2022年6月13日 (月)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第288回「異住所交流会」

「そちらに中山紀正(仮名)さんが入院していると思うんですが、何号室ですか?」
「そういうことにはお答えできないんですよ」
「えっ、親戚のものなんですが…」
「規則ですから」
「すぐそばまで来ているので、これから伺おう思うんですが、入院はしてるんですよね?」
「それもお答えしかねるんですが…」
「えーっ!入院してるかどうかも教えてもらえないの?」
「はい、規則なので…。どなたかご親戚の方にご確認ください」
「だからぁ、私がその親戚だっちゅーの!」
水戸の近くの病院に義理の弟(正確に言うと元義理の弟)が癌で入院し、放射線治療を受けていると甥から聞いて、お見舞いに行こうとしたときの病院との電話のやり取りです。「元」なので、正確には親戚ではないし、普通だったら「お見舞い」でもないのですが、義父の通夜にもわざわざ水戸から駆けつけてくれて、義母が「今までもお世話になったし、孫の父親なんだからこれからも孫のことではお世話になるんだし」と言うので、婿と元婿というやや関係の遠い私が、病院を訪ねることになったのでした。
「どうしようかなあ?」と思いましたが、わざわざ水戸まできて、用も足さずに帰るわけにもいかないので、ややこしい関係でお見舞いに行く前から甥に負担をかけるのは嫌だなあと思いつつ、甥に電話をかけて、確かめることにしました。
個人情報保護法が施行されてから、こんなことがよく起こります。
先日、病院内で人違いから射殺されるという事件が起きました。あの場合は確認ができていれば、事件に巻き込まれなくてすんだケースでしたが、他人に教えてしまったことで、事件に巻き込まれるということも考慮してのことなんでしょうか。
あまりそういった事件を聞いた覚えはないのですが…。
私の住んでいるマンションの管理組合の定時総会で、「名簿に電話番号を記載しないでほしい」という意見が出されたことがありました。個人情報保護法が制定される前のことで、管理組合では、毎年部屋番号と電話番号が記載された居住者名簿を作成して、全戸に配布していました。売られた名簿を元に頻繁に電話がかかってくるということが社会問題化していたときで、名簿の問題に敏感な人たちが出始めたころのことです。総会では、様々な意見が出ましたが、それまで、名簿があっていろいろな連絡やコミュニケーションが取れていたということもあり、電話番号はそれまで通り載せるということで決着しました。
その後、個人情報保護法が施行となり、現在では電話番号だけでなく、名簿そのものを作らないことになっています。
今年も、そろそろ年賀状の季節。孫の通う幼稚園では「異業種交流会」ならぬ「異住所交流会」(そんなもの本当にあるわけはないですが)があるらしく、なにやら住所を書いた名刺のようなものを作っては、年賀状のやり取りをする人に渡しているようです。
私も会社をやっている関係で、生命保険会社やこのエッセイでもお世話になっている商工会議所の「異業種交流会」には、何度か出席させていただいていて、名刺を交換することの意味・意義は充分に理解しているつもりですが、幼稚園までそんなことをしなくてはならなくなっているとは…。
どうやら、電話の連絡網だけはあるらしく、運動会や遠足といった行事の時には、電話がかかってくることはありますが、住所がわからない。そのため、年賀状を出すには、住所の書いてある名刺様のものを交換しておくのが手っ取り早いということなのでしょう。昔は名簿を見ては、「この人とはあまり関係がよくないから、年賀状を出しておこうかな?」なんて、関係改善を図ったりもしていたんですけれど、いまでは仲のいい人とだけのやり取りになっているんでしょうね。
確かに住所や電話番号が漏れるということのリスクもありますが、それが行き過ぎると「地域社会の崩壊」につながります。うちは10階建てマンションの1階にあるので、たまに上の階から物が落ちてくることがあります。さすがに下着が落ちてきたりしたときには、何も言ってこないこともありましたが、これまではほとんどの場合落とした本人か管理人室から連絡があり、取りに来ていました。ところが、名簿がなくなってからは、連絡があることが少なくなりました。これまでだったら、管理人室を通して連絡があったような場合でも、たいていは、直接謝罪の電話くらいはあったものですが、今では各階に1人いる理事を通さなくては連絡が取れないので、「落とした」という連絡そのものもなくなりましたし、謝罪の電話があることもなくなりました。
もちろん、「どこの部屋にどんな人が新たに越してきた」などということもわからないので、廊下や駐車場で顔を合わせ、「こんにちは!」なんて声をかけても、「あれっ?あんな人いたっけ?」ということも…。「これで不審者を見分けられるのかなあ?」と不安になることさえあります。
以前小学校での防災訓練では、電話が通じないという想定で、家から家へ直接伝えるという方法で、安否の確認や避難の仕方、誘導などを行うという訓練を行っていました。ところが、ここまで住所が非公開になってしまうと、ごく限られた、しかも普段自分に心地のいい人間関係しか存在しなくなっているので、地域の連携などまったく考えられません。
行き過ぎた個人情報の保護を改めようという動きもあるようですが、子どもを守るという観点から考えれば、何が本当に重要なのか、もう一度考え直す必要があるのではないかと思います。
つい先日、
「年賀ハガキ、買ったよねぇ? 何枚かもらってもいい?」と娘の麻耶が私に聞きました。
今年も娘と孫は「異住所交流会」で名刺(?)交換をしたお友だちと年賀状のやり取りをすることになるんでしょうね、きっと。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2022年6月11日 (土)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第287回「就学前検診」

