2020年2月14日 (金)

第172回「子どものころの記憶」

母に尋ねたことがありました。
「おじさん(母の兄)が亡くなったとき、横山のおばさん(父の従姉)が告別式に来てたよねえ?」
「来てたよ」
「おじさんを送るとき、おばさんに抱っこされて送ったような気がするんだけど、告別式におばさん来てたの?」
「そうだよ。お前は、あの時まだ3歳だっただろ、だからねえちゃん(父の従姉なんだけれど、父の兄弟のように育ったので、父と父の兄弟は“ねえちゃん”と呼んでいます)が、お前の面倒を見てくれてたんだよ」
「ふーん。なんか、あの時の記憶って、やけに鮮明なんだよね。たぶんおばさんの左手に抱かさって、ちょうど玄関の前のT字路のところで霊柩車を送ってたんだと思うんだよね」
「そうかもしれないねえ」
「横山のおばさんなんて、そんなに関係が近いわけじゃないから、おじさんの告別式に必ずいなきゃならない人じゃないでしょ。だから、おばさんに抱かれてたって思ってるっていうことは、これってやっぱり記憶なのかねえ? 3歳の時のことなんて、そんなにはっきり覚えてるもんかねえ? 誰かにそのときの様子をあとから聞かされて、それを自分のイメージとして持ってるのかなあ? 姫野(母の実家)の兄弟に抱かれてたって思うんなら、そこにいて当然の人だから、ちゃんと記憶があるわけじゃなくて、あとで自分で勝手に想像したっていうこともあり得るんだろうけど、横山のおばさんっていうのがねえ…。おばさんがそんなところにいるなんて、普通だったら考えないと思うんだけど、抱かれてたって思ってるっていうのは、ほんとに記憶があるのかもしれない。すごくはっきりとその情景が浮かんでくるんだよね」
「へえ」
「3歳の記憶なんてあるのかなあ? 4歳の時のことならはっきりと覚えてることがあるんだよ。お店(祖母が越谷街道沿いでやっていた駄菓子屋)の前をね、自衛隊の車が何台か列をなして通ったことがあったんだけど、その自衛隊の車に向かって敬礼してたのをよく覚えてるよ。親父がお酒を飲むたびに、“帝国海軍”の話を聞かされてたし、うちに飲みに来る人たちが、みんな涙を流しながら軍歌を歌ってたからねえ」
何歳くらいからのどういう記憶が鮮明に残るのか、よくわからないけれど、どうも私の頭の中には若干ではあるけれど3歳くらいの記憶があるみたいです。
「戦争の記憶なんてあるの?」
「うーん、全部覚えてるわけじゃないけどね。例えば飛鳥山の下にあった防空壕の中で、見ず知らずのおじさんにもらった白米のおにぎりのこととか、焼夷弾が落ちてくる時のヒューっていう音、そして爆発する時の地響きのようなドーンという音とか、戦隊を組んでとんでくるB29とか、そういう記憶はあるよね」
「45年の12月で4歳だから、東京大空襲の直前に岐阜に疎開した時は、まだ3歳になったばかりのころだよねえ?」
「そうだね」
「そうするとさあ、3歳になったばっかりのころの記憶っていうことでしょ。それって、その後大きくなってから人に聞いた話とか、いろいろな報道とか映画とかそういうものを見て、自分の意識の中で膨らませていったものじゃないの?」
「うーん、そういうこともあるんだろうけど、いくつかのことはかなり鮮明に覚えているから、自分の記憶だと思うよ。父と母はあまり感じないみたいだけど、私は未だに暗いところが嫌いだったり、花火の破裂するドーンっていう音が嫌いだったりするしね」
「ああ、そうだよねえ」
1941年生まれの妻には、戦争の記憶があるようです。子どものころの記憶というのは、単純に何歳何ヶ月くらいからあると考えるよりは、子どもにとってその出来事がどんな意味を持つのかで変わってくると考えた方がいいような気がします。そう考えると、幼少のころに楽しい体験をたくさんさせてあげることが重要で、大きなショックを受けるような経験はさせるべきではないということなのでしょうね。
“まだ小さいから”という考えはやめて、どんなに小さな子どもでも、一人の人間として尊重し、大切に育てたいものですね。
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2020年2月 9日 (日)

