ななければ将来得られたはずの逸失利益を、ダウン症の障害を理由に「発生しない」と反論されたからだ。2月に和解が成立するまで、息子の尊厳を守る闘いが続いた。
 加害者に損害賠償を求める民事訴訟を地裁八戸支部に起こしたのは事故2年後の命日。他の事故遺族から「もっとつらくなる」と止められ、弁護士には「障害をつかれますよ」と助言されたが踏み切った。
 求めた総額約5700万円のうち、逸失利益は3156万円。18歳から67歳まで働けたと推定し、男性の全国平均年収約565万円から生活費5割を引いて計算式にあてはめた。
 対する被告側の主張は「逸失利益は発生しない」だった。
 ダウン症は、ほかの病気になりやすいとする説や、知能の遅れが年とともに進み平均寿命も健常者より10~20年短いという説を提示。その上で、尚己君の通った病院や通所施設などからIQ判定や保育記録を取り寄せ、「健常者と同等の就労ができ、収入を得ることができる可能性は認めがたい」と主張した。
 「尚己を否定され、悔しかった」と祐子さん。地域の子と同じ保育園、小学校に通学し、成長を促す発達の訓練にも通わせていた。成長を記録したビデオを法廷に提出した。保育園で縫った布袋や編んだ縄跳びなども示し、健常児と比べて見劣りしないと訴えた。
 ダウン症を持ちながら活躍する人たちを探した。ピアニストや画家、俳優、飲食店従業員など国内外49人分の活動記録を提出した。「色々な可能性があったと感じ、つらい作業でした」
 昨年6月、裁判官から和解案が示された。青森県の健常者の平均給与で計算し、労働可能な年限も67歳。計1800万円弱を認める内容だった。和解は今年2月9日、成立した。
 原告側の西村武彦弁護士(札幌弁護士会)は「うまく能力を伸ばせれば、将来の可能性があると裁判官がみたのだろう」。被告側は「ダウン症の未就労児の将来をどうみるか、先例は少ない。客観的データに基づき裁判官の見解を求めるには、立場上、障害に踏み込まざるをえない」と話す。

私も法律事務所の勤務経験があるので、司法の考え方は理解しています。けれども、こういう状況を見聞きすると、「人の平等」をうたった憲法は、どう生かされているんだろうと憤ります。加害者も平等であるという論理に基づくのだろうけれど、人そのものの価値が差別されていいのだろうかと、どうしても疑問に思います。翔もかけがえのない命、ケイちゃんもかけがえのない命。二人の命の重さは何ら変わりません。そして二人は「お友達」なのです。
今回の和解が前例となることを祈ります。

 

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2021年11月21日 (日)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第179回「待つということ」

