2022年5月20日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第273回「習熟度別って効果ない?」

8月26日、朝日新聞朝刊に「習熟度分けても英語成績伸びず」との見出しで、全教・教研集会での和歌山県の県立高校教諭からの報告の記事が掲載されていました。
03,04年度に普通科2年生2クラス80人を対象に「英語Ⅱ」で上位2つと下位1つの3グループに分け、習熟度別授業を試みたそうです。全国模試の平均偏差値で見ると、03年度、04年度も大きな変化はなく、習熟度別の効果は確認できなかったとか。ちなみに04年度に行われた7,11,1月の3回の模試の結果は、上位が「48.7→48.0→47.7」、下位が「46.1→44.5→45.6」。
この結果を見る限り、7月より1月の方が模試の結果が悪いので、確かに習熟度の結果が出ていないようにも見えますが、標本が2クラス80名と少ないこと、そして習熟度別クラスとそうでないクラスの比較ではなく、習熟度別クラスの時間的経過だけが比較対象になっていることなどを考えれば、実際にはほとんど意味のない調査になってしまっていると言わざるを得ません。(新聞報道が、比較対象を時系列的偏差値のみに絞った可能性もあるので、すべてが無駄とは言えないのですが、新聞報道を読む限り、調査としてあるいは記事として、とても稚拙と言えると思います)
調査をした先生に、「効果がないのではないか」あるいは「効果があるはずがない」という考えがもともとあって、そういう結論を導き出すための調査であったのかなという気もしなくもないのですが。(あくまでも「報道の内容がすべて」という前提でですが)
とは言え、私も「習熟度別授業」を単純に支持するものではないので、「教師を増やした割には効果が見られなかった。同じレベルが集まると生徒は安心してしまい、成績の引き上げ効果が失われているようだ」という、この先生の後半部分のコメントにはある程度納得できます。塾をやっていた経験から言うと、短期間に特定の子の成績を上げようとすれば「習熟度別」というのは、絶対に必要です。「先に進む」あるいは「さらに難易度の高い問題をこなす」ということであれば、当然それについてこられない子どもたちは「足手まとい」になります。「足手まとい」になった子どもたちを切り捨てずに、なんとかしようとすれば、クラスを分けるしかない。一般的に言って、個別指導でない塾はそれを実践しているわけで、成績の順にクラス分けを行っています。塾の目的は、ただ単に少しでも多くの生徒の学力を、できる限り現状より良くすることが目的なので、上下の学力格差が広がり差別が助長され、ある程度の落ちこぼれが生まれようと、そんなことはお構いなしです。もっとも、経営上、低学力の子どもたちを切り捨ててしまっては「もったいない」ですから、簡単に切り捨てようとはせず、丁寧に面倒を見ているように装いますが…。
それを即公立の学校に当てはめてうまくいくかというと、そうはいきません。「習熟度別」に分けるということ自体、学力格差による「差別」という議論もあると思いますが、その後、分けることによって、さらに学力格差が広がってしまい、「差別を生む」ということをどうするのかというのが大きな問題です。
どうも日本人は、文化として、格差を広げることを好まない傾向があるように思います。今回の参議院選挙の結果を見ても、相次ぐ閣僚の不祥事や安倍さん個人のキャラクターの問題はあったにしても、やはり根本的にくすぶっていたのは、格差の問題です。置き去りにされた地方の氾濫というのは、もちろんありますが、都市部でも格差については、はっきり「ノー」です。
和歌山県の先生の言う「同じレベルが集まると生徒は安心してしまい、成績の引き上げ効果が失われているようだ」というコメントも、日本の文化として捉えた場合、とても良く理解でき、おそらくこれからも、それを打ち破るのは並大抵のことではないのではないかと感じます。単純に成績順に「習熟度別に分ける」ということではなく、もっと日本の風土にあった「新たな習熟度別」が必要なのかもしれません。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2022年4月30日 (土)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第270回「定員割れ大学のターゲット」

