2022年6月11日 (土)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第284回「子育ては都会、それとも田舎?」

今朝(11月11日)の朝日新聞に俳優の柳葉敏郎氏が、昨年春から故郷の秋田で暮らすようになったという記事が掲載されていました。「子育ては秋田で」というのが、ずっと夢だったとのことで、小学校2年生のお嬢さんのPTAの学年部長も務めているそうです。
柳葉氏は、秋田県の中央よりやや南に位置する、仙北郡西仙北町(2005年、大曲市などの1市、6町、1村との合併により現在は大仙市)の農家の長男として生まれました。その後、小学校、中学校、高校と地元で育ちます。秋田県立角館高校卒後、18歳の頃に日本テレビの『スター誕生』に応募しますが落選。それがきっかけで上京して、劇団ひまわりに入団しました。その後は皆さんご存じの通り、「一世風靡セピア」のメンバーとしてデビューし、'88年以降、トレンディドラマに数多く出演し、「元祖トレンディ俳優」と呼ばれるようになりました。「踊る大捜査線」シリーズの室井慎次役は、一番の当たり役で、彼の俳優としての地位を確固たるものにしたと言えると思います。(ウィキペディア参考)
俳優という職業なので、仕事の中心は東京ということになるのでしょうが、1年の半分以上を秋田で過ごしている(逆に俳優だからできるということなのでしょうが)とか。その話からも、柳葉氏の「子育ては秋田で」のこだわりがわかるような気がします。
今から、25年ほど前、「田舎暮らし」を考えたことがありました。今でこそ、ポピュラーになった「田舎暮らし」ですが、当時はまだそれほど注目されていたわけではなく(というより、むしろ田舎暮らしは敬遠されていた)、月刊だったか、季刊だったかの「田舎暮らし」を扱った本と機関誌が数種類あっただけでした。そういう刊行物を見ると、「借り賃 0円」とかいう家や、数百坪の土地と家屋(かなり老朽化はしていますが)で「売値 20万円」なんていう物件がたくさんあって、心がときめいたものです。過疎地の物件がほとんどですから、中には廃校になった校舎や元旅館なんていうものまであります。私が一番心を動かされたのは、1,800万円はするものの、敷地6,000坪で、宿泊施設あり、工房(一度に10人くらいが電動ロクロで作陶ができる)あり、竹藪あり、雑木林あり、なんていう物件でした。しかも、庭には小川が流れているんです。
少子高齢化が進み、今では退職後にそういったところで生活する人たちが増えてきて、生活に適した格安の物件というのは、手に入りにくくなりました。ある程度の年金がもらえていれば、生活に困ることはありませんが、若いうちに「田舎暮らし」をしようとすれば、収入の確保と子育てをどうするかで悩みます。妻が高校の教員でしたので、「埼玉県内であれば」と、秩父音頭で有名な皆野町やさらにそこから北側になる児玉郡神泉村(現在は合併により神川町)に、実際に物件を見に行ったこともありました。結局、収入よりも、子育てのことで断念(学校まで徒歩で1~2時間なんていう感じでしたので)しました。
柳葉氏の生活は、PTA役員の話や野球チームの話、町内会の話などが登場するので、それほどの「田舎暮らし」ではないのだろうと思いますが、「子育ては秋田で」という意味は、都会のあわただしい生活ではなく、ゆっくりと時が流れていく、人と人とのふれあいが残る、伸び伸びとした子育てがしたかったということなのだろうと思います。「友達を5人も6人も連れてきたり、自転車で出かけて日が暮れるまで遊んできたり。秋田の子どもは東京より100倍元気だ」という表現から、柳葉氏の目指す子育ての方向が見えてきます。
あわただしく流れる時間の中で、塾に通わせ詰め込み教育をするのも一つの子育て、ゆっくりと流れる時間の中で、のびのび育てるのも一つの子育てです。学力向上のため、ゆとり教育が見直されている今、「ゆとり」ということが目指したものはなんだったのかもう一度じっくり考え、子どもを大切に育てていきたいものですね。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2022年4月30日 (土)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第269回「家族って何?」

