2025年4月 8日 (火)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第499回「教育はどこへ行く その3」

2002年3月12日にこの連載を始めて10年あまりが経ち、ちょうど区切りのいい次回第500回で「子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-」を終了することにしました。これだけの字数の文章を毎週更新するというのはけっこう大変で、私の生活にかなり変化を与えましたが、それはそれで、楽しい機会を与えていただいたと思っています。

さて、ちょうど10年目、まさに連載を終えようとしている時に、今後の「教育行政」に大きな影響を与えるかもしれない大阪府の教育基本条例案が可決成立したことは、何か因縁めいたものを感じます。今回まで3回連続で取り上げている「教育はどこへ行く」は、実は朝日新聞の記事を見て、それを基に1回で完結させるつもりだったのですが、「落ちこぼれゼロ法」と「大阪府教育基本条例」をいろいろ調べているうちに、500回にわたる連載の中で、私が述べてきたこととの関わりを強く感じて、だんだん伸びてしまい、とうとう3回目まで来てしまいました。

教育基本条例(私の含め、正しい理解がされているかは甚だ疑問ですが)については、かなり国民の意見も割れているというのが現実だろうと思います。マスコミ各社も割れていて、私がこの問題を取り上げるきっかけになった朝日新聞は反対姿勢、ネットを見ると毎日放送は報道特集で批判的な番組を放送していたらしいですから、毎日新聞、TBSは反対? 産経新聞はこういった条例を全国に広げようという主張をしていますので、賛成。読売がどうなのかは確認していませんが、日の丸・君が代の問題からすれば、当然賛成なんでしょう。朝日新聞は社としては反対なんだろうと思いますが、テレビ朝日の番組の中には連日橋下市長の動向や主張を取り上げている番組があるらしいので、社の方針だけで動いているのではなく、テレビという媒体の性質から、視聴率やプロデューサー、出演者に影響されているものもあるようです。

私は、これまでずっと述べてきたように、教育行政や学校・教師の姿勢、教育の閉鎖性などという問題については、非常に批判的なので、そこを正そうとする教育改革の方向性は理解できます。
既得権益というか、職場の環境を守ろうとする教職員の人たちの中には、この条例に強く反対する人たちが多くいると思いますが、公教育に関わる人たちの感覚と、保護者を中心とする社会一般(もちろん教員も社会一般人ですが、そういった関係の人を除く人という意味で)の人たちの感覚のずれが、今回の条例がそれなりの支持を集める結果につながっているんだろうと思います。
長年、問題を指摘されながら、なかなか状況を変えられない教育現場のツケとも言えるのでしょう。もっとも橋下市長は教職員組合だけをことさら批判していますが、私は組合であろうとなかろうと、全く同じことだろうと思います。

とはいえ、私はこの条例に大きな危惧を抱いている一人です。それは、教育が政治主導で行われていいのかという疑問を強く持っているからです。
憲法に規定する基本的人権の教育を受ける権利を覆すということでないとすれば、政治が教育に深く立ち入るということは、その時々の政党、政治家によって教育が支配されるということで、憲法上許されないと思っています。
法律論でいうとややこしい部分がありますが、まあ今の日本では考えられないことですが、たとえば社民党や共産党が政権を取ったら(市町村レベルなら絶対ないとは言えないかもしれませんが)、全く逆になっちゃっていいのか、教育ってそんなもんなのかということです。公教育は本来、普遍的であるべきと考えるのですが、どうも今回の条例はそうは思えない。それだけではなくて、公教育でどういう子どもを育てるかという部分で、経済優先の人間教育になっているように感じる。
経済優先で教育を考えた場合、たとえば米国の「落ちこぼれゼロ法」のように競争や数値化で教育行政を進めるようなことが起こるんでしょうが、それは「落ちこぼれゼロ」どころか、必ず落ちこぼれを生むという強い確信を持っています。経済優先の教育は、「人」を育てるというより、むしろ経済構造の中の一つの歯車を作ることに他なりません。

私は、教育や子育ては、思春期くらいまでは母性的(女性という意味ではなく男性の中にもある母親的な感覚)な関わりが中心であるべきと考えていますが、競争原理を中心に教育を行えば、それとは全く逆の方向に進んでいってしまいます。今回の条例は、母性的な感覚を排除していると感じてなりません。私の感覚では、それはとても怖いことです。

教育基本条例案の可決により、教育が一歩政治主導の方向に踏み出したことになるのでしょうが、競争や数値ばかりが前面に出て、ぎすぎすとした世の中にならないといいのですが・・・。

政治がこういう方向に舵を切り始めた時だからこそ、家庭の中では優しさいっぱいの子育てをしたいですね。人と人とが関わる時に、他人を思いやる優しさ以上に大切なものはないですから。
2012/03/26(月)


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【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第498回「教育はどこへ行く その2」

ブッシュ政権で教育調査官を務めたニューヨーク市立大のダイアン・ラビッチ教授による、「すべての子どもたちに基礎学力をつける」と聞いた時は感激したが、現実にはそうはいかず、4年後から反対に転じたといい、「落ちこぼれゼロ法」の失敗の理由を二つあげています。

一つは、学力の低い子ほど、最寄りの学校で家の事情も知る慣れた先生に教えてもらいたがる現実を無視して学校のランク付けをしたことで、下位の子の自尊心を傷つけ、やる気を失わせたこと。
もう一つは、ノルマを果たせなかった学校の改善がうまくいかず、テストのための教育が広がり、自分で考える力を失わせてしまったこと、と言っています。

「落ちこぼれをなくす」という理念について、反対する人はほとんどいないと思います。私もまた、公教育の目指す方向の一つとして、「落ちこぼれをなくす」という理念が重要であると思います。ただ、ここで問題なのは、どんな子どもが落ちこぼれかという「定義」と、どうやって落ちこぼれをなくすかという「方法」です。
当然のことながら、落ちこぼれの「定義」が違えば、それをなくすための「方法」ももちろん違うわけですから、第一義的には「定義」が重要ということになりますね。