先日テレビを見ていたら、少子化により定員割れの大学が、今春4割を超えたというニュースが流れていました。
読売新聞によると、
「今春の入試で、入学者が定員に満たなかった4年制私立大学の割合が前年度の29・5%から40・4%に急増し、過去最高となったことが24日、日本私立学校振興・共済事業団の調べで分かった。私立短大の定員割れも前年度比10・2ポイント増の51・7%に達した。同事業団では、18歳人口が減る一方、大学設置認可の緩和などで大学や学部の新設が相次ぎ、定員自体は増えているためと分析している。少子化に伴い、私学経営が厳しさを増している状況が、改めて裏付けられた」そうです。
大学の生き残りをかけた営業活動も活発化していて、営業活動の矛先は、受験生本人ではなく、授業料を負担する親に向かっているとか。テレビの映像でも、受験生本人と学校説明会に参加する母親の姿が映し出されていました。
その映像を見ていて、おもしろいなあと思ったのは、どの親子も必死になっているように見えるのは受験生本人ではなく母親の方。何組かの親子の映像が流れていましたが、私の見る限り、どの親子にも共通して言えるので、見ているうちにだんだん滑稽に見えてきました。
「あの子は大学に入って何を学びたいのかねえ?」
と私が思わず疑問を投げかけると、娘の麻耶(まや)が、
「別にやりたいことなんて、ないんじゃないの」
「やっぱりそう見えるよなあ。じゃあ、何で大学行くんだろう?」
「学生でいたいんじゃない?! 親にお金出してもらって、遊んでいられて、楽だし…。すごく無責任でいられるしさあ」
「まったく」
そんな会話をしていたら、その親子のインタビュー映像が流れました。
「息子は何をやりたいかはっきりしていないんです」
という母親。“だから私が決めてやってる”と言わんばかりです。
「僕は、まだ何をやりたいかよくわからないんです」
“だから母親に決めてもらってる”と言わんばかりの息子。
“何をやりたいか”はさておき、とにかく“大学”というところに入れたい母親、“何をやりたいか”はさておき、親が言うから“大学”というところに入りたいと思っている息子。そんな様子がとてもよく表れていました。
昔も今も“大学”というところを目指す理由に、いい会社に入社(難しい資格を取得)し、より多くの収入を得、いい暮らしがしたい(させたい)というのがあると思いますが、テレビのニュースで流れていたのは、定員割れに悩む不人気の大学が、定員割れ対策として親をターゲットに営業戦略を立てているというもの。どう考えても、最終的に“いい暮らし”という目標を持てるとは思えない。とうとう“大学”までもが、消費志向を満たすための商品になってきてしまったんだなあ、という印象です。
そして、親が子どもを自分の元に縛っておくために大学を利用し、子どもは子どもで、親の傘の下から出ないための道具として大学を利用し始めたということのように感じます。そうした親子のニーズと定員割れに追い込まれている大学のニーズとがピッタリとマッチしたということのなのでしょう。
けれども、大学本来の目的やあるべき姿を見失ったこうした状況は、未来に大きなツケを残すことになる気がしてなりません。

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2022年1月14日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第240回「教育基本法改正」

とうとう教育基本法が改正されました。今回の改正は、タウンミーティングのやらせ問題が発覚したにもかかわらず、その責任を安倍首相を始め、タウンミーティングに関わりのある閣僚が、給与の一部を返納するという形で処理をし、やらせ問題に一応の幕引きを図った上で、半ば強引に成立させたものでした。改正自体は、衆議院、参議院において審議に費やした時間等を考えれば、手続き上問題のあるものではありませんが、タウンミーティングで、国民の声を聞くことが改正の大きなきっかけ作りであっただけに、賛成の世論形成が、多額の税金を使ったやらせにより法案提出側の政府によって画策されたとすれば、法案制定の過程に大きな瑕疵があったわけで、給与の返納という一時的な責任のとり方ですませていいわけがありません。筋からいえば、当然タウンミーティングはやり直すべきでしょう。こういうことが繰り返されると、これまで以上に教育行政に対する信頼は揺らぎます。たまたまテレビの国会中継を見ていたときに、神本議員の「お金で解決するのか?」の質問がありました。ちょっと興奮気味に「お金で解決するという言い方は失礼じゃないですか」と答えた安倍首相の態度にはがっかりしました。

学校で事件が起こると、加害者になった児童・生徒に、被害者になった児童・生徒のところに菓子折か何かを持って謝りに行くよう、学校から指示されることがよくあります。私も親として謝りに来られた経験が2回あるんですけれど、「おいおい、菓子折で解決するんですか?」(加害者になった子どもに対してではなく、学校に対して)と言いたくなります。ほとんどの場合、加害者になった子どもと学校との関係性の問題から起こっていることなのに、菓子折を持ってこさせてすまそうとしたところで、何も根本的な解決につながらないからです。

今回の安倍首相の答弁は、それとよく似ているなあと思いました。大切なのは、責任論ですませることではなく、タウンミーティングを真に有効なものにすることです(もっともタウンミーティングという手法を「認める」「認めない」の問題はありますが)。そういう視点の欠けている今回のやり方、これが、今まさに「教育」(行政も現場も含めて)に問われている問題なのだと思います。にもかかわらず首相からしてこれでは…。