ドイツ・ミュンスターの市立劇場で専属ダンサーとしてモダンダンスを踊っている長男・努(つとむ)が3年ぶりに、夏の休暇を利用して帰ってきました。前回、一時帰国したときも、ここに登場させたような気がしたのでバックナンバーを調べていたら、なんと「第120回」(ちょうど3年前だから当たり前だけど)。「早いもんだなあ」というか「ずいぶん長かったなあ」というか…。私とは12歳違いで、12月で38歳になります。19歳で渡欧して、一時期日本に戻ったこともありましたが、20年というもの、ほとんどヨーロッパ暮らしです。
前回の帰国は4年ぶりでした。そして今回は3年ぶり。1年というのは長いようでそれほど長いわけではなく、その1年の間に何か大きなことが起こるというのは事故でもない限り少ないのですが、3年、4年というのは、短いようで長くて、その3年、4年の間に、生活に大きな変化が起こったりします。前回努が帰国したときは、努がドイツにいるうちに、妹の麻耶が結婚し、二人の子どもを出産し、そして離婚をし、家に出戻っていました。努にとっても、麻耶の子どもたちの蓮と沙羅にとっても、初めて会うわけですから、ちょっとくらいは人見知りでもするのかなあと思いきや、会ったとたんに蓮も沙羅も努にべったり。伯父さんと甥・姪の関係ってこんなもの?とびっくりしました。
そして今回の帰国までの3年間に、祖父と祖母の二人が亡くなってしまいました。前回の帰国の時には、一緒に海水浴に行ったのでしたが、その約1年後に祖父、さらにその1年後に祖母。努の意識の中には、一緒に海水浴に行った元気な祖父と祖母のイメージ(とはいえ、その時すでに祖父は91歳、祖母は88歳でしたから、次回帰国の時には、二人とも亡くなっているかもしれないという気持ちもすでにあったと思いますが)があったのでしょう、翌年、祖母が亡くなったことをメールで知らせると、大きなショックを受けた様子のメールが返ってきました。
そして次の年、祖母の死を電話で告げられた努が返した言葉は、
「次はお母さんかあ…」。
その時はみんな、努の言葉をとても唐突な、大げさな言葉として受け止め、
「まったく何言ってんだろうね、努は!」
と、あまりにも飛躍したと思える努の言葉を、ちょっとバカにした感じで受け止めていたのですが、今回戻ってきた努に翔が「次はお母さんかあ…」の受け止め方の話をすると、「お前たちはさあ、いつもそばにいるだろっ。だからわかんないんだよ。ずっと離れていてみろっ。おじいさんが死んで、おばあさんが死んで、次はお母さんかあって、必ず順番考えるから!」
と努は言いました。
努が成田に着いた6月25日には、私の父がかなり悪い状態でした。私の父と努とは血のつながりはないわけですが、成田に着いたその足で私の実家へ寄った努は、疲れを口にすることもなく、父の介護の手伝いをしてくれました。休暇で、身体と心を休めに帰国したはずの努でしたが、私の父が亡くなるまでの10日間というもの、とても積極的に父の介護にかかわり、看取ってくれました。義理とは言え、努にとって「おじいちゃん」と呼べる最後の存在であった父の最期を見届けることで、実の祖父母の死に立ち会えなかったという自分の気持ちの寂しさを、少しでも埋めようとしているようでした。
「せっかく休暇で帰ってきて、楽しい夏休みを過ごそうと思ってたんだろうに、父のことで休暇の半分を使わせちゃって悪かったねえ」
と私が言うと、妻は、
「いいんじゃないの、あの子にとっても。熊谷の父と母の死には立ち会えなかったわけだから。あの子にとって家族として、家族の死に立ち会う経験ができたっていうことは大事な経験だったと思うよ」
と言いました。

ドイツへ帰る前日、努と妻が話をしていました。
「家族っていいよねえ。どんなに離れていても、こうして帰ってくれば無条件で受け入れてくれる。もちろん、僕も受け入れる。そういう関係なんだよね。僕も今まで、そういう関係のものを作ってこなかったけど、やっぱり作りたいなって思うよ」
「ふーん。そんなふうに考えてたんだぁ…」

成田空港で、搭乗者のゲートをくぐった努に、蓮と沙羅が一生懸命手を振っていました。そして努も一生懸命手を振り返していました。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第266回「曾孫の威力 後編」

7月6日午前4時7分、父は永眠しました。通夜は実家の近くにあるお寺の会館を借りて行うことになりました。これから通夜へ向かうところです。まだ父は、実家にいます。たった今、曾孫の蓮と沙羅が自宅から実家へやってきて、お線香を上げました。

父は第2次大戦当時、海軍甲種飛行予科練習生として、霞ヶ浦の航空隊にいました。今でも毎年、同期の方々の集まりを行っているのですが、今年は6月17日に会津東山温泉で行われました。数年前から歯茎の状態が悪く、形状がどんどん変わってしまうため、入れ歯を何度作り直してもうまく合わなかったこと、目先の具現化された生き甲斐がなかったこと等もあって、「食べる」という「欲」がなくなり、痩せ細り、体力も限界に来ていました。会津までの数時間が果たして耐えられるのか、甚だ疑問ではありましたが、数ヶ月前からそれに参加することを一つの糧として生きてきたという父の状況もあり、全く大げさではなく、それに伴う疲労のための「死」も覚悟で、連れて行きました。

「同期の会」では、精一杯の気力と体力を振り絞って、宴会に参加しました。自分がそこにいることの意味や参加している同期の皆さんのことが果たして理解できているのか・・・、それもよくわかりませんが、すでに亡くなってしまった戦友の皆さんに黙祷し、そして全員で「同期の桜」を歌い出すと、父も精一杯「同期の桜」を歌っていました。