最近のランドセル販売戦線は相当過酷ですね。塾や私立校というようなものは、単純に子どもの数が減ったから、経営が厳しくなるというものでもなくて、これまで塾や私立校に通っていなかった子どもたちをなんとか通わさせることができれば、これまで通りの経営は成り立つわけです。ここのところの公立学校離れというか、公立学校不信というか、もしかして、政府もぐるになって塾や私立校を後押ししているのではないかと思うくらいひどいものがあるので、受験熱が上がって、塾や学校によっては、むしろ経営状況がいいと言っても過言ではないのかもしれません。
ところが、ランドセルの業者は、少子化がもろに経営に響きますよね。私立小学校、中学校の台頭というようなものも、これまでのランドセルや学生カバンといったものとは違った指定カバンになったりするので、厳しい状況にさらに拍車をかけているのかもしれません。
娘の麻耶の話では、ランドセルの業者が幼稚園近くの集会所を借りて、予約会を開いているとか。ちょうどそれくらいのお子さんをお持ちの皆さんは、別になんとも思わずそういった予約会に参加していらっしゃるのかもしれませんけれど、私くらいの年齢の者からすると、大変驚きです。予約会そのものは、あったような気がするのです(たしか中学校入学前には、小学校で制服とカバンの販売会があったので)が、驚くのはその中身というか、戦略というか…。

「麻耶ぁ、お前もう蓮(れん)のランドセル買ったの?」
「買わないよ」
「だってここに、ランドセル背負ってる蓮の写真あるじゃないか」
「あっ、それね、幼稚園のそばの集会所でね、ランドセルの予約会があったんだけど、予約しなくても写真撮ってくれるんだよ。子どもが“これ”って言えば好きなランドセル背負わせて、写真を撮って、そういう皮のスタンドに入れてくれるの」
「へぇーっ。これ、スタンドだけだって、けっこう高そうじゃないか」
「まあね。でも、ランドセル屋さんて、皮は専門でしょ」
「なるほどぉ。そう言われてみればそうだな。ランドセルを作った切れ端ってことかな?」

その写真には恐れ入りました。なんというか、祖父母としては、そういう写真を見せられては、早速買ってやろうかなという気持ちになってしまうというか…。
とは言え、私が麻耶に言った言葉は、「4月近くなれば、もっと安くなるだろっ!」だったんですが。
とまあ、そんな具合に孫の蓮本人も、娘の麻耶も、そして妻も私も、蓮の入学を楽しみにしているわけです。そしてこれはきっと、どこのうちでも同じなんじゃないかと思います。
ところが、あるお母さんから、就学前検診のこんな話を聞きました。

まず受付時間に昇降口に行く。先生と5年生のお兄さんが「こんにちは!」と元気に声をかけてくれる。次にお姉さんが親子を控え室まで連れて行ってくれる。ここまではいい感じ。
ところが教室に入った途端、年輩の女の先生が、「皆さ~ん、いいですかぁ!椅子にはお母さんが座ってください!子どもを座らせないでください!5年生、いいですかぁ!」と何度も大声で叫ぶ。「いいですかぁ!机の上の封筒に書類が入っています、中身を確認してください!ありましたかぁ!いいですかぁ!わからない人は手を挙げて!」これで子どもが小学校に上がるというワクワクした楽しい気分がいっぺんに冷めてしまった。この「いいですかぁ!」というのは、どうやら「静かにしろ!」という合図らしい。途中で5年生の男の子が入ってきて、「○○さんという人いらっしゃいますか?」とお母さんたちに呼びかけると「“○○さんという方”と言いなさい!」と注意する。
それでもこれくらいは序の口。問診票に予防接種のことを書くと、保健室の先生らしき人(何も紹介がないのでわからない)が、「エッ、お母さん、この回まだしてないんですか!?これは1回では意味ないんですよ!」と強い口調で言う。「そんなことはわかってるけど、2回ほどあったちょうどその接種の日に熱を出してしまってできなかった」という事情を話す暇も与えない。さらに、配られた紙に「学校へのご要望や心配事などありましたら、どんなことでもお書きください」と書いてあったので、「子どもは学校は楽しいところだと思っているので、入学後もその思いが続くよう、よろしくお願いします」と書いて先生に渡すと、その場で読んで「お母さん、最初が大事です。お母さんが潰さないように気をつけてくださいね。お母さんが学校を嫌いにさせないよう気をつけてください」と逆に注意されてしまった。なんでも要望を書けって言うから、書いたのに!

お母さんは、とにかく教えてやろう、学校に従わせようという、その凄い勢いに腹が立ったそうですが、検診を終えて帰ってくる子どもが、「私の感情を察知してしまうと心配してしまうだろう」と気を取り直して「子どもは小学校に入学することをとても楽しみにしています。朝の散歩も小学校の通学時間に合わせてしているくらいですので、よろしくお願いします」と再度頭を下げてきたんだそうです。
いやいやいや、全ての先生が悪いわけではないけれど、学校というところがどれくらい子どもや保護者にプレッシャーをかけているのかということを充分理解して、親が学校と張り合わなければならないような関係にならないためにも、先生方には子どもや保護者の立場にたった声のかけ方をしてほしいものですね。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第284回「子育ては都会、それとも田舎?」

