« 2022年3月 | トップページ | 2022年5月 »

2022年4月

2022年4月30日 (土)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第272回「不登校、再び増加に転じる! 後編」

うちの陶芸教室にも、不登校の子どもたちが何人か通ってきていました。一つは陶芸というものが作業として不登校の子どもたちにも受け入れられ易いこと、もう一つは教室に通ってきている他の会員の皆さん(不登校の子どもたちが訪れる時間帯というのは、ほとんど主婦を中心とした50代後半から上の方たちが中心ですが)が、不登校児というものを意識せず、差別することなく受け入れていること。そんな理由から不登校の子どもたちも居心地がいい(というよりは、他のところよりは居心地が悪くないといったくらいかもしれません)のだろうと思います。
カウンセリングや教育相談といった、カウンセリング研究所における不登校についての直接的な関わりではないので、うちの陶芸教室としては、他の会員の皆さんと同じようなサービスを提供し、それがその子に合えば通ってくるし、合わなければやめていくという単純なことで接するようにしています。もちろんスタッフは陶芸を教えることはできますが、教育やカウンセリングのプロではありませんので、そういう意味ではおそらく扱いは雑です。「不登校児」という扱いではなく、「やや若い陶芸教室の会員さん」という扱いです。日常的に「不登校」であるということを意識し、あるいは意識させられている子どもたちにとっては、陶芸教室にいる時間は「不登校」から意識が離れられるほんのわずかな時間なのかもしれません。おそらくそれが「居心地が悪くない」という状況を作り出しているのだろうと思います。
入会時にあまりプライベートなことには触れませんので、スタッフは不登校かどうかも詳しくは知りません。ただ、なんとなく隠しているようになってしまうのは本人にとっても苦痛でしょうから、私は率直に「学校、行ってないの?」と聞いてしまいます。学校に行けるようになることが目標ではなく、うちとしては陶芸を長く続けてくれさえすればいいことなので、「不登校である」ということを開示してしまってくれれば、こそこそして居心地が悪くなることもないので、率直に聞いてしまった方がいいかなあと考えているわけです。私としては、「いつ続かなくなっちゃうだろう」と常に心配をしているわけですが、そういう事情ではない一般の会員さんより、むしろ定着率がいいようなくらいで、中学校で不登校になった女の子や高校で不登校になった男の子たちが、就職が決まり仕事を始めるまで通ってくる例も少なくありません。まあ、週に1~2回程度ですから、学校に比べればはるかに負担が軽いわけで、そういったことも影響しているんだろうとは思いますが…。
前回も少し触れましたが、不登校が問題として取り上げられ始めたころというのは、「子どもは悪くない」という発想から、子どもたちに対する学校の対応の悪さも指摘され、子どもを救う場所、その子の持っている個性を大切にする場所として、各地に多くのフリースクールができました。これは、子ども自身の持つ内面的な要因は認めながらも、学校の状況や対応の悪さに直接的原因を求め、その原因を取り除くことで、子どもの心を救おうとしたものでした。居場所がないことを実感している子どもたちにとってフリースクールは、自分たちの居場所としての存在を示し、ある一定の大きな成果を生みます。そして、今もそこに通っている子どもたちにとって、大きな存在になっていることは確かです。
けれども、最近の不登校事情を見ると、それだけでは対応できないような不登校が増えているように感じます。
26、7年前、学校が荒れたことがありました。うちの子どもたちの通っていた中学校でも掃除の時間中に「窓から火のついた雑巾が降ってきた」というようなことがありました。暴力がはびこり、授業は成り立たず、当然のことながら不登校も増えました。大きな原因の一つに「管理教育」があったことは間違いありません。その頃、「大学のような高校を作ればいい」(今の単位制高校のような)というのが私の持論で、実際に県から学校設立に関する膨大な資料を取り寄せたりもしました。まだ規制が厳しい時代で、資金繰りにめどが立たず断念するのですが、その数年後、伊奈に公立の単位制高校が開校しました。当時とすると画期的な発想で、荒れた教育に対する救世主的な存在でした。不登校対策というよりは、むしろ中途退学や“やる気”に対する対応策という要素が大きかったと思います。そして、その後規制緩和がどんどん進み、単位制の高校が開校しやすくなりました。私はそれが、不登校に対する考え方を変えなければいけない転機に結びついたのだろうと考えています。
もちろん、その後も「居場所のない子どもたち」は増え続けます。それに対して、多種多様な形態、内容の学校も増えていきました。そしてそこへ少子化の波。当然のことながら、学校間で子どもの取り合いが始まります。その結果、学校が子どもにこびる結果となった。
「ここの学校が嫌ならこっちの学校、こっちの学校が嫌ならあっちの学校」というように、決められた場所に適応しようとせず、今の自分を受け入れてくれるところを探すという状況が生まれます。それは、ある部分では正しいのですが、ある部分では子どものわがままを助長することになります。そこへよく言われる「80年代」世代の子どもたちが、学校に通い出し…。
これからの不登校対策は、以前のような「子どもの居場所」作りではなく、ある一定の閉ざされた(閉じた)場所で、子どもたちがいかに人間関係を築けるよう育てていくかにかかっているんだろうと思います。
県も親を教育することに力を入れはじめたようですが、県のやっていることはどうも復古的過ぎる。社会構造が多様化しているにもかかわらず、父親、母親の役割を限定的に捉え、「昔の親子関係に戻す」的な発想で、進めようとしているように感じます。とは言え、親子関係を見直すことが必要な時期にきているというのは、私も感じていることで、今後の不登校対策は親子関係をどう構築していくのかにかかっていると思います。
親子関係の作り方も、陶芸教室に通ってきた不登校の子どもたちの様子の中に、ヒントがあるような気がするのですが…。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第271回「不登校、再び増加に転じる! 前編」