残念ながら、会の皆さんと最後まで同行することはできませんでしたが、一泊して無事帰ってきました。午後1時頃には自宅に戻りましたが、その日の父はいつになく興奮しているようで、普段だと夜9時過ぎくらいには自室に戻り寝てしまうのに、この日ばかりは深夜0時くらいまで起きていて、曾孫と遊んだり、話をしたりしていました。

けれども、やはりそれが引き金となり、とうとう食べることに対する「欲」だけでなく、体力もなくなり、6日に亡くなったのです。

何度か大きな手術は経験しましたが、「俺はどこも悪いところがない」と本人が言うように、確かに病名がつくようなものは一切ありませんでした。しかしそれは、「治療」という範疇のものが一切できないということであり、父の「生」は、父の生きる意欲次第ということでもあります。

会津から帰宅して2日目、体力も限界に来たと判断し、救急車を呼んだこともありましたが、父は断固拒否。「俺はどこも悪くないんだ! やることがないから、ここで寝てるんだ!」と言う父を入院させることはできませんでした。「やることがない」父の、唯一の「やること」が曾孫と食事をし遊ぶことでした。我々がいくら呼んでも部屋から出て来ようとしない父も、
「ひいじいちゃん、ご飯だよ!」
という曾孫の呼びかけにだけは反応し、必ず食卓までやって来ます。もうすでに立つことすらままならなかった死の2日前は、這って食卓までやって来ました。

曾孫たちはそれを見て、「ひいじいちゃん、赤ちゃんみたい!」と言うのですが、それは父をバカにしているのではなく、むしろ、よだれを垂らし、紙おむつをし、悪臭を放っている「ひいじいちゃん」をまったく差別の対象として扱っていないことの表れでした。大人なら、手を触れることすらはばかりたくなるような状態の父に、頬摺りすらするのです。そんな曾孫たちと食事をし、遊ぶこと、それが父の唯一の生への絆だったのです。

7月5日、私と蓮と沙羅で、「七夕飾り」を作りました。蓮は、まだすべてのひらがなが書けるわけではありませんが、「またひこうきとばそうね」と書きました。沙羅は、ひいじいちゃんの絵を一生懸命描きました。大人が声をかけると強く手を振り拒否をするのに、「ひいじいちゃん!」と声をかけながらおでこや頬をツンツンと突っつく曾孫たちには、時に笑顔すら浮かべ、握った手を握り返したりするのです。

死の直前、大人の呼びかけには応えなかった義父が、義父の手をそっと撫でた沙羅に対し、縦に手を振り「よしよし」という仕草をしたのにそっくりだと感じました。人間の生命の継承はこうして行われているんだ、とつくづく感じる瞬間です。

父のいなくなった部屋の時計をじっと見ていた蓮が、
「(ひいじいちゃんは動かなくなっちゃったけど)時計は動いてるね」
と言いました。


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2022年4月29日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第262回「父子家庭の増加」

