2020年2月14日 (金)

第173回「プールの安全」

「そこの小学生! 走るなあ!」
「飛び込み禁止! プールサイドから飛び込まないで!」
「ほらほら、そこの僕。悪ふざけはしないで!」
「時間ですからあがってください。係員の笛の合図があるまでプールに入らないでくさい」
公営のプールに行くと、ひっきりなしにハンドマイクでの怒鳴り声や注意や指示の声が流れます。とにかく聞き苦しいこと、甚だしい。1時間くらいすると、あまりに流し続けられるその騒音に慣れてしまって、気にならなくなるのですが、そこでまた大声で怒鳴られたりすると、「はっ」とその騒音にまた気づかされて、ほんとにイライラしてきます。
「こんなに怒鳴らないとダメなのかねえ?! 確かに言うこときかないで危険なことする子もいるんだろうけど、今日は見たところそれっぽい子はいないけどね。怒鳴っても、穏やかに注意をしても、そんなに違うとは思えないし、まず楽しくないと、かえって心が荒れて、乱暴になるもんだけどね」
いつ行っても、どんな状態でも、とにかく怒鳴る、怒鳴る。特にひどかったのは、今はなくなってしまった、蕨の北町にあった蕨市民プール。その怒声といったら半端じゃない。あんなに怒鳴って、声がかれないのかなあと思うくらい。プールの監視員ていうのは、ほとんどが高校生のアルバイトで、直接話をしてみると、そんなに怒鳴るような子には思えないんだけれど、人間っていうのはいったん権力を握ると、とにかくそれを誇示しようとする。
それに比べて沼影の市民プールは、ややおとなしめでした。怒鳴るというよりは、むしろ「××してください」「××はしないでください」いう指示が多い。以前からそうだったのですが、つい先日妻が孫を連れて訪れると、さらにソフトになっていたとか。以前ならあきらかに怒鳴るようなケースでも、怒鳴ることはせずに、そばまで行って注意をしている。だいぶ静かになったようなので、それはそれでよかったなあと思って妻の話を聞いていたら、やっぱり妻は腹を立ててる。
「いやあ、ひどい注意の仕方してるんだよね。怒鳴らないようにかなり指導はされてるみたいで、大声出したりはしないんだけど、小学1年生くらいの子が幼児プールに入ってきたら、その子のところまで行って、すごくしつこく注意してるの。私が蓮(れん)と沙羅(さら)をそこで遊ばせてて、気にならないくらいだったし、おとなしい子で、すぐに出て行こうとしてたしね。あんまり注意されるもんだから、なんだかすごく小さくなっちゃってて。あそこまでやらなくたっていいんじゃないのっていう感じだった。注意してたあの高校生は、いつもあんな風に学校で怒られてるんだろうなって思ったよ」
これで妻の話は終わりませんでした。
「それでねえ、蓮があのほら、ポリでできてるよく幼稚園にあるような、ちっちゃな滑り台あるでしょ。あれで滑ってて、そのうち滑るところじゃないちょっと脇のところで滑ったら、少し角度がきついから、“ぼしゃん”て頭まで水に浸かっちゃったんだよ。蓮もビックリしたみたいだったけど、すぐに笑い出して、私と沙羅と3人で笑ってたら、その監視員が来てさ、“危険ですからそこで滑らないでください”って注意するんだよ。何回か滑ってるの見てたんだよ。“ぼしゃん”って落ちたの見たから来たんだろうけど、“私がここで見てるんだし、そんなに危険なことしてないでしょ?”って言ったら、“前に事故があったので”って言うんだよ。“ほんとに事故があったんなら、そんなもんここに置くな!”ってだんだん腹が立ってきてさ、“責任者呼べ!”ってなったの」
「それで責任者と会ったの?」
「そうそう。女の人だったけど、事情を話して、もう少し注意の仕方を考えろって言ってきた。その人は事故があったなんて言ってなかったよ。事故があったって言えばいいと思ってるんだよ」
「そういうやり方はまずいよね。危険なことは危険って注意していいと思うけど、権威を示すために威張ったり、事故を持ち出したりするのはね。ほんとに事故があって危険なものなら、そんなところにあっちゃまずいし。蓮は見てたからいいけど、ちょっと親が目を離した隙に事故でも起こったら大変。“事故があったから危険”っていうのはちょっと変だよね」
公営のプールに行くたびに思うのですが、事故防止は重要だけれど、本当に防止をしようとするのなら、怒鳴って注意ばかりするのではなくて、もっときちっとした目を光らせて、安全を確保してもらいたいものですね。もうだいぶ前になりますが、陶芸で有名な笠間に行ったとき、市民プールに入ったことがありました。ここのプールは、平日にもかかわらず、お父さんと子どもという組み合わせがたくさんいたのにビックリしました。どうやらほとんどのお父さんが陶芸に関わっている方のようで、やはり土地柄なんでしょうか。そしてもう一つ驚いたことがありました。監視員の声を一度も聞かなかったんです。もちろんプールサイドには数人の監視員がいるのですが、声を出すことがありませんでした。そのうち、休憩時間になると、監視員がすべて建物の中に入ってしまい、プールサイドは誰も監視員がいない状態に。いやあ、これで大丈夫なのかなあと思いましたが、もちろん事故も事件も起きませんでした。混み具合も違うので、さいたま市でそんなことができるはずはないけれど、人を信用するという根底の姿勢は、見習って欲しいですね。
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第172回「子どものころの記憶」

