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2024年4月 5日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第306回「海軍飛行予科練習生」

「おい、俺が死んだらなあ、ヘリコプターで鹿島灘に骨を撒くんだぞ。おまえたちに頼んでおくからな!」
昨年亡くなった父は、何度も私と妻にそう告げていました。
海軍飛行予科練習生(予科練)に志願して、土浦海軍航空隊にいた父としては、特別攻撃隊(特攻隊)として鹿島灘に散った多くの仲間たちのところへ行きたいという気持ちが、ずっと消えなかったんでしょう。土浦から三沢(青森県)に移動になった直後、土浦が爆撃を受け、三沢でも同じように、移動の命令を受け三沢を出た直後に、三沢も爆撃に遭いました。父はたまたま難を逃れた数少ない生き残りなんです。(第266回参照)
「俺の人生は、余生なんだ。あの戦争で、俺の人生は終わったんだ」
と口癖のように言っていました。
そして昨日(20日)、先に逝った戦友たちのそばに父(ほんの一部だけですが)を葬ってきました。強い風で大きく荒れた海は、細かい粉になった父の遺骨を、戦友たちの眠る遙か鹿島灘の沖に、運んでいってくれたことと思います。
父の骨を撒く前に、父が予科練時代を過ごした土浦海軍航空隊跡を訪ねました。現在は陸上自衛隊武器学校となっており、中には、予科練記念館「雄翔館」、記念庭園「雄翔園」、予科練の碑「予科練二人像」などがあります。物心が付いて間もないころ、一度だけ父に連れられて来たことがありました。小さいながらもそのときの印象は強烈で、敷地内におかれた戦車、死んでいった若者たちの遺品の数々が、未だに記憶の中にあります。今回は、それを確認するように見学してきました。
入り口で簡単な受付をすれば、誰でも入れます。(平日、土・日とも午前9時~午後4時30分 茨城県稲敷郡阿見町大字青宿121-1 陸上自衛隊武器学校内)
予科練の卒業生は約24,000名。そのうちの約8割、18,564名が戦死しました。「雄翔館」には、戦死した若者の遺品や家族宛の手紙(遺書)などが、展示されています。両親に宛てたもの、叔父や親戚に宛てたもの、どの手紙を見ても、しっかりとしたとてもきれいな字で、これまで育ててくれた感謝の気持ちが綴られています。まだ二十歳にもならない若者の手紙を見ると、とても心が痛みます。
「長い間育ててくれた…」「これが最後の…」といった言葉の数々。この若者たちに「長い間」「最後の」などという言葉を誰が言わせたのだろうと怒りがこみ上げてきました。
「戦争の時は、みんなこう考えてたのっ」「戦争だから仕方ないの」という母の言葉が、まるで人ごとのようで(もちろん母も戦時中の大変な時代を生きていたわけですが)、父の「鹿島灘に骨を撒くんだぞ」という言葉とは、遙か遠いところの言葉のように感じました。
「もし、これが私の子どもたちだったら…」そんな思いが、涙をにじませます。
父がお酒を飲むたび歌っていた、「四面海なる帝国を 守る海軍軍人は 戦時平時の別ちなく 勇み励みて勉べし」という「艦船勤務」や「若い血潮の 予科練の 七つボタンは桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ でかい希望の雲が湧く」という「若鷲の歌」が自然に口をついて出てきます。
日本は、平和を取り戻しましたが、世界各地で多くの若者や幼い命が戦争によって奪われていることを思うと、平和のために何が出来るだろうかと考えさせられます。
雄翔館の入り口に二人の男性が椅子に座っていました。父と同じ予科練第14期だそうです。父同様、戦死はしなかったけれど、このお二人も戦争が人生のすべてだったんだなあと、なんだか寂しい気持ちになりました。
 
 
 
 
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

 

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