「おまえ、今どんな生活してんの?」
「ん、オレ? オレはね、息子と二人暮らし。高校生の息子と二人で住んでんだよ。息子ってかわいいよなあ。ほんと、もうかわいくってさあ!」
「!? ほんとに高校生の息子と二人で住んでるの?」
「ん、そうだよ。ずっと。もう10年かな」
「父子家庭?」
「そう」
「なんで?」
「んー、なんでって言われてもなあ…。別れちゃったからさあ。子ども渡すのイヤじゃん。やっぱさあ、育てたいじゃん。オレの子だよ。それに、なんかさあ、奥さん、子ども育てたくなさそうだったんだよなあ。だから、引き取ったんだ。でもね、最近親離れって言うかなあ、そろそろもう大人だろっ。ちょっと寂しいよ。けっこう仲のいい親子なんだぜ」
「へーっ! おまえってさあ、高校時代から変なやつだったけど、ますます変なやつになってるなあ!」
「そう? オレはオレ。昔からそうだったんじゃん。あんまり、変わってねえよ」
今から4年ほど前のことです。20数年ぶりに会った同級生のK君から、一人で息子を育てているという話を聞きました。彼は、高校1年生の時のクラスメイトで、特別仲がいいというほどの関係かと言えば、そういうわけではありませんが、どういうわけか話をしていると、気持ちがスッと通じるところがあると言うか、そんな感じの変な友人です。私は、自分から積極的に“友達を作りにいく”というような性格ではないので、男友達と一緒に何かをしたという経験は皆無なのですが、このK君とだけは、高校1年生の時参加した伊豆大島への地学巡検(火山や地質、地層などの学習のため、地学の授業の一環として1年生の希望者が参加して毎年行われていた学校行事)で、丸3日というもの自由に行動できる時間は、すべて二人で行動していたという経験があります。牧場で牛乳を飲んだり、整髪に使う椿油を買ったり、三原山を二人で駆け下りたり、溶岩の色が反射して真っ赤に染まった雲を眺めたり…。今から30年以上も前のことですが、私はあまりそういう付き合い方をする方ではないだけに、大島で過ごした3日間は今でもよく覚えています。
その頃は、別にそれほど仲がいいというわけではないのに、どうして気持ちが通じるのかよくわかりませんでしたが、父子家庭で長く過ごしているという彼の話を聞いて、「子どもに対する思い」という点で、かなり価値観の近い部分があって、そういうところが私と彼をつなげているんだなあと、えらく納得がいきました。
彼の話は4年前のことですが、昨日(10日)ネットに、「『シングルファーザー』急増のわけ」というタイトルのニュースが流れてきました。総務省のデータによると、幼い子どもを抱える49歳までのシングルファザーは、05年に20万3000人で、00年からの5年間で、1万2000人も増えたそうです。
理由は、離婚が15万7000人、死別2万7000人、未婚1万9000人。もちろん離婚が最も多いわけですが、“未婚の父”がこの5年間で4割以上も増えたそうです。
“未婚の母”っていう言葉はよく使うけれど、“未婚の父”とは…。
シングルファザー支援に取り組む横須賀市議の藤野英明氏は、
「育児放棄が社会問題となっているように、子育てできない女性が増えているのが大きい。私がかかわった共働きの公認会計士とスッチー夫婦は、妻が『子育てにのめり込めない』と言い出したため離婚した。また、男性にも『パートナーはいらないけど、子どもはほしい』という考えが広がっているせいもあるでしょう」と言っているそうです。
私のあまり好きではない本に「父性の復権」なんていうのがあったけれど、近いうちに「母性の復権」なんていう本が登場するかも…。いやいや、もしかして、もうある?
今、ネットで調べたらもうありました! もっとも、「父性の復権」も「母性の復権」も“林道義”著でしたが。
私は、母親が失ってしまった母性を父親が補うのは大いにけっこうと思います。けれども、子どもを一人の人間として扱わず、まるでペットのように扱う母親のように、子どもを一人の人間として扱わず、まるでペットのように扱う父親が増えてしまうことを懸念しています。両親揃って子育てができることに越したことはないけれど、様々な事情で一人親家庭になってしまった場合でも、大人のエゴによって、子どもが不幸になることがないよう子どもの権利をしっかりと守った子育てをしたいものですね。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2022年1月14日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第237回「最近の親子事情 その2」

ついさっき茨城県笠間にある工房ヒメハルの穴窯(薪で焚く陶芸窯)での焼成を終え、帰ってきました。ヒメハルというのは、笠間から益子に向かう途中の仏頂山に生息する天然記念物、片庭ヒメハルゼミから取ったもので、この工房ヒメハルは、私が長年陶芸窯の築窯をお願いしている橋本電炉工業が所有していて、そこの穴窯をお借りして焼成させていただいています。工房ヒメハルの穴窯による焼成は、今年3月に初めて行いました(第203回「ゆっくりと過ぎる時間」参照)が、その時の評判が大変よかったため、当初年1回の焼成を予定していましたが、急遽今回の焼成になりました。前回に引き続き、数日間におよぶ穴窯焼成は、陶芸教室を休みにしないで行うために窯焚きを手伝えるスタッフの数と時間が限られており、私一人にかかる肉体的負担も大きいので、今回もけっこうきつい窯焚きになりました。今回は3昼夜、約74時間ほどの焼成でしたが、その間眠ったのはわずか4時間。「もう限界」という感じです。

その今回の焼成を支えてくれたのが、現在工房ヒメハルで作家として活動し始めたO氏。川崎育ちのO氏は、川崎で仕事を持っていましたが、その仕事を辞め陶芸作家の道を選び、数年前から笠間で作家として生計が立てられるよう努力を続けています。まだ道半ばというところでしょうか。かろうじて生活はしているようですが、普通に生活ができるようになるまでには、あと少しといった様子でした。

「もっと寒いと思ってたら、今回は窯の周りを薪で囲んだのが幸いしたのか、火を入れたばっかりでまだ窯が暖まっていなかったのに、夕べは寒くなく過ごせましたよ。前回は2晩、とんでもなく寒いおもいをしましたからね」
「ほら、前回大関さんが窯焚きをしていたときがありましたよね。大関さんが窯焚きをしているっていうのは聞いてましたけど、あのころの私は、まだここできちっと仕事してたわけじゃなくて、その辺のコンビニの駐車場で寝袋に入って転がって寝てたんですよ。あのときは春なのに寒かったんですよ」

「変わった若者だなあ」と思いました。陶芸家を目指す人の中には、ときどきこういう人がいます。有名美術大学で陶芸を学び、生活は親がかりで、比較的楽に陶芸作家としてデビューする人もいれば、かなり厳しい経営状況の陶芸業界の中で、製陶所への就職もままならず、O氏のように必死でデビューを目指す作家のたまごもいます。とりあえず生きていくことだけはできるようになったO氏は、満足そうに、
「泣き言みたいなことは言えないですよね。同級生なんかと会ったとき、そんなこと言ったら”おまえ自分で選んだんだろ”って言われちゃいますよ」
と笑っていました。