子育てをしていると、遺伝的にはとても近い自分の子どもたちでも、子どもによって、それぞれまったく違った個性を持っていることを感じます。遺伝的には近いわけだし、育っている環境もまったく同じ(生まれてきた順序を除けば)なわけだから、他人から見れば多くが似ているのでしょうが、親から見ればそれぞれの子どもによってまったく違った個性を感じます。食べ物の好みですら、正反対なんて感じることだってあります。
子どもたちにはそれぞれ個性があって、向き不向きが全く違うにもかかわらず、それを無視して、「落ちこぼれゼロ法」と「大阪市の教育改革」は、「落ちこぼれ」を考える基準を限りなく「学力」に限定してしまっていることが大きな問題点です。
「落ちこぼれゼロ法」と「大阪市の教育改革」について、「学力とは何か」と問えば、どちらも「テストで何点取れるか」という定義になるのでしょう。橋下市長の発言を聞いていると、「優秀な子=高偏差値な子」ということでほぼ一貫しているように感じます。

「テストでいい点を取れる」ということが、「人間の価値か」ということは、いつの時代も問題になることです。米国の母親が「学校はテストのための勉強ばかり」と言っていることや、ラビッチ教授が「教育技術を学んだ教師を送り、テストの点を上げる反復練習を繰り返した結果、一時的に点は上がった学校もあった。だが、長続きしなかった。テストのための教育が広がり、自分で考える力を失わせてしまった」と言っていることから、どうやら日本も米国も同じことのようです。

私は「テストの点の悪い子」を落ちこぼれの「定義」と考えたくはないのですが、百歩譲ってそう考えたとしても、「落ちこぼれゼロ法」が落ちこぼれをなくすことに適切な法律であるのかといえば、ラビッチ教授の話から、どうやらそうでもなさそうだということがわかります。

中学3年生の中ごろに、偏差値35~40程度に低迷している、俗に言う「落ちこぼれ」という子どもたちに勉強を教えていた経験から言わせてもらうと、明らかに学習障害と言われる子どもを除けば、こちらのアプローチ次第で、1~2ヶ月で全員が偏差値で10、順位で言えば100人中後ろから4、5番だった子がほぼ真ん中くらいまで上がります。
これには、「こつ」、言い換えれば「技術」があるわけですが、実は「技術」よりもっと重要なものがあります。それは教える側と教わる側の「信頼関係」です。信頼関係を築けない子どもは、脅しても、罰を与えても、100%うまくいきません。教える側の空回りに終わるだけです。テストの点を上げるには、本人のやる気が何よりも重要な要素であり、「落ちこぼれ」と言われる子どもたちのやる気は、脅しや罰はもちろん、教えることの技術だけでは到底引き出せないからです。

つづく
2012/03/19(月)


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【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第497回「教育はどこへ行く その1」

先週の日曜日、朝日新聞朝刊に「学校に競争 米改革不評」との見出しで、10年前にブッシュ政権が作った「落ちこぼれゼロ法」の記事が載っていました。「落ちこぼれゼロ法」というのは、教育から格差をなくすという理念のもと、学校に競争と淘汰を導入するというもの。学力アップにノルマを課し、果たせなかった学校を閉校または民間委託にするというものです。

具体的には、3~8年(日本の小3~中2)に毎年英語と数学のテストを受けさせ、12年後に「良」をとる生徒が100%になるよう目標を設定。2年続けて目標達成ができなければ、保護者は子どもを転校させることができる。4年連続教職員の総入れ替え。5年なら、閉校か民間委託にします。
この方式でいけば、ダメな学校(「良」を取れない子をなくせない学校)はすべて閉校か民間委託となり、ダメな学校は残らないわけだから、落ちこぼれはいなくなる、ということだったようです。
では、実際はどうなったのか・・・。

ニューヨーク州ブルックリンの高校で開かれた教育委員会での市当局の話では、州のテストで「良」を取った子の割合が、この10年で、英語30% → 44%、数学30% → 57%になったとのことですが、教職員組合は、国のテストの成績が横ばいであることを根拠に「達成率が上がったのは州のテストが難易度を下げたから」と主張しています。
このような議論が続く中でも、学校の統廃合は進み、教職員組合によると、市内の公立小中高校の1750校のうち150校が閉校になり、市内の教職員の4分の3に当たる6万6千人が定年に加え、強制的な配置転換や激務によるうつ病で退職したそうです。(朝日新聞参考)

以前から、朝日新聞の教育問題に対する論調は、極端に教職員寄りなので、廃校や退職した教職員の数字の正確さはともかく、閉校の原因が単純に「落ちこぼれゼロ法」による基準によるものであり、教職員の退職の原因が「落ちこぼれゼロ法」による強制的な配置転換や激務によるうつ病であると決めつけることはできません。
とはいえ、格差是正を競争だけに頼って行おうとした、この「落ちこぼれゼロ法」は、まったく教育の本質を見誤ったもので、結果として閉校や教職員の退職が起こったということもかなり真実に近いものである気がします。

ある高校の体育教師は「この10年、市内はテストの数字を基に教師を責めるばかり。貧困家庭の子どもの状況は何も改善されていない」と言い、5人の子どもを持つ母親は「学校はテストの勉強ばかり」と憤る。学校では英語と数学の授業が増え、音楽、美術、体育の授業が減った。毎日同じCDを流して単語書き取りと計算ドリルをやらせる。要するに、点数を追い求めるあまり、機械的な学習を増やしているということです。

