2022年6月13日 (月)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第288回「異住所交流会」

「そちらに中山紀正(仮名)さんが入院していると思うんですが、何号室ですか?」
「そういうことにはお答えできないんですよ」
「えっ、親戚のものなんですが…」
「規則ですから」
「すぐそばまで来ているので、これから伺おう思うんですが、入院はしてるんですよね?」
「それもお答えしかねるんですが…」
「えーっ!入院してるかどうかも教えてもらえないの?」
「はい、規則なので…。どなたかご親戚の方にご確認ください」
「だからぁ、私がその親戚だっちゅーの!」
水戸の近くの病院に義理の弟(正確に言うと元義理の弟)が癌で入院し、放射線治療を受けていると甥から聞いて、お見舞いに行こうとしたときの病院との電話のやり取りです。「元」なので、正確には親戚ではないし、普通だったら「お見舞い」でもないのですが、義父の通夜にもわざわざ水戸から駆けつけてくれて、義母が「今までもお世話になったし、孫の父親なんだからこれからも孫のことではお世話になるんだし」と言うので、婿と元婿というやや関係の遠い私が、病院を訪ねることになったのでした。
「どうしようかなあ?」と思いましたが、わざわざ水戸まできて、用も足さずに帰るわけにもいかないので、ややこしい関係でお見舞いに行く前から甥に負担をかけるのは嫌だなあと思いつつ、甥に電話をかけて、確かめることにしました。
個人情報保護法が施行されてから、こんなことがよく起こります。
先日、病院内で人違いから射殺されるという事件が起きました。あの場合は確認ができていれば、事件に巻き込まれなくてすんだケースでしたが、他人に教えてしまったことで、事件に巻き込まれるということも考慮してのことなんでしょうか。
あまりそういった事件を聞いた覚えはないのですが…。
私の住んでいるマンションの管理組合の定時総会で、「名簿に電話番号を記載しないでほしい」という意見が出されたことがありました。個人情報保護法が制定される前のことで、管理組合では、毎年部屋番号と電話番号が記載された居住者名簿を作成して、全戸に配布していました。売られた名簿を元に頻繁に電話がかかってくるということが社会問題化していたときで、名簿の問題に敏感な人たちが出始めたころのことです。総会では、様々な意見が出ましたが、それまで、名簿があっていろいろな連絡やコミュニケーションが取れていたということもあり、電話番号はそれまで通り載せるということで決着しました。
その後、個人情報保護法が施行となり、現在では電話番号だけでなく、名簿そのものを作らないことになっています。
今年も、そろそろ年賀状の季節。孫の通う幼稚園では「異業種交流会」ならぬ「異住所交流会」(そんなもの本当にあるわけはないですが)があるらしく、なにやら住所を書いた名刺のようなものを作っては、年賀状のやり取りをする人に渡しているようです。
私も会社をやっている関係で、生命保険会社やこのエッセイでもお世話になっている商工会議所の「異業種交流会」には、何度か出席させていただいていて、名刺を交換することの意味・意義は充分に理解しているつもりですが、幼稚園までそんなことをしなくてはならなくなっているとは…。
どうやら、電話の連絡網だけはあるらしく、運動会や遠足といった行事の時には、電話がかかってくることはありますが、住所がわからない。そのため、年賀状を出すには、住所の書いてある名刺様のものを交換しておくのが手っ取り早いということなのでしょう。昔は名簿を見ては、「この人とはあまり関係がよくないから、年賀状を出しておこうかな?」なんて、関係改善を図ったりもしていたんですけれど、いまでは仲のいい人とだけのやり取りになっているんでしょうね。
確かに住所や電話番号が漏れるということのリスクもありますが、それが行き過ぎると「地域社会の崩壊」につながります。うちは10階建てマンションの1階にあるので、たまに上の階から物が落ちてくることがあります。さすがに下着が落ちてきたりしたときには、何も言ってこないこともありましたが、これまではほとんどの場合落とした本人か管理人室から連絡があり、取りに来ていました。ところが、名簿がなくなってからは、連絡があることが少なくなりました。これまでだったら、管理人室を通して連絡があったような場合でも、たいていは、直接謝罪の電話くらいはあったものですが、今では各階に1人いる理事を通さなくては連絡が取れないので、「落とした」という連絡そのものもなくなりましたし、謝罪の電話があることもなくなりました。
もちろん、「どこの部屋にどんな人が新たに越してきた」などということもわからないので、廊下や駐車場で顔を合わせ、「こんにちは!」なんて声をかけても、「あれっ?あんな人いたっけ?」ということも…。「これで不審者を見分けられるのかなあ?」と不安になることさえあります。
以前小学校での防災訓練では、電話が通じないという想定で、家から家へ直接伝えるという方法で、安否の確認や避難の仕方、誘導などを行うという訓練を行っていました。ところが、ここまで住所が非公開になってしまうと、ごく限られた、しかも普段自分に心地のいい人間関係しか存在しなくなっているので、地域の連携などまったく考えられません。
行き過ぎた個人情報の保護を改めようという動きもあるようですが、子どもを守るという観点から考えれば、何が本当に重要なのか、もう一度考え直す必要があるのではないかと思います。
つい先日、
「年賀ハガキ、買ったよねぇ? 何枚かもらってもいい?」と娘の麻耶が私に聞きました。
今年も娘と孫は「異住所交流会」で名刺(?)交換をしたお友だちと年賀状のやり取りをすることになるんでしょうね、きっと。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2022年5月20日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第273回「習熟度別って効果ない?」