彼に年齢のことは聞きませんでしたが、30歳は越えているだろうと思える彼の両親はどう思っているんだろうと思いました。”充分な生活”にはほど遠い彼の生活ですが、そこには”充分な満足”は感じることができました。これから彼がどんな生活を送るのか、それは彼自身が決めていくことですが、そこに”充分な生活”が待っていなくても、きっと彼は”充分な満足”を手に入れることはできるんだろうな、と思いました。

カウンセリングや教育相談を受けに来る子どもたちを見ていると、そこには共通していることがあります。それは、子どもたちが自分の夢を持てなくなっていることと親の夢(自分の子どもにはこう育ってほしい)を押しつけられていること。当たり前といえば当たり前ですが、この二つがセットになっていて、子どもたちの上に大きくのしかかっているのです。うまくいけば、その「親の夢」は、”充分な生活”を保証するものなのですが、たとえうまくいって”充分な生活”を手に入れたとしても、それは親にとっては”充分な満足”であるのに、あくまでもそれは「親にとって」であり、子どもにとって”充分な満足”につながるとは限りません。
O氏の生活が、人間にとってすばらしい生活であるかどうかは、価値観の問題ですから、何とも言えません。けれども、どんな子どもたちにも必要なのは、”充分な生活”なのではなく、”充分な満足”なのだということには、確信を持っています。
どうしたら子どもたちにおける”充分な満足”が手に入れられるのか、さらに考察を続けたいと思います。

つづく

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

 

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2021年11月21日 (日)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第181回「地域との関わり」

先日、北九州市から講演の依頼がありました。どうやら「男女共生」がテーマで、「主夫」の話をして欲しいらしい。ここのところ、主夫のパートが高じて社長になっちゃったので、電話をもらったことで、久しぶりに自分が主夫であることを思い出させてくれました。
まだだいぶ先のことだけれど、「何を話そうかな?」なんて思いながら、「主夫」について考えてみました。
そこで感じたことは、どうも最近「主夫」っていう言葉が簡単に使われすぎている気がする!っていうこと。
私が主夫を始めた27、8年前は、スーパーに買い物に行っても、男なんて私一人だったし、保育園に送り迎えをしているお父さんはいても、幼稚園に送り迎えしているお父さんなんて皆無。1990年ごろから、わが家のことがTVで紹介されるようになって、そういう状態も徐々に変わってきました。
言葉(単語)っていうのは一般化すれば一般化するほど、その言葉の持っている意味がどんどん広がっていってしまって、本来持っている中身が形骸化してきてしまう。そういう意味では「主夫」っていう言葉も「ずいぶん薄まっちゃたなあ」って感じます。あちこちでいろいろな物を読んでいると、「料理をするから主夫」、「掃除・洗濯をするから主夫」「子どもと遊んでやってるから主夫」なんていう記述がどんどん多くなってる。でも考えてみると、かなり昔から「共働き」って言われてた人たちなんかは、男の人も家事の一端を担ってたわけで、そういう人たちは「家事をやってる」とは言ってたけれど、「主夫してる」とか「主夫の仕事をしてる」なんていう言い方はしてこなかった。私が考えるに、「主夫」っていう意味に少し違いがあるんじゃないかと思う。最近の傾向として「主夫」=「炊事・洗濯・子育てをする男」。もっと極端に言うと「炊事・洗濯・子育てをちょっとでもしている男」っていうイメージが広がってきちゃってるらしい。「主夫」=「男の主婦」っていうイメージはどこに行っちゃったんだろう? どう考えても「主婦」というときの仕事の幅より「主夫」っていうときの仕事の幅の方が、小さい。

私が主夫をしてきて最も重要だと感じたのは、「地域との関わり」。これがうまくいかなくて「主婦」(主夫)はあり得ない。「××のスーパーで××が安かったよ」「××さんのおじいちゃん、亡くなったらしいよ」「××さん、旦那さんと別居したんだって」。ちょっと聞くと”男”が嫌う、くだらない噂話に聞こえるかもしれないけれど、そういう中に地域との関わりがある。もちろん、くだらない噂話でしかないこともたくさんあるけれど、そういう情報の中から、地域で助け合ったり、助けられたりっていうことが出てくる。それが、主夫(主婦)の仕事としては大きいんだなって思います。特に子育てをするうえでそれは顕著です。地域との関わり無くして、子どもや家庭は守れない。そうやって女性たちは、子どもや家庭を守ってきたんだなあってつくづく感じます。
最近では、車の利用でどんどん行動範囲が広がり、そういう「主婦」も少なくなってきているから、子どもたちの心も荒れてきちゃうんだろうなって思います。