人の死というものは、たとえそれが93歳という高齢で、”死”が当然予定されたものであったとしても、身近なものにとっては、「そこに存在することがまるで空気のように当然で、”いない”ということが当然には感じられないのだなあ」と徐々に実感がわいてくるものですね。”当然であって当然には感じられない死”ということを悲しむべきなのか、93年という長きに渡る”生”を喜ぶべきなのか、なかなか気持ちの整理がつきません。
義父とはいえ、父には多くのことを学びました。強固な意志、人としての尊厳、生きることへの執着…。
父は人の手を借りることを極端に嫌いました。
数年前の冬、スキー場でのこと。90歳近くになった父は、まだスキー板をつけてリフトに乗っていました。すっかり身体も硬くなり、それほどうまく滑れるわけではありませんでしたが、とりあえずゲレンデを斜めに真っ直ぐ斜滑降で滑り、ゲレンデの端まで行くと、くるっとターンをして、また反対側へ斜滑降で滑るというように、ゲレンデを何度か滑り降りていました。何度目かの時、リフトを降りて、身体を下に向け滑り出そうとした瞬間、スキー板がはずれてしまったことがありました。転びはしませんでしたが、斜面で身体を自由に動かすことはかなり難しいらしく、ブーツをスキーにはめようとしてもなかなかはまりません。父にトラブルがあったとき、すぐに対処できるようそれなりの距離にいた私は、しばらく様子を見ていましたが、あまりにも長時間にわたり苦労している父を見かねて、そばに寄り、手を差し出しました。ところが、すごい勢いで振り払われてしまいました。そして、なんとか一人でスキー板をつけた父は、何食わぬ顔でリフト乗り場を目指し一人で滑っていきました。
父は温泉が好きでしたが、10年ほど前、野沢温泉のペンションでのぼせて倒れてしまったとき以来、父のお風呂には私が必ず同行することになりました。年をとってからは身体が温まるのに時間がかかるらしく、お湯の温度に関係なく、長時間肩まで湯船に浸かります。大きなお風呂の湯船の中を移動するときも、しゃがんで肩を湯船に浸けたまま移動します。一度倒れたにもかかわらず、いつもそんなふうですから、人を頼るのが嫌いな父がうっとうしがらず、しかも万一倒れたときには頭を打つ前に支えられる距離にいるよう心がけるようになりました。
普通なら倒れた経験から、長湯はしないよう気をつけるものですが、頑固な父はそんなことお構いなし。肩まで湯船に浸かると、のぼせない方がおかしいというくらい、肩まで湯船に浸かり、出ようとしません。当然のことながらのぼせるのですが、それからが大変。湯船から出ようという気になっても、一気に出ると野沢温泉の二の舞になってしまうので、まず肩まで浸かっていたものを胸まで湯船から出し、そしてその状態で約10分、そしてお腹、そして膝というふうに約10分ずつかけて、徐々に湯船から上がっていきます。すっかり湯船から出るまでには、ゆうに30~40分を要します。その間、私は例の距離を保ちつつ、父が湯船から出るのをじっと待ちます。つい手を貸したくなるのですが、近くに寄って手を出そうものなら、スキーの時同様、振り払われるので、じっとがまん、がまん。4年ほど前に訪れた乳頭温泉では、膝から下だけを湯船に浸けて、父が上がるの待っていたら、あまりにも長時間温泉に足を浸けていたものだから、湯船に入れていた部分だけが真っ赤にかぶれてかゆくなってしまいました。父が気づかぬよう、脱衣所でこそこそ足をかいていたのですが、食事の時になると父は「なお君(私のこと)はなあ、足がかゆくなっても、わしが風呂から上がるまで、ずっと待っていたんだ」と言いました。いったいどこで見ていたのでしょう?
去年の秋、秋の宮温泉では、湯船から出た途端、気を失って洗い場のタイルの上に倒れて(私がそっと横にしてやった)しまいました。さすがに私も動揺しましたが、息をしていることを確かめて、あとはじっと待ちました。かなりの時間が過ぎたころ、やっと目を開き、珍しく私に向かって「起こしてくれ」と頼みました。この間じっと待つこと2時間。私も気がきではなかったので、そんなに時間が経過しているとは思いませんでした。
子育てにおいても「待つということ」は重要なポイントです。子どもが何かをやろうとしたとき、「早くしなさい」「何するの?」と言うのではなく、ただじっと待ってやること。待ってやることが、子どもを受け入れてやったことになり、子どもの人格を認めてやったことになるからです。大人が子どもに何かを尋ねたとき、次に言葉を発するのは子どもの番。多少時間がかかっても、じっと待ってやる。待ってやることが、自己決定の能力を育て、物事を自分で判断できる子に成長させることにつながるからです。

 

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2021年11月18日 (木)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第178回「義父の死」