8月26日、朝日新聞朝刊に「習熟度分けても英語成績伸びず」との見出しで、全教・教研集会での和歌山県の県立高校教諭からの報告の記事が掲載されていました。
03,04年度に普通科2年生2クラス80人を対象に「英語Ⅱ」で上位2つと下位1つの3グループに分け、習熟度別授業を試みたそうです。全国模試の平均偏差値で見ると、03年度、04年度も大きな変化はなく、習熟度別の効果は確認できなかったとか。ちなみに04年度に行われた7,11,1月の3回の模試の結果は、上位が「48.7→48.0→47.7」、下位が「46.1→44.5→45.6」。
この結果を見る限り、7月より1月の方が模試の結果が悪いので、確かに習熟度の結果が出ていないようにも見えますが、標本が2クラス80名と少ないこと、そして習熟度別クラスとそうでないクラスの比較ではなく、習熟度別クラスの時間的経過だけが比較対象になっていることなどを考えれば、実際にはほとんど意味のない調査になってしまっていると言わざるを得ません。(新聞報道が、比較対象を時系列的偏差値のみに絞った可能性もあるので、すべてが無駄とは言えないのですが、新聞報道を読む限り、調査としてあるいは記事として、とても稚拙と言えると思います)
調査をした先生に、「効果がないのではないか」あるいは「効果があるはずがない」という考えがもともとあって、そういう結論を導き出すための調査であったのかなという気もしなくもないのですが。(あくまでも「報道の内容がすべて」という前提でですが)
とは言え、私も「習熟度別授業」を単純に支持するものではないので、「教師を増やした割には効果が見られなかった。同じレベルが集まると生徒は安心してしまい、成績の引き上げ効果が失われているようだ」という、この先生の後半部分のコメントにはある程度納得できます。塾をやっていた経験から言うと、短期間に特定の子の成績を上げようとすれば「習熟度別」というのは、絶対に必要です。「先に進む」あるいは「さらに難易度の高い問題をこなす」ということであれば、当然それについてこられない子どもたちは「足手まとい」になります。「足手まとい」になった子どもたちを切り捨てずに、なんとかしようとすれば、クラスを分けるしかない。一般的に言って、個別指導でない塾はそれを実践しているわけで、成績の順にクラス分けを行っています。塾の目的は、ただ単に少しでも多くの生徒の学力を、できる限り現状より良くすることが目的なので、上下の学力格差が広がり差別が助長され、ある程度の落ちこぼれが生まれようと、そんなことはお構いなしです。もっとも、経営上、低学力の子どもたちを切り捨ててしまっては「もったいない」ですから、簡単に切り捨てようとはせず、丁寧に面倒を見ているように装いますが…。
それを即公立の学校に当てはめてうまくいくかというと、そうはいきません。「習熟度別」に分けるということ自体、学力格差による「差別」という議論もあると思いますが、その後、分けることによって、さらに学力格差が広がってしまい、「差別を生む」ということをどうするのかというのが大きな問題です。
どうも日本人は、文化として、格差を広げることを好まない傾向があるように思います。今回の参議院選挙の結果を見ても、相次ぐ閣僚の不祥事や安倍さん個人のキャラクターの問題はあったにしても、やはり根本的にくすぶっていたのは、格差の問題です。置き去りにされた地方の氾濫というのは、もちろんありますが、都市部でも格差については、はっきり「ノー」です。
和歌山県の先生の言う「同じレベルが集まると生徒は安心してしまい、成績の引き上げ効果が失われているようだ」というコメントも、日本の文化として捉えた場合、とても良く理解でき、おそらくこれからも、それを打ち破るのは並大抵のことではないのではないかと感じます。単純に成績順に「習熟度別に分ける」ということではなく、もっと日本の風土にあった「新たな習熟度別」が必要なのかもしれません。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2022年4月30日 (土)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第272回「不登校、再び増加に転じる! 後編」