第170回「未知のものの恐怖 その2」

「カエルさんの声は聞こえるけど、真っ暗で見えないねえ」
「うん」
「カエルさんって、ゲロゲロって鳴くんだよね」
「うん」
「たくさん鳴いてるね」
「うん。うるさい」
「蓮くんと沙羅ちゃんは、カエルさん触れるんだっけ?」
「うん。触れるよ」
蓮はもちろん、沙羅も返事をしました。
カエルを身近に見たことすらないのだから、触ったことなどあるはずがないのに、グッと恐怖心を押さえて、蓮は私に強がって見せたのです。蓮も沙羅も水族館のようなところで水槽に入ったとても珍しい貴重なカエルは見たことがありましたが、田んぼで鳴いているカエルというのは、見たことがありません。にもかかわらず、田んぼで鳴いているカエルという存在は、小さな蓮や沙羅にもポピュラーなようで、
「今度、カエルさん捕まえに行ってみようか?」
と私が蓮に尋ねると、
「う~ん」
蓮は、肯定とも否定ともつかない微妙な返事をしました。
- 数日後 -
「蓮くん、これからカエル捕まえに行こうか?」
「うん」
今日ははっきりと返事をしました。
「沙羅ちゃんもぉ」
怖がって「行かない」と言い出すのではないかと思っていたのですが、やけに威勢のいい返事。私と蓮と沙羅の3人でカエルを捕まえに行くことになりました。近くに田んぼがなくなってしまったので、車で20分ほど走り、やっとカエルがいそうな田んぼにたどり着きました。
「カエルさん、いるかなあ?」
3人で畦道を歩くと、カエルが草の中から田んぼの水の中へ飛び込みます。おたまじゃくしのしっぽがやっと取れたばかりの小さなカエルは、よく見ないと見逃してしまうくらいの大きさです。最初のうちは、その存在に気づかなかった蓮と沙羅は、私の後ろについてきていましたが、その存在に気づいてしまった瞬間に、2人の足はピタッと止まりました。「じいちゃん、手つなごう」
蓮は言います。沙羅は一歩も足を前に出せなくなり、立ち止まったままべそをかき始めました。
「蓮くん、カエルさんいるねえ。ほらっ、おじいちゃんについておいで」
私は沙羅と手をつなぎました。蓮は強がっていた手前、とりあえず1人で踏ん張っています。
「蓮くん、カエル捕まえられる?」
「うううん。捕まえられない」
「この間、触れるって言ってたけど、怖いの?」
「怖いの。だってカエルさん噛みつくでしょ?」
やっと本心を私に告げた蓮はちょっと気が楽になったようでした。
「大丈夫。カエルさんは噛みつかないよ。じゃあ、じいちゃんが捕まえてあげるから、そこでじっとしててね。蓮くんと沙羅ちゃんが動くと、カエルさん逃げちゃうからね」
5匹ほどカエルを捕まえて、ビニール袋に入れました。ビニールの中にいるカエルは、蓮と沙羅をおそわないということを2人もわかっているらしく、2人ともじっと観察しています。カエルに対して自分が優位に立っているということを悟った蓮は、さっきまでカエルを怖がっていたのが嘘のように、今度はカエルの入ったビニール袋を持ちたがりました。
畦道を車の方に向かおうとすると、また沙羅が動きません。ほんの5㎝か10㎝の草が怖いのです。草の中に何が潜んでいるかわからない恐怖は、沙羅にとっては相当なもののようで、私がかなり強い調子で促すまで、全然動かなくなってしまいました。
家に帰って、金魚の水槽にカエルを放すと、水草の陰に隠れたり、ガラスにへばりついたり。蓮も沙羅もカエルというものがどういうものかを知り、恐怖心も和らいだようで、3日間ほど水槽の中で飼ったあと、近くの川に逃がしてやりました。
「あのカエルさん、あんよの指が一つなかったんだよ。かわいそうだねえ」
充分に観察をしたらしく、すっかりカエルは、蓮と沙羅の身近なものになりました。
「今年もサザエ、たくさんいるかねえ? 去年は少なかったような気がするよ。潜ってもあんまりたくさんは見つからなかった」
「潮の関係もあるんだろうけど、だんだん減らなければいいけどね。まだお母さんは、あなたが泳げるっていうの、半信半疑みたいだね。波が怖くて、砂浜に降りられないっていうんじゃ、無理もないけど」
「なんだかわからないものが怖くないっていう方がおかしいんだよ。未知のものを怖がらずに何でも平気っていうのは、乱暴なだけだよ。少しずつ確かめて、恐怖心を克服していく、そういうことが子どもにとっては重要だと思うけど。それが本来の強さだよ」
「なんとか言っちゃって! 波が怖くて海の家から一歩も出られなかったっていうあなたは、極端なんだよ」
「まあ、そうかも。でも今は、サザエ採れるんだからいいでしょ!」
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第167回「言ってはいけないその一言 -終章-」