日本では、大阪市の橋下市長が打ち出している教育改革が、この「落ちこぼれゼロ法」によく似ていると指摘されています。
たとえば、「学力テスト」をどう利用するかという点では、米国は、「学校別に結果を公表し、保護者はそれを基に学校を選択」、大阪市は「保護者が小中学校を選べるよう、学校別に結果を開示」。
「教員の評価」については、米国は「テストの結果が4年連続で目標に達しない場合、教員を総入れ替えする」、大阪市は「保護者の申し立てや校長の評価で、不適格教員を現場から外して研修」。
「学校の統廃合」については、「5年連続で目標に達しない場合や卒業率が低い学校は閉校」という米国に対し、大阪市は「3年連続で定員割れした府立高校は再整備。
小中学校でも学校選択制により選ばれなかった学校は統廃合も考慮」、児童生徒の「留年」については、米国は「テストの結果が標準に達しない子は低学年から留年させることができる」、大阪市は「小中学校で、学力不足の子の留年を検討する」。
まあ、ここまででもよく似てるんですが、バウチャー制度は、米国は「テストが2年連続で目標に達しない場合、塾や家庭教師に使えるバウチャーを支給」、大阪市は「所得が低い地区のこの保護者に、塾や習い事に使うバウチャーを支給」。所得格差は、学力格差と言われていますから、結果としてはほぼ同じ内容のように思います。
教育委員会の位置づけは、米国は「シカゴ、ニューヨークなどの大都市で市長直属に」、大阪市は「教育の基本計画は首長が教育委員会と協議して作る」となっています。
全体的な方向性としては、ほぼ同じといってもいい内容です。果たして、問題はないのか、教育はこれで変わるのか・・・

つづく
2012/03/12(月)


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【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第496回「子どもに何を、いつ、どう与えるべきか」

「このテーマで、この振り付けを子どもに踊らせるのは無理がある気がするなあ…。技術的には子どもたちはとっても上手いし、振り付けられた通りに一生懸命踊ってるけど、テーマや振り付けの意味を理解してるかっていうと、どうなんだろっ? たぶん、理解してないんじゃないかなあ? ただ一生懸命踊ってるっていう感じ」
「伸びゆく彩の国さいたまの子供達によるバレエ・モダンダンスフェスティバル」を観ていた時の感想です。

今年は先月行われたローザンヌ国際バレエコンクールで、21人のファイナリストのうち5人が日本人、さらに神奈川県厚木市の高校2年生、菅井円加さんが優勝したということもあって、子どもたちの通うクラッシックバレエあるいはモダンダンスの教室の指導者の皆さんも、かなり熱が入っているようで、とてもハイレベルな舞台を見せてくれました。

とはいえ、いろいろ感じることはあって・・・
「この衣装、踊っている子どもに合わせたっていうより、指導者の好みっていうか趣味っていうか・・・。子どもをかわいいだけの子ども扱いしないっていうことも大事だけれど、衣装も含めて、子どもらしくっていうか、子どもが自分の表現として踊れる次元でっていうことも大事だと思う。今の衣装は子どもの次元に合ってない。たぶん、指導している人が自分自身表現したいことや自分の好みを衣装を使って表現したんだと思う。踊り手が子どもである必然性みたいなものを感じないもん」

自分が指導したり、踊ったりするわけでもないのに、偉そうに勝手な批評ばかりしているわけですから、指導者の皆さんも、たまったもんじゃないですね。
勝手なことばかり言ってすみませんm(_ _)m
プロとして踊っている息子やプロとして演劇をやっている息子にも厳しいので、まあちょっと勘弁してもらって・・・。

金曜日に、TBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ」を聴いていると、本日のニュースランキングのコーナーで「子育て支援法案の骨子を政府が決定 総合こども園を創設」という話題を取り上げていました。学習院大学経済学部教授、鈴木亘氏によると、

「当初、消費税値上げにより7000億円の予算を捻出し、すべての幼稚園を総合こども園にすることで待機児童対策とする予定だったのに、今回の決定では、消費税を上げても、あらかじめ7000億円のうち3000億円は待期児童対策に使わないことが決まっている上(消費税を上げることが前提の法案です)、残りの4000億円もすべて待機児童対策に使われるわけではない。しかも、現状の待機児童は0~2歳児が8割を占めているにもかかわらず、幼稚園は幼稚園としての存続を認め、3歳児以上を預かればいいことになっており、保育園を総合こども園にしたところで、待機児童対策にならない骨抜き法案になってしまった。待機児童対策が法案の看板ということになってはいるが、偽りの看板といった方がいいと思う」

とのことでした。なかなかここまで詳しく解説されることはないので、法案の中身が大変よくわかりました。これに関連して、首都大学東京教授、社会学者の宮台真司氏が、「幼稚園が3歳児未満を預からないというのは待機児童対策になっていない」と鈴木氏に同調した上で、幼稚園と保育園の中身の違いに言及し、

「もともと幼稚園が保育をするということだったのに、保育園を幼稚園に近づけるという話になった。私は、保育園とか保育所というところが好き。それは教育をしないから。保育園や保育所のように子どもには、預かって遊ばせるということが大事。ちびっ子に、行儀とか礼儀作法とか、集団行動みたいなうんこみたいなこと(集団行動を金魚の糞にたとえていった言葉だろうと思います)を教えているのは日本だけ。(ここで荒川強啓氏が「(行儀とか礼儀作法も)大切だよ」と言葉を挟むのですが、それを「違います!」と強く否定して)集団行動というのは、実は楽。集団行動が一切なしのところだと、朝、行ったらまず誰と遊ぶかっていうところから考えなければならない、そういうところで社交性も身につくし、依存よりも自律的的メンタリティに近づいていく。幼稚園で教育とか、ちびっ子に教育なんてどうだっていい、そんなの適当でいい。我々(大人)が、子どもたちが集団的に保護されるような社会的責務を果たすということが大事なわけで、子どもをちゃんと保護して親が安心して働けるようにすることが求められている」
と、かなり強い口調で主張していました。

これは、以前から私が主張していたことと重なるわけで、私も、宮台真司氏が子どもを通わせている「まったく集団行動のない幼稚園」とほぼ同様な幼稚園に翔(かける)を通わせていたわけです。
「幼稚園で早期教育をしないと小学校に入学した時、勉強について行けない」という人も多いわけですが、そういう幼稚園に行っていたからといって、小学校での学力が問題になったということは全くなかったわけで、むしろ子どもの発達段階に合わせて、何を子どもに与えるべきかという点で考えれば、幼児教育では、宮台氏が言うように「朝、行ったらまず誰と遊ぶかっていうところから考える。
そういうところで社交性も身につくし、依存よりも自律的的メンタリティに近づいていく」という部分なんだろうと思います。
もちろん、大人が段取りをして与えるということではなく、「教育をしない」というやり方で。逆に言えば、そこが欠けているから行儀や礼儀作法が欠けた人間に育ってしまうと言ってもいいのかもしれません。
子どもが、他者という存在を意識し、理解する前に行儀や礼儀作法をただただ形式的に教えてしまうので、行儀や礼儀作法の本当の意味を理解できない。そんなことが起こってしまうんだろうと思います。部活動でスポーツをやっている子どもたちが礼儀作法やモラルに厳しい教育を受けているにもかかわらず、しばしば事件を起こしてしまうのも似ていますよね。