うちの陶芸教室にも、不登校の子どもたちが何人か通ってきていました。一つは陶芸というものが作業として不登校の子どもたちにも受け入れられ易いこと、もう一つは教室に通ってきている他の会員の皆さん(不登校の子どもたちが訪れる時間帯というのは、ほとんど主婦を中心とした50代後半から上の方たちが中心ですが)が、不登校児というものを意識せず、差別することなく受け入れていること。そんな理由から不登校の子どもたちも居心地がいい(というよりは、他のところよりは居心地が悪くないといったくらいかもしれません)のだろうと思います。
カウンセリングや教育相談といった、カウンセリング研究所における不登校についての直接的な関わりではないので、うちの陶芸教室としては、他の会員の皆さんと同じようなサービスを提供し、それがその子に合えば通ってくるし、合わなければやめていくという単純なことで接するようにしています。もちろんスタッフは陶芸を教えることはできますが、教育やカウンセリングのプロではありませんので、そういう意味ではおそらく扱いは雑です。「不登校児」という扱いではなく、「やや若い陶芸教室の会員さん」という扱いです。日常的に「不登校」であるということを意識し、あるいは意識させられている子どもたちにとっては、陶芸教室にいる時間は「不登校」から意識が離れられるほんのわずかな時間なのかもしれません。おそらくそれが「居心地が悪くない」という状況を作り出しているのだろうと思います。
入会時にあまりプライベートなことには触れませんので、スタッフは不登校かどうかも詳しくは知りません。ただ、なんとなく隠しているようになってしまうのは本人にとっても苦痛でしょうから、私は率直に「学校、行ってないの?」と聞いてしまいます。学校に行けるようになることが目標ではなく、うちとしては陶芸を長く続けてくれさえすればいいことなので、「不登校である」ということを開示してしまってくれれば、こそこそして居心地が悪くなることもないので、率直に聞いてしまった方がいいかなあと考えているわけです。私としては、「いつ続かなくなっちゃうだろう」と常に心配をしているわけですが、そういう事情ではない一般の会員さんより、むしろ定着率がいいようなくらいで、中学校で不登校になった女の子や高校で不登校になった男の子たちが、就職が決まり仕事を始めるまで通ってくる例も少なくありません。まあ、週に1~2回程度ですから、学校に比べればはるかに負担が軽いわけで、そういったことも影響しているんだろうとは思いますが…。
前回も少し触れましたが、不登校が問題として取り上げられ始めたころというのは、「子どもは悪くない」という発想から、子どもたちに対する学校の対応の悪さも指摘され、子どもを救う場所、その子の持っている個性を大切にする場所として、各地に多くのフリースクールができました。これは、子ども自身の持つ内面的な要因は認めながらも、学校の状況や対応の悪さに直接的原因を求め、その原因を取り除くことで、子どもの心を救おうとしたものでした。居場所がないことを実感している子どもたちにとってフリースクールは、自分たちの居場所としての存在を示し、ある一定の大きな成果を生みます。そして、今もそこに通っている子どもたちにとって、大きな存在になっていることは確かです。
けれども、最近の不登校事情を見ると、それだけでは対応できないような不登校が増えているように感じます。
26、7年前、学校が荒れたことがありました。うちの子どもたちの通っていた中学校でも掃除の時間中に「窓から火のついた雑巾が降ってきた」というようなことがありました。暴力がはびこり、授業は成り立たず、当然のことながら不登校も増えました。大きな原因の一つに「管理教育」があったことは間違いありません。その頃、「大学のような高校を作ればいい」(今の単位制高校のような)というのが私の持論で、実際に県から学校設立に関する膨大な資料を取り寄せたりもしました。まだ規制が厳しい時代で、資金繰りにめどが立たず断念するのですが、その数年後、伊奈に公立の単位制高校が開校しました。当時とすると画期的な発想で、荒れた教育に対する救世主的な存在でした。不登校対策というよりは、むしろ中途退学や“やる気”に対する対応策という要素が大きかったと思います。そして、その後規制緩和がどんどん進み、単位制の高校が開校しやすくなりました。私はそれが、不登校に対する考え方を変えなければいけない転機に結びついたのだろうと考えています。
もちろん、その後も「居場所のない子どもたち」は増え続けます。それに対して、多種多様な形態、内容の学校も増えていきました。そしてそこへ少子化の波。当然のことながら、学校間で子どもの取り合いが始まります。その結果、学校が子どもにこびる結果となった。
「ここの学校が嫌ならこっちの学校、こっちの学校が嫌ならあっちの学校」というように、決められた場所に適応しようとせず、今の自分を受け入れてくれるところを探すという状況が生まれます。それは、ある部分では正しいのですが、ある部分では子どものわがままを助長することになります。そこへよく言われる「80年代」世代の子どもたちが、学校に通い出し…。
これからの不登校対策は、以前のような「子どもの居場所」作りではなく、ある一定の閉ざされた(閉じた)場所で、子どもたちがいかに人間関係を築けるよう育てていくかにかかっているんだろうと思います。
県も親を教育することに力を入れはじめたようですが、県のやっていることはどうも復古的過ぎる。社会構造が多様化しているにもかかわらず、父親、母親の役割を限定的に捉え、「昔の親子関係に戻す」的な発想で、進めようとしているように感じます。とは言え、親子関係を見直すことが必要な時期にきているというのは、私も感じていることで、今後の不登校対策は親子関係をどう構築していくのかにかかっていると思います。
親子関係の作り方も、陶芸教室に通ってきた不登校の子どもたちの様子の中に、ヒントがあるような気がするのですが…。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第270回「定員割れ大学のターゲット」

先日テレビを見ていたら、少子化により定員割れの大学が、今春4割を超えたというニュースが流れていました。
読売新聞によると、
「今春の入試で、入学者が定員に満たなかった4年制私立大学の割合が前年度の29・5%から40・4%に急増し、過去最高となったことが24日、日本私立学校振興・共済事業団の調べで分かった。私立短大の定員割れも前年度比10・2ポイント増の51・7%に達した。同事業団では、18歳人口が減る一方、大学設置認可の緩和などで大学や学部の新設が相次ぎ、定員自体は増えているためと分析している。少子化に伴い、私学経営が厳しさを増している状況が、改めて裏付けられた」そうです。
大学の生き残りをかけた営業活動も活発化していて、営業活動の矛先は、受験生本人ではなく、授業料を負担する親に向かっているとか。テレビの映像でも、受験生本人と学校説明会に参加する母親の姿が映し出されていました。
その映像を見ていて、おもしろいなあと思ったのは、どの親子も必死になっているように見えるのは受験生本人ではなく母親の方。何組かの親子の映像が流れていましたが、私の見る限り、どの親子にも共通して言えるので、見ているうちにだんだん滑稽に見えてきました。
「あの子は大学に入って何を学びたいのかねえ?」
と私が思わず疑問を投げかけると、娘の麻耶(まや)が、
「別にやりたいことなんて、ないんじゃないの」
「やっぱりそう見えるよなあ。じゃあ、何で大学行くんだろう?」
「学生でいたいんじゃない?! 親にお金出してもらって、遊んでいられて、楽だし…。すごく無責任でいられるしさあ」
「まったく」
そんな会話をしていたら、その親子のインタビュー映像が流れました。
「息子は何をやりたいかはっきりしていないんです」
という母親。“だから私が決めてやってる”と言わんばかりです。
「僕は、まだ何をやりたいかよくわからないんです」
“だから母親に決めてもらってる”と言わんばかりの息子。
“何をやりたいか”はさておき、とにかく“大学”というところに入れたい母親、“何をやりたいか”はさておき、親が言うから“大学”というところに入りたいと思っている息子。そんな様子がとてもよく表れていました。
昔も今も“大学”というところを目指す理由に、いい会社に入社(難しい資格を取得)し、より多くの収入を得、いい暮らしがしたい(させたい)というのがあると思いますが、テレビのニュースで流れていたのは、定員割れに悩む不人気の大学が、定員割れ対策として親をターゲットに営業戦略を立てているというもの。どう考えても、最終的に“いい暮らし”という目標を持てるとは思えない。とうとう“大学”までもが、消費志向を満たすための商品になってきてしまったんだなあ、という印象です。
そして、親が子どもを自分の元に縛っておくために大学を利用し、子どもは子どもで、親の傘の下から出ないための道具として大学を利用し始めたということのように感じます。そうした親子のニーズと定員割れに追い込まれている大学のニーズとがピッタリとマッチしたということのなのでしょう。
けれども、大学本来の目的やあるべき姿を見失ったこうした状況は、未来に大きなツケを残すことになる気がしてなりません。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第269回「家族って何?」

