2024年4月14日 (日)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第321回「ほんとにメダル候補?」

「今度のコースはね、距離が短いし、ラフも深くないから、それなりのスコアで回れると思うよ」
「いくつくらいで回れば、予選通るんだよ」
「76くらいがカットラインかな」
「それでおまえは、いくつで回れるの?」
「74、5くらいでは回れると思うよ。練習ラウンドはパープレイ(72)だったしね」
ゴルフをやっている翔(かける)が高校生の時の会話です。
ゴルフは1ラウンド18ホールで、おおよそ72打(コースによっては72でない場合もあります)を基準(これをパーと言います)に、72よりも少なければアンダーパー、多ければオーバーパーと言い、打数を競います。もちろん少ない方が勝ちです。
ここで、「76くらい」と言っているカットラインを4オーバーと言います。それよりも少なければ予選通過、多ければ予選落ちということになります。カットラインの決め方は、あらかじめ決められた打数なわけではなく、予選通過者の数が決まっていて、上位からその人数に達したところのスコアで切るので、その日の全員のスコア次第で上下することになります。(ゴルフを知らない人にはわかりにくくてすみません)
試合から帰ってきた翔は、かなり落ち込んでいます。
「ダメだった。カットラインは77だったんだけど、おおたたきしちゃった。アウト(前半)が40、イン(後半)が42で82だった。」
「10オーバーかよ。何やってんだか…」
「ショットは曲がっちゃうし、パットも入らないし…」
翔はすっかりしょげていました。
おそらく翔の実力から言って、そんなものだったんでしょう。人は、どうしても自分の力を持っているもの以上に感じたいので、自分に対する評価は甘くなりがちです。周りの期待も同様ですね。私も予選くらいは当然通るのかと思っていました。
オリンピックが始まりましたが、いつものように報道は過熱するばかり。すべての競技で金メダルがねらえるような報道ですが、これもいつものようにふたを開けてみると惨敗の連続。もともと力が世界のレベルまで達していないことも多く、にもかかわらずマスコミがやたらとメダル奪取を強調するものだから、選手にのしかかる重圧というものはすごいものだともいます。
メダル第1号を目指した女子重量挙げの三宅宏実選手。埼玉栄高校で、翔の2年先輩ということもあり応援していたのですが、メダルを逃し6位に終わってしまいました。とても残念です。私が子どものころ見た三宅義信氏と三宅義行氏は強かった。名門一家の重圧というところでしょうか。テレビ朝日が松岡修造氏をつかって取材をしていましたが、松岡氏の勢いではまるで金メダルを取るのが当然といった様子。確かに応援する側からすれば、金メダルを取ってほしいと思うものですが、優勝した中国の陳選手の実力からすると、他の選手が優勝する可能性は、陳選手にアクシデントがない限りほぼゼロ。視聴率を考えると、「金メダルは陳選手で決まっています」なんて言ったらだれもテレビを見なくなっちゃうので、そういうわけにもいかないのでしょうけれど、朝日新聞の記事によれば、「1カ月前、母育代さんに打ち明けた。「私、最近眠れないの」。2時間おきに目が覚めた。夢の中でもバーベルを持ち上げている。― 中略 ― そのころは、練習も最悪状態だった。自己ベストの80%ぐらいの重さでも落としてしまう。「怖くてシャフトに触れなかった」。練習場の片隅で泣いた。目標の重量に追いつけない焦り。競技を始めてから書き続けてきた練習ノートも1週間、空白が続いた。「話しかけると泣きそうだから」と父でコーチの義行氏が話しかけることもなくなった」そうです。筋肉もそげ落ち、体重も軽くなって1回目の試技の重量を下げざるを得なかったとか。難しいことですけれど、もっと楽な気持ちで力を出し切ってほしかったですね。選手にとってはそれもまた強くなるために必要なことなのかもしれませんが。三宅選手には次を目指して頑張ってほしいです。
スケールは小さいですけれど、これと同じようなことが、受験の時には子どもの心の中で起こっています。「受かってほしい」「受からないわけはない」という親からの重圧。三宅選手のお父様は、「話しかけると泣きそうだから」話しかけなかったそうですが、受験の重圧に負けそうになっている子どもに、普通の親は「そんなことじゃダメ」と叱咤激励しますよね。行き過ぎは禁物。親の期待は親の期待、子どもの実力は子どもの実力。それを冷静に見つめる目が、親には大切ですね。川口の父親殺傷事件は、それがわからなかったのかもしれません。
 
 
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

 

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2024年4月13日 (土)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第317回「続・教員採用試験をめぐる贈収賄」