今朝(11月11日)の朝日新聞に俳優の柳葉敏郎氏が、昨年春から故郷の秋田で暮らすようになったという記事が掲載されていました。「子育ては秋田で」というのが、ずっと夢だったとのことで、小学校2年生のお嬢さんのPTAの学年部長も務めているそうです。
柳葉氏は、秋田県の中央よりやや南に位置する、仙北郡西仙北町(2005年、大曲市などの1市、6町、1村との合併により現在は大仙市)の農家の長男として生まれました。その後、小学校、中学校、高校と地元で育ちます。秋田県立角館高校卒後、18歳の頃に日本テレビの『スター誕生』に応募しますが落選。それがきっかけで上京して、劇団ひまわりに入団しました。その後は皆さんご存じの通り、「一世風靡セピア」のメンバーとしてデビューし、'88年以降、トレンディドラマに数多く出演し、「元祖トレンディ俳優」と呼ばれるようになりました。「踊る大捜査線」シリーズの室井慎次役は、一番の当たり役で、彼の俳優としての地位を確固たるものにしたと言えると思います。(ウィキペディア参考)
俳優という職業なので、仕事の中心は東京ということになるのでしょうが、1年の半分以上を秋田で過ごしている(逆に俳優だからできるということなのでしょうが)とか。その話からも、柳葉氏の「子育ては秋田で」のこだわりがわかるような気がします。
今から、25年ほど前、「田舎暮らし」を考えたことがありました。今でこそ、ポピュラーになった「田舎暮らし」ですが、当時はまだそれほど注目されていたわけではなく(というより、むしろ田舎暮らしは敬遠されていた)、月刊だったか、季刊だったかの「田舎暮らし」を扱った本と機関誌が数種類あっただけでした。そういう刊行物を見ると、「借り賃 0円」とかいう家や、数百坪の土地と家屋(かなり老朽化はしていますが)で「売値 20万円」なんていう物件がたくさんあって、心がときめいたものです。過疎地の物件がほとんどですから、中には廃校になった校舎や元旅館なんていうものまであります。私が一番心を動かされたのは、1,800万円はするものの、敷地6,000坪で、宿泊施設あり、工房(一度に10人くらいが電動ロクロで作陶ができる)あり、竹藪あり、雑木林あり、なんていう物件でした。しかも、庭には小川が流れているんです。
少子高齢化が進み、今では退職後にそういったところで生活する人たちが増えてきて、生活に適した格安の物件というのは、手に入りにくくなりました。ある程度の年金がもらえていれば、生活に困ることはありませんが、若いうちに「田舎暮らし」をしようとすれば、収入の確保と子育てをどうするかで悩みます。妻が高校の教員でしたので、「埼玉県内であれば」と、秩父音頭で有名な皆野町やさらにそこから北側になる児玉郡神泉村(現在は合併により神川町)に、実際に物件を見に行ったこともありました。結局、収入よりも、子育てのことで断念(学校まで徒歩で1~2時間なんていう感じでしたので)しました。
柳葉氏の生活は、PTA役員の話や野球チームの話、町内会の話などが登場するので、それほどの「田舎暮らし」ではないのだろうと思いますが、「子育ては秋田で」という意味は、都会のあわただしい生活ではなく、ゆっくりと時が流れていく、人と人とのふれあいが残る、伸び伸びとした子育てがしたかったということなのだろうと思います。「友達を5人も6人も連れてきたり、自転車で出かけて日が暮れるまで遊んできたり。秋田の子どもは東京より100倍元気だ」という表現から、柳葉氏の目指す子育ての方向が見えてきます。
あわただしく流れる時間の中で、塾に通わせ詰め込み教育をするのも一つの子育て、ゆっくりと流れる時間の中で、のびのび育てるのも一つの子育てです。学力向上のため、ゆとり教育が見直されている今、「ゆとり」ということが目指したものはなんだったのかもう一度じっくり考え、子どもを大切に育てていきたいものですね。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2022年6月 6日 (月)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第280回「鳥取県倉吉市から その1」

今日は、倉吉に来ています。
倉吉と言えば、つい先日市長が、舛添厚労大臣に一首長の立場で噛みついたところ。地方のそれほど大きくない、けれども歴史のある個性を持った町が、さいたま市のような首都圏のそれほどはっきりとした特徴のない大都市とどう違うのか、ほんの短い時間ではありましたが、観光地や倉吉の町のなかを散策したり、また教育長さんとお話をさせていただいたり、PTA連合会でご活躍の皆さんと交流させていただいたりしましたので、鳥取というところ、倉吉というところで、私が感じた文化の違い、子どもとの関わりの違いを2回にわたって、皆さんにお伝えしたいと思います。

少し前のことになりますが、月刊「教育ジャーナル」(学研)に、映画「あしたの私のつくり方」の原作者、真戸香さんと妻との対談が載りました。それをご覧になった教頭先生の推薦で、倉吉市のPTA連合会の方々が中心となり、講演会にお招きいただきました。
当初、カウンセラーとしての妻への講演依頼でした。子育てについてのスキルを主な内容とした講演会というお話だったのですが、幅広い年齢層のお子さんを持つ方が対象とのことでした。
子育てについてのスキルを中心に据えると、どうしてもある程度年齢層の絞り込みをしなくてはならないので、むしろ映画「素敵なお産をありがとう」の上映と私と妻の話ということではどうですかとこちらからご提案をさせていただき、上映会と講演という形で、行うことになりました。
担当の方から、丁寧に飛行機の時間までメモでお送りいただいたのですが、私の身体の関係(気圧が急に下がると、座席にも真っ直ぐ座っていられないくらい目が回って、汗が噴き出し、吐き気がする)で、飛行機には乗れないので、車で向かうことにしました。運転はちょっと大変ですが、自由に動き回れるので、初めての山陰で、見てみたいところもたくさんありましたし、その土地の人たちと交流のできることを、とても楽しみにしていました。
800キロ近い距離なので、10時間以上はかかります。昨年車で行った北九州に比べればかなり近いとは言え、朝出ても夜になってしまう距離。鳥取砂丘も行ってみたいし、大山(だいせん)、出雲大社にも行ってみたい。近くに多くの有名な美術館もある。
朝、3時くらいに家を出て、お昼過ぎには鳥取砂丘にという計画でしたが、それでは砂丘以外を見て回る余裕はなさそうだったので、前の晩仕事から帰ると、「このまま出ちゃおうか」ということになり、夜11時に家を出ました。
わかっていたこととは言え、東名高速道路の集中工事のためかなり長い区間が一車線通行になっており、予定通りには行きません。中央高速にすればよかったと悔いても後の祭り。早く出たにもかかわらず、結局出雲大社と大山は次の機会にということになってしまいました。
鳥取砂丘を初めて訪れた人の感想は様々だと思います。期待はずれとがっかりする人、期待通りと思う人、期待以上と感動する人…。
私は、だいたい期待通りでしたけれど、予想以上に感動したかな。
砂の色、砂の感触、そして何よりも砂と海と空とが織りなすコントラスト。思わず走り出したくなるような高揚感…。
広い砂丘の上に靴を置き去りにして、裸足で頂上まで登りました。そして目の前に広がる大きな海。
周りにいる人たちも、すっかり子どもに返ったようでした。ただ、残念だったのは、砂丘にとてつもなく大きな落書きがあったことです。
少し前にニュースでも取り上げていましたが、砂丘の持つ価値、公共性を無視したとても悲しい行為だと感じました。
陶芸教室の生徒さんから、「砂丘にいるラクダと並んで写真を撮ろうとしたら、乗ろうとしたわけじゃないのにお金を要求された」という話を聞いていたので、「本当かよ?」と思いましたが、それも想定してラクダにはあまり近づかず、遠くの方から写真を撮りました(笑)
売店で、孫に買うおみやげをあれこれ選びながら、「この砂時計(砂丘の砂が入っている)、どうかな?」と妻と話をしていると、まだ決めたわけでもないのに、売店のおばさんがすでに包装紙に包みかかっていたのにはビックリ。
「なるほど。ラクダの写真は遠くからにしといてよかった!」と納得がいきました。
そして、もう1カ所立ち寄ったのが、あの大黒様とワニ鮫に皮を剥がれてしまった因幡の白ウサギの話で有名な白兎海岸です。海岸に面して道の駅があり、その道の駅から山側には白兎神社があります。昼食をこの道の駅で取ることになりました。