やっぱり「主夫」も「主婦」としての機能をしっかり果たさないとね。

 

 

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【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第179回「待つということ」

人の死というものは、たとえそれが93歳という高齢で、”死”が当然予定されたものであったとしても、身近なものにとっては、「そこに存在することがまるで空気のように当然で、”いない”ということが当然には感じられないのだなあ」と徐々に実感がわいてくるものですね。”当然であって当然には感じられない死”ということを悲しむべきなのか、93年という長きに渡る”生”を喜ぶべきなのか、なかなか気持ちの整理がつきません。
義父とはいえ、父には多くのことを学びました。強固な意志、人としての尊厳、生きることへの執着…。
父は人の手を借りることを極端に嫌いました。
数年前の冬、スキー場でのこと。90歳近くになった父は、まだスキー板をつけてリフトに乗っていました。すっかり身体も硬くなり、それほどうまく滑れるわけではありませんでしたが、とりあえずゲレンデを斜めに真っ直ぐ斜滑降で滑り、ゲレンデの端まで行くと、くるっとターンをして、また反対側へ斜滑降で滑るというように、ゲレンデを何度か滑り降りていました。何度目かの時、リフトを降りて、身体を下に向け滑り出そうとした瞬間、スキー板がはずれてしまったことがありました。転びはしませんでしたが、斜面で身体を自由に動かすことはかなり難しいらしく、ブーツをスキーにはめようとしてもなかなかはまりません。父にトラブルがあったとき、すぐに対処できるようそれなりの距離にいた私は、しばらく様子を見ていましたが、あまりにも長時間にわたり苦労している父を見かねて、そばに寄り、手を差し出しました。ところが、すごい勢いで振り払われてしまいました。そして、なんとか一人でスキー板をつけた父は、何食わぬ顔でリフト乗り場を目指し一人で滑っていきました。
父は温泉が好きでしたが、10年ほど前、野沢温泉のペンションでのぼせて倒れてしまったとき以来、父のお風呂には私が必ず同行することになりました。年をとってからは身体が温まるのに時間がかかるらしく、お湯の温度に関係なく、長時間肩まで湯船に浸かります。大きなお風呂の湯船の中を移動するときも、しゃがんで肩を湯船に浸けたまま移動します。一度倒れたにもかかわらず、いつもそんなふうですから、人を頼るのが嫌いな父がうっとうしがらず、しかも万一倒れたときには頭を打つ前に支えられる距離にいるよう心がけるようになりました。
普通なら倒れた経験から、長湯はしないよう気をつけるものですが、頑固な父はそんなことお構いなし。肩まで湯船に浸かると、のぼせない方がおかしいというくらい、肩まで湯船に浸かり、出ようとしません。当然のことながらのぼせるのですが、それからが大変。湯船から出ようという気になっても、一気に出ると野沢温泉の二の舞になってしまうので、まず肩まで浸かっていたものを胸まで湯船から出し、そしてその状態で約10分、そしてお腹、そして膝というふうに約10分ずつかけて、徐々に湯船から上がっていきます。すっかり湯船から出るまでには、ゆうに30~40分を要します。その間、私は例の距離を保ちつつ、父が湯船から出るのをじっと待ちます。つい手を貸したくなるのですが、近くに寄って手を出そうものなら、スキーの時同様、振り払われるので、じっとがまん、がまん。4年ほど前に訪れた乳頭温泉では、膝から下だけを湯船に浸けて、父が上がるの待っていたら、あまりにも長時間温泉に足を浸けていたものだから、湯船に入れていた部分だけが真っ赤にかぶれてかゆくなってしまいました。父が気づかぬよう、脱衣所でこそこそ足をかいていたのですが、食事の時になると父は「なお君(私のこと)はなあ、足がかゆくなっても、わしが風呂から上がるまで、ずっと待っていたんだ」と言いました。いったいどこで見ていたのでしょう?
去年の秋、秋の宮温泉では、湯船から出た途端、気を失って洗い場のタイルの上に倒れて(私がそっと横にしてやった)しまいました。さすがに私も動揺しましたが、息をしていることを確かめて、あとはじっと待ちました。かなりの時間が過ぎたころ、やっと目を開き、珍しく私に向かって「起こしてくれ」と頼みました。この間じっと待つこと2時間。私も気がきではなかったので、そんなに時間が経過しているとは思いませんでした。
子育てにおいても「待つということ」は重要なポイントです。子どもが何かをやろうとしたとき、「早くしなさい」「何するの?」と言うのではなく、ただじっと待ってやること。待ってやることが、子どもを受け入れてやったことになり、子どもの人格を認めてやったことになるからです。大人が子どもに何かを尋ねたとき、次に言葉を発するのは子どもの番。多少時間がかかっても、じっと待ってやる。待ってやることが、自己決定の能力を育て、物事を自分で判断できる子に成長させることにつながるからです。

 

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2020年1月 5日 (日)

「男はつらいよ お帰り寅さん」観てきました!