8月10日の新聞各紙は、文部科学省が発表した学校基本調査(速報)から、これまで減少傾向にあった「不登校」が、再び増加に転じたことを伝えました。
現在の基準で調査を始めたのは、91年度。01年度まで増加しましたが、その後02年度から05年度までは減少していたものが、06年度には再び増加に転じたことがこの調査でわかりました。
しかも、中学生の不登校は、率で2.86%を記録し、過去最高。1クラス40人とすると、どの中学校もクラスに1人は不登校の生徒がいることになります。
「学校基本調査」とはどんなことを調査しているのかというと、学校数、学級数、在学者数、教職員数などの学校についての主観が入らない客観的な数字の調査。その調査の1項目に「理由別長期欠席者数」(長期欠席者というのは、1年間で30日以上欠席した者をいいます)という項目があって、さらにその「理由別」という中身が、「病気」「経済的理由」「不登校」「その他」に別れているので、「不登校」の数を毎年比較できるわけです。単純に「数」の調査ですから、本来なら主観が入る余地はなく、客観的であるはずなのですが、「不登校」という定義自体がとても曖昧なので、各学校の報告の元が不統一で、やや客観性に欠ける部分はあります。
今回の調査で、3年連続不登校率第1位になったのは島根県で、1000人当たりの不登校児童生徒数が、16.3人。第2位は高知県の14.9人、第3位が和歌山県で14.7人。反対に最も少ないのが愛媛県で8.2人、次に少ないのが宮崎県の8.3人、3番目が秋田県で8.7人。多いところと少ないところでは、約2倍の開きがあるわけです。
これについて、島根県の教育長は、
「やや弁解めいた答弁となりますが、本県では、欠席理由が例えば頭痛や腹痛であっても、不登校が懸念される場合は『不登校』扱いで整理しており、本人の状況の把握に努め、適切な支援を行うよう各学校にお願いしているところであります。不登校児童生徒の出現率、これは全国一位となっておりますが、こうした認識の上に立って対処していることの結果でもあると考えております」(J-CASTニュースより)
と答えているそうです。要するに、「不登校」という意味を他県よりも広く解釈していると言いたいんだろうと思います。そういう意味では、客観性に疑問がないわけではないのですが、都道府県別の数字はさておき、全体として捉えたときには、増加傾向にあるということは概ね間違いないのでしょう。
いじめによる自殺者がなくならない中、不登校の理由についても「いじめ」という原因が注目を集めています。不登校のきっかけとなる原因について、この調査では初めて「いじめ」の有無を聞きました。その結果、不登校の具体的理由で多かったのは、「いじめを除く友人関係」15.6%、「親子関係」9.3%、「学業不振」7.9%で、「いじめ」は3.2%です。
不登校問題を考えるとき、この「理由」を抜きには考えられません。不登校が問題として取り上げられ始めたころ、「個性を軽んじた画一化教育」や「親の過保護」が不登校の原因としてよく取り上げられました。「画一化教育が個性的な子どもの居場所を奪い、学校に対して不適応な子どもとして、外に追い出した」、あるいは「過保護で失敗経験のない子どもが壁にぶつかった」「優等生が優等生でいるのに疲れた」等々。「子どもは悪くない」という発想から、子どもたちに対する学校の対応の悪さも指摘され、子どもを救う場所、その子の持っている個性を大切にする場所として、各地に多くのフリースクールができました。その中でも奥地圭子さんが1985年に始めた「東京シューレ」は特に有名で、不登校の問題を世に知らしめるとともに、大きな役割を果たしてきました。

フリースクールの果たす役割と今後の不登校に対する取り組みについて、次回取り上げます。
つづく

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第270回「定員割れ大学のターゲット」

先日テレビを見ていたら、少子化により定員割れの大学が、今春4割を超えたというニュースが流れていました。
読売新聞によると、
「今春の入試で、入学者が定員に満たなかった4年制私立大学の割合が前年度の29・5%から40・4%に急増し、過去最高となったことが24日、日本私立学校振興・共済事業団の調べで分かった。私立短大の定員割れも前年度比10・2ポイント増の51・7%に達した。同事業団では、18歳人口が減る一方、大学設置認可の緩和などで大学や学部の新設が相次ぎ、定員自体は増えているためと分析している。少子化に伴い、私学経営が厳しさを増している状況が、改めて裏付けられた」そうです。
大学の生き残りをかけた営業活動も活発化していて、営業活動の矛先は、受験生本人ではなく、授業料を負担する親に向かっているとか。テレビの映像でも、受験生本人と学校説明会に参加する母親の姿が映し出されていました。
その映像を見ていて、おもしろいなあと思ったのは、どの親子も必死になっているように見えるのは受験生本人ではなく母親の方。何組かの親子の映像が流れていましたが、私の見る限り、どの親子にも共通して言えるので、見ているうちにだんだん滑稽に見えてきました。
「あの子は大学に入って何を学びたいのかねえ?」
と私が思わず疑問を投げかけると、娘の麻耶(まや)が、
「別にやりたいことなんて、ないんじゃないの」
「やっぱりそう見えるよなあ。じゃあ、何で大学行くんだろう?」
「学生でいたいんじゃない?! 親にお金出してもらって、遊んでいられて、楽だし…。すごく無責任でいられるしさあ」
「まったく」
そんな会話をしていたら、その親子のインタビュー映像が流れました。
「息子は何をやりたいかはっきりしていないんです」
という母親。“だから私が決めてやってる”と言わんばかりです。
「僕は、まだ何をやりたいかよくわからないんです」
“だから母親に決めてもらってる”と言わんばかりの息子。
“何をやりたいか”はさておき、とにかく“大学”というところに入れたい母親、“何をやりたいか”はさておき、親が言うから“大学”というところに入りたいと思っている息子。そんな様子がとてもよく表れていました。
昔も今も“大学”というところを目指す理由に、いい会社に入社(難しい資格を取得)し、より多くの収入を得、いい暮らしがしたい(させたい)というのがあると思いますが、テレビのニュースで流れていたのは、定員割れに悩む不人気の大学が、定員割れ対策として親をターゲットに営業戦略を立てているというもの。どう考えても、最終的に“いい暮らし”という目標を持てるとは思えない。とうとう“大学”までもが、消費志向を満たすための商品になってきてしまったんだなあ、という印象です。
そして、親が子どもを自分の元に縛っておくために大学を利用し、子どもは子どもで、親の傘の下から出ないための道具として大学を利用し始めたということのように感じます。そうした親子のニーズと定員割れに追い込まれている大学のニーズとがピッタリとマッチしたということのなのでしょう。
けれども、大学本来の目的やあるべき姿を見失ったこうした状況は、未来に大きなツケを残すことになる気がしてなりません。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第269回「家族って何?」