バレエとモダンダンスの話に戻ると、子どもたちに、今、何を与えるのかと考えた時、振り付けや衣装など、むしろそういった芸術的なものこそ、「依存よりも自律的的メンタリティに近づいていくことが大事」という点において、子どもの発達段階に合わせた対応をしないと、個性のない物まねだけの踊り手になってしまうんだろうと思います。
2012/03/05(月)


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2025年4月 5日 (土)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第481回「幸福度ランキング」

家族全員が立ち会った第5子の出産の場面を映画化した「素敵なお産をありがとう」(企画・(株)ライフクリエイト/制作・岩波映像販売(株))で話題になった時、あちこちから講演の依頼があり、全国を回りました。それと平行して出版されたのが妻の半生記を描いた同名の「素敵なお産をありがとう」(祥伝社)。講演会があると必ずその本も販売させていただいたのですが、講演後ということもあり、どんなに大きな会場の時でも必ずロビーに行ってご挨拶をさせていただいていました。本を買っていただいた方には、妻が必ずサインさせてもらいました。もちろん名前は書くんですけれど、そのほかに何を書くかが問題で、二人で何度も相談しました。結局「幸せを探し続けて」に決定。幸せを、探して、探して、探して、探して…、そして、たどり着いたっていうイメージ。

「皆さんも、あきらめずに幸せを必死で探して、前向きに生きて! そうすれば、必ず幸せにたどり着けるはず」そんなメッセージを込めたつもりで、選んだ言葉です。
ところがその後、相良晴子さん(知らない方の方が多いですかねえ?)が、バラエティ番組のリポーターとして我が家へ来た時、私が、
「“幸せになる”とか“見つける”ってよく言いますけど、幸せって“なる”とか“見つける”んじゃなくて、自分で“作る”んだと思うんです」
と言ったんです。そしたら、その“幸せを作る”っていう言葉に相良さんがえらく反応してしまって・・・

まあ、今も私はその通りに考えていて、幸せっていうのは、どこかにあって、それを見つけたから幸せ、見つけられなかったら不幸せ、っていうものじゃなくて、自分自身がいろいろなことを一つ一つ選択して必死に生きることで作っていくものだと思うんです。要するに、どう生きるかっていうことですよね。何を幸せって感じるかによっても、変わってはきますけど。
そんな相良さんの反応があってから、本のサインも「幸せを探し続けて」から「幸せを作る」に変えたんです。読んだ時の音のイメージとか、字面を見ると「幸せを探し続けて」の方がよかったんですけどね。

「幸せ」と「幸福感」っていうのは必ずしも同じではないけれど、「幸せ」って漠然としていてわかりづらいから、それを数字にして考えようとしたのが、法政大学大学院の坂本光司教授率いる研究チームの「幸福度ランキング」。
いつも上位は北陸3県でいつも下位は大阪を筆頭とする大都市圏。東京は47都道府県中38位だからかなり健闘(?)している方かな。1位は福井県、2位富山県、3位石川県、4位鳥取県、5位佐賀県と続き、わが埼玉県は、47位大阪府、46位高知県、45位兵庫県に次いで44位。確か、毎年知事が抗議をしていたように思いますが、相変わらずですね。

ランキングは、人口比に対する交通事故件数や犯罪件数、出生率とか家庭・労働環境、地域の安全性、医療なんかの40項目を選んで数値化したものらしいですけど、実際に感じている幸福感とはずれているような気がしますね。ベストテンには日本海側が6県も入っているのに、秋田県は37位。秋田県は学力日本一の県ですよね。学力が高いと幸福度は低い?これは普通の感覚とは正反対?
福井県は、正社員比率64・5%、離職率は28・1%、どちらも全国3位。女性の就業率、保育所収容定員率は全国1位。こりゃ、たいしたもんだと思う反面、待てよっていう気もする。あまり働き口がないから、正社員で何とか入社できたら、それにしがみつく。離婚をしたら女性は生活できないから離婚をしない。女性が仕事をしないと生活が成り立たないから女性の就業率が高い。2世代、3世代同居が多いから保育所の定員が少なくても収容定員率が高い。
なんてことありませんか?
もちろん福井県が悪い県だなんて言っているわけじゃないですよ。祖母の実家は富山県、義理の叔父の実家も富山県、金沢にもとっても大事な思い出があるし、福井県からはいつも粘土を仕入れているし…。食べ物美味しいんですよね。マス寿司(富山だけど)も大好物です。

要するに、これってくだらなくないですか?「幸せ」とか「幸福」なんていうのは人それぞれだし、見方を変えればまったく逆の結果になってしまうのは誰だってわかっているのに、大学院でこんなことに時間を使ってるんですかねえ・・・。せいぜいテレビのバラエティレベルのような・・・。

数値化して順位をつけると確かにおもしろいけれど、どう考えても統計にはなり得ない。価値観の違うものに順位はつけられない。って考えるのが科学でしょ。ランキングなんて出すんじゃなくて、数字は数字として、なぜそうなっているのかっていう分析に使ってほしいものですね。子どもたちの理科離れが進んでいると言われて久しいですけれど、何でもランキングにしてお茶を濁しているようなことを大学院でやっていては、子どもたちの理論的思考も育ちませんね。こんな程度のことは、学問としてではなく、娯楽としてすませてもらいたいものですね。
2011/11/14(月)


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2025年4月 4日 (金)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第473回「学校がなくなる」