つづく

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2022年5月20日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第275回「警察官の平手打ち」

事件そのものはたいした事件ではないのに、先週大きく取り上げられたのが、「警察官の平手打ち」事件です。
「神奈川県警大和署の巡査長(33)が拳銃の形をしたライターを持っていた高校2年の男子生徒(16)を平手打ちし傷害容疑で現行犯逮捕された」(毎日新聞)という事件ですが、県警監察官室の当初の発表は、巡査長は生徒が周囲の注意を受け入れてライターをしまったのに「反省の色がみえない」と顔を3回平手打ちしていたとし、「警察官の行動としてふさわしくなかった」とコメントしながらも、生徒からの事情聴取が終わらない段階で「生徒がライターをもてあそんでいたため、巡査長が注意しようとして口論になったと思われる」と説明していました。
そして、この事件については「注意できる大人がいない中、きちんとしかるという行動は安心できる」「あまり厳しく処分しないで」など巡査長の行為をたたえる電話やメールが神奈川県警に殺到、約2000件にもなったといいます。
ところがその後、注意された高校生の母親から「報道は事実と違う」というクレームがあり、県警は担当記者を集めて当初の説明を変える異例の釈明を行いました。
「各紙によると、相鉄本線二俣川駅で停車中の普通電車内で拳銃型ライターを持って悪ふざけをしていた男子高校2年生(16)は、小磯巡査長ではなく、車掌から注意された。すると、高校生は、「分かりました」と従い、ライターをカバンにしまったという。小磯巡査長は、隣の車両からこの様子を見ていたが、車掌が去った後に高校生が友人と談笑しているのをみて「反省していない」と思い込んだ。
高校生が次の鶴ヶ峰駅で降り、改札を出て階段を下ると、小磯巡査長は、高校生の髪の毛とカバンをいきなりつかみながら路上に連れ出し、「カバンの中のものを出せ」と言って、顔を3回平手打ちにした。高校生は、「怖かったので口答えもしなかった」という。神奈川県警では、小磯巡査長は「注意したというより、因縁をつけて殴った状況」としている。
-中略-
高校生は、友人と2人で二俣川駅に停車中の電車に駆け込んできた。そして、友人が座席に寝転がり、高校生は扉付近でホームに向けて例の拳銃型ライターを構えていた。そこに、たまたま、車内巡回中の車掌が通りがかり、「止めて下さい」と声をかけた。高校生は、「すいませんでした」と車掌に謝り、ライターをバックにしまい、友人も起き上がった。特に口論などはなかったという。」(J-CASTニュースより)
高校生が乗っていた車両には、高校生2人以外には乗客はなく、ホームにもほとんど人影はなかったとか…。

この事件は、今の社会的状況をとてもよく映しています。
・公的機関の身内に甘い対応
・今の若者はマナーがなっていないという先入観
・マスコミ報道により形成される短絡的な世論
・悪事に対する報復的処罰の容認

J-CASTニュースの取材によれば、この高校生2人の行動で問題だったのは、「座席に寝転がったこと」「拳銃型ライターを構えて遊んでいた(持っていた)こと」の2点です。けれどもそれは2人以外には乗客がいない車両という特別な状況下で、しかも車掌の注意に素直に謝り、すぐに起き上がり、ライターをバッグにしまった行動を考えれば、むしろ今の高校生の中では、ある程度のモラルを持った高校生とも言えなくもない。この事件の本質は、高校生の行動ではなく、酔って絡んだ巡査長の行動であり、事情はどうあれ、何かの解決の手段として暴力を許すかどうかということです。
飲酒運転事故をきっかけに、最近、司法における厳罰化というのが大きな流れになっています。もちろん、私も飲酒運転にはもっと正しく法を適用すべきだと思いますが、法というのはちょっと使う方向を間違えると、正義と悪が入れ替わってしまうことにもなります。今回のこの事件も、酔った巡査長が暴力を振るったわけで、その点からすれば厳罰に処せられなくてはならないのは巡査長側ですが、事実を真っ直ぐに見ないと、高校生が悪くなってしまう。
いろいろな子どもがいるにせよ、基本的に、社会の中で子どもたちは弱者です。その子どもたちの行動を正確に見聞きしないで、何らかの処罰をすることはとても危険なことです。子どもに対し、常に大人は権力であるということを忘れずに、力によるしつけや教育は厳に慎まなくてはなりません。
子どもたちに対する教育が、単なる厳罰化の流れの中に埋没しないよう、子育て、教育の場は進んでいくといいのですが…。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第274回「携帯電話のリスク」