ドイツ・ミュンスターの市立劇場で専属ダンサーとしてモダンダンスを踊っている長男・努(つとむ)が3年ぶりに、夏の休暇を利用して帰ってきました。前回、一時帰国したときも、ここに登場させたような気がしたのでバックナンバーを調べていたら、なんと「第120回」(ちょうど3年前だから当たり前だけど)。「早いもんだなあ」というか「ずいぶん長かったなあ」というか…。私とは12歳違いで、12月で38歳になります。19歳で渡欧して、一時期日本に戻ったこともありましたが、20年というもの、ほとんどヨーロッパ暮らしです。
前回の帰国は4年ぶりでした。そして今回は3年ぶり。1年というのは長いようでそれほど長いわけではなく、その1年の間に何か大きなことが起こるというのは事故でもない限り少ないのですが、3年、4年というのは、短いようで長くて、その3年、4年の間に、生活に大きな変化が起こったりします。前回努が帰国したときは、努がドイツにいるうちに、妹の麻耶が結婚し、二人の子どもを出産し、そして離婚をし、家に出戻っていました。努にとっても、麻耶の子どもたちの蓮と沙羅にとっても、初めて会うわけですから、ちょっとくらいは人見知りでもするのかなあと思いきや、会ったとたんに蓮も沙羅も努にべったり。伯父さんと甥・姪の関係ってこんなもの?とびっくりしました。
そして今回の帰国までの3年間に、祖父と祖母の二人が亡くなってしまいました。前回の帰国の時には、一緒に海水浴に行ったのでしたが、その約1年後に祖父、さらにその1年後に祖母。努の意識の中には、一緒に海水浴に行った元気な祖父と祖母のイメージ(とはいえ、その時すでに祖父は91歳、祖母は88歳でしたから、次回帰国の時には、二人とも亡くなっているかもしれないという気持ちもすでにあったと思いますが)があったのでしょう、翌年、祖母が亡くなったことをメールで知らせると、大きなショックを受けた様子のメールが返ってきました。
そして次の年、祖母の死を電話で告げられた努が返した言葉は、
「次はお母さんかあ…」。
その時はみんな、努の言葉をとても唐突な、大げさな言葉として受け止め、
「まったく何言ってんだろうね、努は!」
と、あまりにも飛躍したと思える努の言葉を、ちょっとバカにした感じで受け止めていたのですが、今回戻ってきた努に翔が「次はお母さんかあ…」の受け止め方の話をすると、「お前たちはさあ、いつもそばにいるだろっ。だからわかんないんだよ。ずっと離れていてみろっ。おじいさんが死んで、おばあさんが死んで、次はお母さんかあって、必ず順番考えるから!」
と努は言いました。
努が成田に着いた6月25日には、私の父がかなり悪い状態でした。私の父と努とは血のつながりはないわけですが、成田に着いたその足で私の実家へ寄った努は、疲れを口にすることもなく、父の介護の手伝いをしてくれました。休暇で、身体と心を休めに帰国したはずの努でしたが、私の父が亡くなるまでの10日間というもの、とても積極的に父の介護にかかわり、看取ってくれました。義理とは言え、努にとって「おじいちゃん」と呼べる最後の存在であった父の最期を見届けることで、実の祖父母の死に立ち会えなかったという自分の気持ちの寂しさを、少しでも埋めようとしているようでした。
「せっかく休暇で帰ってきて、楽しい夏休みを過ごそうと思ってたんだろうに、父のことで休暇の半分を使わせちゃって悪かったねえ」
と私が言うと、妻は、
「いいんじゃないの、あの子にとっても。熊谷の父と母の死には立ち会えなかったわけだから。あの子にとって家族として、家族の死に立ち会う経験ができたっていうことは大事な経験だったと思うよ」
と言いました。

ドイツへ帰る前日、努と妻が話をしていました。
「家族っていいよねえ。どんなに離れていても、こうして帰ってくれば無条件で受け入れてくれる。もちろん、僕も受け入れる。そういう関係なんだよね。僕も今まで、そういう関係のものを作ってこなかったけど、やっぱり作りたいなって思うよ」
「ふーん。そんなふうに考えてたんだぁ…」

成田空港で、搭乗者のゲートをくぐった努に、蓮と沙羅が一生懸命手を振っていました。そして努も一生懸命手を振り返していました。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第268回「モンスターペアレント 後編」

親からの理不尽なクレームで学校が困ってしまうパターンには、いくつかのパターンがあるように思います。まず、とにかく自分の子どもがかわいいので、「私の子どもには××させてくれ」あるいは逆に「私の子どもには××させないでくれ」というパターン。次に、子どものことというより、親自身が自分の満足のために学校にクレームをつけるパターン。そしてもう一つは、内容の問題ではなくとにかく学校不信に陥っているため、大したことではないにもかかわらず、まったく学校には相談することも無しに学校を飛び越して、教育委員会などへ激しく抗議をしてしまうパターン。
他にもまだまだ、いろいろなケースがあるとは思いますが、おおむねそんな分類に属するのではないでしょうか。
「悲鳴をあげる学校」(旬報社)の著者の大阪大学大学院人間科学研究科の小野田正利教授は、
「子供がひとつのおもちゃを取り合って、ケンカになる。そんなおもちゃを幼稚園に置かないでほしい」
「自分の子供がけがをして休む。けがをさせた子供も休ませろ」
「親同士の仲が悪いから、子供を別の学級にしてくれ」
「今年は桜の花が美しくない。中学校の教育がおかしいからだ」
などの実例を挙げています。「ほんとかよぁ!」と耳を疑いたくなるような内容ですが、実例と言うことですから驚きです。
最近、給食費未納の問題も大きく報道されました。一昔前は、給食費が未納ということは、経済的に「払うことが困難」という状況で未納になっていたと考えられますが、最近の状況はそれとはまったく違い、どうやら「無理矢理払わされるまでは払わない」という身勝手な親もいるようです。
この連載の中でも、何度も述べてきていますが、最近の親子関係は、非常に近い関係になってきています。毎朝のようにファミリーレストランに朝食に訪れるニートと思われる子どもと母親。いつも一緒に腕を組んで買い物をしている母娘。手をつないで通勤・通学をする父と娘…。本来なら、関係が近いからこそ子どもを叱り、しつけができるという関係であったはずなのに、ここのところの状況は、その近さの質が変わり、子どもを叱り、しつけるどころか、子どもの悪事に対して、それをかばい続ける傾向が顕著になってきています。また、個人主義的傾向の高まりは、子どもに対する親としての責任すら果たさず、自分を守るためなら子どもをも犠牲にする親まで現れてきています。親子関係のまずさから子どもが精神的ダメージを受けているにもかかわらず、自分の対応の悪さはさておき、「子どもが病気」という言い方をする親などがこれに当たるでしょうか。
モンスターペアレント出現の原因を「教師への尊敬の念の薄さ」という人もいます。けれども、それは結果であって原因ではない。前回も少し触れましたが、私はモンスターペアレントの出現の原因の一つは、「自分たちの力では、どうあがいてもどうにもできない人たちの存在」と考えています。小泉内閣誕生以来、格差社会が広がったと指摘されています。弱者は強者に対して無力です。学校も、子どもや親から見ると圧倒的強者。そんな強者に対して「尊敬の念」を持っていたら、とてもじゃないけど、やってられない。一見、一人の教師に向けられているように見えるクレームも、実は教師個人に向けられたものではなく、もっと漠然とした「“教師”という権力」に向けられていると考える方が正しい見方ではないかと思います。もちろん、多種多様なケースがあるので一様ではないと思いますが。
これも再三指摘していますが、もう一つの大きな原因は、間違いなく“地域社会の崩壊”にあります。政治や行政の大きな方向の間違いが、地域のコミュニティを崩壊させてしまった。学校や教師に対する不満は、一旦親同士の中で話され、強い不満を持っていた人の気持ちがやや落ち着いたり薄まったり、あるいは自分と反対の考えの人がいたりすることで、とりあえずある程度消化されたものが学校に届いていた。ところが、地域社会が崩壊したことで、個人vs学校、個人vs教師という構図に変わってしまって、まったく未消化のまま、直接学校や教師にぶつけられるようになった。このことは、とても大きなことだと思います。それは時に、地域の権力の象徴である学校というものに個人で対抗するため、教育委員会というさらに上の権力に向かっていくことになる。
私が思うに、この状況を変えて行くには、信頼関係を回復するしかないと思うのですが、どうも政治や行政が向かっている方向は、まったく逆な方向のようで、学校の問題を弁護士やカウンセラーといった、直接、教育と関わりのない人たちに任せようとしている。実は、学校にはもともとそういうふうに子どもや親たちと向き合うことを嫌う傾向があった。現状を変えて行くには、信頼関係を回復すること。それには、誠実にたくさん話をすることしかありません。それがモンスターペアレントをなくす唯一の方法だと思うのですが…。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第267回「モンスターペアレンツ 前編」