第161回から前回まで「言ってはいけないその一言」ということで、親が子どもと接するときの基本的な姿勢を述べてきましたが、まだまだ具体例を挙げればきりがありません。一応今回でまとめて、今後機会があれば改めて取り上げたいと思います。さて、何度か述べてきた子育てに対するカウンセリングマインドの基本的態度を覚えていますか?
『“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです』
それには、「子ども自身の成長していこうとする力をまず信じること」が必要です。
これは、肉体的にも、精神的にも言えることです。この連載の第6回から第8回までで扱った娘の麻耶(まや)の腎臓病の時のことです。主治医の赤城先生は現代医学では治療法が確立していない麻耶の病状に対し、子どもの生命力を信じ、「お子さんの生命力にかけましょう」とおっしゃいました。この赤城先生の言葉は、子育てにおけるカウンセリングマインドとも通じるところがあります。医学的な治療においても、子育てにおいても、最も大切なのは、本人の持っている力を最大限信じることです。信じた上で大人が何をすべきか考えるということが重要です。「うちの子はどうにもならない子だ」「放っておいたらどうなるかわからない」という発想は絶対にやめましょう。
そして、子どもの心に耳を傾けましょう。お子さんとの関係がそこから始められれば、「言ってはいけないその一言」は、ほとんど発していないはずです。親が子どもの心に耳を傾けられないケースにはいくつかあります。親が子育てを放棄したいケース、大人の都合で子どもに自由を与えたくないケース、勝手に子どものためと思いこんで押しつけるケース、わがままを認めることを耳を傾けることと勘違いしているケース。だいたいこの4つくらいでしょうか。子育てにおいては、常に自分の言動がこういったケースに当てはまらないかを検証していくことが大切です。そして、子どもの心に耳を傾けるには、常に客観的事実を正しくとらえ、自分自身の心を真っ白な状態に置くこと、それができて初めてカウンセリングマインドで子どもに接することができるのだと言えます。
カウンセラーは、常に自分自身の中にある偏見との戦いをしています。「今、目の前で話をしているクライアントの言葉は真実だろうか」、「本当にクライアントは心を開いているだろうか」と。時としてカウンセラーは自分の能力を過信し、自己に甘くなり、クライアントは「私だけには真実を語る」「私だけには心を開く」と思いがちです。けれどもそれは、単なる思い過ごしでしかありません。カウンセラーの勝手な思い込みの中からは、カウンセリングの効果は望めないのです。
「子どもを信じる」ということは、「子どもの言うことを鵜呑みにする」ということとは違います。子どもの言うことや行動を、真っ白な心で聞き、真っ白な心で見、子どもの心を理解する、それがまさにカウンセリングマインドであり、子どもの心に耳を傾けるということです。
子育てにおいて重要なのは、心が無垢であることです。大人が社会の中で生きていると、社会の中から様々な影響を受け、なかなか無垢ではいられません。子どもを大人の社会に合わさせようとするのではなく、我々大人の偏見を取り除き、子どもを信じて、真っ白な状態で子どもの心に耳を傾けることができれば、お子さんは必ず「いい子」(自分の足で大地を踏みしめている)になるはずです。
カウンセリングマインドの子育てということから、長々と述べてきました。啓蒙的な文章は好きではないのですが、かなり啓蒙的になりました。あまり長い文章は避けようと、だいぶはしょったので、説明不足もあるかもしれませんが、今までの連載のほんの些細なエピソードの中に何度も述べてきたつもりなので、お時間があったら読み返してみてください。次回は、あまり啓蒙的でない文章にしようと思います。
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2020年1月26日 (日)

第165回「言ってはいけないその一言 -先回り編-」

今日は言葉だけでなく、行動も大きなポイントになります。
今まで述べてきた「脅迫」や「取引」というのは、「親が自分の都合で子どもを動かす」という「親のため」という側面が、はっきりと見えているので、それに気づくことはそう難しいことではありませんし、親が気づいてすぐその行動を変えれば、目に見えて子どもの様子も変わります。ところが、これから扱おうとしている「先回り」というのは、一見「子どものため」に映ったり、親の意識の中に「子どものため」という明確な意識があるので、教育相談やカウンセリングで指摘をしても、なかなかその意識を変えることは難しく、とてもやっかいです。しかも、子どもも親の言動(おもに行動)によって自分が楽になるので、その親子関係を拒否しません。昔は反抗期があるのが当然だったわけですが、うちの研究所を訪れるクライアントさんを見る限り、最近では親の「先回り」が子どもの自立へのエネルギーを奪ってしまい、反抗期をも飲み込んでしまうほどです。子どもが拒絶をしないので、親もその状況になかなか気づきません。「深く潜行し、一気に出る」という感じでしょうか。何か問題が表面化したときには症状が深刻なので、“人間としての存在の回復”(自立)にはかなりの時間(回復の方向に向かっていたとしても、長ければ10年とか20年とか)を要します。大きな問題は、親の子どもに対する姿勢が簡単には変えられないということです。今とても問題になっている「ニート」という状況にも深く関わっていると言えます。
「先回り」の場合の多くは、子どもも親も「被害者意識」を持ちます。「いじめを訴えてはいるけれど、周りにそういった事実が確認できない」、「他人の悪さを強調して自分の非は認めない」、そういった場合は、幼児期からの親の「先回り」が影響している場合がよくあります。本来、一刻も早い対応が求められる深刻な「いじめ」のようなケースを、親の「先回り」による過剰な被害者意識と取り違えてしまう場合もある(学校のような場所ではなるべく問題が公の問題ではない方がいいと考えるので、いじめの問題を「親子の問題」ととらえる傾向にあります)ので、「いじめ」を訴えられる立場(教員とか各種相談機関に従事している人など)の人たちは、充分な検証が必要です。