ドイツ・ミュンスターの市立劇場で専属ダンサーとしてモダンダンスを踊っている長男・努(つとむ)が3年ぶりに、夏の休暇を利用して帰ってきました。前回、一時帰国したときも、ここに登場させたような気がしたのでバックナンバーを調べていたら、なんと「第120回」(ちょうど3年前だから当たり前だけど)。「早いもんだなあ」というか「ずいぶん長かったなあ」というか…。私とは12歳違いで、12月で38歳になります。19歳で渡欧して、一時期日本に戻ったこともありましたが、20年というもの、ほとんどヨーロッパ暮らしです。
前回の帰国は4年ぶりでした。そして今回は3年ぶり。1年というのは長いようでそれほど長いわけではなく、その1年の間に何か大きなことが起こるというのは事故でもない限り少ないのですが、3年、4年というのは、短いようで長くて、その3年、4年の間に、生活に大きな変化が起こったりします。前回努が帰国したときは、努がドイツにいるうちに、妹の麻耶が結婚し、二人の子どもを出産し、そして離婚をし、家に出戻っていました。努にとっても、麻耶の子どもたちの蓮と沙羅にとっても、初めて会うわけですから、ちょっとくらいは人見知りでもするのかなあと思いきや、会ったとたんに蓮も沙羅も努にべったり。伯父さんと甥・姪の関係ってこんなもの?とびっくりしました。
そして今回の帰国までの3年間に、祖父と祖母の二人が亡くなってしまいました。前回の帰国の時には、一緒に海水浴に行ったのでしたが、その約1年後に祖父、さらにその1年後に祖母。努の意識の中には、一緒に海水浴に行った元気な祖父と祖母のイメージ(とはいえ、その時すでに祖父は91歳、祖母は88歳でしたから、次回帰国の時には、二人とも亡くなっているかもしれないという気持ちもすでにあったと思いますが)があったのでしょう、翌年、祖母が亡くなったことをメールで知らせると、大きなショックを受けた様子のメールが返ってきました。
そして次の年、祖母の死を電話で告げられた努が返した言葉は、
「次はお母さんかあ…」。
その時はみんな、努の言葉をとても唐突な、大げさな言葉として受け止め、
「まったく何言ってんだろうね、努は!」
と、あまりにも飛躍したと思える努の言葉を、ちょっとバカにした感じで受け止めていたのですが、今回戻ってきた努に翔が「次はお母さんかあ…」の受け止め方の話をすると、「お前たちはさあ、いつもそばにいるだろっ。だからわかんないんだよ。ずっと離れていてみろっ。おじいさんが死んで、おばあさんが死んで、次はお母さんかあって、必ず順番考えるから!」
と努は言いました。
努が成田に着いた6月25日には、私の父がかなり悪い状態でした。私の父と努とは血のつながりはないわけですが、成田に着いたその足で私の実家へ寄った努は、疲れを口にすることもなく、父の介護の手伝いをしてくれました。休暇で、身体と心を休めに帰国したはずの努でしたが、私の父が亡くなるまでの10日間というもの、とても積極的に父の介護にかかわり、看取ってくれました。義理とは言え、努にとって「おじいちゃん」と呼べる最後の存在であった父の最期を見届けることで、実の祖父母の死に立ち会えなかったという自分の気持ちの寂しさを、少しでも埋めようとしているようでした。
「せっかく休暇で帰ってきて、楽しい夏休みを過ごそうと思ってたんだろうに、父のことで休暇の半分を使わせちゃって悪かったねえ」
と私が言うと、妻は、
「いいんじゃないの、あの子にとっても。熊谷の父と母の死には立ち会えなかったわけだから。あの子にとって家族として、家族の死に立ち会う経験ができたっていうことは大事な経験だったと思うよ」
と言いました。

ドイツへ帰る前日、努と妻が話をしていました。
「家族っていいよねえ。どんなに離れていても、こうして帰ってくれば無条件で受け入れてくれる。もちろん、僕も受け入れる。そういう関係なんだよね。僕も今まで、そういう関係のものを作ってこなかったけど、やっぱり作りたいなって思うよ」
「ふーん。そんなふうに考えてたんだぁ…」

成田空港で、搭乗者のゲートをくぐった努に、蓮と沙羅が一生懸命手を振っていました。そして努も一生懸命手を振り返していました。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第268回「モンスターペアレント 後編」