最近、マスコミが頻繁に取り上げている問題に「モンスターペアレント」の問題があります。
「モンスターペアレント」っていうのは、ご存じの通り、“担任教師や学校に対し、自分の子に関する「理不尽な苦情」や「無理難題な要求」を突きつける保護者”(もり・ひろし=新語ウォッチャー)のことです。1ヶ月ほど前、港区教育委員会が保護者のクレームに対応するため、250万円かけ、5人の弁護士と契約したという報道がありました。
それに続いて、つい先日は「文部科学省が本格的な学校支援に乗り出す方針を固め、来年度の予算要求に盛り込みたい考えである」という報道がありました。地域ごとに外部のカウンセラーや弁護士らによる協力体制を確立して、学校にかかる負担を軽減することを検討しようとするもので、各地の教育委員会にも対策強化を求めるとしています。
こうした親の存在というのは、かなり前から指摘されていて、それほど目新しいものではありませんが、安倍内閣の教育改革が進むにつれ、報道が過熱感を増しているように感じます。私も、モンスターペアレント(イチャモン親)や故意に給食費を払わない親など、非常に問題だと感じていますが、最近の流れは、小泉内閣時代の「官から民へ」の流れに逆行するもの(というより、“強者はより強く、弱者はより弱く”という小泉内閣の本質が引き継がれたものと言えなくもないのですが)、まさに揺り戻しというふうにも感じています。
官僚組織への批判は公務員批判となり、教員バッシングへとつながっていきました。私は、ある意味(仕事の内容、民間との賃金格差など)、その流れは正当であると考えていますし、今後もそうあるべきだろうと思います。けれども、その流れによる“利益”が国民の末端にまで行き着く前に、大企業や民間の権力者のところで止まってしまい、流れが逆転してしまったら、大変怖いことです。最近の報道の過熱ぶりは「世の中の強者にとってちょうどいいタイミング」、そんな危惧さえ感じさせます。
産経新聞社がネット上に配信している記事によると、「なぜうちの子が集合写真の真ん中ではないのか」「子供がけがをして学校を休む間、けがをさせた子も休ませろ」「子供から取り上げた携帯電話代を日割りで払えと保護者から毎晩電話がかかり、その日の子供の活動を細かく報告させられた」「(運動会の組み体操をめぐり)なぜうちの子がピラミッドの上でないのか」「体育祭の音がうるさい」などが、親の無理難題として取り上げられています。単純に何の理由もなくこんなクレームが親から寄せられれば、それはもちろん「モンスターペアレント」でしょう。けれども、何も理由がないということは、あまり考えられない。ほとんどの場合、そうなるまでにいきさつがあり、それに対する対応の悪さから、そういう結果になっているとも考えられる。
それを明らかにせず「モンスターペアレント」として、大騒ぎするのはどうも意図的にしか映らない。
「先生の訴訟費用保険加入が急増」という見出しで取り上げられているのは、公務員の訴訟費用保険は、職務に関連した行為が原因で法的トラブルに巻き込まれた際、弁護士費用や損害賠償金などを補償する保険。医療関係者が、個人で保険に加入するというのはよく聞きますが、教員までという感じはします。学校に対する保護者の理不尽な要求が問題となる中で、仕事に関するトラブルで訴えられた場合に弁護士費用などを補償する「訴訟費用保険」に加入する教職員が、東京ではすでに公立校の教職員の3分の1を超す2万1800人に達したんだそうです。都福利厚生事業団が窓口となり平成12年から都職員の加入を募集し、保険料は月700円だそうですから、その加入のし易さから、当然(学校行事などで子どもがケガをしたり、死亡した場合、業務上過失致死傷などに問われ、損害賠償請求される場合もなくはないので)かなとも思います。事業団によると、加入者は教職員が突出して多く、全体の約7割を占めるそうですが、産経新聞の記事でも、「実際に都内で同保険が適用され、弁護士費用などが支払われたケースは過去7年間で約50件といい、不安が先行している面もあるようだ」とまとめています。50件の内訳が学校関係だけによるものなのか、全体でなのかもよくわからりませんからコメントは難しいですが、何が正しいのかきっちり見極める必要はありますよね。
とは言え、私も増えていると感じる「モンスターペアレント」。次回は、親の愚行について考えます。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第266回「曾孫の威力 後編」

7月6日午前4時7分、父は永眠しました。通夜は実家の近くにあるお寺の会館を借りて行うことになりました。これから通夜へ向かうところです。まだ父は、実家にいます。たった今、曾孫の蓮と沙羅が自宅から実家へやってきて、お線香を上げました。

父は第2次大戦当時、海軍甲種飛行予科練習生として、霞ヶ浦の航空隊にいました。今でも毎年、同期の方々の集まりを行っているのですが、今年は6月17日に会津東山温泉で行われました。数年前から歯茎の状態が悪く、形状がどんどん変わってしまうため、入れ歯を何度作り直してもうまく合わなかったこと、目先の具現化された生き甲斐がなかったこと等もあって、「食べる」という「欲」がなくなり、痩せ細り、体力も限界に来ていました。会津までの数時間が果たして耐えられるのか、甚だ疑問ではありましたが、数ヶ月前からそれに参加することを一つの糧として生きてきたという父の状況もあり、全く大げさではなく、それに伴う疲労のための「死」も覚悟で、連れて行きました。

「同期の会」では、精一杯の気力と体力を振り絞って、宴会に参加しました。自分がそこにいることの意味や参加している同期の皆さんのことが果たして理解できているのか・・・、それもよくわかりませんが、すでに亡くなってしまった戦友の皆さんに黙祷し、そして全員で「同期の桜」を歌い出すと、父も精一杯「同期の桜」を歌っていました。

残念ながら、会の皆さんと最後まで同行することはできませんでしたが、一泊して無事帰ってきました。午後1時頃には自宅に戻りましたが、その日の父はいつになく興奮しているようで、普段だと夜9時過ぎくらいには自室に戻り寝てしまうのに、この日ばかりは深夜0時くらいまで起きていて、曾孫と遊んだり、話をしたりしていました。