 

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2020年1月25日 (土)

第164回「言ってはいけないその一言 -取引編-」

ちょっと本題に入る前に、奈良県警が“子どもに声をかけちゃいけない”なんていう馬鹿げた条例案の要旨を15日に発表したので、それに対して一言。
もちろんこれは「小1女児誘拐殺害事件」を受けてのものですが、禁止されるのは、「保護監督者が近くにいない13歳未満の子どもに対する(1)惑わしたり、うそをついたりする行為、(2)言いがかり、ひわいな発言、体をつかんだりつきまとったりする行為のほか、(3)13歳未満の子どものポルノ映像や画像の所持、保管」(16日 朝日新聞朝刊)だそうです。親の立場で「子どもを守る」ということに重きを置いて考えるとすれば、支持する人もいるかもしれませんが、こういうものは、その実効性と弊害をきちっと検証しないといけない。そこで、この条例案を見てみると、まず(1)も(2)も声をかけた内容について、誰がどのように判断するのか全くわからず、犯罪の構成要件がはっきりしない。しかもどれをとっても現行法で対応できる。となれば、条例そのものの持つ実効性というものは、全く疑わしいと言わざるを得ません。しかも弊害を考えると、大人と子どもの信頼関係を大きく損なわせ、地域社会の持つ教育力を崩壊させかねない。今までの私の経験から言うと、地域と子どもとの関わりは、防犯の観点からも、子どもの健全育成の観点からも大変重要です。もし、子どもに声をかけることが犯罪になるとすれば、そういった地域社会と子どもとの関わりは、ほとんど失われることになります。それがどんなに子どもを孤立させ、子育てを難しくしてしまうか…。むしろ、積極的に声をかけることを促し、地域社会における大人と子どもとの関わりを密にすることこそ、子どもを守ることにつながると思うのですが…。
教育は人を信頼することから始めるべきです。社会の現状がそれを許さないことも事実ですが、行政がやらなければならないことは、子どもたちの大人に対する不信感を煽ることではなく、“どうしたら子どもが大人を信頼できる社会を構築できるか”を真剣に考えることだと思います。こんな条例案が可決しないといいのですが…。

さて、「言ってはいけないその一言」に戻りましょう。
前回の「脅迫編」同様、親がよくやってしまうパターンに「取引」があります。
先日、スーパーで泣き叫んでいる4、5歳の男の子がいました。なぜ泣いているのかよくわかりません。泣き始めたときは、おそらくはっきりした理由があったのでしょうが、その様子からすると、どうやら本人もなぜ泣いていたのかよくわからなくなってしまっているようでした。
こういう時の親は、本当に困ってしまうもので、泣いている子どもには腹が立つのに、うっかり変な言葉をかけようものなら、火に油を注ぐようなことになってしまう。本来、毅然とした態度で臨むべきなんだろうけれど、周りの買い物客はっていうと「何いつまで泣かしてるのよ!」というような冷たい視線でこっちを睨みつけたり、「呆れた親」みたいな雰囲気で露骨に無視したり…。
結局この時のお母さんは、子どものそばまで行って怒鳴りました。
「いつまで泣いてるの! いい加減に黙りなさい!」
まあ、ここまではよかったんだけど、どうもこの後がいけない。
「泣くのやめたらチョコレート買ってあげるから黙りなさい」
あらあら、なんということ。泣いていることとチョコレートは、まったく関係がないのに…。
その言葉につられてか、子どもの泣き声はあっという間に小さくなり、10秒もしないうちに聞こえなくなりました。
しばらくすると、誇らしげにチョコレートの箱を手にしたその男の子とすれ違いました。どうやら、約束通りお母さんにチョコレートを買ってもらったようでした。
これはこの親子の、“人生における不幸の始まり”なのです。
このお母さんは子どもに、“泣き叫べば欲しいものが手に入る”ということを教えてしまったのであり、この男の子は“欲しいものがあるときは泣き叫べばいい”と学んでしまったのです。