大分県の教員採用試験をめぐる贈収賄事件は、新人採用の試験にとどまらず管理職認容の試験にまで広がり、次々と逮捕者を出し、多くの学校で教頭、校長が不在という前代未聞の事態に陥ってしまいました。
私は、この問題には3つの大きなポイントがあると考えています。まず、採用(新人、管理職ともに)についての不透明性の問題、二つ目は、教育界のモラルハザードの問題、3つ目は、教員という職業の社会的ポジションの問題です。それぞれの問題が複雑に絡み合っているので、きっちりとした線引きはできませんが、「不透明性の問題」というのは前回も述べたように、行政における「教育」という部署の重要な部分が身内(教員)で占められていること。「あの先生は子どものことを全然見ないで、上ばかり見ている」とか「上に取り入るのがうまい」などという言い方をすることがありますが、要は先輩の教員にゴマばかりすっているということですね。民間でもないわけではないでしょうが、民間で昇進するには成果が伴わないと難しいのに比べ、教育というのは成果の判断がとても難しいので、その分ゴマをすることが利いてしまうわけです。利いてしまうから、また行う。行き着く先が賄賂ということになる。これは、明らかに行政を仲間うちに担わせている組織の問題です。
二つ目のモラルハザードは、今に始まったことではありません。いい意味でも、悪い意味でも、学校というところは閉鎖的なところです。私は「次代を担う子どもを育てる」という観点からすれば、ある意味閉鎖性があることは当然(大人社会の持っている悪い部分から子どもを守るという点で)と考えていますが、それを子どものためでなく、教員のために利用して、学校を「何でもあり」(教員にとって)の社会にしてしまっている。先日、「痴漢行為をした都立高の副校長の処分が、“接触は極めて短時間で、悪質であるとはいえない”という理由で、懲戒免職から6ヶ月の停職に軽減され、教員として復職していた」という報道には皆さんびっくりしたことと思います。痴漢を働くような教員に自分の子どもの教育を任せるわけにはいかないと考えるのは当たり前です。私の知っている例でも、暴力行為で処分の言い渡しを受ける際、教育委員会に呼ばれた先生が、「一応、処分という形を取らないわけにはいかないので、こういう形を取りましたが、“まあ、こっちの部屋にどうぞ”と別室でお茶を飲むことを促され、お茶だけ飲んで帰ってきた」なんていう例がありました。それなりの実績を残していた先生なので、何をしてもいいということなのでしょう。今、問題になっている厚労省の業務外HP閲覧なんていうものは、学校にもよるとは思いますがまったく野放し。「教育に必要」といえば、ほぼ何でも通ってしまいます。
そして3つ目。なぜ贈収賄が起こったのかという部分では、「地方と都市部の格差」ということがクローズアップされています。それも原因の一つではあると思いますが、それよりも教員の間では、子どもの教員採用について100万円の賄賂を贈ってもあまりある職業と考えられているということだろうと思います。大分県だからということはあったにせよ、都市部でも教員の子どもに教員が多いことを考えれば、教員の多くがそう考えていることは間違いありません。これほど教員の苦労ばかりが報道されているときになぜ?と思った方も多いのでは…。教員がどんな仕事をして、どんな待遇なのかといったことの公開が大変遅れているので、教員以外には、民間の職業との比較が正確にできていないという現状があります。調査をしても、申告をするのが教員では、とても正確な情報とはいえません。
そのあたりが、今回の事件につながったのではないかと思います。身内(教員)に甘く他人(子ども)に厳しい教育の現場をきちんと検証していくことが求められています。
子どもたちに関わる重要な職業だけに、学校では何が行われ、どんな待遇で教員が働いているのかをもっと明らかにして、その上で誰もが平等に教員採用試験に臨めるよう制度を確立していく必要があるのでしょう。
 
一部報道によると、教職員組合との癒着も指摘され、組合枠があったのではないかとの疑惑も浮上しています。
なぜ100万円ものお金を使っても我が子を採用試験に合格させたかったのか。
 
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2024年4月 5日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義】 第305回「東大の入学式」

東大の入学式が11日、日本武道館で開かれ、新入生の数を大幅に上回る保護者らで埋まった客席を前に、建築家で特別栄誉教授の安藤忠雄氏が「親離れをしてほしい」と新入生、保護者双方に自立を促すよう祝辞を送ったそうです。安藤氏の前の小宮山学長の式辞でも「新入生の幼いころを思い返し感慨もひとしおと思うが、入学式は親離れをして独立し、自らの道を切り開く旅立ちの日。温かく見守ってほしい」と保護者に呼びかける場面があったとか。日本人にとって、東大という特別な響きを持つ大学の入学式とは言え、あまりにも多い家族の出席希望に、「新入生一人に対し関係者二人まで」という制限を設けたにもかかわらず、「3人以上で行きたい」という問い合わせが、数十件も寄せられるほどの異常ぶり。そんな過保護な親子関係に一石を投じたということなのでしょうか。入学式の会場は新入生3200人の周囲を5000人の保護者が取り囲んだということだそうですから、東大側にしてみれば、いったい誰のための入学式なのかということになるのは当然。安藤氏は「自己を確立しない限り独創心は生まれない」「自立した個人をつくるため親は子どもを切り、子は親から離れてほしい」と言ったそうですが、まったくその通りです。(東京新聞webサイト参考)
入学式に参加した新入生、保護者の人たちは、この話をどう聞いたんでしょう。
ネット上のYahoo!知恵袋に、「大学になっても入学式に親が同伴するのは、おかしいですか?」との内容の質問があり、ベストアンサーに選ばれたのは「息子さんが反対しているなら、行かなくてもいいのでは?? -中略- 特に男子だと親が一緒だと…、ちょっと…ね。 -中略- それくらい自立心があった方がいいですよ。」
というものでしたが、あとの10人の解答のうち、「出ない」を支持したのはたった一人(それも附属高校からのエスカレーターらしく、ちょっと状況が違う)、あとは全員「出たっていいじゃない!」「出て何が悪い!」というスタンスの回答ばかり。ところがYhoo!サイト内のクリックリサーチでは、「大学の入学式に親が出席するのは過保護だと思う?」との質問に、64,558人中37,993人(59%)が「過保護」と答えています。知恵袋に回答を寄せた人たちは、自分が親として入学式に出たことのある人たちなので、出ることへの支持は当然として、全体としては、「過保護」というふうに考えている人たちが多いということなんですね。けれども、クイックリサーチは、「親」でない人の数が圧倒的で、もし子どもがいる人だけを対象に同じ質問を向けたとすると、「過保護ではない」と考える人の方がかなり多いのではないでしょうか。
私は以前から述べているように、今の「子育て・教育」の問題というのは、「親子の距離が近すぎること」と考えていますので、基本的には「過保護」だろうと思います。
まもなく成人を迎えようとしている(あるいは成人を迎えた)子どもたちが、ある意味親をうっとうしいと感じるのは自然で、それがないということになると、安藤氏の言う「自己を確立しない限り独創心は生まれない」ということになってしまいます。本来だったら、思春期に通り越していなければならないことが、最近の傾向として、大学になっても、社会人になっても通り越せていない。
うちのカウンセリング研究所のスタッフ募集の面接に、お父さんが付いてきたというケースが2人ありました。「娘が働くところがどんなところか確かめたかった」というお父さんの気持ちがわからないではないですが、面接をして雇う側として考えた場合、お父さんが付いてこなければ面接にこられないような大人だとしたら、採用するのは困難です。仕事で難しい局面を迎えたとき、しっかりと自分で解決していく能力があるかどうか、疑わしいからです。
親は皆、子どもの幸せを考えるものです。安藤氏や小宮山学長に言われるまでもなく、本当の子どもの幸せとは何なのか、そろそろ見つめ直すときがきているのではないでしょうか。
 