義父が逝きました。9月23日お彼岸の中日、朝7時、それまで早かった呼吸が徐々にゆっくりになり、静かに止まりました。妻がどんなに大きな声で「おとうさん!」と叫んでも、もう二度と返事をすることはありませんでした。
93歳の大往生でした。義父にとって、妻や娘、孫に囲まれての自宅での穏やかな死は、おそらくこれ以上の幸せはなかったのだろうと思います。
春のお花見、夏の海水浴、秋の紅葉狩りは、毎年欠かすことのない年中行事でした。ここ数年の体力の衰えは急で、毎年出かける距離を縮めることを余儀なくされました。何年か前には春の吉野へ出かけました。弘前城の桜も見ました。それが去年は、山形になり、今年は会津になりました。
八幡平の紅葉が好きでした。2泊3日の八幡平への旅は、走行距離が2000キロにも及びます。以前は初日に八幡平まで行けていましたが、最近では2日目に八幡平を目指すようになりました。それでもやはり八幡平でした。ほとんど限界に近い体力にもかかわらず、何も言わず私の車の助手席に座っていました。田沢湖方面から玉川温泉を通って八幡平の頂上へ向かうルートの美しさ。カーブを曲がるたびに、拍手をしながら、
「おー、うつくしいなあ! おーっ、おーっ!」
と歓声を上げた父。まるで子どものようでした。
もう、父の歓声を聞くことはできなくなりました。
祭壇の奧に飾った父の遺影は、今年の春、会津の鶴ヶ城で撮ったものです。右手を挙げて、カメラを構える私に、「おーっ!」と軽く声をかける仕草は、義父のお気に入りのポーズ。じっと眺めていると、今にも写真を飛び出して、「おーっ!」という声が聞こえてきそうな気がします。

21日の午後、それまで比較的落ち着いていた父の様子が急変しました。母との電話で一人で急いで実家に向かった妻から、「すぐ来て」という連絡が入りました。私は、子どもたちに連絡を取りながら、熊谷の実家へ向かいました。どこを眺めているわけでもない視点の定まらない目は、もうほとんど”死”を予感させていました。
翔(かける)は、死が直前に迫った祖父を見て、涙をぼろぼろ流しながら泣きました。麻耶(まや)、蓮(れん)、沙羅(さら)は、じっと立ったまま、眺めています。まだ幼い蓮と沙羅には、その光景が何を意味するのか、よくわからない様子です。何か、とても不気味なことが起こるといった様子で、母親である麻耶の手をぎゅっと握りしめたり、後ずさったり…。しばらくして、曾祖父の脇に座った蓮と沙羅は、促されて”ひいじいちゃん”の手を取りました。おおよその意味は理解できたのか、もうすでに骨と皮だけになってしまっているやせ細った”ひいじいちゃん”の手を、沙羅がそっと撫でています。
と突然、それまでほとんど反応のなかった義父の手が、「よしよし」と子どもをあやすように、上下に振られました。
「やっぱりわかってるんだ!」
驚きました。
93年間、生を尽くしてきた義父が孫と曾孫に生を託した瞬間でした。
通夜が終わった昨夜、「明日、ひいじいちゃん焼くんだよ」という麻耶の話に、
「食べるの?」と聞き返した蓮は、皆の笑いを誘いました。
きっと、曾孫たちも、義父に守られながら、しっかりと育っていくのだろうと思います。今日の午後、義父は骨になります。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2019年2月10日 (日)

第71回「特別養護老人ホーム」

今日は困っちゃったなあ…。
都内で越境入学をさせていて学校でトラブルになった話を聞いたので、その話にしようって決めていたんだけれど、昨日(27日)「浦和教育カウンセリング研究所」の仕事で秩父の大滝村まで行って特別養護老人ホーム(特養ホーム)を2カ所見学させてもらったら、あまりにも大きな衝撃を受けて、他のことがすっかり頭のどこかに飛んじゃった。越境のことはまた今度にして、今頭にあること書くしかないかなあ…。