どんな言葉が取引に当たるのか、そして取引がどんな結果を引き起こすのか、次回に続きます。

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第163回「言ってはいけないその一言 -脅迫編-」

さて、今回からは、具体的事例を扱いたいと思います。「言ってはいけない言葉」をいくつかのグループに分類して説明します。ただし、小手先の技術ととらえるのではなく、子どもと向き合う姿勢を間違えると、結果としてこういうことを言ってしまうととらえてください。あくまでも、子どもと向き合うときは、『“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです』。いつもそれを忘れないでください。

孫を連れて釣り堀で釣りをしていたときのこと。
「おまえ、何で寄ってくるんだよ」
「うぇーん、うぇーん…」
3歳になるかならないかの男の子が、お父さんのそばに寄っていって何か訴えていますが、お父さんは取り合わず、大きな声で怒鳴っています。少し離れたところに小学生くらいのお兄ちゃんとお姉ちゃんがいて、3人兄弟(?)のよう。もうそろそろ終わりの時間が近いらしく、お兄ちゃんとお姉ちゃんは、時計を気にしています。一番下の男の子は、釣りのような長時間かかる遊びができる年齢のはずもなく、要するに飽きてしまっただけ。
「だから、そういう風にベタベタ寄ってくるなって言ってんだろ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「うるせえんだよ。魚が逃げちゃうだろ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「そんなにいつまでも泣いてると、池の中に放り込むぞ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「いいんだな、池の中に放り込んでも!」
と言って、男の子の体を捕まえるふりをしました。さすがに父親にそこまでやられると、男の子も自分の要求が通らないことを悟り、少し後ずさって、泣き声も小さくなりました。私がいるところからは少し距離があったので、子どもの要求がなんだったのかよくわかりませんでしたが、どう見てもそんなに大声で怒鳴りつけなければならない状況には思えませんでした。子どもを怒鳴りつけるお父さんの形相が、あまりにもすごかったので、私もちょっと驚きました。
こんな事例を挙げると、誰もが大声で怒鳴っている父親の形相を想像して、「ひどい父親」と感じるのでしょうが、ここで一番問題なのは、大声で怒鳴っていることではなく、「池の中に放り込む」という脅しです。子どもにとって自分の生命を自分で守ることができないという恐怖は、もうどうすることもできません。大声で怒鳴られているだけならば、最終的な選択は子どもに残されていますが、「池の中に放り込む」と言われてしまっては、子ども自身による選択の余地はありません。もっとも、親も選択の余地を残させないために脅しているわけですから、親にとっては成功ということになるのでしょうが。
皆さん、こんなひどいことはやっていないと思うかもしれませんが、よーく考えてみると身に覚えがあるのでは?
「家に入れません」「家を出て行きなさい」「食事はさせません」なんていうのも、程度の差こそあれ、方向は同じですね。親の決意を示すということも大切なので、100%言ってはいけないとまでは言わないけれど、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”になっているかどうかの確認は必要ですね。ただし、“即、命に関わるような言い方”や“身体的に危害を加えるような言い方”(“手をちょん切るよ”とか”熱湯をかけてやる”というような)だけは、絶対にやめましょう。

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第162回「言ってはいけないその一言 -概論 その2-」

子育てをするとき“カウンセリングマインド”で子どもに接することができれば、子どもはとても楽だし、自由にのびのびと育っていくことは確かだと思います。ということは、結局親も楽な子育てができるということで、とてもなめらかで暖かい親子関係が築けていくことと思います。ただし、これはあくまでも子どもが自立を目指し、将来親を超える存在(地位や名声、財産などといった具体的なものではなく、もっとメンタルな意味で言っているのでお間違いなく)になっていくという意味においてであって、親の“洗脳”によって親の都合のいい子どもに育てるという意味でないことは言うまでもありません。そういう意味の上に立った“カウンセリングマインド”です。時に、親にとっては辛いことになる場合もあります。けれども親は、自分が楽になるため、あるいは自己満足のために子どもを利用しないように。それは、基本の基本です。うまくいかない夫婦関係のはけ口に子どもを使ったり、夫や妻との間の“行き場のない愛情”を子どもに向けるなどということはもってのほかです。“カウンセリングマインド”というのは、当然そういうことも含んでいるわけですが、“カウンセリングマインド”を単なるテクニックと勘違いしてしまうと、本質的な部分が曲がってしまい、全く違った方向に進んでしまうので、単なるテクニックととらえるのではなく、“一人の人間が一人の人間と関わりを持つときの基本”というようなとらえ方をしてください。ですから、親子関係だけでなく、子どもと関わりを持つすべての職業(保育士、幼稚園や学校の先生、看護師、教育関係の相談員、スポーツ少年団のコーチ、保護司などなど)の人たちは、必ず“カウンセリングマインド”で子どもと接するべきです。