私は、これまでの教育基本法を絶対に改正するべきではないと思っているものではありません。以前から、何度か言ってきましたが、時代は変わります。最近では、そんな話も出ないでしょうが、真(まこと)、麻耶(まや)が小学生のころは、「鉛筆をナイフで削れない子がいる」「風呂敷を縛れない子がいる」なんていうことが、PTAの中で大問題だったわけですから、おかしなものです。ひょっとするとこれを読んでくださっている方の中にも、「風呂敷」がわからなかったり、「ナイフ」をカッターナイフと思っている方がいますよね。「ナイフ」っていうのは、「ボンナイフ」ですよ。よく「不良」って言われた子たちが喧嘩のときのために持っていたんです。もちろん「不良でない子」も筆箱の中に入れていましたが。

子どもの遊びはどんどん変化し、大人の生活も変わりました。私が子どものころにはなかったファミレスやコンビニが登場し、いろいろなものが機械化され、一日中、一度も人と話をしなくても生きていかれる社会になった。この急激な変化の時代に、変えてはいけない法律があるというのもナンセンスだと思います。もちろん、教育基本法もその例外ではない。
が、それでは、時代の流れに合わせて改正すべき部分が教育基本法に本当にあったのか、また改正をしようという国民的議論があったのかと言えば、どうもそこには疑問がある。今回の改正で、いくつかのの問題点が指摘されています。皆さんよくご存じの、愛国心や道徳心の問題、男女共学の問題…。そういうところも問題だと思いますが、私が今回の改正で最も危惧しているのは、法律の方向性ということです。これまでの教育基本法は、国民の教育のために国が果たす責任を明確化したものでした。けれども、今回の改正でその方向性はまったく逆になり、国のために国民はこうあるべきという方向性になってしまった。これは明らかに文明の退化です。

これまで繰り返し述べていますけれど、子どもの成長にとって最も大切なことは、自ら選択し、自ら獲得すること。大人の価値観を押しつけるのではなく、「選択できる幅をいかに広げ、いかに獲得しやすくしてやるか」が大人の責任だと思うのですが、国家がこれではね。国旗・国歌やいじめに特化したこんな目先の法律を作るより、半世紀以上がたっても古さを感じないこれまでの教育基本法のような、遠い時代を見据えた、真に国民のための法律を作ってもらいたいものです。


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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第234回「教育再生のスタート」