 
 
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
 

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2024年4月 4日 (木)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第303回「誤字には気をつけて!」

娘の麻耶は、4月から大学に通うことになりました。おなじく4月から小学校に入学する息子と幼稚園の年長になる娘を持っている28歳。幼児教育を学ぶんだそうですが、果たしてどんな学園生活になることでしょう。
入試の面接では、
「あなた、その年齢になって幼児教育を学んだって、就職は難しいですよ」
と露骨に言われたとかで、合格発表があるまで不安になっていましたが、何とか合格。私に言わせれば、少子高齢化のこんなご時世。潰れてしまう大学がある中で、ごく一部の大学を除けば、学生の質はどんどん下がっているわけだから、幼児教育を学ぶ学科にとって、子どもがいて高齢(大学で学ぶという点については)で、それでも大学で学ぼうなんていう学生は、むしろ歓迎。わざわざ幼稚園、保育園に行って実習をしなければ聞けない保護者の話が、毎日だって聞けるわけだし、教材としても最適。「受からないわけないだろ」ということになるわけなんです。推薦入試だったので、まあ最終的には、大学側の選択ですから、当然「そんな遠回りをした学生はいらない」ということになれば、落ちることだってあったのですが、なんとか合格しました。
 
大学に入学すると“遊んでしまう”学生が多いからなんでしょうかねえ、まだ入学しないうちから論文提出。1本提出するとしばらくして添削されたものが返却され、それと同時に次の課題が出題されるという具合で、計3本の論文を書かされていました。
「おまえ論文なんて書けんの?」
「書けるわけないでしょ! だから代わりに書いてよ」
「いきなりそれかよぉ。おまえねえ、大学でだって書かされるんだよ。家で書いて提出するやつだけ手伝ったって、大学で書くやつはどうすんだよ!?」
「女装でもして書いてきてよ。そうしないと“あれっ、こいつ、この前の文章とずいぶん違うなあ…”って変に思われちゃう!」
「バカ言ってんじゃないよ! だから、最初から全部おまえが書けばいいだろっ!」
「まあ、しょうがないか…」
というわけで、麻耶が3本の論文を書くことになりました。(当たり前のことなんですが)
それでも一応提出前には、妻と私に「これでいいかなあ?」と見せるので、適当に目を通しては、「はぁ、まあいんじゃん」なんてやっていたのですが、「あれっ、割と書けるんだぁ」とちょっと意外な感じも受けました。妻もそう思ったらしく、「おまえ、私よりうまいかも」なんて、麻耶に言っていました。
3本ともEメールのコミュニケーションについての論文で、麻耶なりに自分の経験を織り交ぜながら、書いていました。1本目も、2本目も「大変よくできました!」みたいな評価をもらったので、3本目もそれなりの期待があったのだと思うのですが、3本目は「誤字には気をつけて! ~中略~ 図書館の本を読破してください」なんていう評が書いてあるものだから、麻耶は「字も書けないようじゃあ、図書館行って勉強しろっ!だってさ」とちょっとがっかりしたような、「やっぱりなあ」というような微妙な様子。
「へーっ、字が違ってたんだぁ。でも、図書館の本を読破しろなんていうのは、褒めてんじゃないの」
なんて言いながら、私が答案を見ていると、誤字というのは麻耶が息子の蓮をつれて小学校に「就学時健診」に行ったくだりのその「健診」という言葉。「健診」に×がつけられて、その脇に「検診」と書き加えられています。その瞬間は何も考えず、
「ふーん、“検診”を間違えちゃったんだぁ」
と麻耶に答案を返しながら、
「でも、おまえ、最初にパソコンで打ってなかったっけ? 何で間違っちゃったんだろうな? 写し間違ったのかねえ?」
「それはないと思うよ。だって“けんしん”って言われたって、私全然漢字なんて書けないから、健康の“健”なんて思いつかないもん」
それで私が“はっ!”として、もう一度答案を眺めながら、
「就学時“けんしん”て、健康診断だよなぁ? だったら“検診”じゃなくて“健診”でいんじゃないの?」
すぐにモバイルサイトの広辞苑を開いて確かめてみると、「検診」は「胃検診」とか「胸部検診」のように病気を発見するための「けんしん」で、やはり健康診断は「健診」。麻耶は麻耶で、そのときの資料を持ってきて、「就学時健康診断」と書いてあるのを確かめると、
「やっぱり“健診”でいんだぁ! 変と思ったよ、パソコンが間違うなんてさぁ」
「大学始まったら、その人のところ行ってこいよ。“先生! これ、やっぱり健診でいいんですけどぉ”って」
「なんて言うかねえ? 真っ赤になっちゃうかねぇ? ×つけて書き直してある程度ならともかく、“健診”だけなのに“誤字には気をつけて!”なんて書いちゃったからね」
まるで鬼の首を取ったような大騒ぎ。
たまたま間違ってしまった准教授(らしい)には、申し訳ないけれど、そんなつまらないことから、28歳にもなる子持ちの娘が、大学に行くということの意義や学ぶということの意義を、肌で感じているように思います。
「目当て」を見失い、事件を起こしてしまう少年少女が増える中、家庭の果たす役割と同時に学校の果たす役割も重大です。教師と生徒の関係が、血の通った人間対人間の関係になり、信頼関係を取り戻すよう、強く願っているこの頃です。
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
 