母に尋ねたことがありました。
「おじさん(母の兄)が亡くなったとき、横山のおばさん(父の従姉)が告別式に来てたよねえ?」
「来てたよ」
「おじさんを送るとき、おばさんに抱っこされて送ったような気がするんだけど、告別式におばさん来てたの?」
「そうだよ。お前は、あの時まだ3歳だっただろ、だからねえちゃん(父の従姉なんだけれど、父の兄弟のように育ったので、父と父の兄弟は“ねえちゃん”と呼んでいます)が、お前の面倒を見てくれてたんだよ」
「ふーん。なんか、あの時の記憶って、やけに鮮明なんだよね。たぶんおばさんの左手に抱かさって、ちょうど玄関の前のT字路のところで霊柩車を送ってたんだと思うんだよね」
「そうかもしれないねえ」
「横山のおばさんなんて、そんなに関係が近いわけじゃないから、おじさんの告別式に必ずいなきゃならない人じゃないでしょ。だから、おばさんに抱かれてたって思ってるっていうことは、これってやっぱり記憶なのかねえ? 3歳の時のことなんて、そんなにはっきり覚えてるもんかねえ? 誰かにそのときの様子をあとから聞かされて、それを自分のイメージとして持ってるのかなあ? 姫野(母の実家)の兄弟に抱かれてたって思うんなら、そこにいて当然の人だから、ちゃんと記憶があるわけじゃなくて、あとで自分で勝手に想像したっていうこともあり得るんだろうけど、横山のおばさんっていうのがねえ…。おばさんがそんなところにいるなんて、普通だったら考えないと思うんだけど、抱かれてたって思ってるっていうのは、ほんとに記憶があるのかもしれない。すごくはっきりとその情景が浮かんでくるんだよね」
「へえ」
「3歳の記憶なんてあるのかなあ? 4歳の時のことならはっきりと覚えてることがあるんだよ。お店(祖母が越谷街道沿いでやっていた駄菓子屋)の前をね、自衛隊の車が何台か列をなして通ったことがあったんだけど、その自衛隊の車に向かって敬礼してたのをよく覚えてるよ。親父がお酒を飲むたびに、“帝国海軍”の話を聞かされてたし、うちに飲みに来る人たちが、みんな涙を流しながら軍歌を歌ってたからねえ」
何歳くらいからのどういう記憶が鮮明に残るのか、よくわからないけれど、どうも私の頭の中には若干ではあるけれど3歳くらいの記憶があるみたいです。
「戦争の記憶なんてあるの?」
「うーん、全部覚えてるわけじゃないけどね。例えば飛鳥山の下にあった防空壕の中で、見ず知らずのおじさんにもらった白米のおにぎりのこととか、焼夷弾が落ちてくる時のヒューっていう音、そして爆発する時の地響きのようなドーンという音とか、戦隊を組んでとんでくるB29とか、そういう記憶はあるよね」
「45年の12月で4歳だから、東京大空襲の直前に岐阜に疎開した時は、まだ3歳になったばかりのころだよねえ?」
「そうだね」
「そうするとさあ、3歳になったばっかりのころの記憶っていうことでしょ。それって、その後大きくなってから人に聞いた話とか、いろいろな報道とか映画とかそういうものを見て、自分の意識の中で膨らませていったものじゃないの?」
「うーん、そういうこともあるんだろうけど、いくつかのことはかなり鮮明に覚えているから、自分の記憶だと思うよ。父と母はあまり感じないみたいだけど、私は未だに暗いところが嫌いだったり、花火の破裂するドーンっていう音が嫌いだったりするしね」
「ああ、そうだよねえ」
1941年生まれの妻には、戦争の記憶があるようです。子どものころの記憶というのは、単純に何歳何ヶ月くらいからあると考えるよりは、子どもにとってその出来事がどんな意味を持つのかで変わってくると考えた方がいいような気がします。そう考えると、幼少のころに楽しい体験をたくさんさせてあげることが重要で、大きなショックを受けるような経験はさせるべきではないということなのでしょうね。
“まだ小さいから”という考えはやめて、どんなに小さな子どもでも、一人の人間として尊重し、大切に育てたいものですね。
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2020年2月 9日 (日)