親からの理不尽なクレームで学校が困ってしまうパターンには、いくつかのパターンがあるように思います。まず、とにかく自分の子どもがかわいいので、「私の子どもには××させてくれ」あるいは逆に「私の子どもには××させないでくれ」というパターン。次に、子どものことというより、親自身が自分の満足のために学校にクレームをつけるパターン。そしてもう一つは、内容の問題ではなくとにかく学校不信に陥っているため、大したことではないにもかかわらず、まったく学校には相談することも無しに学校を飛び越して、教育委員会などへ激しく抗議をしてしまうパターン。
他にもまだまだ、いろいろなケースがあるとは思いますが、おおむねそんな分類に属するのではないでしょうか。
「悲鳴をあげる学校」(旬報社)の著者の大阪大学大学院人間科学研究科の小野田正利教授は、
「子供がひとつのおもちゃを取り合って、ケンカになる。そんなおもちゃを幼稚園に置かないでほしい」
「自分の子供がけがをして休む。けがをさせた子供も休ませろ」
「親同士の仲が悪いから、子供を別の学級にしてくれ」
「今年は桜の花が美しくない。中学校の教育がおかしいからだ」
などの実例を挙げています。「ほんとかよぁ!」と耳を疑いたくなるような内容ですが、実例と言うことですから驚きです。
最近、給食費未納の問題も大きく報道されました。一昔前は、給食費が未納ということは、経済的に「払うことが困難」という状況で未納になっていたと考えられますが、最近の状況はそれとはまったく違い、どうやら「無理矢理払わされるまでは払わない」という身勝手な親もいるようです。
この連載の中でも、何度も述べてきていますが、最近の親子関係は、非常に近い関係になってきています。毎朝のようにファミリーレストランに朝食に訪れるニートと思われる子どもと母親。いつも一緒に腕を組んで買い物をしている母娘。手をつないで通勤・通学をする父と娘…。本来なら、関係が近いからこそ子どもを叱り、しつけができるという関係であったはずなのに、ここのところの状況は、その近さの質が変わり、子どもを叱り、しつけるどころか、子どもの悪事に対して、それをかばい続ける傾向が顕著になってきています。また、個人主義的傾向の高まりは、子どもに対する親としての責任すら果たさず、自分を守るためなら子どもをも犠牲にする親まで現れてきています。親子関係のまずさから子どもが精神的ダメージを受けているにもかかわらず、自分の対応の悪さはさておき、「子どもが病気」という言い方をする親などがこれに当たるでしょうか。
モンスターペアレント出現の原因を「教師への尊敬の念の薄さ」という人もいます。けれども、それは結果であって原因ではない。前回も少し触れましたが、私はモンスターペアレントの出現の原因の一つは、「自分たちの力では、どうあがいてもどうにもできない人たちの存在」と考えています。小泉内閣誕生以来、格差社会が広がったと指摘されています。弱者は強者に対して無力です。学校も、子どもや親から見ると圧倒的強者。そんな強者に対して「尊敬の念」を持っていたら、とてもじゃないけど、やってられない。一見、一人の教師に向けられているように見えるクレームも、実は教師個人に向けられたものではなく、もっと漠然とした「“教師”という権力」に向けられていると考える方が正しい見方ではないかと思います。もちろん、多種多様なケースがあるので一様ではないと思いますが。
これも再三指摘していますが、もう一つの大きな原因は、間違いなく“地域社会の崩壊”にあります。政治や行政の大きな方向の間違いが、地域のコミュニティを崩壊させてしまった。学校や教師に対する不満は、一旦親同士の中で話され、強い不満を持っていた人の気持ちがやや落ち着いたり薄まったり、あるいは自分と反対の考えの人がいたりすることで、とりあえずある程度消化されたものが学校に届いていた。ところが、地域社会が崩壊したことで、個人vs学校、個人vs教師という構図に変わってしまって、まったく未消化のまま、直接学校や教師にぶつけられるようになった。このことは、とても大きなことだと思います。それは時に、地域の権力の象徴である学校というものに個人で対抗するため、教育委員会というさらに上の権力に向かっていくことになる。
私が思うに、この状況を変えて行くには、信頼関係を回復するしかないと思うのですが、どうも政治や行政が向かっている方向は、まったく逆な方向のようで、学校の問題を弁護士やカウンセラーといった、直接、教育と関わりのない人たちに任せようとしている。実は、学校にはもともとそういうふうに子どもや親たちと向き合うことを嫌う傾向があった。現状を変えて行くには、信頼関係を回復すること。それには、誠実にたくさん話をすることしかありません。それがモンスターペアレントをなくす唯一の方法だと思うのですが…。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第267回「モンスターペアレンツ 前編」