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2022年5月20日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第273回「習熟度別って効果ない?」

8月26日、朝日新聞朝刊に「習熟度分けても英語成績伸びず」との見出しで、全教・教研集会での和歌山県の県立高校教諭からの報告の記事が掲載されていました。
03,04年度に普通科2年生2クラス80人を対象に「英語Ⅱ」で上位2つと下位1つの3グループに分け、習熟度別授業を試みたそうです。全国模試の平均偏差値で見ると、03年度、04年度も大きな変化はなく、習熟度別の効果は確認できなかったとか。ちなみに04年度に行われた7,11,1月の3回の模試の結果は、上位が「48.7→48.0→47.7」、下位が「46.1→44.5→45.6」。
この結果を見る限り、7月より1月の方が模試の結果が悪いので、確かに習熟度の結果が出ていないようにも見えますが、標本が2クラス80名と少ないこと、そして習熟度別クラスとそうでないクラスの比較ではなく、習熟度別クラスの時間的経過だけが比較対象になっていることなどを考えれば、実際にはほとんど意味のない調査になってしまっていると言わざるを得ません。(新聞報道が、比較対象を時系列的偏差値のみに絞った可能性もあるので、すべてが無駄とは言えないのですが、新聞報道を読む限り、調査としてあるいは記事として、とても稚拙と言えると思います)
調査をした先生に、「効果がないのではないか」あるいは「効果があるはずがない」という考えがもともとあって、そういう結論を導き出すための調査であったのかなという気もしなくもないのですが。(あくまでも「報道の内容がすべて」という前提でですが)
とは言え、私も「習熟度別授業」を単純に支持するものではないので、「教師を増やした割には効果が見られなかった。同じレベルが集まると生徒は安心してしまい、成績の引き上げ効果が失われているようだ」という、この先生の後半部分のコメントにはある程度納得できます。塾をやっていた経験から言うと、短期間に特定の子の成績を上げようとすれば「習熟度別」というのは、絶対に必要です。「先に進む」あるいは「さらに難易度の高い問題をこなす」ということであれば、当然それについてこられない子どもたちは「足手まとい」になります。「足手まとい」になった子どもたちを切り捨てずに、なんとかしようとすれば、クラスを分けるしかない。一般的に言って、個別指導でない塾はそれを実践しているわけで、成績の順にクラス分けを行っています。塾の目的は、ただ単に少しでも多くの生徒の学力を、できる限り現状より良くすることが目的なので、上下の学力格差が広がり差別が助長され、ある程度の落ちこぼれが生まれようと、そんなことはお構いなしです。もっとも、経営上、低学力の子どもたちを切り捨ててしまっては「もったいない」ですから、簡単に切り捨てようとはせず、丁寧に面倒を見ているように装いますが…。
それを即公立の学校に当てはめてうまくいくかというと、そうはいきません。「習熟度別」に分けるということ自体、学力格差による「差別」という議論もあると思いますが、その後、分けることによって、さらに学力格差が広がってしまい、「差別を生む」ということをどうするのかというのが大きな問題です。
どうも日本人は、文化として、格差を広げることを好まない傾向があるように思います。今回の参議院選挙の結果を見ても、相次ぐ閣僚の不祥事や安倍さん個人のキャラクターの問題はあったにしても、やはり根本的にくすぶっていたのは、格差の問題です。置き去りにされた地方の氾濫というのは、もちろんありますが、都市部でも格差については、はっきり「ノー」です。
和歌山県の先生の言う「同じレベルが集まると生徒は安心してしまい、成績の引き上げ効果が失われているようだ」というコメントも、日本の文化として捉えた場合、とても良く理解でき、おそらくこれからも、それを打ち破るのは並大抵のことではないのではないかと感じます。単純に成績順に「習熟度別に分ける」ということではなく、もっと日本の風土にあった「新たな習熟度別」が必要なのかもしれません。

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2022年4月30日 (土)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第270回「定員割れ大学のターゲット」