第170回「未知のものの恐怖 その2」

「カエルさんの声は聞こえるけど、真っ暗で見えないねえ」
「うん」
「カエルさんって、ゲロゲロって鳴くんだよね」
「うん」
「たくさん鳴いてるね」
「うん。うるさい」
「蓮くんと沙羅ちゃんは、カエルさん触れるんだっけ?」
「うん。触れるよ」
蓮はもちろん、沙羅も返事をしました。
カエルを身近に見たことすらないのだから、触ったことなどあるはずがないのに、グッと恐怖心を押さえて、蓮は私に強がって見せたのです。蓮も沙羅も水族館のようなところで水槽に入ったとても珍しい貴重なカエルは見たことがありましたが、田んぼで鳴いているカエルというのは、見たことがありません。にもかかわらず、田んぼで鳴いているカエルという存在は、小さな蓮や沙羅にもポピュラーなようで、
「今度、カエルさん捕まえに行ってみようか?」
と私が蓮に尋ねると、
「う~ん」
蓮は、肯定とも否定ともつかない微妙な返事をしました。
- 数日後 -
「蓮くん、これからカエル捕まえに行こうか?」
「うん」
今日ははっきりと返事をしました。
「沙羅ちゃんもぉ」
怖がって「行かない」と言い出すのではないかと思っていたのですが、やけに威勢のいい返事。私と蓮と沙羅の3人でカエルを捕まえに行くことになりました。近くに田んぼがなくなってしまったので、車で20分ほど走り、やっとカエルがいそうな田んぼにたどり着きました。
「カエルさん、いるかなあ?」
3人で畦道を歩くと、カエルが草の中から田んぼの水の中へ飛び込みます。おたまじゃくしのしっぽがやっと取れたばかりの小さなカエルは、よく見ないと見逃してしまうくらいの大きさです。最初のうちは、その存在に気づかなかった蓮と沙羅は、私の後ろについてきていましたが、その存在に気づいてしまった瞬間に、2人の足はピタッと止まりました。「じいちゃん、手つなごう」
蓮は言います。沙羅は一歩も足を前に出せなくなり、立ち止まったままべそをかき始めました。
「蓮くん、カエルさんいるねえ。ほらっ、おじいちゃんについておいで」
私は沙羅と手をつなぎました。蓮は強がっていた手前、とりあえず1人で踏ん張っています。
「蓮くん、カエル捕まえられる?」
「うううん。捕まえられない」
「この間、触れるって言ってたけど、怖いの?」
「怖いの。だってカエルさん噛みつくでしょ?」
やっと本心を私に告げた蓮はちょっと気が楽になったようでした。
「大丈夫。カエルさんは噛みつかないよ。じゃあ、じいちゃんが捕まえてあげるから、そこでじっとしててね。蓮くんと沙羅ちゃんが動くと、カエルさん逃げちゃうからね」
5匹ほどカエルを捕まえて、ビニール袋に入れました。ビニールの中にいるカエルは、蓮と沙羅をおそわないということを2人もわかっているらしく、2人ともじっと観察しています。カエルに対して自分が優位に立っているということを悟った蓮は、さっきまでカエルを怖がっていたのが嘘のように、今度はカエルの入ったビニール袋を持ちたがりました。
畦道を車の方に向かおうとすると、また沙羅が動きません。ほんの5㎝か10㎝の草が怖いのです。草の中に何が潜んでいるかわからない恐怖は、沙羅にとっては相当なもののようで、私がかなり強い調子で促すまで、全然動かなくなってしまいました。
家に帰って、金魚の水槽にカエルを放すと、水草の陰に隠れたり、ガラスにへばりついたり。蓮も沙羅もカエルというものがどういうものかを知り、恐怖心も和らいだようで、3日間ほど水槽の中で飼ったあと、近くの川に逃がしてやりました。
「あのカエルさん、あんよの指が一つなかったんだよ。かわいそうだねえ」
充分に観察をしたらしく、すっかりカエルは、蓮と沙羅の身近なものになりました。
「今年もサザエ、たくさんいるかねえ? 去年は少なかったような気がするよ。潜ってもあんまりたくさんは見つからなかった」
「潮の関係もあるんだろうけど、だんだん減らなければいいけどね。まだお母さんは、あなたが泳げるっていうの、半信半疑みたいだね。波が怖くて、砂浜に降りられないっていうんじゃ、無理もないけど」
「なんだかわからないものが怖くないっていう方がおかしいんだよ。未知のものを怖がらずに何でも平気っていうのは、乱暴なだけだよ。少しずつ確かめて、恐怖心を克服していく、そういうことが子どもにとっては重要だと思うけど。それが本来の強さだよ」
「なんとか言っちゃって! 波が怖くて海の家から一歩も出られなかったっていうあなたは、極端なんだよ」
「まあ、そうかも。でも今は、サザエ採れるんだからいいでしょ!」
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第169回「未知のものの恐怖」