大滝村は埼玉県の一番西に位置し、群馬県、長野県、山梨県、東京都と隣接しています。たった一つの村が4つの都県と接しているなんて、それだけでもすごいね。これまで峠越えだった国道140号線の山梨県へ抜けるルートに平成10年雁坂トンネルが開通して、かなり便利になりました。子どものころの私の印象では、「埼玉県の一番奥の観光地」っていう感じでしたけれど、雁坂トンネルができたことで「秩父から甲府への通り道」っていう印象に変わりました。雁坂トンネルが開通した年に山梨県側から埼玉県側に抜けたことがあるのですが、昨日久しぶりに訪ねてみて、やはり「観光地」というイメージから「通り道」というイメージになったなあと感じました。

大滝村を訪れたのは、NPO法人の方が「教育施設を作る」についての意見を聞かせてほしいということで訪ねたのですが、大滝村を一通り回って見せていただいている中で、2カ所の特別養護老人ホームも見学させてもらいました。

大滝村はかなり激しい過疎化の波にさらされているそうで、人口流失がどこで止められるかが大きな課題だということでした。産業がないため、若年層の流失は深刻で、人口構成における高齢化が進み、子どもがいなくなってしまったため、小学校が廃校になっていました。国の問題として取り上げられている「少子化」の問題とは違った意味での「少子化」問題がここには存在していました。

「過疎」という問題は、車も通らない遠い山奥や海沿いの町の話のように思っていましたが、交通量も比較的多く、ちょっと車で走れば都会というようなところでも深刻な問題になっていることに驚きを感じました。逆に都会の近くの村だからこそ、都会への人口流失がなおさら深刻になるのかもしれません。なんとか子どもを呼び戻して、村を再生させたいという大滝村の方の気持ちがとても強く伝わってきました。
『私たちは林業の世界で生きてきましたからねえ。そんなに目先のことを考えているわけではないんですよ。20年、30年、50年後の大滝村のことを考えているんです』
街の中で生活している私たちとはまったく違う子育ての大切さがここにはあることを感じました。

「特養ホーム」は約50名の方を30名あまりのスタッフで看ているそうです。入居者の方たちは重度の認知症(介護度からいうと重度ではないそうですが、私には重度に見えました)で、「こんにちは」と声をかけても返事が返ってくる人はまれです。中にはニッコリと微笑んではっきりしない言葉で「こんにちは」と返事を返してくれる人もいるにはいますが、多くの人は表情も変えずに車いすに座ったままです。集団で話をするわけでもなく、じっと車いすに座って、時折うつろな視線をこちらに向けてくる老人の方たちに、かなり大きな衝撃を受けました。

階段から落ちないように置かれた衝立、殺伐とした食堂、かなり高い位置に設置されたドアの開閉用ボタン…。何もわからずに集団の中で生きながら、死期のくるのを待っている老人に、私たちができることはなんなのか…
今まで社会を支えてきてくれたその老人たちに何か返せるとしたら、それはこれからの社会をしっかりと支えることのできる次の世代を育てることしかないのではないか、そんなことを考えながらウチに帰ってきました。


**2003年7月28日(月)掲載**
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2007年7月10日 (火)

父の死

7月6日午前4時7分、父は永眠しました。

父は第2次大戦当時、海軍甲種飛行予科練習生として、霞ヶ浦の航空隊にいました。今でも毎年、同期の方々の集まりを行っているのですが、今年は、6月17日に会津東山温泉で行われました。数年前から歯茎の状態が悪く、形状がどんどん変わってしまうため、入れ歯を何度作り直してもうまく合わなかったこと、目先の具現化された生き甲斐がなかったこと等もあって、「食べる」という「欲」がなくなり、痩せ細り、体力も限界に来ていました。会津までの数時間が果たして耐えられるのか、甚だ疑問ではありましたが、数ヶ月前からそれに参加することを一つの糧として生きてきたという父の状況もあり、全く大げさではなく、それに伴う疲労のための「死」も覚悟で、連れて行きました。