「Kさんが電話ほしいんだって。電話番号、そこに書いといたけど」
「なんだろっ? 珍しいね」
「何にも言ってなかったけど」
他人の家に電話をするのはほぼ夜9時までと決めているのですが、PTA役員をやっている時でさえ、電話がほしいなどと言ってきたことのないKさんが「電話がほしい」なんてよほどのこと。すでに午後10時を回ろうとしていたのですが、とにかく電話してみることにしました。
「もしもし、大関ですが…」
「ああ、大関さん、どうも」

PTAの役員を一緒にやった奥さんからの電話だと思い、「奥さん、いらっしゃいますか」と言おうとしたその瞬間にご主人が話し始めたので、ちょっとビックリしました。
「お電話いただいちゃってすみません。中学校のことなんですけど、聞いてますか? 今、1年生が7人しかいなくて、このままだと来年廃校になりそうなんです。来年度、40人以上生徒が集まらなかった場合は、廃校にするって。突然なんですよ。1年生が少ないのはわかってたけれど、廃校なんていう話はこれまでなかったんです。それが突然廃校なんていう話されても…。1年生が7人なのに、いきなり40人以上なんて言われたって、今の6年生が全員そのまま中学に上がったって、ぎりぎりですよ」

「今年、小学校を卒業した子もそれくらいいましたよね?」

「卒業した子はいましたけど、ほとんど別な中学校に行っちゃったんです。中学校が何も手を打ってこなかったから。中学校は選択制でしょ、だから他の学校はいろいろ宣伝してるんです。説明会を何度も開いたりして…。なのにうちの学校は何もしない。だから生徒をみんな取られちゃったんですよ」

「最近、中学校とはあまり関わってないので知りませんでした」

「廃校にならないように何とかしようっていう気がないんですよ。教育委員会から“40人以上にならなかった場合は廃校”っていう説明があっただけで、中学校も結局教育委員会側ですよね」

「教員はどこの学校に行っても同じですからね。むしろあまり小規模校だと一人ひとりの負担も多くなるし、校長先生だって、本当のところ小規模校よりは大規模校の校長の方がいいでしょ。おそらく教育委員会の既定路線ですよね、すでに。今年7人で、来年もそんなもんなら、教員の人件費とか、学校の維持費とか、市内の他の中学校と比べたら生徒一人あたりの市の負担額はかなり多くなっちゃうでしょ。そう考えると、教育委員会の既定路線をひっくり返すのは難しいですよね。財政的にそれだけの余裕はないだろうし…。この地域の人口が増える可能性があって、子どもの数もこれから増えるかもしれないっていうんならすぐ廃校っていうこともないんでしょうけど…」

「とにかく40人ていうのをもう少し少なくしてもらって、教育委員会に対して、3年でも2年でも猶予がもらえるよう運動しようって言ってるんです。それと小学校の卒業生には地域の中学校へ進学してもらえるようにって。大関さんなら何かいい考えがないかなあと思って…」

娘から一度、中学校の1年生が少ないっていう話を聞いたことがありました。
その時に、7人しかいないと聞いたような気はするのですが、50人以上の小学校の卒業生がいて、まさか7人しかいないなどということは夢にも思わなかったので、あまり本気で話を聞かなかった気がします。
確か「中国人の子どもたちは小学校統合(3年前、うちの地域の小学校が隣の小学校と統合し、うちの地域の小学校が残りました)のときにもだいぶ引っ越したみたいだから、ほとんどどこかへ移っちゃったんだろ」(統合になった団地の小学校にはかなりの数の中国人の子どもがいましたが、小規模な小学校での子どもたちの学力に不安を持ったのか、多くの家庭が引っ越してしまいました)などと言ったように思います。
ところがKさんの話を聞いて、状況がまったく違うことがわかりました。規模がどんどん縮小する地域の中学校では、好きな部活動にも入れない、学力の低下も心配ということで、中学校の選択制を利用して、地域とは別な中学校に進学してしまったということのようでした。

廃校になった場合も、隣の中学校まではそれほど距離があるわけではありませんが、間に線路があるため、我が家のある地域は、中学校のない孤立した地域のようなイメージになります。中学校の存廃は、学校だけの問題にとどまらず、地域全体の大きな問題であることは間違いありません。平島のYさんが「学校の存続は島の存続に関わる」と強い危機感をお持ちになっていたのもよくわかります(第469回参照)。
地域から中学校がなくなるということは、これまで地域の中に生活の拠点のあった中学生が生活の拠点を地域外に移してしまうということであり、それは地域内に暮らす大人の人間関係をも希薄にさせてしまうことにつながります。特に中学校の選択制により、地域からより離れた学校を選ぶ生徒が多ければ多いほど(中学校に魅力がないというよりは、むしろ小学校における楽しい学校生活の欠如がそういう状況を生むのではないかと思います)、状況は深刻です。

地域力の再生が叫ばれる中、決して商工業地域でない、東京のベッドタウン、人口密度の高い住宅街でありながら、まるで過疎化が進行しているような状況は、地域社会の危機と言ってもいいのかもしれません。果たして、来年度の中学校の存廃がどうなるのか、推移を見守りつつ、何とか存続できるよう私なりに努力をしたいと思います。
2011/09/20(火)


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2025年4月 3日 (木)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第458回「20mSv(ミリシーベルト)の目安変えず1mSv目指す」

「新茶は仕入れたって売れないから、いつもより少なめに仕入れないと…」
「そうかねえ?」
「“そうかねえ”じゃないよ! 足柄で放射線が検出されたっていってるのに、狭山は大丈夫なんてことあり得ないでしょ!」
「・・・」                                                                                                  
「飲んで安全か、安全じゃないかじゃなくて、商売なんだから売れるか売れないかで考えないと…」

いつも陶芸教室で、会員の皆さんにお出ししているお茶は、狭山茶の小売りをしている実家のお茶です。この日も陶芸教室で出すためのお茶を買いに(たいした売り上げもないけれど、一応実家も商売なのでちゃんとお金を払っている)実家に行きました。全国的にも狭山の煎茶の評判はよく、陶芸教室に持って行くと教室で飲むように持って行ったお茶なのに買ってくださる方がいるほど。この日も100g600円のお茶を200g入りで20本、持って帰りました。