先日テレビを見ていたら、少子化により定員割れの大学が、今春4割を超えたというニュースが流れていました。
読売新聞によると、
「今春の入試で、入学者が定員に満たなかった4年制私立大学の割合が前年度の29・5%から40・4%に急増し、過去最高となったことが24日、日本私立学校振興・共済事業団の調べで分かった。私立短大の定員割れも前年度比10・2ポイント増の51・7%に達した。同事業団では、18歳人口が減る一方、大学設置認可の緩和などで大学や学部の新設が相次ぎ、定員自体は増えているためと分析している。少子化に伴い、私学経営が厳しさを増している状況が、改めて裏付けられた」そうです。
大学の生き残りをかけた営業活動も活発化していて、営業活動の矛先は、受験生本人ではなく、授業料を負担する親に向かっているとか。テレビの映像でも、受験生本人と学校説明会に参加する母親の姿が映し出されていました。
その映像を見ていて、おもしろいなあと思ったのは、どの親子も必死になっているように見えるのは受験生本人ではなく母親の方。何組かの親子の映像が流れていましたが、私の見る限り、どの親子にも共通して言えるので、見ているうちにだんだん滑稽に見えてきました。
「あの子は大学に入って何を学びたいのかねえ?」
と私が思わず疑問を投げかけると、娘の麻耶(まや)が、
「別にやりたいことなんて、ないんじゃないの」
「やっぱりそう見えるよなあ。じゃあ、何で大学行くんだろう?」
「学生でいたいんじゃない?! 親にお金出してもらって、遊んでいられて、楽だし…。すごく無責任でいられるしさあ」
「まったく」
そんな会話をしていたら、その親子のインタビュー映像が流れました。
「息子は何をやりたいかはっきりしていないんです」
という母親。“だから私が決めてやってる”と言わんばかりです。
「僕は、まだ何をやりたいかよくわからないんです」
“だから母親に決めてもらってる”と言わんばかりの息子。
“何をやりたいか”はさておき、とにかく“大学”というところに入れたい母親、“何をやりたいか”はさておき、親が言うから“大学”というところに入りたいと思っている息子。そんな様子がとてもよく表れていました。
昔も今も“大学”というところを目指す理由に、いい会社に入社(難しい資格を取得)し、より多くの収入を得、いい暮らしがしたい(させたい)というのがあると思いますが、テレビのニュースで流れていたのは、定員割れに悩む不人気の大学が、定員割れ対策として親をターゲットに営業戦略を立てているというもの。どう考えても、最終的に“いい暮らし”という目標を持てるとは思えない。とうとう“大学”までもが、消費志向を満たすための商品になってきてしまったんだなあ、という印象です。
そして、親が子どもを自分の元に縛っておくために大学を利用し、子どもは子どもで、親の傘の下から出ないための道具として大学を利用し始めたということのように感じます。そうした親子のニーズと定員割れに追い込まれている大学のニーズとがピッタリとマッチしたということのなのでしょう。
けれども、大学本来の目的やあるべき姿を見失ったこうした状況は、未来に大きなツケを残すことになる気がしてなりません。

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2022年1月14日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第240回「教育基本法改正」

とうとう教育基本法が改正されました。今回の改正は、タウンミーティングのやらせ問題が発覚したにもかかわらず、その責任を安倍首相を始め、タウンミーティングに関わりのある閣僚が、給与の一部を返納するという形で処理をし、やらせ問題に一応の幕引きを図った上で、半ば強引に成立させたものでした。改正自体は、衆議院、参議院において審議に費やした時間等を考えれば、手続き上問題のあるものではありませんが、タウンミーティングで、国民の声を聞くことが改正の大きなきっかけ作りであっただけに、賛成の世論形成が、多額の税金を使ったやらせにより法案提出側の政府によって画策されたとすれば、法案制定の過程に大きな瑕疵があったわけで、給与の返納という一時的な責任のとり方ですませていいわけがありません。筋からいえば、当然タウンミーティングはやり直すべきでしょう。こういうことが繰り返されると、これまで以上に教育行政に対する信頼は揺らぎます。たまたまテレビの国会中継を見ていたときに、神本議員の「お金で解決するのか?」の質問がありました。ちょっと興奮気味に「お金で解決するという言い方は失礼じゃないですか」と答えた安倍首相の態度にはがっかりしました。

学校で事件が起こると、加害者になった児童・生徒に、被害者になった児童・生徒のところに菓子折か何かを持って謝りに行くよう、学校から指示されることがよくあります。私も親として謝りに来られた経験が2回あるんですけれど、「おいおい、菓子折で解決するんですか?」(加害者になった子どもに対してではなく、学校に対して)と言いたくなります。ほとんどの場合、加害者になった子どもと学校との関係性の問題から起こっていることなのに、菓子折を持ってこさせてすまそうとしたところで、何も根本的な解決につながらないからです。

今回の安倍首相の答弁は、それとよく似ているなあと思いました。大切なのは、責任論ですませることではなく、タウンミーティングを真に有効なものにすることです(もっともタウンミーティングという手法を「認める」「認めない」の問題はありますが)。そういう視点の欠けている今回のやり方、これが、今まさに「教育」(行政も現場も含めて)に問われている問題なのだと思います。にもかかわらず首相からしてこれでは…。

私は、これまでの教育基本法を絶対に改正するべきではないと思っているものではありません。以前から、何度か言ってきましたが、時代は変わります。最近では、そんな話も出ないでしょうが、真(まこと)、麻耶(まや)が小学生のころは、「鉛筆をナイフで削れない子がいる」「風呂敷を縛れない子がいる」なんていうことが、PTAの中で大問題だったわけですから、おかしなものです。ひょっとするとこれを読んでくださっている方の中にも、「風呂敷」がわからなかったり、「ナイフ」をカッターナイフと思っている方がいますよね。「ナイフ」っていうのは、「ボンナイフ」ですよ。よく「不良」って言われた子たちが喧嘩のときのために持っていたんです。もちろん「不良でない子」も筆箱の中に入れていましたが。