けれども、やはりそれが引き金となり、とうとう食べることに対する「欲」だけでなく、体力もなくなり、6日に亡くなったのです。

何度か大きな手術は経験しましたが、「俺はどこも悪いところがない」と本人が言うように、確かに病名がつくようなものは一切ありませんでした。しかしそれは、「治療」という範疇のものが一切できないということであり、父の「生」は、父の生きる意欲次第ということでもあります。

会津から帰宅して2日目、体力も限界に来たと判断し、救急車を呼んだこともありましたが、父は断固拒否。「俺はどこも悪くないんだ! やることがないから、ここで寝てるんだ!」と言う父を入院させることはできませんでした。「やることがない」父の、唯一の「やること」が曾孫と食事をし遊ぶことでした。我々がいくら呼んでも部屋から出て来ようとしない父も、
「ひいじいちゃん、ご飯だよ!」
という曾孫の呼びかけにだけは反応し、必ず食卓までやって来ます。もうすでに立つことすらままならなかった死の2日前は、這って食卓までやって来ました。

曾孫たちはそれを見て、「ひいじいちゃん、赤ちゃんみたい!」と言うのですが、それは父をバカにしているのではなく、むしろ、よだれを垂らし、紙おむつをし、悪臭を放っている「ひいじいちゃん」をまったく差別の対象として扱っていないことの表れでした。大人なら、手を触れることすらはばかりたくなるような状態の父に、頬摺りすらするのです。そんな曾孫たちと食事をし、遊ぶこと、それが父の唯一の生への絆だったのです。

7月5日、私と蓮と沙羅で、「七夕飾り」を作りました。蓮は、まだすべてのひらがなが書けるわけではありませんが、「またひこうきとばそうね」と書きました。沙羅は、ひいじいちゃんの絵を一生懸命描きました。大人が声をかけると強く手を振り拒否をするのに、「ひいじいちゃん!」と声をかけながらおでこや頬をツンツンと突っつく曾孫たちには、時に笑顔すら浮かべ、握った手を握り返したりするのです。

死の直前、大人の呼びかけには応えなかった義父が、義父の手をそっと撫でた沙羅に対し、縦に手を振り「よしよし」という仕草をしたのにそっくりだと感じました。人間の生命の継承はこうして行われているんだ、とつくづく感じる瞬間です。

父のいなくなった部屋の時計をじっと見ていた蓮が、
「(ひいじいちゃんは動かなくなっちゃったけど)時計は動いてるね」
と言いました。


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

 

| | | コメント (0)

2022年4月29日 (金)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第265回「曾孫の威力 前編」

一昨年の義父、昨年の義母に続いて、今年は私の実父が危うい状況になってきてしまいました。義父は93歳、義母は90歳。それに比べて父は79歳なのでいかにも早い気がしますが、どうもお酒がたたっているようです。若いころには一升酒は当たり前。多いときには一晩で2升くらい飲んだこともありました。とにかくお酒の好きな父です。
一時、軽い糖尿病を患ったり、腹膜炎を起こしてみぞおちから下腹部まで大きくメスを入れたり、そうかと思うと大腸癌で大腸を30センチほど切除したり…。それでも、お酒はやめませんでした。
「酒が飲めないくらいなら、死んだ方がましだ」
それが父の口癖です。
一昨年の秋、父と母を福島の温泉へ連れて行ったことがありました。参加者は、私と妻、それに孫(父と母にとっては曾孫)の蓮(れん)と沙羅(さら)です。午後3時のチェックインに合わせて宿に到着し、部屋に入るといきなり、
「おい、酒頼んでくれ!」
“いきなりかよぉ”と思いつつもフロントへ電話をかけると、
「申し訳ありません。冷蔵庫のお飲み物の他は、お部屋にはお持ちしておりません。もしよろしければ、おみやげ売り場には冷酒用のお酒も取り揃えてございますので、それをお買い求めいただき、お部屋で召し上がっていただければと思いますが…」
結局、妻がおみやげ売り場で4合瓶の冷酒を買い、それを父に渡すとあっという間に空けてしまいました。2時間ほどして食事になると、さらにお銚子2本を頼み、それもすぐに空。若いころのようには飲めなくなっている上、テンポも速過ぎたのか、他のお客もいる広間で、大の字になって歌まで歌い出す始末。なんとか部屋まで連れ戻しましたが、そこでも大の字になって歌。食事どころではなく、結局、私も妻も何も食べられませんでした。
そんな父ですから、お酒がたたるのも無理はありません。昨年痴呆の傾向が強くなり、市の相談会を訪ねると、
「うーん、アルコール性の脳萎縮症だな」と医師から言われてしまいました。
父に対しては、2つの大きな問題がありました。一つは車の運転。もう一つは、もちろん毎日飲むお酒をどうやめさせるかということでした。けれども、どちらも大きなリスクを伴います。それは、痴呆が進み始め、身体も弱りつつある父から、その二つを取り上げたときに、父の生に対する意欲はどうなるのだろうということです。
昨年秋まで車の運転をしていた父から、車を取り上げるのは至難の業でしたが、父が家の中でキーをなくしてしまったことをきっかけに、車はうまく取り上げられました。毎晩、家の前にある居酒屋でお銚子2本飲んでくる習慣は、誰かれかまわずデジカメを向けてしまうことから他の客とトラブルになったり、お酒が入るとひどくよだれを垂らしたりすることから、お店の方から「お客が減ってしまって」という話をされて、「俺があんなに世話をしてやったのにふざけるな! あんな店にはもう行かん!」とカンカンに怒って、それもなんとかやめさせることができました。
けれども思った通り、その二つのことがなくなってしまった父は、まるで抜け殻のようになってしまいました。社会との関わりの窓口を失ってしまうということは、人間にとっては「生きる」ということそのものを失ってしまうことなのです。
そんな中で、父の「生きる」意欲をかろうじてつないでいるのは、曾孫の存在です。
人間にとって、「生」をつなぐということが、どれほど「生きる」という意欲につながっているのか、そのことを実感する毎日が続いています。