もうすでに、この連載の中で述べてきましたが、まず子どもを信頼するところから始めましょう。そういう気持ちがないと、“まずお説教”になってしまって、子どもには受け入れてもらえません。“自分が正しい”という感覚も捨てましょう。相手がどんなに小さな子どもでも同じです。“教えてやる”という発想の中からは、“カウンセリングマインド”は生まれません。“相手を一人の人間として尊重すること”がとても重要です。もっとも、そうできれば、“カウンセリングマインド”で接することができているということなのでしょうけれど。

さてそれでは、子育てにおける“カウンセリングマインド”を具体的にどうとらえたらいいかというと、前回ご紹介した“カール・ランサム・ロジャース”(ロジャーズとも)の“非指示的カウンセリング”(後の来談者中心療法)が基本と考えます。(興味のある方は、“カール・ロジャース”あるいは“来談者中心療法”でネット内を検索してみてください)繰り返しになりますが、“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです。私なりの解釈では、“自ら決定していくのを助ける”ことが行き過ぎてしまったものが「過保護」、“子ども自身が自分の力で成長していくことを見守る”ことができずに、口出ししてしまうのが「過干渉」です。

ちょっと概論が長くなりました。次回から、具体的な例を示してお話ししたいと思います。それまでとりあえず、「何やってるの!」と「早くしなさい!」をやめてみてください。それだけでも、必ずお子さんの態度に変化があるはずです。「何やってるの!」と言ってお子さんの行動を止めたいのなら、「××するのはやめようね」と言いましょう。「早くしなさい!」と言う前に、そう言わなければならない状況を作らないよう親が努力をしましょう。もしどうしても「早くしなさい!」と言わなければならない状況になってしまったら、お子さんが本当に早くしなかったらどうなるのかちょっと考えてみてください。ほとんどの場合、それほど早くしなくてはならない理由はないはずです。「早くしないと幼稚園に遅れる」なんていうのはだめですよ。幼稚園に遅れることなんて、お子さんにとって生死を分けるほど重要なことではないのですから。私に言わせれば、しょっちゅう「早くしなさい!」を連発することは、生死を分けるのと同じくらいお子さんの人生を左右することなのです。まず、受容的態度と共感的態度です。

次回は「言ってはいけないその一言 -脅迫編-」です。


**6月6日(月)掲載**

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2020年1月 5日 (日)

第158回「わが家のゴールデンウィーク」

私の経営する陶芸教室は、お盆とお正月を除けば基本的に休みは祝祭日しかないので、ゴールデンウィークが唯一の休みらしい休みです。(もっともカウンセリングの方はクライアントさんによって、お休みの日でないとという方もいるので、カレンダー通りというわけにはいかないのですが)
「何しようかなあ?」なんて考えていると、いろいろなことが起こるもので、孫の蓮(れん)が「ほっぺが痛い」なんて言い出しました。よく見てやると、なんと耳下腺が腫れてる。
「ほらっ、仰向けにして上から見てみると、左の耳下腺が腫れてない?」
「あっ、ほんとだ!」
そっと両手で左右の耳の下に手を当ててみると、左の耳の下がかなり堅くなって腫れています。
「麻耶(まや)は“虫歯じゃないの?”なんて言ってたけど、これはたぶんおたふくだよ」
ということになって大騒ぎ。わが家の中で間違いなくおたふくの免疫を持っているのは、私と妻だけ。麻耶は腎臓病を患ったこともあって、予防接種はしていないし、罹った記憶もない。
「翔(かける)はどうだったっけ?」
「予防接種はしてないような気がする」
「罹ったっけ?」
「やってないような気がするなあ…」
これがなんと3日の朝。近くにやっている病院はなし。翔は翔で、6日、7日の試合のためにゴルフ部の合宿中。
「翔、大丈夫かなあ? 連絡してみる?」
慌ててメールを送って、“何でもないよ”という返事が返ってきたものの、考えてみれば罹っていればもうどうしようもないんだから、なにも不安にさせることもなかったのにとメールを送ったことを大後悔。
新聞を開いて近くで休日診療をやっているところを調べ、麻耶が電話をすると、「心配だったら連れてきてください」と言われました。よく意味も考えずに、麻耶が蓮をつれて病院に向かった後、インターネットを開いておたふくについて調べると、薬もなければ、治療のしようもない。“患部を冷やす”って書いてあるところもあれば、“冷やしても効果はない”って書いてあるところもあったりして、要するに“時がたてば治る”っていうか“時がたたないと治らない”っていうか…。
「そんな気がしたんだよ。もうすっかり忘れちゃったねえ」
自分で子どもを育てていたころには、親同士で情報交換をしたり、本を読んだり、病院の先生の話を聞いたり、病気に対する知識もずいぶん持っていたけれど、そういうことってけっこう忘れちゃうらしくて、“耳下腺が腫れているからおたふくかな?”っていう程度にはわかるけど、どう対処すればいいかなんて、何となくそんな気はするものの、すっかり飛んでしまってました。子育てっていうのは、次から次へといろいろなことが起こって、そのつど必要なことは吸収していくけれど、おたふくのように一度罹ってしまうと二度と罹らないような病気の場合は、罹ってしまった時点で必要がなくなってしまうので、忘れちゃうみたいですね。わが家の場合は、麻耶も翔も罹っているか罹っていないかもわからないので、しっかりと覚えていなくちゃいけなかったのかもしれないけれど、ある程度の年齢を過ぎちゃうと、子どもがよく罹る病気についてなんて、意識しなくなっちゃうものですね。子育てってそれでいいのかも???
こういうときのインターネットの威力は絶大で、病気のことならわからないことはほとんどないので、とても助かっています。もちろん大人の病気もね。ただし、勝手な素人判断を招く危険性はあるので要注意!
やっぱり麻耶は、まだ罹っていなかったらしく、3日の晩から耳下腺が痛くなって、4日には顔の形が変わるほど左の耳下腺が腫れてきてしまいました。蓮は熱を出すこともなくたった2日で治ってしまったのに、麻耶は39℃近くも熱が出て、未だに腫れが引きません。大人になって罹ると重いといいますが、ほんとにそうですね。
翔は全然症状が出ていないので、気がつかないうちに罹っていたのかも…。罹っても症状がでない人も30%くらいいるみたいなので、翔は運良くそうだったのかもしれません。