最近、マスコミが頻繁に取り上げている問題に「モンスターペアレント」の問題があります。
「モンスターペアレント」っていうのは、ご存じの通り、“担任教師や学校に対し、自分の子に関する「理不尽な苦情」や「無理難題な要求」を突きつける保護者”(もり・ひろし=新語ウォッチャー)のことです。1ヶ月ほど前、港区教育委員会が保護者のクレームに対応するため、250万円かけ、5人の弁護士と契約したという報道がありました。
それに続いて、つい先日は「文部科学省が本格的な学校支援に乗り出す方針を固め、来年度の予算要求に盛り込みたい考えである」という報道がありました。地域ごとに外部のカウンセラーや弁護士らによる協力体制を確立して、学校にかかる負担を軽減することを検討しようとするもので、各地の教育委員会にも対策強化を求めるとしています。
こうした親の存在というのは、かなり前から指摘されていて、それほど目新しいものではありませんが、安倍内閣の教育改革が進むにつれ、報道が過熱感を増しているように感じます。私も、モンスターペアレント(イチャモン親)や故意に給食費を払わない親など、非常に問題だと感じていますが、最近の流れは、小泉内閣時代の「官から民へ」の流れに逆行するもの(というより、“強者はより強く、弱者はより弱く”という小泉内閣の本質が引き継がれたものと言えなくもないのですが)、まさに揺り戻しというふうにも感じています。
官僚組織への批判は公務員批判となり、教員バッシングへとつながっていきました。私は、ある意味(仕事の内容、民間との賃金格差など)、その流れは正当であると考えていますし、今後もそうあるべきだろうと思います。けれども、その流れによる“利益”が国民の末端にまで行き着く前に、大企業や民間の権力者のところで止まってしまい、流れが逆転してしまったら、大変怖いことです。最近の報道の過熱ぶりは「世の中の強者にとってちょうどいいタイミング」、そんな危惧さえ感じさせます。
産経新聞社がネット上に配信している記事によると、「なぜうちの子が集合写真の真ん中ではないのか」「子供がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」「子供から取り上げた携帯電話代を日割りで払えと保護者から毎晩電話がかかり、その日の子供の活動を細かく報告させられた」「(運動会の組み体操をめぐり)なぜうちの子がピラミッドの上でないのか」「体育祭の音がうるさい」などが、親の無理難題として取り上げられています。単純に何の理由もなくこんなクレームが親から寄せられれば、それはもちろん「モンスターペアレント」でしょう。けれども、何も理由がないということは、あまり考えられない。ほとんどの場合、そうなるまでにいきさつがあり、それに対する対応の悪さから、そういう結果になっているとも考えられる。
それを明らかにせず「モンスターペアレント」として、大騒ぎするのはどうも意図的にしか映らない。
「先生の訴訟費用保険加入が急増」という見出しで取り上げられているのは、公務員の訴訟費用保険は、職務に関連した行為が原因で法的トラブルに巻き込まれた際、弁護士費用や損害賠償金などを補償する保険。医療関係者が、個人で保険に加入するというのはよく聞きますが、教員までという感じはします。学校に対する保護者の理不尽な要求が問題となる中で、仕事に関するトラブルで訴えられた場合に弁護士費用などを補償する「訴訟費用保険」に加入する教職員が、東京ではすでに公立校の教職員の3分の1を超す2万1800人に達したんだそうです。都福利厚生事業団が窓口となり平成12年から都職員の加入を募集し、保険料は月700円だそうですから、その加入のし易さから、当然(学校行事などで子どもがケガをしたり、死亡した場合、業務上過失致死傷などに問われ、損害賠償請求される場合もなくはないので)かなとも思います。事業団によると、加入者は教職員が突出して多く、全体の約7割を占めるそうですが、産経新聞の記事でも、「実際に都内で同保険が適用され、弁護士費用などが支払われたケースは過去7年間で約50件といい、不安が先行している面もあるようだ」とまとめています。50件の内訳が学校関係だけによるものなのか、全体でなのかもよくわからりませんからコメントは難しいですが、何が正しいのかきっちり見極める必要はありますよね。
とは言え、私も増えていると感じる「モンスターペアレント」。次回は、親の愚行について考えます。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2022年4月29日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第259回「再び、赤ちゃんポスト」

毎週日曜日になると、どんな話題を取り上げようかと迷います。基本的に、月曜日の朝8時半までに原稿をテキストファイルで商工会議所の担当者の方にお送りしているのですが、何らかの事情で遅れてしまう(ある時は外出先で電波の状態が悪く送信できなかったり、ある時はメールに原稿のファイルを添付し忘れたり…ということがこれまでにもあったんですけど)と穴があいてしまうことになるので、極力入稿の遅れだけはしないようにしています。以前に「一週間前に送ってほしい」(来週の分を今週に)というお話もあったのですが、毎週の連載エッセイという性質上、話題はできるだけタイムリーにと思い、結局、月曜日の入稿直前に原稿を仕上げることにしています。
ここのところ、取り上げたいことがたくさんあり過ぎて困ります。その都度取り上げてはきているつもりですが、教育改革、代理出産、離婚後300日問題、少年犯罪、いじめ・不登校、子どものうつ、子どもの自殺、子どもの虐待、赤ちゃんポスト…。
明るい話題がないことがとても残念です。本来なら一つ一つを丁寧に取り上げ、数回にわたって述べた方がいいのかもしれないのですが、そういう余裕もないくらい様々なことが起こります。ここ数日でも、赤ちゃんポストへの3歳児の遺棄、母親殺害事件。それと時を同じくして教育改革関連3法案が衆議院を通過したのも何かの巡り合わせでしょうか。
母親殺害事件にも触れてみたいのですが、まだ事件の概要がはっきりしてこないので、あらためて。
今日は再び、赤ちゃんポスト。
赤ちゃんポストへの3歳児の遺棄は、慈恵病院にとっても想定外のことだったようですが、この程度のことが想定外であったということが、そもそも問題なのだろうと思います。私は、この連載の第248回で『ポストがなければ捨てられないのに、ポストがあるから捨てられるということは起こるでしょう。それを「ポストのせいだ」と証明するのは難しいことですけれど。慈恵病院は「ポストがなければ、この子は死んでいたかもしれない」というような言い方をして、ポストに入れられる子が多ければ多いほど、ポストの正当性を主張するのだろうと思います。ポストがなかったら、捨てられないですんでいたかもしれない赤ちゃんなのに…。』と述べました。3歳児というのは、この時点での私にとってもちょっと「想定外」ではあったのですが、今回の件は、「ポストがなければ捨てられない」というのは、ほぼ間違いなかったのではないかと思います。そして、“言葉をしゃべれる”3歳児であったために、「ポストがなければ、死んでいたかもしれない」といういかにも正当なような慈恵病院の主張もできませんでした。
もちろん「育てられないと思っている両親に育てられることが幸せか」という議論はあるでしょう。けれどもそれでは、「両親に捨てられて育ったということが幸せか」ということになってしまいます。
私たちが考えなくてはいけないのは、「両親の元で育てられるような環境を社会がどう提供するか」ということです。私は、どこまでもどこまでもそういう方向で努力をすること以外に、社会の取るべき道はないと考えています。「それでは死んでいく子どもは救えない」という人がいるかもしれませんが、だからといって「子どもを棄てる」という行為が正当化されるわけではないのです。「子どもを死なせない努力」というのは結局のところ「子どもを棄てさせない努力」なのです。だとすれば、「棄てる場所」が必要なわけはありません。
ドイツで暮らしている息子が6月か7月に一時帰国することになっています。ドイツでは「赤ちゃんポスト」が社会的にどう見られているのかを聞いてみようとは思いますが、先日見たテレビの報道は、慈恵病院の認可の前の報道とはかなり隔たりのあるものだったのに、びっくりしました。認可前には、ドイツではあたかも赤ちゃんポストが社会的に受け入れられているような報道(慈恵病院の会見での内容がそうなっていたということかもしれませんが)が先行していましたが、3歳児がポストに入れられてからのドイツでの街頭インタビューでは、設置自体を知っている人がほとんどおらず、しかも設置についての意見も賛成、反対で2分しているようでした。さらに、ポスト設置を周知させるためのキャンペーンを賛成派のグループが企画したところ、遺棄を助長するということでキャンペーン自体が中止に追い込まれたという報道もありました。
どちらが正しいのか息子によく聞いてみようとは思います。まあ、ドイツの状況がどうであれ、私の考えが変わるわけではないのですが…。
安易に救いの手を差しのべることで、生まれなくてもすむ不幸な子どもたちを増やすのではなく、本来私たちが行わなければならない救いの手を差しのべて、一人でも不幸な境遇に置かれる子どもたちを減らしたいものです。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第258回「花を愛する心、虫を愛する心」