未履修問題は受験競争の産物という見方もあります。もちろんそれは否定しません。未履修問題に限って言えば、指導要領通りにやらない学校が悪いという学校責任論だけを論じても、あまり意味がありません。未履修問題を解決しようとするなら、大学入試制度の改革や指導要領の見直しは不可欠です。けれども、今教育の現場で起こっている問題はそれだけではない。不登校の問題、いじめの問題、学級崩壊の問題…。どれをとっても、政治を抜きには語れない。「教育基本法改正問題」「教育バウチャー制導入問題」など、次から次へとあまりにも乱暴な教育改革が進もうとしている。ですが、その辺のことは”す~爺”氏が「浦和の隅から教育をのぞく」の中でいつも大変詳しく取り上げてくださっているので、私は教育を”親”という立場と妻や義妹、妻の両親や叔父、叔母までが教員という環境の中で、今の学校をどう捉えるかという観点で、最近の教育現場で起こっていることを語りたいと思います。
11月4日の新聞に、足立区における「学力テストで予算に差」という記事が載りました。教育内容の一部(学力や偏差値といった)に偏った競争が、今回の未履修問題を生んだのではないかという議論がある中で、足立区教委は学力テストの結果により、予算配分を変えるという決定をしました。大学の入試制度改革にしろ指導要領の見直しにしろ、今後教育の中身についての議論が進むであろうと予想されるときに、単純に学力テストの結果を基にその成績に応じて、小学校では400万円~200万円、中学校では500万円~200万円という予算配分をするというのですから、どうしてそんな暴挙に簡単に進めるのか、その感覚を疑います。この連載でもずっと取り上げてきたように、「その感覚こそが教育問題の根底にある一番大きな問題なんだ」と私は思っています。
個々の教師の資質や力量、個性ということで言えば、優秀な教師はたくさんいます。「教えるのがうまい」「子どもに優しい」「子どもの心に寄り添える」「厳しい指導ができる」「毅然としている」…。そういったものはとても大事なことで、そういう先生たちが、今の政治の悪さや行政のいい加減さを一手に背負い、奮闘しているのだと思います。
ところが、教員バッシングはまったくとどまる気配がない。私は、親という立場で、今のバッシンムードが広がる前から、教員の姿勢に対する批判をしていますが、それは教員に囲まれている(まあ、私も非常勤ではありますが10年近く専門学校の講師をしてはいましたが)という生活環境の中で、学校に期待しているからに他なりません。教育学者の大田堯氏(東大名誉教授)が、日本の社会を「学校信仰」という言葉で表現したことがありました。「私がまさにそれかなあ?」と考えることもあります。だからこそ主張したいのですが、「教師は自戒し、しっかりとした意識改革をするべき」です。
とにかく、まず「自分たちが正しい」という思いこみをやめる、学校だから何をやってもいいという感覚のもと社会のルールを踏み外さない、権力を持って子どもたちと接しない、そして何より謙虚でいる。まあ、少なくともこれだけのことが実行できたら、すぐ学校は変わると思います。こう言うと、「そんなことはわかっているし、そうしている」という先生方も多いと思いますが、そう思っている感覚が、もうすでに社会の感覚とずれていると思うのです。それに教師が気付かないと、バッシングは止まらない。そして、政治のいい標的にされ、教育現場は混乱する。
「学校」という場所は、社会の中で特別に保護されている場所です。それは当然そうあるべきです。さまざまな外圧が排除され、自由でなければいけない。けれどもそれは、子どもたちのためのものであって、教師のためのものではない。そこの区別がつかなくなっているのではないかと感じます。最近の状況を見ていると、「本来生徒を保護する場所なのに、教師を保護してしまっていることが露呈した」、そんな観さえします。
教育を取り巻く環境が、厳しくなっていることはよくわかりますが、一人一人の教員が目の前にいる子どもたちのことをどれだけ真剣に考えているか、教師はもう一度自分に問いかけてみる必要があるのではないでしょうか。
先週の週刊文春は、未履修問題を含めた教育問題をかなりスペースを割いて掲載しています。その最後の部分に『「自分のため」にやった校長の責任』というコラムを載せて、各新聞報道を「報道では、保護者会で謝罪する学校長の姿を紹介しているが、「生徒のためを考えてやった」という言い訳を容認している節がある」と批判し、「有名大学に何人合格させたかが出世のバロメーターであっただろう。ヤリ手校長と呼ばれるうちに感覚がマヒしていった、つまり、「自分のためを考えてやった」側面を、新聞は検証し、きちんと批判すべきであろう」と結んでいます。
もちろん、「生徒のため」がなかったわけではないと思いますが、この週刊文春の見方もはずれているわけではない。
私が、専門学校に勤めていたとき、生徒の卒業制作展のため、期日ぎりぎりに焼き上がった大きな陶器の壺を、展示会当日の朝早く、何個もワゴン車に積んで運ぼうとしていたことがありました。ちょうどそこへ科の主任が通りかかって声をかけてくれたのですが、その先生から出た言葉は、なんと「生徒の作品なんだから、そんなに一生懸命やらなくてもいいですよ」という言葉でした。私は非常勤講師、相手は主任で私は指示を受ける立場、特に授業の内容以外はまったく指示通りに動くしかない立場だった上、とても真面目で、いい先生だと思っていた方からの言葉だったので、「はぁ」というのが精一杯。唖然として返す言葉もありませんでした。
毎年毎年繰り返されるカリキュラムの中で、自分が楽をしたり、出世をするためなら、目の前にいる一人一人の生徒は抹殺され、”生徒”という十把一絡げな存在になり、そこに存在する人格すら認めない。「マヒ」というのはこういうことなんだろうなあ、と思います。
教師は皆、今一度胸に手を当て、日々の自分の言動、行動を振り返ってみる必要があるのではないか。そんなところに教育再生のスタートはあるのではないかと思います。

 

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2022年1月13日 (木)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第233回「未履修ついに発覚!」