明けましておめでとうございます!

12月31日(木) 浦和PARCOにあるユナイテッドシネマで「男はつらいよ」シリーズ50作目の「男はつらいよ お帰り寅さん」を観てきました。

渥美清さんが1996年8月4日、68歳で亡くなり、その後「渥美さんなしに寅さんは撮れない」という山田洋次監督の言葉通り、シリーズの新作は発表されずに来ました。

それが今回、渥美さんの映像をCGで織り交ぜながら、これまでの作品を切り貼りしてつなぐという手法(アイディアやコンセプトについては横尾忠則氏が「私の発案」としてトラブルに発展しているのですが)で1つの作品として発表されました。

「お帰り寅さん」は、さくら(倍賞千恵子さん)の息子、満男と光男の高校時代の同級生で、かつて結婚の約束までした初恋の人・イズミ(後藤久美子さん)を中心に展開していきます。

満男役の吉岡秀隆君は、高校受験の際、公立高校を受験したいということで私のところに相談に来て、半年ほど勉強を教えていた時期がありました。結局、公立高校では俳優としての活動が制約を受けてしまうということで、前年に飯能に開校した「自由の森学園」(息子が1回生として在学していて、当時山田洋次監督も教育研究協力者に名を連ねていました)を勧めたという経緯があります。

その自由の森学園に在学していた現在ドイツ在住の息子が、たまたま帰国中だったので、一緒に観に行くことになったんです。

映画は、ちょうど吉岡君がウチに通ってきていた直後、高校生だったころの回想シーンが多く、とても懐かしく観ることができました。

「寅さん」の発する言葉は、長い年月を経ても、心にしみるものがあります。人の生き方の本質をついた言葉だからでしょう。今回(以前に語られた言葉ですが)も、「困ったことがあったらな、風に向かって俺の名前を呼べ。おじさん、どっからでも飛んできてやるから」「何と言うかな、あー生まれてきてよかった。そう思うことが何べんかあるだろう。そのために生きてんじゃねえか」「思っているだけで何もしないんじゃな、愛してないのと同じなんだよ。愛してるんだったら、態度で示せよ」等々、有名なメロン騒動も出てきます。

「古いけど、古くない」
そんな寅さんでした!

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2019年11月 9日 (土)

【「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」】第139回「子どもに伝えたいこと」

“シャンシャンシャン シャンシャンシャン シャンシャンシャン シャン”
「よっ!」
“シャンシャンシャン シャンシャンシャン シャンシャンシャン シャン”
「もいっちょっ!」
“シャンシャンシャン シャンシャンシャン シャンシャンシャン シャン”
「ありがとうございました。来年も商売繁盛いたしますように!」

今日は調神社の「十二日市(じゅうにんちまち)」。熊手を売るお兄さんの威勢のいい声があたりに響きます。午後6時くらいに出かけたら、神社の一番東側に設けられる熊手を売っている通路は、いつもより少なめな人出。久しぶりの日曜の市とあって、どうやら人出が昼と夜に分散したようです。
わが家では、毎年十二日市で鯉を買います。水槽で泳いでいる太って脂ののっていそうな鯉を選ぶとその場でさばいてくれます。鯉の腹から取り出した肝はお猪口に入れ、お酒と一緒にゴックン。いつも三枚におろしてもらって、家に戻ってから“身は洗い”、“あらは鯉こく”にして食べます。
なんでこんなことが毎年の行事みたいになっているのかなあと考えると、私が子どものころ祖母や父が鯉をさばいていたのが、私の意識の中で鮮明な記憶として残っているからかなあ? とっても大事なことのように…

「あれっ、おじさん。今日、鯉いないの?」
毎年、同じ場所で鯉を売っているおじさんがいるのですが、今年は鯉が見あたりません。「悪いねえ、社長。今年は日曜日だったんで、昼間から売れちゃって、もう売り切れちゃったよ」
「えーっ! 毎年必ず買ってるのに…」
「一人で25匹買ってくれた料理屋の人がいたかんねぇ。さばくの大変だったんだ」
「へーっ、そうなんだ。楽しみにしてたんだけどなあ。でもよかったね、そんなに売れたんじゃ」
「15日は川口。17日は蕨だよ。そっちへ来てよ」
「そうだね。蕨だったら自宅のそばだし」
仕事が忙しいので蕨神社の酉の市に行くわけにはいかないんだけれど、そんな会話を楽しんで鯉のいない鯉屋さんをあとにしました。

「いつもの“じゃがバター”のおじさん来てるかなあ?」
今度は毎年買っているじゃがバターの店へ。
「おじさーん!」
「おー、久しぶり!」
「去年忙しくてさあ、来られなかったんだよねぇ。だから1年空いちゃった」
「2年だよ。一昨年も来なかっただろっ?」
「あれっ、そうだっけ? よく覚えてんねえ」
「覚えてるさあ」