「あいつ泳げないんじゃないの?」
「? とんでもないでよ、すごく達者ですよ」
「そうかい?」
「どこまででも泳いで行っちゃいますよ」
「? だってあいつはねえ、4つのとき鎌倉の海水浴場に連れて行ったら、海の家から一歩も外に出られないんだよ」
「全然海に入れないんですか?」
「違うよ。海に入れないんじゃなくて、海の家から砂浜に降りられないんだよ」
「…」
「わかる? 砂の上に足がおろせないの。結局、海の家から全然出ないで帰ってきたんだから」
「それって、かなりすごいですねえ!」
「そうだよ。直隆(なおたか)って、そういう子だったんだよ」
「臆病っていうか、用心深いっていうか…。じゃあ、うちの子どもたちが、波が怖くて海に入れないのも仕方ないですね」
「そうだろうね。海に入れないっていうだけなら、直隆よりはずっとましだよ」
「はあ…」
「本当にあいつが潜ってサザエを採ったのかい? 200個も?」
「そうですよ、お母さん。すごくうまいんですよ」
「どうも信じられないねえ」
「採ったやつを岩で潰して、その場で食べたんですよ。5、6個食べてあとはみんなにがしてやったんですけどね。セリとか山菜とかを摘んだり、何かを捕まえたりとかするの、とってもうまいし、そういうの好きみたいですね。だから、山の中をどんどん歩いたり、泳いだり、そういうこと得意ですよ。クマとかサメに出会っても平気そうです」
「おかしいねえ、あんなに臆病だったのに…」
「きっと未知のものには、用心深いんですよ。すごく神経質ですしね」
「蓮(れん)くん、沙羅(さら)ちゃん、ホタル見に行こうか?」
「うん、行く!」
10年ほど前、新聞の一面にホタルが乱舞している写真が載ったことがありました。ここ数年は、ホタルの保護に力を入れているところが増え、一時に比べいろいろなところでホタルが見られるようになりましたが、そのころは今ほどホタルブームではなく、ホタルが乱舞するほど見られるところは限られていました。新聞に載ったのは、長野県の辰野という町で、毎年ホタル祭りを大々的に開催しています。新聞に載った乱舞のすごさに、すぐさま辰野に出かけることにしました。私と妻の仕事が済んでから出かけたので、辰野に着いたのは12時ごろ。ホタルが最も乱舞するのは、8時前後とのことなので時間的にはやや遅い時間(土地の人の話では、9時くらいにいったん飛ばなくなって、遅くなってからまた飛び出すという人もいるのですが)だったのですが、そのとき見たホタルはまるでプラネタリウムの星のよう。
孫にもそんなホタルが見せてやりたくて、ホタル狩りに行くことにしました。ただし、辰野はあまりにも遠いので、塩原にしました。
何となくどんよりとして蒸し暑い、絶好(?)のホタル日和と思って出かけたのですが、ちょうど塩原に着いたときに雨がパラパラと降り出しました。以前に心ない人がいたとかで、HP等には場所を公開していないので、電話をかけたり、交番で聞いたりと、やっとそれらしきところに着いたのですが、全然ホタルはいません。
「やっぱり、辰野みたいじゃないねえ。雨も降ってきちゃったし、ダメかなあ…。せっかくここまで来たんだから、ちょっとでいいから見せてやりたいよねえ」
そんなことを言っていると、10mくらい先を、星が流れるようにスーッとホタルが1匹飛びました。
「いたーっ! ほら、蓮くん、沙羅ちゃん、あれがホタルだよ」
蓮と沙羅を車の外に出すと、蓮は私に、沙羅はおばあちゃん(妻)にしがみついて、べそをかいています。
「ほらっ、あそこにも飛んでる! あそこにも。ほらほらほら!」
蓮も沙羅もホタルどころではなく、しっかりとしがみついたままホタルを見ようとしません。ホタルを保護している場所というのは、真っ暗です。目が慣れるまでは、足元を見ても、どこが道だか全くわかりません。漆黒の闇、まさにそんな形容がぴったりのようなところです。てっきりその暗さを怖がっているのかと思っていたら、どうやらそうではなくて、蓮と沙羅が怖がっていたのは、カエルの鳴き声でした。
真っ暗でよくわからないのですが、辺りは田んぼが広がっているようです。確かにすごいカエルの鳴き声で、怖がるのも当然といえば当然。私と妻はその騒音のような音がカエルの鳴き声で、カエルが頬をふくらまして鳴いていることも知っています。けれども蓮と沙羅にとっては初体験です。。
「あれはね、カエルさんの鳴き声だよ。蓮くん、カエルさん知ってるよねえ?」
「うん」
返事はか細く、とても恐怖が治まった様子ではありません。
「カエルのうたが~ きこえてくるよ~ グヮグヮグヮグヮ ゲゲゲゲゲゲゲゲ グヮグヮグヮ~」
その騒音のような音がカエルの鳴き声とわかり、ほんの少しだけ落ち着いたようでしたが、「じいちゃん、車に入ろう。もうお家帰る!」
おいおい、わざわざ塩原までホタルを見に来たんだよ。そう簡単には帰れないだろうが…。もっとしっかりホタルを見てくれよ!
遠くを飛ぶホタルの光とまるで騒音のようなカエルの声。本では見たことはあっても、いったいそれがどんな生き物なのか、蓮と沙羅はまだその実態を知りません。
つづく
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第168回「さわやか相談室の限界」