「同期の会」では、精一杯の気力と体力を振り絞って、宴会に参加しました。自分がそこにいることの意味や参加している同期の皆さんのことが果たして理解できているのか…、それもよくわかりませんが、すでに亡くなってしまった戦友の皆さんに黙祷し、そして全員で「同期の桜」を歌い出すと、父も精一杯「同期の桜」を歌っていました。

残念ながら、翌日、会の皆さんと最後まで予定をこなすことはできませんでしたが、なんとか一泊して無事帰ってきました。チェックアウト後すぐに帰路につき、午後1時頃には自宅に戻りましたが、その日の父はいつになく興奮しているようで、普段は夜9時過ぎには自室に戻り寝てしまうのに、この日ばかりは12時くらいまで起きていて、曾孫と遊んだり、話をしたりしていました。

けれども、やはりそれが引き金となり、とうとう食べることに対する「欲」だけでなく、体力もなくなり、7月6日、亡くなったのです。

腹膜炎で死にかけたり、癌で大腸を数十センチも切除したりと、何度か大きな手術は経験しましたが、「俺はどこも悪いところがない」と本人が言うように、確かに現在の父には、病名がつくようなものは一切ありませんでした。周りで見ているものには、明らかに何らかの医療行為が必要としか映らないのですが、父自身がそう考えていると言うことは、「治療」という範疇のものが一切できないということであり、父の「生」は、父の生きる意欲次第ということでもあります。

会津から帰宅して2日目、食べ物も飲み物もほとんど口にせず、気力も体力も限界と思い、救急車を呼んだこともありましたが、父は断固拒否。「俺はどこも悪くないんだ! やることがないから、ここで寝てるんだ!」と言う父を入院させることはできませんでした。

「やることがない」父の、唯一の「やること」が、曾孫と食事をし、遊ぶことでした。我々がいくら呼んでも部屋から出て来ようとしない父も、

「ひいじいちゃん、ご飯だよ!」

という曾孫の呼びかけにだけは反応し、必ず食卓までやって来ます。もうすでに立つことすらままならなかった死の2日前は、這って食卓までやって来ました。

曾孫たちはそれを見て、「ひいじいちゃん、赤ちゃんみたい!」と言うのですが、それは父をバカにしているのではなく、むしろ、よだれを垂らし、紙おむつをし、悪臭を放っている「ひいじいちゃん」をまったく差別の対象として扱っていないことの表れでした。大人なら、手を触れることすらはばかりたくなるような状態の父に、頬摺りすらするのです。そんな曾孫たちと食事をし、遊ぶこと、それが父の唯一の「生」への絆だったのです。

7月5日、私と蓮と沙羅で、「七夕飾り」を作りました。蓮は、まだすべてのひらがなが書けるわけではありませんが、「またひこうきとばそうね」と書きました。沙羅は、ひいじいちゃんの絵を一生懸命描きました。

大人が声をかけると強く手を振り拒否をするのに、「ひいじいちゃん!」と声をかけながらおでこや頬をツンツンと突っつく曾孫たちには、時に笑顔すら浮かべ、握った手を握り返したりするのです。

一昨年の秋、死の直前、大人の呼びかけにはまったく反応しなかった義父が、義父の手をそっと撫でた沙羅に対し、縦に手を振り「よしよし」という仕草をしたのにそっくりだと感じました。人間の生命の継承はこうして行われているんだ、とつくづく感じる瞬間です。

父が息を引き取って間もなく、父の脇に座った沙羅は、じっと父を見つめ、無言ではらはらと涙をこぼしました。

死後の処置をするため、父を広い仏間へ運び出すと、

父のいなくなった部屋の時計を眺めた蓮が、

「(ひいじいちゃんは動かなくなっちゃったけど)時計は動いてるね」

と言いました。

(これはさいたま商工会議所HP「マイタウンさいたま」の連載エッセイコーナー「子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義」に掲載したものを、加筆修正したものです)

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