各地の高校で、必修科目の未履修が明らかになっています。現場を知っている者からすると、「なにを今さら」という感じ。今日(10月29日)の段階で410校という報道もありますが、まだまだかなりの高校がビクビクしているのでは?
息子が男子高に通っているとき、家庭科共修が大きな問題になりました。PTA広報部の企画で座談会が開かれ、私も参加したのですが、「県からの指導で調理室を設けることになるが…」というテーマに対して、座談会に参加していた先生が発言したことといったら、
「うちの生徒は実習なんてしなくても、机の上で本を開けば何でもわかるんだから、調理室なんて作ることないですよ。実習はやったことにしておけばいい。調理実習なんて偏差値の低い学校の生徒がやればいいことで、あんなことは無駄」
ですからね。
この先生は、県の教育委員会からの評価も高い人だと思うんです。その後、女子の進学校に勤めてますからね。
さて女子高に行って何と言っているのでしょう?
これは、家庭科のことですが、他の授業についても受験に関係ないものはやることないという発想は、いくらでもあります。必修クラブなんていうのは、その最たるものだったんですよね。教員間では「やったことにする」という共通認識があった。
私も必修クラブがそれほど重要な役割を果たしていたとも思わないので、「やったことにする」というだけなら、まだその気持ちは理解できなくもないけれど、「やったこと」になっているわけだから、それに対する予算は付くわけで、「もらうものはもらって、使っちゃえばいい」なんてことになっちゃう。普通の感覚なら犯罪といってもいいような大変なことなんだけれど、結構やってたところが多いんじゃないかな。
教員の感覚って、そんなもんですよね。
今回の社会科の履修問題も、一つは「俺たちの勝手にやればいい」という感覚の産物ですね。教員はルールを守ることが下手な人種だから。いろいろなところでいろいろなものが改ざんされているわけで、公文書偽造になるんだろうけど、いったいどう処分するんだろう?
刑法は公文書偽造を、
第百五十五条   【 公文書偽造等 】
第一項 行使の目的で、公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した公務所若しくは公務員の印章若しくは署名を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造した者は、一年以上十年以下の懲役に処する。
第二項 公務所又は公務員が押印し又は署名した文書又は図画を変造した者も、前項と同様とする。
第三項 前二項に規定するもののほか、公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は公務所若しくは公務員が作成した文書若しくは図画を変造した者は、三年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する。

と定めているんです。私は、厳罰主義を唱えるものではないので、本来刑罰によって悪事をただすという考え方をあまり好きではないし、特に教育の中身については、杓子定規に対応することには大反対ですが、「教育現場」ということだけを盾にとって、こういうことがゆるんでしまうのはどうかと思えてなりません。わいせつな教員に対しても、せいぜい職場の移動とか数ヶ月の停職くらい。もっとひどい例だと「もう少し気をつけろ」なんていう校長の言葉でおしまいとかね。

まあそれはさておき、私は今回の未履修問題を、受験競争の問題、個々の学校や地方の問題として捉えるだけでなく、教育行政の仕組みの問題、教員という職業的な意識の問題としても捉えています。すでに3県の教育長が高校の校長時代から、未履修について認識していたのに、行政のトップである教育長になってからも黙認していたことを認めているそうですが、そんなこと当たり前です。教諭から管理職になろうとするとき、まず管理職試験を受けます。それに受かると、一旦教育委員会に籍を置く人たちが多い。その後、校長・教頭の退職者に応じて各学校に移動になっていくわけですから、委員会は現場と切り離されているわけではありません。特に各学校を直接管理している指導課は、管理職試験に合格して教諭から人事異動で上がり、教頭・校長予備軍となっている人たちが多いことは、子どもを学校に通わせたことがある人なら皆さんご存じかと思います。
以前にあまりにもひどい校長のことで、教育委員会に電話で相談したときのこと。電話に出た主事さんはとても正直な方らしく、
「大変申し訳ないんですが、校長の指導は我々にはできないんですよ」
と答えてくれました。当たり前ですよね。その校長は主事さんがお世話になった先輩かもしれないし、その後、自分がその校長の部下になってしまうかもしれないわけだから。もちろん、唐突に民間から校長や行政職の長を出せばいいなんて考えてはいませんけれど、現場と行政が一緒になって自分たちの保身をしていたのでは、教育に対する信頼なんて回復するわけがありません。こういう仕組みも、問題を隠蔽し、問題が発覚したときにはとてつもなく大きな問題にしてしまっているんだろうと思います。
今回の未履修の問題も、そんな仕組みの中で起こっていることなので、「教育委員会が把握していなかった」なんていう報道も一部ありましたが、そんなはずがないじゃないですか。委員会が隠していたんです。
ここのところの報道を見ていると、「受験競争のあおり」とか「地域格差」とかいう視点だけで議論がなされていて、「必修科目の見直し」や「受験制度の改革」といった方向に進んでいきそうな気配です。一つの方向としてそういうものが必要であろうとは思いますが、不登校やいじめ、教員の不祥事など、次から次へと起こってくる教育問題を考えるとき、未履修の問題をそれだけにとどめるのではなく、もっと根本的な教育行政の見直しが必要なんだろうと思います。
政府も教育改革を最重要課題と位置づけているようですが、私は、小泉内閣以来の教育改革はまさに多くの問題を吹き出させた元凶だと考えています。経済主導で進めていくような教育改革ではなく、もっと「人の心」に立ち位置を移した教育改革を実行してほしいものです。

 

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2021年12月28日 (火)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第230回「政治の責任」