ある中学校のさわやか相談室からの通信を手に、とても憤慨しているお母さんがいらっしゃいました。その通信を見てびっくり。
「子どもの心をどうひらくか」という見出しが付けられた部分で、どうやら精神分析か何かの本を引用しているようなのです(ちょっとそれも曖昧)が、
★問題児のお母さんに共通して言えることは
①いつでも自分本位で、子どもが勉強したくない時にさせようとし、子どもが勉強をがんばりたい時に心配してやめさせようとすることです。→若いのだから当人が自発的にやりたくてする時は、一晩や二晩徹夜したって大丈夫です…と言わざるを得ない。
②親がきちんと自我を育てて、本能を無理なく後退(我慢)させておけば→社会の厳しさに十分対応できる子供になる。
③自我をしっかり大きく育てるために→親は寛容と忍耐に裏づけられた一貫性をもつことが親として必要なことである。
『まとめ』★理屈も何もない無知な母親に、しっかりした良い子が育ち、高学歴の母親に自我の弱い問題児を育てたりするようになるのは、そのあたりの事情によるものと考える。子供の精神育成は→叱り方、ほめ方等の技術ではない。口先や小手先でうまくやれるような簡単なものではない。
と記載されていました。
これはいったい何を目的に配っているのでしょう?
前回まで数回にわたって述べてきたカウンセリングマインドということからはほど遠い内容です。「問題児のお母さん」とか「一晩や二晩徹夜したって大丈夫」とか、何を根拠に言っているのかまったくわからない。「問題児」という決めつけも、誰にとってどう問題児なのかが不明確な上、保護者に対して配るものとしては言い方がとても不適切。
『まとめ』の部分の「理屈も何もない無知な母親」「高学歴の母親に…」に至っては、もうあきれて言葉もない。こんなものを母親に対して配っておいて、学校と家庭との関係がよくなるわけがない。
上記はあえて原文のまま載せたものですが、文法的にもおかしいと思うようなところが数カ所あります。私も文法を大切に文章を書く方ではないので、あまりそういう批判はしたくないのだけれど、そんなお粗末な文章にしては内容が強すぎる。
これはプリントの後半部分ですが、プリントの前半部分には「生徒」「1年男子」「2年男子」「保護者」という言い方をしておきながら「スクールカウンセラーさん」「スクールカウンセラーの××先生」という言い方をしている部分があります。プリントを発行している立場からすると明らかに敬語の間違いです。
こういうものを取り上げて、重箱の隅を突っつくような批判をすることは、あまり気分のいいものではないし、建設的なこととも思えないのだけれど、今学校で何が行われているのか、これからの学校はどうあるべきなのかという、一つの問題提起としてあえて取り上げて批判をしました。学校との関わりの中では、「何か変だなあ」「どうも気分が悪い」「納得がいかない」、そんなことがよくあるはずです。そういう時は、納得がいくまで学校と話をすることが大切です。今回のことは、「さわやか相談室」という、まさにそういう悩みを解決するべきところで起こっていることです。
うちの研究所にも、さわやか相談員を目指して、教育カウンセラー資格を取得するため学んでいる人たち(採用の要件ではありません)がたくさんいますが、さわやか相談員の皆さんには、カウンセリングマインドをしっかり学んでいただき、少しでも質の高い相談員になっていただきたいものです。
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第167回「言ってはいけないその一言 -終章-」