子どもの遊びはどんどん変化し、大人の生活も変わりました。私が子どものころにはなかったファミレスやコンビニが登場し、いろいろなものが機械化され、一日中、一度も人と話をしなくても生きていかれる社会になった。この急激な変化の時代に、変えてはいけない法律があるというのもナンセンスだと思います。もちろん、教育基本法もその例外ではない。
が、それでは、時代の流れに合わせて改正すべき部分が教育基本法に本当にあったのか、また改正をしようという国民的議論があったのかと言えば、どうもそこには疑問がある。今回の改正で、いくつかのの問題点が指摘されています。皆さんよくご存じの、愛国心や道徳心の問題、男女共学の問題…。そういうところも問題だと思いますが、私が今回の改正で最も危惧しているのは、法律の方向性ということです。これまでの教育基本法は、国民の教育のために国が果たす責任を明確化したものでした。けれども、今回の改正でその方向性はまったく逆になり、国のために国民はこうあるべきという方向性になってしまった。これは明らかに文明の退化です。

これまで繰り返し述べていますけれど、子どもの成長にとって最も大切なことは、自ら選択し、自ら獲得すること。大人の価値観を押しつけるのではなく、「選択できる幅をいかに広げ、いかに獲得しやすくしてやるか」が大人の責任だと思うのですが、国家がこれではね。国旗・国歌やいじめに特化したこんな目先の法律を作るより、半世紀以上がたっても古さを感じないこれまでの教育基本法のような、遠い時代を見据えた、真に国民のための法律を作ってもらいたいものです。


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第234回「教育再生のスタート」

未履修問題は受験競争の産物という見方もあります。もちろんそれは否定しません。未履修問題に限って言えば、指導要領通りにやらない学校が悪いという学校責任論だけを論じても、あまり意味がありません。未履修問題を解決しようとするなら、大学入試制度の改革や指導要領の見直しは不可欠です。けれども、今教育の現場で起こっている問題はそれだけではない。不登校の問題、いじめの問題、学級崩壊の問題…。どれをとっても、政治を抜きには語れない。「教育基本法改正問題」「教育バウチャー制導入問題」など、次から次へとあまりにも乱暴な教育改革が進もうとしている。ですが、その辺のことは”す~爺”氏が「浦和の隅から教育をのぞく」の中でいつも大変詳しく取り上げてくださっているので、私は教育を”親”という立場と妻や義妹、妻の両親や叔父、叔母までが教員という環境の中で、今の学校をどう捉えるかという観点で、最近の教育現場で起こっていることを語りたいと思います。
11月4日の新聞に、足立区における「学力テストで予算に差」という記事が載りました。教育内容の一部(学力や偏差値といった)に偏った競争が、今回の未履修問題を生んだのではないかという議論がある中で、足立区教委は学力テストの結果により、予算配分を変えるという決定をしました。大学の入試制度改革にしろ指導要領の見直しにしろ、今後教育の中身についての議論が進むであろうと予想されるときに、単純に学力テストの結果を基にその成績に応じて、小学校では400万円~200万円、中学校では500万円~200万円という予算配分をするというのですから、どうしてそんな暴挙に簡単に進めるのか、その感覚を疑います。この連載でもずっと取り上げてきたように、「その感覚こそが教育問題の根底にある一番大きな問題なんだ」と私は思っています。
個々の教師の資質や力量、個性ということで言えば、優秀な教師はたくさんいます。「教えるのがうまい」「子どもに優しい」「子どもの心に寄り添える」「厳しい指導ができる」「毅然としている」…。そういったものはとても大事なことで、そういう先生たちが、今の政治の悪さや行政のいい加減さを一手に背負い、奮闘しているのだと思います。
ところが、教員バッシングはまったくとどまる気配がない。私は、親という立場で、今のバッシンムードが広がる前から、教員の姿勢に対する批判をしていますが、それは教員に囲まれている(まあ、私も非常勤ではありますが10年近く専門学校の講師をしてはいましたが)という生活環境の中で、学校に期待しているからに他なりません。教育学者の大田堯氏(東大名誉教授)が、日本の社会を「学校信仰」という言葉で表現したことがありました。「私がまさにそれかなあ?」と考えることもあります。だからこそ主張したいのですが、「教師は自戒し、しっかりとした意識改革をするべき」です。
とにかく、まず「自分たちが正しい」という思いこみをやめる、学校だから何をやってもいいという感覚のもと社会のルールを踏み外さない、権力を持って子どもたちと接しない、そして何より謙虚でいる。まあ、少なくともこれだけのことが実行できたら、すぐ学校は変わると思います。こう言うと、「そんなことはわかっているし、そうしている」という先生方も多いと思いますが、そう思っている感覚が、もうすでに社会の感覚とずれていると思うのです。それに教師が気付かないと、バッシングは止まらない。そして、政治のいい標的にされ、教育現場は混乱する。
「学校」という場所は、社会の中で特別に保護されている場所です。それは当然そうあるべきです。さまざまな外圧が排除され、自由でなければいけない。けれどもそれは、子どもたちのためのものであって、教師のためのものではない。そこの区別がつかなくなっているのではないかと感じます。最近の状況を見ていると、「本来生徒を保護する場所なのに、教師を保護してしまっていることが露呈した」、そんな観さえします。
教育を取り巻く環境が、厳しくなっていることはよくわかりますが、一人一人の教員が目の前にいる子どもたちのことをどれだけ真剣に考えているか、教師はもう一度自分に問いかけてみる必要があるのではないでしょうか。
先週の週刊文春は、未履修問題を含めた教育問題をかなりスペースを割いて掲載しています。その最後の部分に『「自分のため」にやった校長の責任』というコラムを載せて、各新聞報道を「報道では、保護者会で謝罪する学校長の姿を紹介しているが、「生徒のためを考えてやった」という言い訳を容認している節がある」と批判し、「有名大学に何人合格させたかが出世のバロメーターであっただろう。ヤリ手校長と呼ばれるうちに感覚がマヒしていった、つまり、「自分のためを考えてやった」側面を、新聞は検証し、きちんと批判すべきであろう」と結んでいます。
もちろん、「生徒のため」がなかったわけではないと思いますが、この週刊文春の見方もはずれているわけではない。
私が、専門学校に勤めていたとき、生徒の卒業制作展のため、期日ぎりぎりに焼き上がった大きな陶器の壺を、展示会当日の朝早く、何個もワゴン車に積んで運ぼうとしていたことがありました。ちょうどそこへ科の主任が通りかかって声をかけてくれたのですが、その先生から出た言葉は、なんと「生徒の作品なんだから、そんなに一生懸命やらなくてもいいですよ」という言葉でした。私は非常勤講師、相手は主任で私は指示を受ける立場、特に授業の内容以外はまったく指示通りに動くしかない立場だった上、とても真面目で、いい先生だと思っていた方からの言葉だったので、「はぁ」というのが精一杯。唖然として返す言葉もありませんでした。
毎年毎年繰り返されるカリキュラムの中で、自分が楽をしたり、出世をするためなら、目の前にいる一人一人の生徒は抹殺され、”生徒”という十把一絡げな存在になり、そこに存在する人格すら認めない。「マヒ」というのはこういうことなんだろうなあ、と思います。
教師は皆、今一度胸に手を当て、日々の自分の言動、行動を振り返ってみる必要があるのではないか。そんなところに教育再生のスタートはあるのではないかと思います。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2022年1月13日 (木)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第233回「未履修ついに発覚!」