つづく

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第262回「父子家庭の増加」

「おまえ、今どんな生活してんの?」
「ん、オレ? オレはね、息子と二人暮らし。高校生の息子と二人で住んでんだよ。息子ってかわいいよなあ。ほんと、もうかわいくってさあ!」
「!? ほんとに高校生の息子と二人で住んでるの?」
「ん、そうだよ。ずっと。もう10年かな」
「父子家庭?」
「そう」
「なんで?」
「んー、なんでって言われてもなあ…。別れちゃったからさあ。子ども渡すのイヤじゃん。やっぱさあ、育てたいじゃん。オレの子だよ。それに、なんかさあ、奥さん、子ども育てたくなさそうだったんだよなあ。だから、引き取ったんだ。でもね、最近親離れって言うかなあ、そろそろもう大人だろっ。ちょっと寂しいよ。けっこう仲のいい親子なんだぜ」
「へーっ! おまえってさあ、高校時代から変なやつだったけど、ますます変なやつになってるなあ!」
「そう? オレはオレ。昔からそうだったんじゃん。あんまり、変わってねえよ」
今から4年ほど前のことです。20数年ぶりに会った同級生のK君から、一人で息子を育てているという話を聞きました。彼は、高校1年生の時のクラスメイトで、特別仲がいいというほどの関係かと言えば、そういうわけではありませんが、どういうわけか話をしていると、気持ちがスッと通じるところがあると言うか、そんな感じの変な友人です。私は、自分から積極的に“友達を作りにいく”というような性格ではないので、男友達と一緒に何かをしたという経験は皆無なのですが、このK君とだけは、高校1年生の時参加した伊豆大島への地学巡検(火山や地質、地層などの学習のため、地学の授業の一環として1年生の希望者が参加して毎年行われていた学校行事)で、丸3日というもの自由に行動できる時間は、すべて二人で行動していたという経験があります。牧場で牛乳を飲んだり、整髪に使う椿油を買ったり、三原山を二人で駆け下りたり、溶岩の色が反射して真っ赤に染まった雲を眺めたり…。今から30年以上も前のことですが、私はあまりそういう付き合い方をする方ではないだけに、大島で過ごした3日間は今でもよく覚えています。
その頃は、別にそれほど仲がいいというわけではないのに、どうして気持ちが通じるのかよくわかりませんでしたが、父子家庭で長く過ごしているという彼の話を聞いて、「子どもに対する思い」という点で、かなり価値観の近い部分があって、そういうところが私と彼をつなげているんだなあと、えらく納得がいきました。
彼の話は4年前のことですが、昨日(10日)ネットに、「『シングルファーザー』急増のわけ」というタイトルのニュースが流れてきました。総務省のデータによると、幼い子どもを抱える49歳までのシングルファザーは、05年に20万3000人で、00年からの5年間で、1万2000人も増えたそうです。
理由は、離婚が15万7000人、死別2万7000人、未婚1万9000人。もちろん離婚が最も多いわけですが、“未婚の父”がこの5年間で4割以上も増えたそうです。
“未婚の母”っていう言葉はよく使うけれど、“未婚の父”とは…。
シングルファザー支援に取り組む横須賀市議の藤野英明氏は、
「育児放棄が社会問題となっているように、子育てできない女性が増えているのが大きい。私がかかわった共働きの公認会計士とスッチー夫婦は、妻が『子育てにのめり込めない』と言い出したため離婚した。また、男性にも『パートナーはいらないけど、子どもはほしい』という考えが広がっているせいもあるでしょう」と言っているそうです。
私のあまり好きではない本に「父性の復権」なんていうのがあったけれど、近いうちに「母性の復権」なんていう本が登場するかも…。いやいや、もしかして、もうある?
今、ネットで調べたらもうありました! もっとも、「父性の復権」も「母性の復権」も“林道義”著でしたが。
私は、母親が失ってしまった母性を父親が補うのは大いにけっこうと思います。けれども、子どもを一人の人間として扱わず、まるでペットのように扱う母親のように、子どもを一人の人間として扱わず、まるでペットのように扱う父親が増えてしまうことを懸念しています。両親揃って子育てができることに越したことはないけれど、様々な事情で一人親家庭になってしまった場合でも、大人のエゴによって、子どもが不幸になることがないよう子どもの権利をしっかりと守った子育てをしたいものですね。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第261回「父と子」

たった今、東京芸術劇場から戻ったところです。
真(まこと)が初めてプロデュースと演出をしたスーパー・エキセントリック・シアター ジェネレーションギャップvol.1 「NO BOEDER」を観てきました。
「統一か分断か… 第二次大戦後、アメリカとソ連の侵攻により東西に分断された日本。戦後まもなくソ連統治下から独立した東日本は、2007年に建国60周年を迎える。そんな時代に娘は言った。「トウサンハフルイ」父は言った。「オマエハヌルイ」東西統一を主張する娘。分断継続を主張する父。ちょっとだけすれ違ってしまった、親子の物語。」だそうです。
「う~ん、なるほど」
確かにそんな感じのわかりやすいストーリーでした。もちろんおわかりの通り、朝鮮半島問題をもじったものですが、ちょうど折しも国政の世界でもいろいろなことが起きているさなか、「国家評議会議長」「官房長官」「広報宣伝大臣」という役柄は、観ていた人たちも、劇そのものの出来はともかくとして、それなりに興味を持って観られたんじゃないかと思います。初めての演出ということで、ちょっと心配はしていたのですが、“杉野なつ美”さん(広報宣伝大臣の役も好演でした)の脚本にも助けられた上、千秋楽ということもあってか、会場の拍手もとても暖かく、「まあ、よかったなあ」とホッとしました。
確かにシナリオ自体はしっかりしているし、演出もそんなに悪いとは思わなかった。
が、パンフレットのコメントはなんだぁ!


 親父と酒を飲むのが僕の夢です。
 うちの親父は酒が飲めません。
 昔から家事をやっているのは親父でした。
 (多分「主夫」ってやつの先駆けだと思う)
 だから昔気質の親父ってのを知りません。
 もしかしたらこの作品はそんな親父像への憧れかもしれません。

 本日はご来場頂きありがとうございます。
 観劇後、ちょっとだけ家族のことを
 思い出してもらえたら幸いです…
 どうぞごゆっくりお楽しみください。

 あ、酒飲めないのは僕もでした…夢叶わず…


今年30歳にもなるのに、親を越えてなーい!
劇に出てくる小学校が「さいたま市立…」であったり、待ち合わせの場所が蕨駅であったり…。
「初めての演出作品がこれ?」
そろそろ、そんなところからは抜け出てほしいと思うのですが…。
昨日、真から電話があり「最近TVの取材を受けてて、終わったあと親のコメントがほしいって言われてるんで、終わったあとほんのちょっとでいいんだけど、残っててくれる?」
なんで親?とは思いましたが、「あっ、そう」
そしてついさっきのインタビュー(どうもTVではないみたいだけど、とりあえずTVカメラみたいなものを向けられましたが)では、
「クライマックスが、父親が死んで『おとうさん、起きてよ。起きてよ、おとうさん!』っていうのはどうかなあ…。まあ一般受けはするかもしれないけれど、子どもは親を越えていかなくちゃいけないんだから、次に創る劇は、親を踏みつけても乗り越えて成長していくっていうサクセスストーリーかなんかにしてほしいですね」
と答えておきました。