先日、車で出かけたときのこと。
赤信号で停車すると、ちょうど止まったところのお宅のフェンスに、プランターがたくさんかけてありました。
「ここのお宅って、季節に合わせていつもいろいろな花が飾ってあるよなあ」
けっこう頻繁に通る道なので、花が飾ってあるのを知らなかったわけではありませんが、信号が青だとスーッと通過してしまうだけなので、この日のようにちょうど赤信号で花の前で止まったりしない限り、なかなか花が飾ってあるということに意識がいきません。けれども、かけてあるプランターの数も一つ二つではないので、花が飾ってあるということに意識がいきさえすれば、
「へえ、きれいだなあ」
「ずいぶんたくさん花が飾ってあるなあ」
というふうに、花にかなり強い印象を受けます。
この日はしっかりと花に意識がいったので、かなり丁寧に一つ一つのプランターを眺めることに。
すると、プランターに貼り紙がしてあることに気付きました。
『花を持っていかないでください。ここの花を勝手に持っていくのは犯罪です』
と書いてあります。たくさんかけてあるプランターのきれいな花たちとは、似つかわしくない言葉です。「きれいだなあ」という感情が急に萎えて、しらけた気分になってしまいました。
「なんでこんな貼り紙するんだろう? せっかく花を飾ってるんだから、こんな貼り紙やめればいいのに…」
一旦はそういう感情が湧いてきて、そのお宅のことを非難するような気持ちになったのですが、その貼り紙をするまでのそのお宅の苦悩というか、苦労というか、そういったものが少なからず見えてきて、今度は花を持っていってしまう「花泥棒」に対する憤りを強く感じるようになりました。

陶芸教室で会員の皆さんとお茶を飲んでいるとき、「門の前に飾った鉢植えの花が3回も持っていかれてしまった」という話が出たことがありました。
「1回ならともかく、2回も3回もなくなるってことはね、ただの通りすがりの人っていうより、近くに住んでる人だと思うのよね。まったく許せない! 人の心っていったいどうなっちゃったんでしょう。盗んだ花を自分の家に飾って、気分いいわけないと思うんだけど。いったいどういう気持ちなんだろっ!」
「私も持っていかれたことあるよ。それもプランター。どうやって持っていっちゃうのかしらねえ。まさか歩きの人じゃないでしょ、あんなもん持って歩けないもん。車のトランクにでも乗せてっちゃうのかしらねえ。それも昼間なんだから、びっくり!」

ゴールデンウィークの見沼自然公園でのこと。
広い公園を、ずっと奥の方まで散歩していくと、演歌が流れてきました。
「なんでこんな公園で演歌なんか流してるんだろ? なんか全然合ってないよね」
もっと奥まで歩いていくとその音量は、どんどん大きくなっていきます。演歌の流れてくる方向に目をやると、どうも公園の敷地の中ではなく、公園に隣接している洋ラン販売のハウスから聞こえてきます。その音量といったら半端じゃない。話をするのにも不自由を感じるくらいの騒音。よく見ると、大きなスピーカーが二つ、しっかりと公園の方に向けられています。公園に来た人に注目をしてもらうための宣伝のつもりらしいのです。
「こんな大きな音で、しかも演歌なんて流して、宣伝になると思ってるのかねえ?」
「洋ラン」というイメージからはほど遠いその雰囲気に驚くと同時に、「花を育て、花を飾るという心」はどこに行ってしまったんだろうと思いました。
公園をさらに奥まで行くと、今度は5、6人で夢中になって土を掘り返している家族を見かけました。おおよそ20坪くらいの広さが掘り起こされていたでしょうか。それぞれの手に園芸用のスコップを持って、どんどん掘り起こしているので、最初何をしているのかわかりませんでしたが、どうやらカブトの幼虫を採っているようなのです。しかも、一番夢中になって掘っているのは子どもではなく、お父さんとお母さん。公園という公共の場所で、果たして許される行為なのか/…。そんなことまったく考えていないんでしょうね。
大人が子どもたちに伝えなくてはならないのは、「花がある」「カブトを飼っている」という単純な「状態」ではなく、「花やカブトを飼ったときの安らかな心」であったり、「自然を愛する心」であったりするはずなのに、そういった心はすっかりどこかに行ってしまって、残ったものは人の傲慢な欲だけになってしまったように感じました。