車を止めて、テレビのスイッチを入れると、自民党衆議院議員で元文部大臣の鳩山邦夫氏の顔が、アップで大きく映し出されていました。
「教育の現状についてどうお考えですか?」
「今の子どもたちは幸せそうじゃないね」
「教育改革については、どう思われますか?」
「私が週休2日制を導入したので、ずいぶん悪く言われましたよ。子どもにとって、大事なのは、いろいろなことを学ぶこと、体験が大事なんじゃないかな。教科のことばかり教えていてもね。”やろう!”っていう意欲が湧くような教育をしないとダメですよ。”再チャレンジできる世の中を作る”といったって、それには”やろう!”っていう意欲が必要なわけで、それがないから今のようにニートが増える。子どもにはいろいろな体験をさせて、意欲を育てたいですね」(記憶をたどっているので、少し言葉が違うかもしれません。ニュアンスだけ取ってください)
そんなことを語っていました。基本的には大賛成です。子育て・教育における体験の欠如は、”やる気”が育ちません。”やる気”というのは、もちろん教科における学力とも密接に関係するわけで、どんなに教え方のうまい教師が”教える”というテクニックだけを駆使して教えても、子どもに意欲がなければ学力もつきません。しかも、”競争”ということを”エサ”にやる気を引き出したのでは、競争に負けたときや勝ってしまって先がなくなってしまったときの反動が大きい。”競争”というのは、目先有効であっても、目的が非常に矮小化しているので、それだけではそう長くは意欲が持続できない。もっと人間の根本の部分から意欲を引き出さなくては…。
鳩山氏の考え方は、そういったものだと受け止めました。
文部科学省はゆとり教育を改めようと、大きく舵を切りました。ここ1、2年の方向転換は、まさに180度。教育現場の混乱もかなり大きなものになっています。
長期にわたった小泉内閣から、阿部内閣にバトンが渡されました。経済界からは、「改革なくして成長無し」の言葉の元、構造改革の継続を望む声が数多く出されているようです。現在政府が進めている”改革”の是非はともかくとして、経済政策の継続性はとても重要なことです。誰が考えても当然のことです。
教育に継続性は無用なのか。
阿部内閣の発足により、今度は小学校における英語教育の方向性が180度変えられようとしています。前任の小坂大臣は「柔軟な児童が、英語教育に取り組むのは否定すべきことではない」と、必修化に前向きな姿勢を示していました。ところが今回就任した伊吹大臣は、「私は必修化する必要は全くないと思う。美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」と話し、否定的な見解を示しました。小学校の英語の授業をめぐっては、文科相の諮問機関である中央教育審議会の専門部会が今年3月、5年生から週1時間程度の必修化を提言、中教審で議論が進められています。にもかかわらず、大臣が替わる度にこんなことが起こっていいのでしょうか。
必修ということに限って言えば、私はどちらかというと伊吹氏指示ですが、それはともかくとして、教育行政の変わり様は、いつも180度。これで、健全な教育が行われていると言えるのか、はなはだ疑問です。
教育行政の中身が、文部科学相の個人的な好みによって左右されている現状は、とても憂うべきことです。何が子どもたちにとって最善か、もっと現場を重視し、長期的なビジョンをもって政治が進められることを強く望みます。

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2019年11月 9日 (土)

【「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」第140回】「ゆとり教育の転換」

世界の中学2年生と小学4年生を対象に国際教育到達度評価学会(IEA)が昨年実施した学力調査の結果が15日付で公表されました。中学2年生の数学は前回(1999年調査)と同じ5位、理科は4位から6位、小学4年生の算数は前回(95年調査)と同じ3位、理科は2位から3位に下がりました。7日には高校1年生を対象とする「総合読解力」「科学的応用力」「数学的応用力」の三分野と「問題解決能力」の学習到達度調査の結果がOECDから発表になったばかりで、この調査でも「科学的応用力」は前回と同じく2位を維持したものの、「総合読解力」が8位から14位、「数学的応用力」は1位から6位に下がっていました。今回から加わった「問題解決能力」は4位でした。
マスコミは、「学力が低下した」と大きく扱い、中山成彬文部科学相「二つの調査結果を見ると我が国の子どもの成績には低下傾向が見られる。世界トップレベルとは言えない」とコメントし、「ゆとり教育の転換」を示唆しました。