つい先日、読売新聞のコラムに、「『王子の育て方』 斎藤家・石川家共著」というのが、出ていました。早稲田大学野球部の「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹君、国内男子プロゴルフツアーで史上最年少優勝を果たした「はにかみ王子」こと石川遼君のことを題材にしたジョークです。
ここのところマスコミは、すっかり「親子(特に父子)」ブーム。特にスポーツ界では宮里、横峰、亀田等々、有名なスポーツ選手の育て方や父親を取り上げています。その影響で、第2の宮里、横峰、亀田を目指して夢中になっている父親も少なくないのでは…? けれどもそれは、スポーツ界だけをとってみても稀の稀。うまく育たず潰れてしまうのが落ちです。
もちろん、今のスポーツ界で有名になっている親子関係はある意味では成功でしょう。けれども、それは非常に特殊な世界での、さらに特殊なことであって、すべての家庭での子育てに当てはまるわけではありません。「親に育てられた子」というのが、どうやって「親を乗り越える」のか…。
どの子も思春期があり、反抗期があり、親と対抗することで、一つの成長を遂げます。「親に育てられた子」には、それがない。これは、スポーツの世界ばかりでなく、受験競争の世界にも言えることです。ずっと親の庇護の下で育っていった子どもたちは、いったいどんな人間になってしまうのか…。
ニートや引きこもりといった子どもたち、また大きな事件を引き起こしてしまう子どもたち…。子育ての大きな方向を見誤らぬよう、マスコミに踊らされるのではなく、一人の人間として自立できる子育てをしたいものですね。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第260回「会津 母親惨殺事件について思うこと」

ここのところ毎日のようにニュースを賑わしているのは、殺人事件。その中でも、とりわけ私たちに大きな衝撃を与えたのは、5月15日未明に会津若松市で起こった、17歳の少年による母親惨殺事件でしょう。
「母親殺し」というだけでも、私たちに充分なショックを与えるのに、母親の首を黒いショルダーバッグに入れ、警察署に自首をしたという事実は、私たち子どもを持つ親にとっては、身の毛がよだつような衝撃を与えました。
私がこの事件を知ったのは、インターネット上に配信される文字だけのニュースでした。「“母を殺した”17歳少年が生首を持って出頭」といったニュースの見出しを見ても、文字だけ、特にネット上に流れる文字だけというのは、次から次へと流れて去っていく情報に、あまり大きく心を動かしません。とはいえ、私にとって「文字だけ」ではあったにしても、それなりのインパクトのある事件ではありましたが、その後のテレビのニュースを見たときの印象というものは、インターネット上での文字とは、比べものにならないものがありました。
私がテレビでニュースを見たのは夕方で、すでに第一報ではありません。当然、マスコミには多くの情報が寄せられ、「殺害後の少年の異常行動」として、「インターネットカフェでDVDを観た」「タクシーに乗って出頭」「黒いショルダーバッグに母親の頭部を入れて…」というようなことが伝えられ、少年が出頭したという会津若松署の玄関の映像や少年の通う高校の記者会見の様子、少年を知る近所の人たちのコメントなどが、どの放送局からも流れていました。
「生首」を持っての自首ですから、事件の状況は、警察の記者会見などを通じて、早い段階からある程度明らかになります。事件の状況が詳しくわかればわかるほど、事件の凄惨さとは対照的に、少年の行動の冷静さが際立ってきます。マスコミにより「異常行動」という報道のされ方をした「インターネットカフェ」や「タクシー」のことも、私には異常とは感じられず、母親を殺して首を切断したあとの人間の行動としては、この少年の人間像からすると「普通の行動」だったように感じます。「わぁー」と冷静さを失い、衝動的に人を殺したというようなこととは違い、今回のように冷静さの中で進んでいった殺人の場合、自首をするという行動を考えるなら、高揚した気持ちを一旦収めるための時間的、空間的余裕というものが、少年には必要であったのだろうと思います。
この事件の内容とは別に、とても気になったことがありました。それは、少年の通っていた高校の会見です。
こういう状況下での会見は、その学校の持っている本質を非常によく表します。今回の記者会見は、学校側があまりにも冷静で、とても冷たいものを感じました。当然のことながら、記者の質問は編集で切られているので、具体的にどんな質問をされているのかはわかりませんが、学校の発言は、あまりにも「事件を起こした」ということに沿った内容になっており、しかもとても簡単に少年の学校での行動が公開されていく。個人情報にはうるさくなった世の中にもかかわらず…。
「普段はおとなしく、一人でいることを好んでいるようだった」「国公立大学の理系学部を志望」「科学部に所属していたが活動にはまったく参加していなかった」「昨年9月の修学旅行は、出発当日、少年本人から体調不良を理由に参加しないという連絡があった」「2年生の9月以降の欠席は計20日間。今年度に入って4月以降、登校したのは始業日の9日から5日間」。
私には、テレビから流れる会見の様子が、まるで教室にいる生徒たちにその日の連絡事項を伝えるホームルームのように見えました。

「ここの学校は、自校の生徒をこんなふうに扱っているんだ!?」

まだ事件の概要しかつかめず、具体的なことは何一つはっきりしていないわけだから、こういう時の学校の発言というのは、言葉を選び、少年のプライバシーに配慮をしたものでなくてはならないはずです。それがどう聞いても、ワイドショーや週刊誌の興味を奮い立たせるような内容にしかなっていない。警察の詳しい取り調べもこれからなわけだから、
「わが校の生徒が世間をお騒がせいたしましたこと、大変申し訳ございません」
それ以上のことは、「ただ今、警察での取調中ですので、全面的に警察に協力させていただきます」
せいぜいそんなところではないかと思います。
まさか事件の原因のすべてが学校にあるなどという言い方をするつもりはないけれど、もし事件の原因の一端が「少年の孤独」という部分にあるとすれば、学校のこうした姿勢にも責任はあるように思います。
少年は「特殊で変な子」という言い方の高校に対して、少年を知る近所の人たちが、口を揃えて「いい子ですよ」と言うのが印象的でした。
この事件は、「特殊な事件」ではなく、誰の身近にも起こりうる「普通の事件」なのかもしれません。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第259回「再び、赤ちゃんポスト」