教育再生に一番必要なのは、競争心を煽ることでも、大人から子どもへのしつけでも、ましてや国家から国民への価値観の押しつけでもなく、「人としての優しさ」の大切さを子どもたちに伝えることです。無駄な税金を使って「子守歌を聞かせ、母乳で育児」などという笑っちゃうような提言を国民に押しつける前に、大人が「人としての優しさ」を取り戻せるよう、政策らしい政策を打ち出してもらいたいものです。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

 

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2022年3月21日 (月)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第256回「選挙」

「今日ね、ダイアモンドシティに行ったら、あそこの川のところでKさんが選挙カー止めて演説してたよ。だからね、車の中から手を振ってあげたら、“お車の中からのご声援、ありがとうございます”って言われた」
「あれっ、おまえ、直接知らないんだっけ? 降りていって声かけてあげれば喜ぶのに。“大関の娘です”って言えばわかるだろっ」
「だって、川の反対側で、こっちとあっちだったんだもん」
「そうかぁ。じゃあしょうがないな」

Kさんと初めて会ったのは、旧浦和で市会議員をしていたAさんが中心となって開いた環境保全の市民運動の会でした。そしてその後、たびたびAさんの事務所で顔を合わせるようになりました。妻が、浦和市立南高校で長年教師をしていたことや浦和市立三室小学校でPTA会長をしたとき、かなりマスコミから注目されたこともあり、Aさんの会では、妻も私もよく意見を聞かれたり、話をしたりすることが多かったので、Kさんは私たちのことをよく知ってはいたようでしたが、私たちはと言えば、あまり自分から口を開かないKさんのことは、顔を知っているという程度で、視線が合えば軽く会釈くらいはしますが、それ以上の関係でもなく、話をしたこともありませんでした。
今考えれば、Kさんは川口在住だったので、浦和のAさんの会では一歩引いていたということだったんでしょうね。
私にとって、Kさんの存在がクローズアップされたのは、突然私の地域の小学校のPTA会長になったときでした。私は、すでに真(まこと)、麻耶(まや)が在校中にPTA会長をしていたのですが、Kさんの存在はまったく知らず、KさんがPTA会長になったとき初めて、「ああ、あの人、Aさんのところでよく見かけた人だ! 同じ地域に住んでたんだぁ」というような具合でした。
翔(かける)の学年で再びPTAの役員をやることになり、その後何年間か、K・PTA会長の下、私は学年委員長をやらせてもらいました。Aさんのところで、よく顔を合わせていたとはいえ、実際に具体的な活動をやってみると、考え方ややり方にかなり違いがあり、ぶつかることもしばしばでした。そしてKさんは市会議員に。当選後もPTA会長を続け、お子さんの卒業後、再び私がPTA会長を引き受けることになりました。
Kさんとの関係は、それにとどまらず、なんと今度は息子さんが妻の教え子に。妻の元の職場も含め、狭い地域に住んでいるので、麻耶の担任だった先生の息子さんが妻の教え子になったり、私がPTA会長をしていたときの副会長や専門部長のお子さんが妻の教え子になったりと、よくあることではあるのですが、ちょっとビックリしました。
ところが、昨年、妻の教え子であったKさんの息子さんが、交通事故で亡くなってしまったのです。今回の選挙は、その息子さんの一周忌前。先日、ポストに入っていたKさんの出陣式のお知らせには、「息子さんの死」についての心境も語られていました。
金曜の朝、選挙事務所に陣中見舞いに行き、Kさんご夫妻と話をしていると、やはり一緒にPTAで役員をやっていたSさんがやってきました。手には、Kさんの出陣式のチラシを握っています。
「犬の散歩してたらさぁ、こんなのが小学校の前の掲示板のポスターの上に貼ってあったから剥がしてきた」
チラシには、赤いマジックで書き込みがしてあります。文章の細かい部分にいちいち文句が書いてあり、息子さんについて触れた部分には、「選挙の具にするな!」というような書き込みがしてありました。確かに一つの主張として、言っていることもわからなくはないですが、「こんな書き込みをして、わざわざ掲示板のポスターの上に貼るかなあ」という感じ。1丁目、2丁目しかない本当に小さな地域ですから、町会の広報誌にKさんの息子さんが亡くなったことは載っていました。Kさんの市会議員という立場からすれば、町会内では周知の事実。Kさんは、「字を見れば、誰だかわかるんですよ」とは言っていましたが、まだ癒えない息子さんのことに触れられたのには、やや参った様子でした。
選挙で誰を推すかは、それぞれの考え方もあるので、違うのは当然。けれども、地方選挙での誹謗中傷のやり合いは、溝を作るだけで何も生まれません。
かなり昔のことですが、旧浦和市のある学校では、PTA会長が保守系の市会議員、副会長が共産党の市会議員ということがあったり、PTA会長選が市議選の前哨戦になるというようなことがありました。PTAを政治に利用するのも「いかがなものか」(もちろんどこのPTA会則にも政治的中立を謳った文言があると思います)と思いますが、どちらを指示するということではなく、政治的意識が必要なこともまた確かです。政治的に相容れない部分はあるでしょうが、思想信条の違いだけがクローズアップされ、誹謗中傷のやり合いから、教育現場の混乱や不信感を増大させるのではなく、違いを認め合い、違いを越えた部分で地域の教育を進めたいものです。
朝9時ごろ、孫の蓮(れん)を連れて、選挙に行ってきました。投票用紙に名前を書き、投票箱に入れた瞬間、蓮が小さな声で、
「捨てちゃうの?」
と聞きました。私は思わず「ぷっ」と吹き出してしまいましたが、蓮の言葉に「確かに!」とえらく納得がいきました。立会人の皆さんは、いつも地域の集まりでご一緒させていただいていた方々なので、大声で笑うわけにもいかず、私の顔を見てニコニコしています。一応説明はしましたが、蓮は投票所を出るまで、ずっといぶかしげな表情を浮かべていました。

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