第161回から前回まで「言ってはいけないその一言」ということで、親が子どもと接するときの基本的な姿勢を述べてきましたが、まだまだ具体例を挙げればきりがありません。一応今回でまとめて、今後機会があれば改めて取り上げたいと思います。さて、何度か述べてきた子育てに対するカウンセリングマインドの基本的態度を覚えていますか?
『“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです』
それには、「子ども自身の成長していこうとする力をまず信じること」が必要です。
これは、肉体的にも、精神的にも言えることです。この連載の第6回から第8回までで扱った娘の麻耶(まや)の腎臓病の時のことです。主治医の赤城先生は現代医学では治療法が確立していない麻耶の病状に対し、子どもの生命力を信じ、「お子さんの生命力にかけましょう」とおっしゃいました。この赤城先生の言葉は、子育てにおけるカウンセリングマインドとも通じるところがあります。医学的な治療においても、子育てにおいても、最も大切なのは、本人の持っている力を最大限信じることです。信じた上で大人が何をすべきか考えるということが重要です。「うちの子はどうにもならない子だ」「放っておいたらどうなるかわからない」という発想は絶対にやめましょう。
そして、子どもの心に耳を傾けましょう。お子さんとの関係がそこから始められれば、「言ってはいけないその一言」は、ほとんど発していないはずです。親が子どもの心に耳を傾けられないケースにはいくつかあります。親が子育てを放棄したいケース、大人の都合で子どもに自由を与えたくないケース、勝手に子どものためと思いこんで押しつけるケース、わがままを認めることを耳を傾けることと勘違いしているケース。だいたいこの4つくらいでしょうか。子育てにおいては、常に自分の言動がこういったケースに当てはまらないかを検証していくことが大切です。そして、子どもの心に耳を傾けるには、常に客観的事実を正しくとらえ、自分自身の心を真っ白な状態に置くこと、それができて初めてカウンセリングマインドで子どもに接することができるのだと言えます。
カウンセラーは、常に自分自身の中にある偏見との戦いをしています。「今、目の前で話をしているクライアントの言葉は真実だろうか」、「本当にクライアントは心を開いているだろうか」と。時としてカウンセラーは自分の能力を過信し、自己に甘くなり、クライアントは「私だけには真実を語る」「私だけには心を開く」と思いがちです。けれどもそれは、単なる思い過ごしでしかありません。カウンセラーの勝手な思い込みの中からは、カウンセリングの効果は望めないのです。
「子どもを信じる」ということは、「子どもの言うことを鵜呑みにする」ということとは違います。子どもの言うことや行動を、真っ白な心で聞き、真っ白な心で見、子どもの心を理解する、それがまさにカウンセリングマインドであり、子どもの心に耳を傾けるということです。
子育てにおいて重要なのは、心が無垢であることです。大人が社会の中で生きていると、社会の中から様々な影響を受け、なかなか無垢ではいられません。子どもを大人の社会に合わさせようとするのではなく、我々大人の偏見を取り除き、子どもを信じて、真っ白な状態で子どもの心に耳を傾けることができれば、お子さんは必ず「いい子」(自分の足で大地を踏みしめている)になるはずです。
カウンセリングマインドの子育てということから、長々と述べてきました。啓蒙的な文章は好きではないのですが、かなり啓蒙的になりました。あまり長い文章は避けようと、だいぶはしょったので、説明不足もあるかもしれませんが、今までの連載のほんの些細なエピソードの中に何度も述べてきたつもりなので、お時間があったら読み返してみてください。次回は、あまり啓蒙的でない文章にしようと思います。
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2020年1月26日 (日)

第166回「言ってはいけないその一言 -甘やかし編-」

さて、今回は「甘やかし編」です。
前回の「先回り」と「甘やかし」は、密接に関係しています。「親の都合」ではなく、「子どものため」と考えている点では、同じです。「先回り」の対応をしている人のほとんどは、「甘やかし」の対応も取っています。そのことを見ると、「先回り」と「甘やかし」の根っこは同じで、親が積極的に子どもに関与しようとした場合に「先回り」になり、受け身になった場合に「甘やかし」になると考えられます。
こうして育った子どもは、「先回り」と「甘やかし」をとてもうまく利用します。自分のやりたくないことはなるべく先送りにし、親がやるのを待つ。自分がやりたいことは、それが実現できるよう積極的に親にねだる。そういう傾向がとても強く、自分の思ったように事が運ばないと「だだ」をこねます。
「うちの子どもはわがままで困ります」なんていう人がいますが、「わがまま」の中身をよく聞いてみると、ただの「だだ」。まるで2~3歳くらいの子がだだをこねるのと同じように、高校生がだだをこねているわけです。もちろん、2~3歳の子のだだなら、聞いてあげてもそれほどのことではないけれど、相手が高校生となるとそうもいきません。「髪の毛を染めたい」「エクステしたい」「ジムに通いたい」「ヴィトンのバッグが欲しい」…。普通に考えれば、そう簡単には聞いてやれない「だだ」のはずなのですが、それを聞いてやらなければならない親子関係を作ってしまうのが、「先回り」であり「甘やかし」なのです。
ここでは、親子の力関係が逆転してしまっています。一般的に言って「子は親の言うことをきくもの」なのですが、「親は子の言うことをきくもの」になってしまっているのです。
わがまま三昧に振る舞い、遊びほうけている娘が、終電近くになって帰ってくる。
「お母さん、駅まで迎えに来てよ」
と言われて、のこのこ車で駅まで迎えに行く母親。
「遅かったねえ。夕飯は? まだ食べてないなら、お前の分は取ってあるよ」
本来なら、「もっと早く帰ってきなさい!」と怒るべきなのに、緩んでしまう。怒られるかもしれないと、内心びくびくしながら帰ってきたのに、母親の緩んだ態度を見透かして、
「うん。お腹空いてるけど、コンビニのお弁当食べたいから、どこかコンビニに寄ってよ」娘のために残しておいたせっかくの夕飯は、無駄になってしまう。
「先回り」や「甘やかし」で育った子どもは、人の気持ちを考えません。相手の親切心や優しさをうまく利用するようになります。
「甘やかし」は「受容」とは違います。子どもを受け入れるという点では似ていますが、「受容」が、子どもの心を受け入れることであるのに対し、「甘やかし」は子どもの都合(主に物欲)を受け入れることです。いったん「甘やかし」の中で育ってしまうと、そこから抜け出すのにはかなりの時間が必要になりますから、「受容」と「甘やかし」の違いをはっきりと意識することはとても重要です。
「先回り」と「甘やかし」に共通しているのは、子どもが親から与えるものがとても多く、子どもが子ども自身の手で獲得するものが少ないということです。自分で獲得することを覚えないと、目標や目的意識というものを持ちにくく、結果的に意欲がなくなり、不登校やニートになったり、また目的が矮小化することにより、創造志向でなく強い消費志向を持ったりするようになります。また、誰かにやってもらおうという意識が強く、責任の伴うことを嫌がるようになります。
子どもの要求に対しては、その要求がその年齢の子どもの要求としてふさわしいのか、いつも検証しながら子育てをするくらいの、慎重さが必要だと思います。
どう考えても必要と思えないような要求に対しては、毅然とした態度で拒否しましょう。
「エクステしたいんだけど」なんていう要求に、「いくらかかるの?」はやめましょう。