各地の高校で、必修科目の未履修が明らかになっています。現場を知っている者からすると、「なにを今さら」という感じ。今日(10月29日)の段階で410校という報道もありますが、まだまだかなりの高校がビクビクしているのでは?
息子が男子高に通っているとき、家庭科共修が大きな問題になりました。PTA広報部の企画で座談会が開かれ、私も参加したのですが、「県からの指導で調理室を設けることになるが…」というテーマに対して、座談会に参加していた先生が発言したことといったら、
「うちの生徒は実習なんてしなくても、机の上で本を開けば何でもわかるんだから、調理室なんて作ることないですよ。実習はやったことにしておけばいい。調理実習なんて偏差値の低い学校の生徒がやればいいことで、あんなことは無駄」
ですからね。
この先生は、県の教育委員会からの評価も高い人だと思うんです。その後、女子の進学校に勤めてますからね。
さて女子高に行って何と言っているのでしょう?
これは、家庭科のことですが、他の授業についても受験に関係ないものはやることないという発想は、いくらでもあります。必修クラブなんていうのは、その最たるものだったんですよね。教員間では「やったことにする」という共通認識があった。
私も必修クラブがそれほど重要な役割を果たしていたとも思わないので、「やったことにする」というだけなら、まだその気持ちは理解できなくもないけれど、「やったこと」になっているわけだから、それに対する予算は付くわけで、「もらうものはもらって、使っちゃえばいい」なんてことになっちゃう。普通の感覚なら犯罪といってもいいような大変なことなんだけれど、結構やってたところが多いんじゃないかな。
教員の感覚って、そんなもんですよね。
今回の社会科の履修問題も、一つは「俺たちの勝手にやればいい」という感覚の産物ですね。教員はルールを守ることが下手な人種だから。いろいろなところでいろいろなものが改ざんされているわけで、公文書偽造になるんだろうけど、いったいどう処分するんだろう?
刑法は公文書偽造を、
第百五十五条   【 公文書偽造等 】
第一項 行使の目的で、公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造した者は、一年以上十年以下の懲役に処する。
第二項 公務所又は公務員が押印し又は署名した文書又は図画を変造した者も、前項と同様とする。
第三項 前二項に規定するもののほか、公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は公務所若しくは公務員が作成した文書若しくは図画を変造した者は、三年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する。

と定めているんです。私は、厳罰主義を唱えるものではないので、本来刑罰によって悪事をただすという考え方をあまり好きではないし、特に教育の中身については、杓子定規に対応することには大反対ですが、「教育現場」ということだけを盾にとって、こういうことがゆるんでしまうのはどうかと思えてなりません。わいせつな教員に対しても、せいぜい職場の移動とか数ヶ月の停職くらい。もっとひどい例だと「もう少し気をつけろ」なんていう校長の言葉でおしまいとかね。