毎年、熊手やかっこめを買っているわけではないので、特別行く必要があるわけではないけれど、子どものころからの年中行事みたいになっていて、よほどのことがない限り酉の市に出かけます。大宮の氷川神社、浦和の調神社、蕨の蕨神社と3カ所行ったことも。
何を伝えるというわけでもなく子どもに見せて、今では孫に見せて。
でも、そんな中に日本の文化があり、お正月を迎える心があるのかなあ…。
友だちと行って帰ってきた翔(かける)は帰ってくるなり、
「じゃがバターのおじさん、今年もいたね」
酉の市でしか会うことのない、たったそれだけの関係のおじさんなのに、そのおじさんに会うことが、わが家にとって今年も一年間無事に過ごせた証のようになっている。子どもに何を伝えるっていうわけではないけれど、そんな中から人と人とが交わること、一年間一生懸命に生きること、平和を守り続けること、きっと子どもたちはそんなことを学んでいるんだろうと思います。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2019年11月 4日 (月)

第122回「ド・レ・ミ・ファ・トー」

「もう一回やるよ! ド・レ・ミ・ファ・ソー はい!」
「ド・レ・ミ・ファ・トー」
「何やってるの! ゆびー! それじゃあ、ダメでしょ! もう一回!」
「ド・レ・ミ・ファ・トー」
「あーあーあー、そんなんじゃダメ! やる気あんの!? “ド・レ・ミ・ファ・ソー”でしょ! もう一回!」
努(つとむ)の涙が鍵盤の上に落ちました。
「ド・レ・ミ・ファ・トー」
 もともとあまり器用でない努が泣きながらピアノを弾いているのですから、怒られれば怒られるほど、うまく弾けるわけもなく、怒鳴り声だけがむなしく響き、時間が過ぎていきます。毎日行われる1時間のピアノの練習は、5歳の努にとってあまり楽しいものではありません。努はピアノの前に座った途端、身体は硬直し、顔がゆがみます。
努の習っていたピアノの先生は、地域の音楽家の間でも厳しいという評判で、東京芸術大学や桐朋音楽大学のピアノ科といった特別な大学を除けば、音楽大学の受験について、
「××先生についているならピアノは心配いらないですね」
と言われるほどでした。

 努は3歳からピアノを習っていました。親の立場からすると、何歳から習い事をはじめさせるかということは大問題で、職業選択という将来の選択の幅まで考えると、ピアノやバイオリン、バレエのようなものは、かなり早いうちから始めないと間に合わない。けれども3歳、4歳といった時期に、子ども自身にやりたいものがあるわけもなく、結局親の趣味や好みで子どもの習い事を選択することになる。
 私は高校に入ってから合唱を始めて、音楽の道に進もうかなあという気持ちを持ちました。けれども、まったくピアノを習ったことがない。まあ、時代もあったとは思うけれど、男の子がピアノを習うなんて感覚は、私が育った家には全くなかった。ちょうど浦和のサッカーが一番強いころだったこともあって、男の子が何かをやるといえば、決まってサッカー少年団。親から「習ってみれば」と言われたのは、習字にそろばん。そういうものは人生選択に大きな影響を与えるものではなく、ピアノやバレエを習うっていうこととはちょっと意味が違う。
 高校時代は、「なんでピアノくらい習わせておいてくれなかったんだろう」って思ったけれど、もし努のように3歳からピアノを習わせようとしていたとしても、“わが家の環境”“私の性格”からいったら無理だっただろうなあと思います。
 努のピアノの先生(妻や私、わが家の子どもたち全員が習っていたのだけれど)は、
「大関さんねえ、子どもを音楽家にしようとするなら、三代かかるわよ」
と言っていました。音楽家というにはほど遠いけれど、一応、妻も高校で音楽の教員をしていたので、妻から数えても最短で孫の世代。いやいや、大変なことですよね。

 今まさにアテネオリンピックで活躍している人たちの中には、親によって作られた人たちがたくさんいます。例えば、体操の塚原選手、卓球の福原選手、ハンマー投げの室伏選手、レスリングの浜口選手や重量挙げの三宅選手等々。おそらく彼らや彼女らは、生まれた瞬間から人生のレールが敷かれていたわけで、成るべくして成っているわけだけれど、うっかりそれをまねしようとしたなら、失敗しちゃうこともある。実はお父さんがサッカー選手になりたかったのに「子どもがやりたがってる」っていうことにして、中学からサッカー部に入れたけれど、性格が優し過ぎてサッカーが合わなくて、不登校になっちゃった、なんていうことがよくあるから、やっぱり子どもの人生は子ども自身が決めないとね。
 子どもがやりたいこと、あるいはやりたくなるだろうことをしっかりと見極めて、小さいころからフォローしておくのは難しいよね。やっぱり親の責任って重いね。自分が運動神経悪いのに、間違っても”オリンピック選手にしよう”なんて思わないでね。


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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