順位というのは目で見るものではないけれど、とってもビジュアル的でわかりやすいので、センセーショナルに扱われがちですが、よーく見てみるとIEAの調査は中学2年生は46カ国・地域の参加で理科が4位から6位に下がっただけ、小学4年生は25カ国・地域の参加で理科が2位から3位に下がっただけ。まあ、細かい点数まで見ると確かに低下傾向にあることは間違いないんだけれど、「順位について大騒ぎ」して「授業時数の減少」が原因なんて簡単に断じてしまうのはあまりにも浅はかだし、以前にも述べたように学校での授業時数は減っているとはいえ、小学校高学年からの“塾通い”が当たり前になってきているわけだから、もう少し子どもの生活をきちっと把握した上でものを言った方がいいんじゃないかという気がします。
どちらかと言えば問題なのは、OECDの調査の方で、高校生の学力低下はかなり著しい。これはおそらく授業時数の減少が原因というよりは、入試制度に起因する方が大きいんじゃないか…。私の子どもを含め、最近関わりのある中・高生を見ていると少子化の影響で、勉強しなくてもとりあえず入れる高校はあるという意識に加え、個別相談でかなり早い段階から私立高校が合否を本人に伝えるので、合格の確約をもらった生徒は受験に向けての努力をしなくなっている。こういったことは授業時数の減少とはまったく関係がありません。要するに時間の問題ではなく、意欲の問題なわけだから。
一部報道はされましたが、同時に実施された意識調査はあまり注目されませんでした。私は順位云々よりもこちらの方が問題が深刻だと感じました。日本の中学2年生はテレビ・ビデオの平均視聴時間が2.7時間で最長、小学4年生でも2.0時間で米国の2.1時間に次いで2位(これはビデオ・テレビの普及率と密接に関わりがあるので、この数字だけを大きく問題にするわけにはいきませんが)、さらに「理数の勉強が楽しい」と答えた生徒の割合は全体でワースト2~4位。
こういう数字を見ると勉強に対する興味の無さが浮き彫りになります。教育改革でいつも話題になるのは「授業時数」と「指導要領」。けれども、本当に重要なのは「授業時数」でも「指導要領」でもなく、「どう教えるか」。学力を上げることが目的とは言わないけれど、「どう教えるか」ということを抜きにして学力低下を語れるわけがない。
授業参観に行っていつも驚かされるのは授業の質。中学校の地理の授業で“ヨーロッパのオーストリア”を教えるのに「南半球にあってカンガルーがいる国と名前の似た国」じゃあね。オーストリアのことを教えてるはずなのに、教えているのはオーストラリアのこと。こんなこと何時間やっても、何の意味も持たないよね。

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【「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」第137回】 「今どきの若い子の国語力」

 今どきの若い子の国語力(日本語力)が相当落ちてるんだって。以前の学生は約3万語の語彙があったらしいけれど、最近は2万語くらいとか(あまり確かな数字じゃないかも…。ちょっとラジオで言ってただけだから)。
う~ん、なるほど。数字で言われるとわかりやすい!
“若者の国語力のなさを感じたことがありますか? ”(ちょっとよく覚えてないので間違っているかも…。だいたい内容はそんな感じだった)というテーマで聴取者からの電話とFAXを受け付けていました。
う~ん、そう言われてみるとそんな感じはわかる。でも、最近カウンセリングに来るちょー若い女の子(まあ、女子高生だけど)たちと話をしていると、あんまり違和感がなくて普通に話ができちゃう。それってもしかすると、私も国語力が落ちてる仲間ってこと?
ダーッ! そうかもしれなーい!
だいたいいつもちょー少ない語彙でこんな文章書いて(打って)るわけだから、当たってるかも? ちょーヤバッ! どうしよっ?!
やっぱ勉強、勉強! それっきゃない!
恥ずかしいことだけれど、この程度の文章を書くにも最近は辞書なしじゃあ書けないんだよね。“漢字は出てこない、意味はよくわからない”っていうわけで、絶対辞書は離せない。もちろんPCで打ってるんだから、漢字は変換されちゃうんだよ。それでも辞書引いてるんだからね。
あ~あ、情けない…。
私の国語力ってその程度のことか…。
そうそうそうそう、そう言えば、そんな私も今どきの若い子の国語力のなさを感じたことがありました。
うちのペットショップのスタッフに、“給料を振り込むので銀行口座を知らせてください”って言ったときのこと。
店の前に出すブラックボードには、なかなかのセンスでとっても上手に書いてくれるスタッフなんですが、
「ねえねえ、“ぎんこう”の“ぎん”の字って、どういう字だっけ? “食へん”だっけ?」と他のスタッフに尋ねているじゃないですか。まさかと思ったけど、本当だったので唖然としました。
いやいやもちろんこの程度の問題は“今どきの若い子”の問題じゃなくて、その子の個人的な漢字力の問題なんだと言ってしまえばそれまでだけれど、ブラックボードにはとてもうまくメッセージを書いているところをみると単純に“漢字が書けない”というふうには片づけられない。もちろんブラックボードに書いているお客様向けのメッセージにも漢字は含まれているわけだから、まんざら書けないわけでもない。文章だって私にはないようなセンスを持っているし、
「おーっ、こういうことうまいじゃん!」
というくらいには、立派なメッセージを書いてくれているのです。どうしても“ぎんこう”の“ぎん”の字がわからないなんて信じられない。いろいろ話をしてみると、どうやら自分たちが普段使っている言葉や文字はわかるけれど、それ以外はわからないということらしい。
“なーるほど”と納得はしたものの、「もうちょっとなんとかならないの?」っていう感じ。