数日後。
「お茶を買ってくれるっていう人がいるから、1000円と1200円の真空パックのやつ、4、5本ずつ用意しといてよ。新茶じゃないやつあるでしょ?」
と電話をかけ、実家に行きました。
「栃木、茨城、千葉でも生茶葉から放射線が検出されてちゃ、“新茶です”って持ってけないから、とりあえず新茶じゃないやつ頂戴よ。あと600円のと800円のも…」
「新茶じゃないのって、そこにある真空パックのしかないんだよ。いつもなら、新茶が出ると新茶じゃないのは売れなくなるから、値下げしたりして売るんだけど、今年は遠くからわざわざ“新茶じゃないやつください”って、まとめて買っていく人がいるんだよ」
「やっぱり…。言った通りでしょ!?この状況だもん、そうなるよね」
「新茶じゃないのっていうことなら、そこにあるだけ」
「600円のと800円のはないの?」
「もう全部新茶になっちゃってる」
実家は1000円以上のお茶は真空パック、それ以下のお茶は量り売りをしているんですが、例年だと在庫量の関係で値段の高いお茶がまず新茶に切り替わり、そのあと仕入れの量の多い値段の安いお茶が新茶に切り替わります。ところが今年は新茶が出たあとも新茶でないお茶を買いに来る人が絶えず、最もよく売れる100g600~800円のお茶の新茶ではないものの在庫が尽きて、すでに新茶になってしまったというわけなんです。

多くのお茶の生産地が生茶葉、荒茶の放射線量を公表しているにもかかわらず、埼玉県は5月13日時点では生茶葉、飲用茶について公表していたものを、20日時点の調査については生茶葉の数値を公表せず、飲用茶のみを公表しました。
(http://www.pref.saitama.lg.jp/page/nousanbutsu-kakochousakekka.html)

小売業の立場からすると(小売りをしているのは私じゃないけれど)これにはちょっと困ります。生茶葉と荒茶は数値が大きくて公表できないって言っているようなものですから。新聞の報道によると農水省と厚労省の協議によって、「生茶葉」の数値ということで落ち着きそうですが、農水省の「お茶の葉を食べるわけではない」という話にも無理があるように思います。以前、フードプロセッサーで粉にしたお茶をふりかけにしてガン予防になんていうCMをやってました。
都合が悪くなると、基準値を上げてしまったり、調査対象を換えてしまったり…。まさに今これが問題なんですよね。これが信用を無くす結果になっている。

4月19日に文科省から発表された小中学校や幼稚園などの暫定的な利用基準が20mSv。文科省前での抗議や様々な人からの批判もあり、5月27日になってやっと年間1mSv以下を目指すという文科省方針を発表しました。とはいえ、基準自体を変えたわけではなく、あくまでも「目指す」ということです。
この件については、皆さんもご存じの通り、4月29日東京大学教授で内閣官房参与だった小佐古敏荘氏が声を詰まらせ涙の辞任会見を行いました。1mSvという数字については、「全体の限度を年間1ミリにしたら、福島県内で義務教育ができなくなる」という文科省幹部の発言があったとも伝えられています。これが事実だとすれば、いったい何を優先しているんだと怒りたくなるのも当然です。

新茶が売れないと実家も閉店の危機に直面することになりますが、何とか母が生き延びる方法は(“とりあえず家もあるし、年金ももらっているので”と母が言っていました)あります。けれども、子どもたちはガンになったら生命そのものが危うくなる。お茶も被曝線量もまったく同じで、もとの基準をクリアできなくなったから基準値を上げてしまう、計測するものを換えてしまうなどという不信感を招くようなことをせず、いかに基準値を守るかという最大限の努力をしてほしいものです。
うちの研究所にお見えになっている方の中には、子どものために転居をする方も出てきました。埼玉県でなぜそこまで?と思う方もあるかもしれませんが、問題なのは現在の放射線量ではなく、提示された基準値に対し、“××mSvまでは安全なんだ”という誤った認識に基づく教育現場の対応があるからです。
多くの専門家が繰り返し述べているように「被曝線量は少なければ少ないほどいい」ということを念頭に置き、内部被爆も考慮した最善の施策が子どもたちに対して行われるよう、行政や教育現場は努力する必要があるのではないでしょうか。
2011/05/30(月)


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【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第457回「ラクダプロジェクト」

「いやぁ、趣味が変わってるんですよ」
「へーっ。どんな趣味?」
「ダチョウを飼ってるんです!」
「ダチョウ? ダチョウって、鳥の?」
他にどんなダチョウがいるんだよ!ダチョウと言えば、鳥に決まってる。
だけど、あの大きな鳥のダチョウを飼うっていうイメージが頭になかったものだから、私も変なことを言ってしまいました。

そんな電話を商工会議所のH氏からもらったのはつい先日。そして、ダチョウを飼っているというK氏に会うことになりました。
もちろんお会いする理由は他にもあったわけですが、私はダチョウのことが気になります。
「それで、ダチョウのことなんですけど、なんでダチョウを飼ってるんですか?」
「食用にするんです。私が飼ってるんじゃなくて、飼ってるのは兄ですけどね」
「お兄さんがやってらっしゃるんですかぁ。食用???」
あのダチョウの肉を喰う?
ワニの肉は食べたことがあるけれど、ダチョウはないぞ!
なんだか足で蹴飛ばされそう。いや、足じゃなくて羽で叩かれる? 
私の頭の中には、捕まらないように逃げ回り、羽をバタバタしているダチョウの姿が浮かんでいました。羽が飛び散り、思わず咳をしそうです。
ぎゃー、ダチョウなんて喰えんの?!
だいたいどうやってあの羽をむしるんだ? 人間よりデカいんだぞ! 走るのだって速いんだぞ!
今度は、ダチョウの首をつかんで肩に背負っている場面が頭に浮かんで、「ぎゃーっ!」と叫びだしたい気分。それをぐっとこらえて、
「ダチョウの肉ってどんな味がするんですか?」
「仔牛の赤身みたいな…。鳥というよりは、牛肉ですよ」
「へーっ、そうなんだぁ?!」
「生で食べられるんですよ。牛と違って菌がほとんどないんです」
「へーっ?!」