 

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第165回「言ってはいけないその一言 -先回り編-」

今日は言葉だけでなく、行動も大きなポイントになります。
今まで述べてきた「脅迫」や「取引」というのは、「親が自分の都合で子どもを動かす」という「親のため」という側面が、はっきりと見えているので、それに気づくことはそう難しいことではありませんし、親が気づいてすぐその行動を変えれば、目に見えて子どもの様子も変わります。ところが、これから扱おうとしている「先回り」というのは、一見「子どものため」に映ったり、親の意識の中に「子どものため」という明確な意識があるので、教育相談やカウンセリングで指摘をしても、なかなかその意識を変えることは難しく、とてもやっかいです。しかも、子どもも親の言動(おもに行動)によって自分が楽になるので、その親子関係を拒否しません。昔は反抗期があるのが当然だったわけですが、うちの研究所を訪れるクライアントさんを見る限り、最近では親の「先回り」が子どもの自立へのエネルギーを奪ってしまい、反抗期をも飲み込んでしまうほどです。子どもが拒絶をしないので、親もその状況になかなか気づきません。「深く潜行し、一気に出る」という感じでしょうか。何か問題が表面化したときには症状が深刻なので、“人間としての存在の回復”(自立)にはかなりの時間(回復の方向に向かっていたとしても、長ければ10年とか20年とか)を要します。大きな問題は、親の子どもに対する姿勢が簡単には変えられないということです。今とても問題になっている「ニート」という状況にも深く関わっていると言えます。
「先回り」の場合の多くは、子どもも親も「被害者意識」を持ちます。「いじめを訴えてはいるけれど、周りにそういった事実が確認できない」、「他人の悪さを強調して自分の非は認めない」、そういった場合は、幼児期からの親の「先回り」が影響している場合がよくあります。本来、一刻も早い対応が求められる深刻な「いじめ」のようなケースを、親の「先回り」による過剰な被害者意識と取り違えてしまう場合もある(学校のような場所ではなるべく問題が公の問題ではない方がいいと考えるので、いじめの問題を「親子の問題」ととらえる傾向にあります)ので、「いじめ」を訴えられる立場(教員とか各種相談機関に従事している人など)の人たちは、充分な検証が必要です。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。 

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2020年1月25日 (土)

第163回「言ってはいけないその一言 -脅迫編-」

さて、今回からは、具体的事例を扱いたいと思います。「言ってはいけない言葉」をいくつかのグループに分類して説明します。ただし、小手先の技術ととらえるのではなく、子どもと向き合う姿勢を間違えると、結果としてこういうことを言ってしまうととらえてください。あくまでも、子どもと向き合うときは、『“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです』。いつもそれを忘れないでください。

孫を連れて釣り堀で釣りをしていたときのこと。
「おまえ、何で寄ってくるんだよ」
「うぇーん、うぇーん…」
3歳になるかならないかの男の子が、お父さんのそばに寄っていって何か訴えていますが、お父さんは取り合わず、大きな声で怒鳴っています。少し離れたところに小学生くらいのお兄ちゃんとお姉ちゃんがいて、3人兄弟(?)のよう。もうそろそろ終わりの時間が近いらしく、お兄ちゃんとお姉ちゃんは、時計を気にしています。一番下の男の子は、釣りのような長時間かかる遊びができる年齢のはずもなく、要するに飽きてしまっただけ。
「だから、そういう風にベタベタ寄ってくるなって言ってんだろ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「うるせえんだよ。魚が逃げちゃうだろ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「そんなにいつまでも泣いてると、池の中に放り込むぞ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「いいんだな、池の中に放り込んでも!」
と言って、男の子の体を捕まえるふりをしました。さすがに父親にそこまでやられると、男の子も自分の要求が通らないことを悟り、少し後ずさって、泣き声も小さくなりました。私がいるところからは少し距離があったので、子どもの要求がなんだったのかよくわかりませんでしたが、どう見てもそんなに大声で怒鳴りつけなければならない状況には思えませんでした。子どもを怒鳴りつけるお父さんの形相が、あまりにもすごかったので、私もちょっと驚きました。
こんな事例を挙げると、誰もが大声で怒鳴っている父親の形相を想像して、「ひどい父親」と感じるのでしょうが、ここで一番問題なのは、大声で怒鳴っていることではなく、「池の中に放り込む」という脅しです。子どもにとって自分の生命を自分で守ることができないという恐怖は、もうどうすることもできません。大声で怒鳴られているだけならば、最終的な選択は子どもに残されていますが、「池の中に放り込む」と言われてしまっては、子ども自身による選択の余地はありません。もっとも、親も選択の余地を残させないために脅しているわけですから、親にとっては成功ということになるのでしょうが。
皆さん、こんなひどいことはやっていないと思うかもしれませんが、よーく考えてみると身に覚えがあるのでは?
「家に入れません」「家を出て行きなさい」「食事はさせません」なんていうのも、程度の差こそあれ、方向は同じですね。親の決意を示すということも大切なので、100%言ってはいけないとまでは言わないけれど、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”になっているかどうかの確認は必要ですね。ただし、“即、命に関わるような言い方”や“身体的に危害を加えるような言い方”(“手をちょん切るよ”とか”熱湯をかけてやる”というような)だけは、絶対にやめましょう。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第162回「言ってはいけないその一言 -概論 その2-」