第185回(2005年11月)で、「携帯電話」を取り上げました。携帯電話の進化の速度は、きわめて速く、たった2年の間に、携帯電話が抱える問題の質も、大きく変わってきました。
第185回で取り上げたのは、“個対個”のコミュニケーション手段が集団としてのコミュニケーションを阻害するおそれがあるということでした。避けることのできない人間関係の中で、それぞれが“関わり合いの智恵”を絞ることで、築いてきたコミュニティー。そういったものが、携帯電話が生み出す“個対個”の人間関係によって破壊され、地域社会の存在が壊れようとしている。さらにそれが、引きこもりやニートという問題にもつながっている。というような内容でした。
ところが最近、携帯電話にまつわる問題は“個対個”のコミュニケーションの問題ではなく、ネット上に氾濫する様々な情報の取得あるいは情報の発信という問題になってきました。これまで、インターネットといえば、PCというのが一般的でしたが、最近では携帯電話(モバイルサイト)に取って代わられようとしています。インターネット上にホームページを持っている企業、店舗の多くはモバイルサイトにもページを持っています。うちですらカウンセリング、教育相談のモバイルサイトを持っていて、そのサイトから直接カウンセリングの予約ができるようになっています。
ここであらためて言うほどのことでもありませんが、モバイルの利点は、何と言っても双方向の情報のやり取りにあります。もちろんPCでも双方向の情報のやり取りは可能ですが、携帯電話はPCのように準備をして構えなくてはならないものと違い、常に持ち歩いていて、スタンバイ状態なので、情報が届いた瞬間にそれを確認することができます。しかも、その大きさから場所を問わず、どこでも簡単に使うことができるので、その情報のやり取りを秘密裏に行うことも簡単です。
9月2日朝日新聞朝刊に、携帯電話についてのアンケート結果が公表されていました。これは、朝日新聞の無料会員サイト「アスパラクラブ」が8月に行ったもので、10,936件の回答をもとにまとめたものだそうです。
それによると、はじめて携帯を持たせた年齢は、小学校入学前/1%、小学生/15.4%、中学生/24.6%、高校生になってから/38.3%、高校を卒業してから/20.8%(記事では小~中学生までは、学年ごとの統計になっています)。アンケート対象の年齢幅が広いため、かなり以前に子育てが終わった人の数字もカウントしていると思われ、そのために「高校生になってから」「高校を卒業してから」の割合が多くなっていると考えられます。もし、今小学生の子どもたちが成人したときにアンケートを実施したとしたら、「高校生になってから」「高校を卒業してから」の割合がかなり減るのではないかと思われます。年齢層を切ることによって、アンケートの数字はかなり違ってくるように思います。したがって、皆さんの感覚では、アンケートの数字よりかなり低年齢化が進んでいるという感覚ではないでしょうか。
子どもの携帯電話のメリット、デメリットの比較については、「メリットの方が大きいと感じている人」が41.6%、「デメリットの方が大きい」と感じている人が、26.9%、「わからない」が31.5%。この結果を見る限り、携帯電話に対する親の見方はかなり割れています。おそらく、親がどのように携帯電話を利用しているかによって、評価が割れていると思われます。
このアンケートで、私が最も注目したのは、「お子さんの携帯電話に“フィルタリング”をつけていますか?」という質問です。フィルタリング(携帯電話会社がオプションとして行っている有害サイトへのアクセス制限)がどの程度効果があるかについては、私は懐疑的(サイトとしての体裁をしていない有害な情報も氾濫しているから)な考えを持っていますが、「つけている」10.6%、「つけていない」58.6%、「わからない」17.9%、「フィルタリングについてよく知らない」12.9%という結果は、あまりにも無防備と言わざるを得ません。
私自身は、基本的な考え方として、子育て・教育における「制限」「規制」ということを好みませんので、もし今私に、小・中・高校生の子どもがいたとして、フィルタリングを利用するかと聞かれれば、答えは”ノー”です。が、それはあくまで、モバイルサイトの有害性(興味本位に走った誤った性情報や出会い系サイトなどの誘惑など)を理解した上での判断であって、有害サイトから子どもを守るには、それなりの知識を子どもに教える必要があります。それ無しに、子どもがモバイルサイトをすべて利用することは、大変リスキーなことです。けれども、アンケートの結果からすると、そこまでモバイルサイトの危険性を認識している人はそう多くはない。
山谷えり子氏が、首相補佐官に就任して以来、男女共同参画や性教育は大きく後退してしまい、学校ではほとんどまともなジェンダーに対する教育や性教育をしなくなってしまいました。ネット上に氾濫するいかがわしい性情報から、子どもたちを守る手段は、詰まるところ、正しい性の知識、性に対する感覚を子どもたちに、身につけてもらうしかありません。フィルタリングさえ、浸透しているとは言えない状況ですが、どんどん便利にそして危険になっていく携帯電話から、子どもたちを守り、さらにうまく利用していくためには、「フィルタリング」や「携帯電話の使い方」などという“規制”や“HOW TO” ばかりに頼るのではなく、子どもたちの持つ根本的な知識や意識から変えていく必要があるのはないでしょうか。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
10年以上前の内容なので、今では当てはまらない部分がほとんどかと思います。ここでいう“携帯電話”は、スマホではなく“ガラケイ”のことです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第273回「習熟度別って効果ない?」