まあそれはさておき、私は今回の未履修問題を、受験競争の問題、個々の学校や地方の問題として捉えるだけでなく、教育行政の仕組みの問題、教員という職業的な意識の問題としても捉えています。すでに3県の教育長が高校の校長時代から、未履修について認識していたのに、行政のトップである教育長になってからも黙認していたことを認めているそうですが、そんなこと当たり前です。教諭から管理職になろうとするとき、まず管理職試験を受けます。それに受かると、一旦教育委員会に籍を置く人たちが多い。その後、校長・教頭の退職者に応じて各学校に移動になっていくわけですから、委員会は現場と切り離されているわけではありません。特に各学校を直接管理している指導課は、管理職試験に合格して教諭から人事異動で上がり、教頭・校長予備軍となっている人たちが多いことは、子どもを学校に通わせたことがある人なら皆さんご存じかと思います。
以前にあまりにもひどい校長のことで、教育委員会に電話で相談したときのこと。電話に出た主事さんはとても正直な方らしく、
「大変申し訳ないんですが、校長の指導は我々にはできないんですよ」
と答えてくれました。当たり前ですよね。その校長は主事さんがお世話になった先輩かもしれないし、その後、自分がその校長の部下になってしまうかもしれないわけだから。もちろん、唐突に民間から校長や行政職の長を出せばいいなんて考えてはいませんけれど、現場と行政が一緒になって自分たちの保身をしていたのでは、教育に対する信頼なんて回復するわけがありません。こういう仕組みも、問題を隠蔽し、問題が発覚したときにはとてつもなく大きな問題にしてしまっているんだろうと思います。
今回の未履修の問題も、そんな仕組みの中で起こっていることなので、「教育委員会が把握していなかった」なんていう報道も一部ありましたが、そんなはずがないじゃないですか。委員会が隠していたんです。
ここのところの報道を見ていると、「受験競争のあおり」とか「地域格差」とかいう視点だけで議論がなされていて、「必修科目の見直し」や「受験制度の改革」といった方向に進んでいきそうな気配です。一つの方向としてそういうものが必要であろうとは思いますが、不登校やいじめ、教員の不祥事など、次から次へと起こってくる教育問題を考えるとき、未履修の問題をそれだけにとどめるのではなく、もっと根本的な教育行政の見直しが必要なんだろうと思います。
政府も教育改革を最重要課題と位置づけているようですが、私は、小泉内閣以来の教育改革はまさに多くの問題を吹き出させた元凶だと考えています。経済主導で進めていくような教育改革ではなく、もっと「人の心」に立ち位置を移した教育改革を実行してほしいものです。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2021年12月28日 (火)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第230回「政治の責任」

車を止めて、テレビのスイッチを入れると、自民党衆議院議員で元文部大臣の鳩山邦夫氏の顔が、アップで大きく映し出されていました。
「教育の現状についてどうお考えですか?」
「今の子どもたちは幸せそうじゃないね」
「教育改革については、どう思われますか?」
「私が週休2日制を導入したので、ずいぶん悪く言われましたよ。子どもにとって、大事なのは、いろいろなことを学ぶこと、体験が大事なんじゃないかな。教科のことばかり教えていてもね。”やろう!”っていう意欲が湧くような教育をしないとダメですよ。”再チャレンジできる世の中を作る”といったって、それには”やろう!”っていう意欲が必要なわけで、それがないから今のようにニートが増える。子どもにはいろいろな体験をさせて、意欲を育てたいですね」(記憶をたどっているので、少し言葉が違うかもしれません。ニュアンスだけ取ってください)
そんなことを語っていました。基本的には大賛成です。子育て・教育における体験の欠如は、”やる気”が育ちません。”やる気”というのは、もちろん教科における学力とも密接に関係するわけで、どんなに教え方のうまい教師が”教える”というテクニックだけを駆使して教えても、子どもに意欲がなければ学力もつきません。しかも、”競争”ということを”エサ”にやる気を引き出したのでは、競争に負けたときや勝ってしまって先がなくなってしまったときの反動が大きい。”競争”というのは、目先有効であっても、目的が非常に矮小化しているので、それだけではそう長くは意欲が持続できない。もっと人間の根本の部分から意欲を引き出さなくては…。
鳩山氏の考え方は、そういったものだと受け止めました。
文部科学省はゆとり教育を改めようと、大きく舵を切りました。ここ1、2年の方向転換は、まさに180度。教育現場の混乱もかなり大きなものになっています。
長期にわたった小泉内閣から、阿部内閣にバトンが渡されました。経済界からは、「改革なくして成長無し」の言葉の元、構造改革の継続を望む声が数多く出されているようです。現在政府が進めている”改革”の是非はともかくとして、経済政策の継続性はとても重要なことです。誰が考えても当然のことです。
教育に継続性は無用なのか。
阿部内閣の発足により、今度は小学校における英語教育の方向性が180度変えられようとしています。前任の小坂大臣は「柔軟な児童が、英語教育に取り組むのは否定すべきことではない」と、必修化に前向きな姿勢を示していました。ところが今回就任した伊吹大臣は、「私は必修化する必要は全くないと思う。美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」と話し、否定的な見解を示しました。小学校の英語の授業をめぐっては、文科相の諮問機関である中央教育審議会の専門部会が今年3月、5年生から週1時間程度の必修化を提言、中教審で議論が進められています。にもかかわらず、大臣が替わる度にこんなことが起こっていいのでしょうか。
必修ということに限って言えば、私はどちらかというと伊吹氏指示ですが、それはともかくとして、教育行政の変わり様は、いつも180度。これで、健全な教育が行われていると言えるのか、はなはだ疑問です。
教育行政の中身が、文部科学相の個人的な好みによって左右されている現状は、とても憂うべきことです。何が子どもたちにとって最善か、もっと現場を重視し、長期的なビジョンをもって政治が進められることを強く望みます。

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