今どきの若い子の国語力が落ちているのにはいろいろ理由はあると思うけれど、よく言われるのは希薄になった子どもたちの人間関係と言葉の乱れ。教育現場では“日記を書け”とか“本を読め”とか言うけれど、本当にそういう問題かな?
教育現場でどういうことが起こっているか、知ってる?
英語教育の重要性が叫ばれて、ずいぶん英語の時間は増えたよね。もちろん国際化ということから考えれば当然のことかもしれないけれど、中学・高校で英語に力を入れているのは受験のため。教育現場には、文系よりも理系の方が優秀という意識があるから、当然のように理系に力が注がれる。なんと受験を乗り切るために高校2年生から国語は無しなんていうのも当たり前。実際、大学受験に国語が必要なところは何割くらいあるの?っていう感じ。こんなことで、今どきの若い子の国語力についてとやかく言える大人はいるの?若い子を責める前に、国語の重要性を考えなくてはいけないのは、大人たちなんじゃないのかな?

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2009年6月26日 (金)

まだやってるんでしょうか? 「内閣府認証カウンセラー」

ここのところ、、カウンセラー資格ブームなのか、キーワードに「内閣府認証カウンセラー」という言葉を入れて、私のブログにきてくれる人がまた増えているように感じます。

以前にも述べましたけど、「内閣府認証カウンセラー」なんていうものはありません。

内閣府が認証しているのは、「特定非営利活動法人(NPO法人)」の法人の認定です。

しかも、特別な不備がなければ、必ず認証されます。

事務所が1つの都道府県内にある場合は「県」の認証、2つ以上の都道府県にまたがる場合は「内閣府」の認証です。

ただそれだけのことです。

こんなに検索ワードに「内閣府認証カウンセラー」なるものが多いということは、ずいぶんとそういう宣伝がされているということですよね。

明らかに、事実を誤認させるための宣伝と思われます。

考えようですが、逆に「内閣府認証」なんていうことを前面に出しているところほど、「怪しい」ということでしょうね。

あえて、それを狙っているなんて、カウンセラーを養成しているところとは思えない愚行です。

もし、カウンセラーの資格を目指し、どこかスクールをお探しでしたら、「内閣府認証」が前面に出ているところは、信用できないところだと思って、別なところを探した方がいいと思いますよ。

ほとんど詐欺に近い行為です!

気をつけてくださいね。

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2008年7月19日 (土)

少しは教育界にメスが入るか…

大分県の教員採用試験を巡っての事件で、やっと教育界の閉鎖性が注目されるようになりました。

今朝のテレビに出演した石原伸晃国会議員が、(日本のもたれ合いの風土や試験についての不正について)「一番ないのが警察と教育なんですけどね」と発言したのにはあきれたし、ビックリもしました。

将来総理の座をねらおうかという有力な国会議員がこんなこと言っているようじゃ、日本も終わりだぁ!

このブログはもちろん、様々な連載でも常々述べてきましたけれど、末端の現場とそれを監督する行政機関が同じ線上で人事異動をしているわけだから、管理監督なんてできるわけがないし、そんな中に公正なんていうものが存在するわけがない。

採用試験の一次が情報公開で公になったとしても、二次の面接まで進んだ場合、誰がどのような基準で選考し、公平性が保たれるかは微妙な問題。

長年教員をやっている人はみな、校長の子どもが採用試験を受ければみんな受かると思ってるんじゃないのかな?

試験だけがオープンになってもダメで、教育行政のすべてがオープンにならないと、いろいろな面で不正(というよりは、社会の感覚との乖離と言った方がいいかな)はただせないのだろうと思います。

とは言え、杉並区の和田中学校のように、何でもかんでも保護者の希望を取り入れて、塾講師による補習を増やせばいいというのでは、「公教育」という存在自体が脅かされる。

一見、どの子にも教育の機会を平等に与えているように見えて、実は公教育の方向性を大きく歪めて、教育の機会均等が失われかねない。

誰のための、何のための教育かということをよく考えて、行政、教員は、襟を正すべき!

教育に携わるものは、社会のモラルを教えているにもかかわらず、自分たちの感覚が、社会のモラルから大きく逸脱しているという現実を、しっかりと見つめてもらいたいと思います。

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