8月26日、朝日新聞朝刊に「習熟度分けても英語成績伸びず」との見出しで、全教・教研集会での和歌山県の県立高校教諭からの報告の記事が掲載されていました。
03,04年度に普通科2年生2クラス80人を対象に「英語Ⅱ」で上位2つと下位1つの3グループに分け、習熟度別授業を試みたそうです。全国模試の平均偏差値で見ると、03年度、04年度も大きな変化はなく、習熟度別の効果は確認できなかったとか。ちなみに04年度に行われた7,11,1月の3回の模試の結果は、上位が「48.7→48.0→47.7」、下位が「46.1→44.5→45.6」。
この結果を見る限り、7月より1月の方が模試の結果が悪いので、確かに習熟度の結果が出ていないようにも見えますが、標本が2クラス80名と少ないこと、そして習熟度別クラスとそうでないクラスの比較ではなく、習熟度別クラスの時間的経過だけが比較対象になっていることなどを考えれば、実際にはほとんど意味のない調査になってしまっていると言わざるを得ません。(新聞報道が、比較対象を時系列的偏差値のみに絞った可能性もあるので、すべてが無駄とは言えないのですが、新聞報道を読む限り、調査としてあるいは記事として、とても稚拙と言えると思います)
調査をした先生に、「効果がないのではないか」あるいは「効果があるはずがない」という考えがもともとあって、そういう結論を導き出すための調査であったのかなという気もしなくもないのですが。(あくまでも「報道の内容がすべて」という前提でですが)
とは言え、私も「習熟度別授業」を単純に支持するものではないので、「教師を増やした割には効果が見られなかった。同じレベルが集まると生徒は安心してしまい、成績の引き上げ効果が失われているようだ」という、この先生の後半部分のコメントにはある程度納得できます。塾をやっていた経験から言うと、短期間に特定の子の成績を上げようとすれば「習熟度別」というのは、絶対に必要です。「先に進む」あるいは「さらに難易度の高い問題をこなす」ということであれば、当然それについてこられない子どもたちは「足手まとい」になります。「足手まとい」になった子どもたちを切り捨てずに、なんとかしようとすれば、クラスを分けるしかない。一般的に言って、個別指導でない塾はそれを実践しているわけで、成績の順にクラス分けを行っています。塾の目的は、ただ単に少しでも多くの生徒の学力を、できる限り現状より良くすることが目的なので、上下の学力格差が広がり差別が助長され、ある程度の落ちこぼれが生まれようと、そんなことはお構いなしです。もっとも、経営上、低学力の子どもたちを切り捨ててしまっては「もったいない」ですから、簡単に切り捨てようとはせず、丁寧に面倒を見ているように装いますが…。
それを即公立の学校に当てはめてうまくいくかというと、そうはいきません。「習熟度別」に分けるということ自体、学力格差による「差別」という議論もあると思いますが、その後、分けることによって、さらに学力格差が広がってしまい、「差別を生む」ということをどうするのかというのが大きな問題です。
どうも日本人は、文化として、格差を広げることを好まない傾向があるように思います。今回の参議院選挙の結果を見ても、相次ぐ閣僚の不祥事や安倍さん個人のキャラクターの問題はあったにしても、やはり根本的にくすぶっていたのは、格差の問題です。置き去りにされた地方の氾濫というのは、もちろんありますが、都市部でも格差については、はっきり「ノー」です。
和歌山県の先生の言う「同じレベルが集まると生徒は安心してしまい、成績の引き上げ効果が失われているようだ」というコメントも、日本の文化として捉えた場合、とても良く理解でき、おそらくこれからも、それを打ち破るのは並大抵のことではないのではないかと感じます。単純に成績順に「習熟度別に分ける」ということではなく、もっと日本の風土にあった「新たな習熟度別」が必要なのかもしれません。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2022年4月30日 (土)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第272回「不登校、再び増加に転じる! 後編」