 

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第157回「19歳コンビ大活躍!」

「来週からスクールに通うことにしたから」
と翔(かける)に告げると、
「ほんとにやんの?」
と信じられない様子。
「やるよ」
「ほんとに?」
「やるって言ってるだろ!」

翔がゴルフを始めたのは小学校4年生の時。家から車で15分程のところにあるゴルフ練習場へ週に1、2度送ってやっていました。娘の麻耶(まや)が一時やっていた時期はあったのですが、私も妻も全くゴルフをやりません。「まあ、たまには一緒に付き合ってやるか」とゴルフショップで安物のアイアンのセットと中古のドライバーを買って、ちょっと練習場の打席に立つくらいなもの。翔がゴルフを始めて8年も経つのに、打席に立って今までに打った球の数なんて、よく思い出せば数えられるかも…。ラウンドといえば、翔が小学生だったころ、青木功ジュニアクラブ(プロゴルファーの青木功が主宰する誰でも入会できるジュニアクラブ。年に数回全国各地で合宿があり、青木功本人のワンポイントレッスンが受けられる。ただし、合宿は参加多数の場合、参加経験のない人が優先)の会員特典(子どもと一緒ならばハーフラウンドが1000円)で、翔と一緒にハーフラウンド(9ホール)を2回、それとは別に伊豆で行われたジュニア合宿について行って、待ち時間(寝泊まりも子どもとは別なので、2日間ずっと待ち時間)に1ラウンドしたことがあるだけ。そんなわけだから、翔にしても今さら父親がゴルフスクールに入るということが信じられなかったのでしょう。
翔は現在、高校3年生でゴルフ部に入っています。親がゴルフをやらないなんていうのはウチくらいなもの。中にはレッスンプロもいれば、トーナメントプロもいる。詳しくは知らないけれど、ゴルフ場を持ってるなんていう人もいるらしい。なんかもう私には想像を絶する世界。
高校ももう最後の年になって、翔もあと数回の公式戦を残すのみ。なんとか関東大会までは出場したことがあるものの、あと1歩というところで全国大会の出場経験はなし。いつも最後のところで甘さが出ちゃって崩れちゃう。やっぱりこれがゴルフを知らない家庭の限界かなあ? もし翔が本気でプロを目指そうとするのなら、このままではちょっと…。そこで、私が立ち上がったわけです。(ちょっと手遅れかも…)
女子ゴルフ界は19歳コンビが大活躍。今やゴルフを知らない人も知っている宮里藍。そろそろじゃないかと言われて、その通り先週優勝を果たした横峯さくら。それに1歳年下のアマチュア、諸見里しのぶも加わって、今年はますます女子ゴルフの人気が沸騰しそう。
先週のトーナメントで優勝した横峯さくらは、お父さんがキャディーを務めることで有名でした。ワイドショーでも何度も取り上げられ、親子関係の手本としてコメンテーターたちも褒め称えています。宮里藍もお父さんが師。競技は違うけれど、卓球の福原愛やレスリングの浜口京子も親子関係が度々報道されました。どの親子を見ても、親と子の関係がとても近くて、親が子どもにすべてを掛けたことで成功した例。
横峯さくらが優勝したあと、お父さんもマスコミに引っ張りだこ。あるラジオ番組で、翌日ゲストで横峯さくらのお父さんが出演することを予告していました。司会をしている荒川強啓が「最近、親子関係が希薄な中で、横峯家の親子関係を見習ってほしい」旨のコメントを述べていましたけれど、ちょっと気になりました。
スポーツの世界で親子が力を合わせて、優秀な成績を収めることはよくあります。けれどもそれは、父親や母親が親という立場を超えた非常に優れた指導者(コーチ)であったからであって、普通の家庭の親子関係と同じ次元で語られるべきではない。横峯さくらのお父さんはプロのゴルファーではないけれど、コースの攻め方やパットのラインの読み方などとても優れていて、横峯さくらを知り尽くした誰よりも優秀なキャディーとして、優勝に貢献したわけです。
うちの研究所に相談に訪れる人の大半は、親子関係が近すぎる相談です。子育ての放棄や虐待など、子どもとの距離がとても遠くなっている親子が増えていることも事実ですが、まったく逆に親子関係が近すぎる親子も増えているということもまた事実です。
子どもとの距離を縮めたいなら、親自身が優秀な指導者になること。ただ、ベタベタと友達感覚だけで甘やかしている親子はほとんどの場合子どもの自立がうまくいきません。
さて、我が家の場合、親が優秀な指導者になりうるんでしょうか? どうも、その辺が怪しいので、翔がプロゴルファーとして成功するのは並大抵のことじゃないかもね。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第156回「人間の特徴」