子育てをするとき“カウンセリングマインド”で子どもに接することができれば、子どもはとても楽だし、自由にのびのびと育っていくことは確かだと思います。ということは、結局親も楽な子育てができるということで、とてもなめらかで暖かい親子関係が築けていくことと思います。ただし、これはあくまでも子どもが自立を目指し、将来親を超える存在(地位や名声、財産などといった具体的なものではなく、もっとメンタルな意味で言っているのでお間違いなく)になっていくという意味においてであって、親の“洗脳”によって親の都合のいい子どもに育てるという意味でないことは言うまでもありません。そういう意味の上に立った“カウンセリングマインド”です。時に、親にとっては辛いことになる場合もあります。けれども親は、自分が楽になるため、あるいは自己満足のために子どもを利用しないように。それは、基本の基本です。うまくいかない夫婦関係のはけ口に子どもを使ったり、夫や妻との間の“行き場のない愛情”を子どもに向けるなどということはもってのほかです。“カウンセリングマインド”というのは、当然そういうことも含んでいるわけですが、“カウンセリングマインド”を単なるテクニックと勘違いしてしまうと、本質的な部分が曲がってしまい、全く違った方向に進んでしまうので、単なるテクニックととらえるのではなく、“一人の人間が一人の人間と関わりを持つときの基本”というようなとらえ方をしてください。ですから、親子関係だけでなく、子どもと関わりを持つすべての職業(保育士、幼稚園や学校の先生、看護師、教育関係の相談員、スポーツ少年団のコーチ、保護司などなど)の人たちは、必ず“カウンセリングマインド”で子どもと接するべきです。

もうすでに、この連載の中で述べてきましたが、まず子どもを信頼するところから始めましょう。そういう気持ちがないと、“まずお説教”になってしまって、子どもには受け入れてもらえません。“自分が正しい”という感覚も捨てましょう。相手がどんなに小さな子どもでも同じです。“教えてやる”という発想の中からは、“カウンセリングマインド”は生まれません。“相手を一人の人間として尊重すること”がとても重要です。もっとも、そうできれば、“カウンセリングマインド”で接することができているということなのでしょうけれど。

さてそれでは、子育てにおける“カウンセリングマインド”を具体的にどうとらえたらいいかというと、前回ご紹介した“カール・ランサム・ロジャース”(ロジャーズとも)の“非指示的カウンセリング”(後の来談者中心療法)が基本と考えます。(興味のある方は、“カール・ロジャース”あるいは“来談者中心療法”でネット内を検索してみてください)繰り返しになりますが、“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです。私なりの解釈では、“自ら決定していくのを助ける”ことが行き過ぎてしまったものが「過保護」、“子ども自身が自分の力で成長していくことを見守る”ことができずに、口出ししてしまうのが「過干渉」です。

ちょっと概論が長くなりました。次回から、具体的な例を示してお話ししたいと思います。それまでとりあえず、「何やってるの!」と「早くしなさい!」をやめてみてください。それだけでも、必ずお子さんの態度に変化があるはずです。「何やってるの!」と言ってお子さんの行動を止めたいのなら、「××するのはやめようね」と言いましょう。「早くしなさい!」と言う前に、そう言わなければならない状況を作らないよう親が努力をしましょう。もしどうしても「早くしなさい!」と言わなければならない状況になってしまったら、お子さんが本当に早くしなかったらどうなるのかちょっと考えてみてください。ほとんどの場合、それほど早くしなくてはならない理由はないはずです。「早くしないと幼稚園に遅れる」なんていうのはだめですよ。幼稚園に遅れることなんて、お子さんにとって生死を分けるほど重要なことではないのですから。私に言わせれば、しょっちゅう「早くしなさい!」を連発することは、生死を分けるのと同じくらいお子さんの人生を左右することなのです。まず、受容的態度と共感的態度です。

次回は「言ってはいけないその一言 -脅迫編-」です。


**6月6日(月)掲載**

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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