うちの陶芸教室にも、不登校の子どもたちが何人か通ってきていました。一つは陶芸というものが作業として不登校の子どもたちにも受け入れられ易いこと、もう一つは教室に通ってきている他の会員の皆さん(不登校の子どもたちが訪れる時間帯というのは、ほとんど主婦を中心とした50代後半から上の方たちが中心ですが)が、不登校児というものを意識せず、差別することなく受け入れていること。そんな理由から不登校の子どもたちも居心地がいい(というよりは、他のところよりは居心地が悪くないといったくらいかもしれません)のだろうと思います。
カウンセリングや教育相談といった、カウンセリング研究所における不登校についての直接的な関わりではないので、うちの陶芸教室としては、他の会員の皆さんと同じようなサービスを提供し、それがその子に合えば通ってくるし、合わなければやめていくという単純なことで接するようにしています。もちろんスタッフは陶芸を教えることはできますが、教育やカウンセリングのプロではありませんので、そういう意味ではおそらく扱いは雑です。「不登校児」という扱いではなく、「やや若い陶芸教室の会員さん」という扱いです。日常的に「不登校」であるということを意識し、あるいは意識させられている子どもたちにとっては、陶芸教室にいる時間は「不登校」から意識が離れられるほんのわずかな時間なのかもしれません。おそらくそれが「居心地が悪くない」という状況を作り出しているのだろうと思います。
入会時にあまりプライベートなことには触れませんので、スタッフは不登校かどうかも詳しくは知りません。ただ、なんとなく隠しているようになってしまうのは本人にとっても苦痛でしょうから、私は率直に「学校、行ってないの?」と聞いてしまいます。学校に行けるようになることが目標ではなく、うちとしては陶芸を長く続けてくれさえすればいいことなので、「不登校である」ということを開示してしまってくれれば、こそこそして居心地が悪くなることもないので、率直に聞いてしまった方がいいかなあと考えているわけです。私としては、「いつ続かなくなっちゃうだろう」と常に心配をしているわけですが、そういう事情ではない一般の会員さんより、むしろ定着率がいいようなくらいで、中学校で不登校になった女の子や高校で不登校になった男の子たちが、就職が決まり仕事を始めるまで通ってくる例も少なくありません。まあ、週に1~2回程度ですから、学校に比べればはるかに負担が軽いわけで、そういったことも影響しているんだろうとは思いますが…。
前回も少し触れましたが、不登校が問題として取り上げられ始めたころというのは、「子どもは悪くない」という発想から、子どもたちに対する学校の対応の悪さも指摘され、子どもを救う場所、その子の持っている個性を大切にする場所として、各地に多くのフリースクールができました。これは、子ども自身の持つ内面的な要因は認めながらも、学校の状況や対応の悪さに直接的原因を求め、その原因を取り除くことで、子どもの心を救おうとしたものでした。居場所がないことを実感している子どもたちにとってフリースクールは、自分たちの居場所としての存在を示し、ある一定の大きな成果を生みます。そして、今もそこに通っている子どもたちにとって、大きな存在になっていることは確かです。
けれども、最近の不登校事情を見ると、それだけでは対応できないような不登校が増えているように感じます。
26、7年前、学校が荒れたことがありました。うちの子どもたちの通っていた中学校でも掃除の時間中に「窓から火のついた雑巾が降ってきた」というようなことがありました。暴力がはびこり、授業は成り立たず、当然のことながら不登校も増えました。大きな原因の一つに「管理教育」があったことは間違いありません。その頃、「大学のような高校を作ればいい」(今の単位制高校のような)というのが私の持論で、実際に県から学校設立に関する膨大な資料を取り寄せたりもしました。まだ規制が厳しい時代で、資金繰りにめどが立たず断念するのですが、その数年後、伊奈に公立の単位制高校が開校しました。当時とすると画期的な発想で、荒れた教育に対する救世主的な存在でした。不登校対策というよりは、むしろ中途退学や“やる気”に対する対応策という要素が大きかったと思います。そして、その後規制緩和がどんどん進み、単位制の高校が開校しやすくなりました。私はそれが、不登校に対する考え方を変えなければいけない転機に結びついたのだろうと考えています。
もちろん、その後も「居場所のない子どもたち」は増え続けます。それに対して、多種多様な形態、内容の学校も増えていきました。そしてそこへ少子化の波。当然のことながら、学校間で子どもの取り合いが始まります。その結果、学校が子どもにこびる結果となった。
「ここの学校が嫌ならこっちの学校、こっちの学校が嫌ならあっちの学校」というように、決められた場所に適応しようとせず、今の自分を受け入れてくれるところを探すという状況が生まれます。それは、ある部分では正しいのですが、ある部分では子どものわがままを助長することになります。そこへよく言われる「80年代」世代の子どもたちが、学校に通い出し…。
これからの不登校対策は、以前のような「子どもの居場所」作りではなく、ある一定の閉ざされた(閉じた)場所で、子どもたちがいかに人間関係を築けるよう育てていくかにかかっているんだろうと思います。
県も親を教育することに力を入れはじめたようですが、県のやっていることはどうも復古的過ぎる。社会構造が多様化しているにもかかわらず、父親、母親の役割を限定的に捉え、「昔の親子関係に戻す」的な発想で、進めようとしているように感じます。とは言え、親子関係を見直すことが必要な時期にきているというのは、私も感じていることで、今後の不登校対策は親子関係をどう構築していくのかにかかっていると思います。
親子関係の作り方も、陶芸教室に通ってきた不登校の子どもたちの様子の中に、ヒントがあるような気がするのですが…。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第268回「モンスターペアレント 後編」

親からの理不尽なクレームで学校が困ってしまうパターンには、いくつかのパターンがあるように思います。まず、とにかく自分の子どもがかわいいので、「私の子どもには××させてくれ」あるいは逆に「私の子どもには××させないでくれ」というパターン。次に、子どものことというより、親自身が自分の満足のために学校にクレームをつけるパターン。そしてもう一つは、内容の問題ではなくとにかく学校不信に陥っているため、大したことではないにもかかわらず、まったく学校には相談することも無しに学校を飛び越して、教育委員会などへ激しく抗議をしてしまうパターン。
他にもまだまだ、いろいろなケースがあるとは思いますが、おおむねそんな分類に属するのではないでしょうか。
「悲鳴をあげる学校」(旬報社)の著者の大阪大学大学院人間科学研究科の小野田正利教授は、
「子供がひとつのおもちゃを取り合って、ケンカになる。そんなおもちゃを幼稚園に置かないでほしい」
「自分の子供がけがをして休む。けがをさせた子供も休ませろ」
「親同士の仲が悪いから、子供を別の学級にしてくれ」
「今年は桜の花が美しくない。中学校の教育がおかしいからだ」
などの実例を挙げています。「ほんとかよぁ!」と耳を疑いたくなるような内容ですが、実例と言うことですから驚きです。
最近、給食費未納の問題も大きく報道されました。一昔前は、給食費が未納ということは、経済的に「払うことが困難」という状況で未納になっていたと考えられますが、最近の状況はそれとはまったく違い、どうやら「無理矢理払わされるまでは払わない」という身勝手な親もいるようです。
この連載の中でも、何度も述べてきていますが、最近の親子関係は、非常に近い関係になってきています。毎朝のようにファミリーレストランに朝食に訪れるニートと思われる子どもと母親。いつも一緒に腕を組んで買い物をしている母娘。手をつないで通勤・通学をする父と娘…。本来なら、関係が近いからこそ子どもを叱り、しつけができるという関係であったはずなのに、ここのところの状況は、その近さの質が変わり、子どもを叱り、しつけるどころか、子どもの悪事に対して、それをかばい続ける傾向が顕著になってきています。また、個人主義的傾向の高まりは、子どもに対する親としての責任すら果たさず、自分を守るためなら子どもをも犠牲にする親まで現れてきています。親子関係のまずさから子どもが精神的ダメージを受けているにもかかわらず、自分の対応の悪さはさておき、「子どもが病気」という言い方をする親などがこれに当たるでしょうか。
モンスターペアレント出現の原因を「教師への尊敬の念の薄さ」という人もいます。けれども、それは結果であって原因ではない。前回も少し触れましたが、私はモンスターペアレントの出現の原因の一つは、「自分たちの力では、どうあがいてもどうにもできない人たちの存在」と考えています。小泉内閣誕生以来、格差社会が広がったと指摘されています。弱者は強者に対して無力です。学校も、子どもや親から見ると圧倒的強者。そんな強者に対して「尊敬の念」を持っていたら、とてもじゃないけど、やってられない。一見、一人の教師に向けられているように見えるクレームも、実は教師個人に向けられたものではなく、もっと漠然とした「“教師”という権力」に向けられていると考える方が正しい見方ではないかと思います。もちろん、多種多様なケースがあるので一様ではないと思いますが。
これも再三指摘していますが、もう一つの大きな原因は、間違いなく“地域社会の崩壊”にあります。政治や行政の大きな方向の間違いが、地域のコミュニティを崩壊させてしまった。学校や教師に対する不満は、一旦親同士の中で話され、強い不満を持っていた人の気持ちがやや落ち着いたり薄まったり、あるいは自分と反対の考えの人がいたりすることで、とりあえずある程度消化されたものが学校に届いていた。ところが、地域社会が崩壊したことで、個人vs学校、個人vs教師という構図に変わってしまって、まったく未消化のまま、直接学校や教師にぶつけられるようになった。このことは、とても大きなことだと思います。それは時に、地域の権力の象徴である学校というものに個人で対抗するため、教育委員会というさらに上の権力に向かっていくことになる。
私が思うに、この状況を変えて行くには、信頼関係を回復するしかないと思うのですが、どうも政治や行政が向かっている方向は、まったく逆な方向のようで、学校の問題を弁護士やカウンセラーといった、直接、教育と関わりのない人たちに任せようとしている。実は、学校にはもともとそういうふうに子どもや親たちと向き合うことを嫌う傾向があった。現状を変えて行くには、信頼関係を回復すること。それには、誠実にたくさん話をすることしかありません。それがモンスターペアレントをなくす唯一の方法だと思うのですが…。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第267回「モンスターペアレンツ 前編」