何を聞いても初めて聞くことばかり。
どうやらダチョウの肉はうまいらしい。
「卵は鶏卵20個分くらいです。鶏卵よりちょっとゆるいんです」
「1個割ったら大変なことになっちゃいますね」
「そうですね。ケーキ屋さんなんかは同じものが大量に出来るからいいんですよ。ムラが出来ないから」
なるほど、そういうことか…。
「プリンなんかは鶏卵の時と同じつもりで牛乳を混ぜちゃうと、すごく緩いプリンになっちゃうんです」
「プリンが茶碗蒸しみたいになっちゃうんですね?」
「そうですね」
K氏の話したいことはダチョウの話ではなかったんでしょうが、私の興味はすっかりダチョウに。

家に帰ってきてから、
「ダチョウを飼うってよくない? 飼いやすいらしいよ。草の生えてるところに柵を作って放しておけばいいらしい」
「ふーん。で、飼ってどうするの?」
「肉だよ。食肉用。仔牛の赤身みたいなんだって」
「ダチョウって、あの砂漠に住んでるやつ?」
「? 砂漠? 砂漠じゃないんじゃないの。草食なんだから、草原っていうか…」
「あれっ? こぶが二つあるやつ想像しちゃった。あれはラクダだった。鳥のダチョウかぁ」
「当たり前でしょ!? ラクダじゃなくてダチョウ! でっかくって、首が長くて、走るのが速いダチョウ!」
「ダチョウの牧場をやろうっていうわけ?」
「そうそうそう。蓮が行ってる平島とか、十島村の他の島とか、産業がないでしょ。牛の牧場はあるわけだから、ダチョウの牧場っていうのもいいんじゃない? 牛より簡単そうだし、観光の目玉に…。ダチョウ肉のレストランを作って、ダチョウのステーキをメインにする」
「へぇ。努にそんなこと言ったら喜んじゃうだろうね。ラクダプロジェクトってことで進めようとしてる?」
「だからラクダじゃなくて、ダチョウでしょ。ダチョウプロジェクトとして進めるっていうことでどうかなあ? 蓮と沙羅を放射能から避難させるのもかねて、十島村の離島でダチョウ牧場を展開する…」

まったくちょっとダチョウの話を聞いただけでこれだからね。このダチョウ牧場の話、我が家では正式に「ラクダプロジェクト」と命名され、陶芸教室、カウンセリング研究所、そして第3の事業として、今後どう展開するか検討されることになりました。高校を卒業するとき、ダンサーか牧場経営かで迷った努でしたから、年齢的に踊り手としてはきつくなってきている現在、本気で話をしたら大変なことになりそうです。
7月に蓮のいる平島に行く予定ですが、
「おい蓮、お前は漁師やれよ。じいちゃんは牧場やるからな」なんて話になるかもしれません。
はははっ、もちろん冗談ですよ。半分くらいは…(笑)
2011/05/23(月)


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2025年4月 2日 (水)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第453回「避難所のボランティア その1」

「あれはひどいよ。もっと何とかならないのかなあ」
「そうなんだ…」
「テレビはずいぶんよさそうに報道してたけどね」
「そうだね。加須の人たちとか、先生たちが掃除をしたり、畳を敷いたり、一生懸命準備をしている映像流れてたもんね。状況じゃなくて、善意だけを報道してる」
「そうなんだよね。でも実際に現地を見てみると、“えっ!?”って絶句するよ。確かに建物が壊れているわけじゃない、食料もある、トイレもある。でも一人当たりのスペースなんて、畳1畳くらいしかないから、横になるとすぐ隣に他人がいるわけ。あれじゃ寝られない。廊下に仮設トイレくらいの更衣所みたいなのはあるけど、あそこでみんなが着替えるっていうのもね。ちょうど試着室みたいな…」
「ふーん。学校だったんだから、更衣室だって、各科の研究室だってあるだろうにねえ…」
「そうだよねえ。全部見てきたわけじゃないから、分からないけどね。そういうところも何かに使ってるのかもしれない。職員室が役場なんだよ」
「なるほどね。それはピッタリかもね。もともと役場みたいにできてる」
「体育館もあるけど、そこのかなりのスペースは物資が山積みになってる。段ボールに中身が書いてあるんだけど、いらないんだろうね、あれは。必要もないもののために、使えるスペースが無駄になってる」

福島第一原発のある福島県双葉郡双葉町の住民の皆さんが村ごと避難生活を送っている埼玉県加須市の元騎西高校に臨床発達心理士としてボランティアに参加した妻は、帰ってくるなり私に話し始めました。

受け入れる側も最大限の努力はしているんだろうけれど、さすがに仮とはいえ、村を挙げて移住というにはあまりにも悲惨な状態らしい。
「生活感がないと思ったら、どこに行ってもテレビがないんだよ。一台もだよ。情報は未だにラジオだけなんだって。誰でも使っていいパソコンは何台かあるみたいだけど」
「なんでテレビがないんだろうねえ?」
「そうなんだよ。役場にもないんだよ」
「たいした値段じゃないし、学校なんだからアンテナだって引いてあるでしょ?」
「だと思うけどねぇ…」
「うちの陶芸教室とカウンセリング研究所で寄付したら? ちょっとずつカンパしてもらえば、200人以上いるんだから、テレビの何台かは買えるんじゃないの? でも、わざと置いてないってこと?」
「そうかもしれないんだよ。それがわからないと寄付するわけにもいかないし…」

役場にもテレビがないっていう話を聞いて、私と妻の間では寄付できないかという話になったのですが、寄付がいいことなのか、迷惑なのか…。体育館に山積みになった物資や全国でランドセルが大量にあまっているなどという報道を見ると、簡単には踏み切れないものがあります。
「必要かどうかを直接確かめる方法があればね」ということで、まず欲しいのかどうかを確かめた方がいいということになりました。もっとも、その尋ねるっていう行為が迷惑になる可能性もあるので、簡単そうで難しいのですが。