前回の内容をさらに受けて。
「人間の持つ特徴は?」の問いにどんな答えを持つでしょうか?
おそらくいろいろな答えが出てくると思います。「道具を使う」「火を使う」「言葉を使う」「考える」「意志がある」などなど。どれもその通りだと思いますが、私が人間の特徴としてどうしてもあげたいと思うのは、「直立二足歩行」(二本足で立って歩く)と「他の動物よりも未熟で生まれる」ということの二つです。

人間の持つ特徴というのは、子育て・教育を語る上で非常に重要です。それは、人間がその特徴を持ち合わせているからこそ、他の動物とは違う人間らしい子育てが生まれ、さらにその子育てが“人間”を作っていくと考えられるからです。

さいたま市にお住まいの元教育学会会長で東京大学名誉教授の大田堯(おおたたかし)氏はその著書の中で、人間が「直立二足歩行」をする理由について、「手が使えるよう」とか「遠くが見渡せるよう」とかいう理由をあげずに、「その気になったから」と言っています。なんだか禅問答みたいな理由ですが、「その気になったから」という言葉は、「直立二足歩行」を人間の特徴として考えるとき、妙にしっくりきます。ラッコやアライグマだって手は使うけれど立って歩くわけではないし、“遠くが見渡せる”というなら、ダチョウやキリンのように首が長くてもいいわけで、どれをとってもなんとなく不満が残ります。そんな中で、おそらく「その気になったから」という理由を否定できる人はいないんじゃないでしょうか?道具や火や言葉を使うといった特徴にも、当てはまるわけで、「考える」「意志がある」という言葉とも共通する。そういった意味では、「その気になる」ということが、人間の特徴と言えなくもない(もちろん、生物学的な特徴というわけじゃなくて、教育学的に見た特徴ということだけれど)。

また「未熟で生まれる」とはどういうことかというと、他の哺乳動物は生まれたときからその種の形状をし、生まれた直後にはその種の親が持つ特徴をほぼ100%持っているんだけれども、それに比べて人間の赤ちゃんは、親の形状とは違って頭がきわめて大きく、人間の持つ特徴をすべては持っていないということです。このことは、人間は生まれて間もない赤ちゃんの時には非常に弱い存在であるけれど、人間として生きるための多くのことを身につけることによって、優れた適応力を身につけ、他の動物に比べてとてつもなく強い存在になれるのだということにもつながるわけです。

赤ん坊の時からオオカミに育てられた「カマラ」と「アマラ」が、人間社会に戻ってからも、人間には戻れず短い生涯を終えたという話(興味のある方はネット上で「カマラとアマラ」で検索してみてください)は、教育学を学ぶ者にとってあまりにも有名な話です。この「カマラ」と「アマラ」の出来事は、人間が人間として生きることの教育の重要性を物語っているものであり、人間が人間としての正しい教育を受けなければ人間にはなれないという、一つの証明でもあります。

親や社会が子どもにどういったものを与えるかによって、子どもはどんなふうにでも育ちます。そして親が子どもに何を与えたらいいかということは、子育ての大きなテーマでもあります。今までの連載の中でも、子どもに何をどう与えるかということを折に触れ述べてきたつもりですが、“子どもは誰のものか”という視点で見ていくと、自ずから一つの方向性が見えてくるように思います。

人間は「その気になったから立った」という大田氏の話は、まさに子育ての勘所でもあります。この人間の特徴をふまえて、子育て・教育を考えていくことが重要なのではないでしょうか。


**4月18日(月)掲載**

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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