最近、マスコミが頻繁に取り上げている問題に「モンスターペアレント」の問題があります。
「モンスターペアレント」っていうのは、ご存じの通り、“担任教師や学校に対し、自分の子に関する「理不尽な苦情」や「無理難題な要求」を突きつける保護者”(もり・ひろし=新語ウォッチャー)のことです。1ヶ月ほど前、港区教育委員会が保護者のクレームに対応するため、250万円かけ、5人の弁護士と契約したという報道がありました。
それに続いて、つい先日は「文部科学省が本格的な学校支援に乗り出す方針を固め、来年度の予算要求に盛り込みたい考えである」という報道がありました。地域ごとに外部のカウンセラーや弁護士らによる協力体制を確立して、学校にかかる負担を軽減することを検討しようとするもので、各地の教育委員会にも対策強化を求めるとしています。
こうした親の存在というのは、かなり前から指摘されていて、それほど目新しいものではありませんが、安倍内閣の教育改革が進むにつれ、報道が過熱感を増しているように感じます。私も、モンスターペアレント(イチャモン親)や故意に給食費を払わない親など、非常に問題だと感じていますが、最近の流れは、小泉内閣時代の「官から民へ」の流れに逆行するもの(というより、“強者はより強く、弱者はより弱く”という小泉内閣の本質が引き継がれたものと言えなくもないのですが)、まさに揺り戻しというふうにも感じています。
官僚組織への批判は公務員批判となり、教員バッシングへとつながっていきました。私は、ある意味(仕事の内容、民間との賃金格差など)、その流れは正当であると考えていますし、今後もそうあるべきだろうと思います。けれども、その流れによる“利益”が国民の末端にまで行き着く前に、大企業や民間の権力者のところで止まってしまい、流れが逆転してしまったら、大変怖いことです。最近の報道の過熱ぶりは「世の中の強者にとってちょうどいいタイミング」、そんな危惧さえ感じさせます。
産経新聞社がネット上に配信している記事によると、「なぜうちの子が集合写真の真ん中ではないのか」「子供がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」「子供から取り上げた携帯電話代を日割りで払えと保護者から毎晩電話がかかり、その日の子供の活動を細かく報告させられた」「(運動会の組み体操をめぐり)なぜうちの子がピラミッドの上でないのか」「体育祭の音がうるさい」などが、親の無理難題として取り上げられています。単純に何の理由もなくこんなクレームが親から寄せられれば、それはもちろん「モンスターペアレント」でしょう。けれども、何も理由がないということは、あまり考えられない。ほとんどの場合、そうなるまでにいきさつがあり、それに対する対応の悪さから、そういう結果になっているとも考えられる。
それを明らかにせず「モンスターペアレント」として、大騒ぎするのはどうも意図的にしか映らない。
「先生の訴訟費用保険加入が急増」という見出しで取り上げられているのは、公務員の訴訟費用保険は、職務に関連した行為が原因で法的トラブルに巻き込まれた際、弁護士費用や損害賠償金などを補償する保険。医療関係者が、個人で保険に加入するというのはよく聞きますが、教員までという感じはします。学校に対する保護者の理不尽な要求が問題となる中で、仕事に関するトラブルで訴えられた場合に弁護士費用などを補償する「訴訟費用保険」に加入する教職員が、東京ではすでに公立校の教職員の3分の1を超す2万1800人に達したんだそうです。都福利厚生事業団が窓口となり平成12年から都職員の加入を募集し、保険料は月700円だそうですから、その加入のし易さから、当然(学校行事などで子どもがケガをしたり、死亡した場合、業務上過失致死傷などに問われ、損害賠償請求される場合もなくはないので)かなとも思います。事業団によると、加入者は教職員が突出して多く、全体の約7割を占めるそうですが、産経新聞の記事でも、「実際に都内で同保険が適用され、弁護士費用などが支払われたケースは過去7年間で約50件といい、不安が先行している面もあるようだ」とまとめています。50件の内訳が学校関係だけによるものなのか、全体でなのかもよくわからりませんからコメントは難しいですが、何が正しいのかきっちり見極める必要はありますよね。
とは言え、私も増えていると感じる「モンスターペアレント」。次回は、親の愚行について考えます。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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