妻が騎西高校を訪れたのは、臨床発達心理士会として子どもたちと遊びの会を持つということで行ったわけですが、実際は子どもの数よりもボランティアの数の方が多く、1人の子どもに4、5人もの大人が関わるような状態だったそうです。
「子どもを集める努力が足りなかったのかもしれない」
「いや、違うんじゃないの。もともと子どもの数が少ないとか…。村自体高齢化が進んでいたわけでしょ?」
「そうかも…」
「子どもとの遊びの会っていう設定に無理があるのかもね」

妻が避難所の様子から一番心配していたのは、避難している方たちの意欲です。最近の報道を見ると、復興に向けて動き出した被災者の皆さんの前向きな姿勢を強調するような報道が目立ちますが、少なくとも騎西高校に避難している双葉町の皆さんについて、妻の話からは、そういった状況は窺えません。
まったく先の見通しの立たないというか、むしろ双葉町の皆さんからするとますます悲観的要素の増すような今の原発の状況からすると当然のことです。これまでの生活の基盤をすべて奪われ、戻れる見通しすら立たない。そんな中で、未来を見据えた意欲など湧くはずがありません。
「何かをしてもらうことに慣れてる感じ。張り切ってるのはボランティアだけみたいな…」
「それってまずいよね。どんなに大変な状況でも、助けてもらうだけじゃなくて、人の役に立ってるっていう感覚、出番っていうかそういうものがないと…。避難してるお年寄りだって双葉町の中ではきっと何か大きな役割を果たしていたんだと思う。地域のコミュニティってそういうもんだよね。年齢には関係ない。子どもがいて、若い人がいて、お年寄りがいて…、それが相互に作用しあって成り立ってる。それがなくなって、“してもらう”だけになっているとすれば、人間としての生きる意欲が失われちゃう」
人にとって、とても大切なものが欠けているような生活。それが避難所の現状なのかもしれません。

つづく
2011/04/25(月)


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【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第451回「子どもたちには事実を正しく聞き、正しく理解する力を!」

私は原子力に疎いので、「原子力」という分野がどうやら自然科学ではないらしいという程度には理解しているけれど、物理なのか化学なのかよくわからなくて、
「原子力って、物理? 化学?」
なんていう具合にいつもつまらないことで悩んでいます。何度考えても、物理のような気もするし、化学のような気がする。もっとも、そんなことで悩んでるなんて言うと
「だから何なの!?」
と多くの人に一蹴されそうな気がしますが…。

自慢じゃないですが、私は中学まではけっこう数学と理科が得意(これって明らかに自慢っぽい)でした。「もしかして末は物理か化学の研究者?」と思うくらい。とはいえ、今を見れば、それは他者との比較で言っているのではなくて、自分のすべての能力の中で、多少は「他の科目よりは得意だった」という程度であることは明白ですけれど…。

ところがある時から、得意だった(?)はずの数学と理科が得意ではなくなったんです。では、いつからなぜ得意ではなくなったのか…。
「ほんとは元々得意じゃなかったんだから当たり前じゃん!」なんて思う人もいるかもしれないけれど、とりあえず自分では得意だったと思っているので、そういうんじゃなくて、私なりに理由があるんです。それは、高校の数学の授業で起こったんです。代数幾何だったと思うんですけど、なんか私にはよくわけのわからない数字が“ある文字”のところに代入さたんです。私はとても素朴に、
「何でそれをそこに代入するの?」
と思いました。いくら考えてもどうしてなのかわかりません。どうしてもわからなかったら質問するしかありません。
「どうしてここにこれを代入するんですか?」
それに対して返ってきた答えは、
「これを代入すれば、ほらっ! 解けるだろっ。だからこれを代入するんだ」
でした。

私は唖然!
そんなの答えになってな~い!
それまで私は「××だから××だから××」みたいなものが数学だと思っていたんです。それはそれはカルチャーショックでした。その時の私にとって、それは問いと答えがかみ合ってなかったんです。数学という学問に対する信頼が一気になくなった気分。それからまったく数学に興味がなくなっちゃったんです。
今でも、私の物の考え方って数学的なんだって思います。「××だから××だから××」みたいな三段論法的っていうか…。だから、「変なワニってどんなワニ?」というなぞなぞの答えが「変なワニ」だった息子のなぞなぞには度肝を抜かれたし、そんな息子の意識について行くのに苦労したんです。でもどう考えても、「これを代入すれば、解けるだろっ。だから…」っていうのは「変なワニって変なワニ」のレベル。未だに納得がいきませんが、それが数学や物理・化学の本質かと…。

そういえば、中学の時の数学の先生が、「今は1+1=2は客観的な真実だって思ってるだろうけど、あと何百年かしたらそれが覆されてるかもしれないよ」って言ってましたっけ。
そういう意味では文学なんかよりも答えが決まっていないのかもしれないですね。

3月11日以来、原子力の専門家のいう先生方が、とっかえひっかえ登場しては、ことさら「安全」をアピールしていました。これもどう考えても私には納得がいかない。まったく根拠がない。と言うか、おっしゃってる先生方にしてみれば何かを根拠にしているんでしょうが、素人を納得させるにはあまりにも稚拙。
私に言わせれば「変なワニって変なワニ」。

「原子力発電所の安全対策は万全だから放射能が漏れることはない」なんてよくも言ったもので、今回の震災でそれが真っ赤な嘘であったことが露呈してしまったわけです。物理だか化学だかよくわからない原子力を志してきた人たちが、客観的事実をねじ曲げて、自分たちの都合のいい主張ばかりしてきたことは大変重大。
今回の事故で、数学や物理・化学が理論の積み上げによって構成されているのではないということを高校の時以来感じた私ですが、少なくとも子どもたちには科学的裏付けがあること、科学的裏付けがないことの区別をきっちり、誠実に教えていかないと、第2の私がたくさん出来てしまうのではないかと思います。

「子どもたちには事実を正しく聞き、正しく理解する力を!」おそらく、そんなことが日本復興のカギになるのではないでしょうか。政府にもきっちりした対応を望みたいですね。
2011/04/18(月)


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
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