毎週日曜日になると、どんな話題を取り上げようかと迷います。基本的に、月曜日の朝8時半までに原稿をテキストファイルで商工会議所の担当者の方にお送りしているのですが、何らかの事情で遅れてしまう(ある時は外出先で電波の状態が悪く送信できなかったり、ある時はメールに原稿のファイルを添付し忘れたり…ということがこれまでにもあったんですけど)と穴があいてしまうことになるので、極力入稿の遅れだけはしないようにしています。以前に「一週間前に送ってほしい」(来週の分を今週に)というお話もあったのですが、毎週の連載エッセイという性質上、話題はできるだけタイムリーにと思い、結局、月曜日の入稿直前に原稿を仕上げることにしています。
ここのところ、取り上げたいことがたくさんあり過ぎて困ります。その都度取り上げてはきているつもりですが、教育改革、代理出産、離婚後300日問題、少年犯罪、いじめ・不登校、子どものうつ、子どもの自殺、子どもの虐待、赤ちゃんポスト…。
明るい話題がないことがとても残念です。本来なら一つ一つを丁寧に取り上げ、数回にわたって述べた方がいいのかもしれないのですが、そういう余裕もないくらい様々なことが起こります。ここ数日でも、赤ちゃんポストへの3歳児の遺棄、母親殺害事件。それと時を同じくして教育改革関連3法案が衆議院を通過したのも何かの巡り合わせでしょうか。
母親殺害事件にも触れてみたいのですが、まだ事件の概要がはっきりしてこないので、あらためて。
今日は再び、赤ちゃんポスト。
赤ちゃんポストへの3歳児の遺棄は、慈恵病院にとっても想定外のことだったようですが、この程度のことが想定外であったということが、そもそも問題なのだろうと思います。私は、この連載の第248回で『ポストがなければ捨てられないのに、ポストがあるから捨てられるということは起こるでしょう。それを「ポストのせいだ」と証明するのは難しいことですけれど。慈恵病院は「ポストがなければ、この子は死んでいたかもしれない」というような言い方をして、ポストに入れられる子が多ければ多いほど、ポストの正当性を主張するのだろうと思います。ポストがなかったら、捨てられないですんでいたかもしれない赤ちゃんなのに…。』と述べました。3歳児というのは、この時点での私にとってもちょっと「想定外」ではあったのですが、今回の件は、「ポストがなければ捨てられない」というのは、ほぼ間違いなかったのではないかと思います。そして、“言葉をしゃべれる”3歳児であったために、「ポストがなければ、死んでいたかもしれない」といういかにも正当なような慈恵病院の主張もできませんでした。
もちろん「育てられないと思っている両親に育てられることが幸せか」という議論はあるでしょう。けれどもそれでは、「両親に捨てられて育ったということが幸せか」ということになってしまいます。
私たちが考えなくてはいけないのは、「両親の元で育てられるような環境を社会がどう提供するか」ということです。私は、どこまでもどこまでもそういう方向で努力をすること以外に、社会の取るべき道はないと考えています。「それでは死んでいく子どもは救えない」という人がいるかもしれませんが、だからといって「子どもを棄てる」という行為が正当化されるわけではないのです。「子どもを死なせない努力」というのは結局のところ「子どもを棄てさせない努力」なのです。だとすれば、「棄てる場所」が必要なわけはありません。
ドイツで暮らしている息子が6月か7月に一時帰国することになっています。ドイツでは「赤ちゃんポスト」が社会的にどう見られているのかを聞いてみようとは思いますが、先日見たテレビの報道は、慈恵病院の認可の前の報道とはかなり隔たりのあるものだったのに、びっくりしました。認可前には、ドイツではあたかも赤ちゃんポストが社会的に受け入れられているような報道(慈恵病院の会見での内容がそうなっていたということかもしれませんが)が先行していましたが、3歳児がポストに入れられてからのドイツでの街頭インタビューでは、設置自体を知っている人がほとんどおらず、しかも設置についての意見も賛成、反対で2分しているようでした。さらに、ポスト設置を周知させるためのキャンペーンを賛成派のグループが企画したところ、遺棄を助長するということでキャンペーン自体が中止に追い込まれたという報道もありました。
どちらが正しいのか息子によく聞いてみようとは思います。まあ、ドイツの状況がどうであれ、私の考えが変わるわけではないのですが…。
安易に救いの手を差しのべることで、生まれなくてもすむ不幸な子どもたちを増やすのではなく、本来私たちが行わなければならない救いの手を差しのべて、一人でも不幸な境遇に置かれる子どもたちを減らしたいものです。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第258回「花を愛する心、虫を愛する心」

先日、車で出かけたときのこと。
赤信号で停車すると、ちょうど止まったところのお宅のフェンスに、プランターがたくさんかけてありました。
「ここのお宅って、季節に合わせていつもいろいろな花が飾ってあるよなあ」
けっこう頻繁に通る道なので、花が飾ってあるのを知らなかったわけではありませんが、信号が青だとスーッと通過してしまうだけなので、この日のようにちょうど赤信号で花の前で止まったりしない限り、なかなか花が飾ってあるということに意識がいきません。けれども、かけてあるプランターの数も一つ二つではないので、花が飾ってあるということに意識がいきさえすれば、
「へえ、きれいだなあ」
「ずいぶんたくさん花が飾ってあるなあ」
というふうに、花にかなり強い印象を受けます。
この日はしっかりと花に意識がいったので、かなり丁寧に一つ一つのプランターを眺めることに。
すると、プランターに貼り紙がしてあることに気付きました。
『花を持っていかないでください。ここの花を勝手に持っていくのは犯罪です』
と書いてあります。たくさんかけてあるプランターのきれいな花たちとは、似つかわしくない言葉です。「きれいだなあ」という感情が急に萎えて、しらけた気分になってしまいました。
「なんでこんな貼り紙するんだろう? せっかく花を飾ってるんだから、こんな貼り紙やめればいいのに…」
一旦はそういう感情が湧いてきて、そのお宅のことを非難するような気持ちになったのですが、その貼り紙をするまでのそのお宅の苦悩というか、苦労というか、そういったものが少なからず見えてきて、今度は花を持っていってしまう「花泥棒」に対する憤りを強く感じるようになりました。

陶芸教室で会員の皆さんとお茶を飲んでいるとき、「門の前に飾った鉢植えの花が3回も持っていかれてしまった」という話が出たことがありました。
「1回ならともかく、2回も3回もなくなるってことはね、ただの通りすがりの人っていうより、近くに住んでる人だと思うのよね。まったく許せない! 人の心っていったいどうなっちゃったんでしょう。盗んだ花を自分の家に飾って、気分いいわけないと思うんだけど。いったいどういう気持ちなんだろっ!」
「私も持っていかれたことあるよ。それもプランター。どうやって持っていっちゃうのかしらねえ。まさか歩きの人じゃないでしょ、あんなもん持って歩けないもん。車のトランクにでも乗せてっちゃうのかしらねえ。それも昼間なんだから、びっくり!」

ゴールデンウィークの見沼自然公園でのこと。
広い公園を、ずっと奥の方まで散歩していくと、演歌が流れてきました。
「なんでこんな公園で演歌なんか流してるんだろ? なんか全然合ってないよね」
もっと奥まで歩いていくとその音量は、どんどん大きくなっていきます。演歌の流れてくる方向に目をやると、どうも公園の敷地の中ではなく、公園に隣接している洋ラン販売のハウスから聞こえてきます。その音量といったら半端じゃない。話をするのにも不自由を感じるくらいの騒音。よく見ると、大きなスピーカーが二つ、しっかりと公園の方に向けられています。公園に来た人に注目をしてもらうための宣伝のつもりらしいのです。
「こんな大きな音で、しかも演歌なんて流して、宣伝になると思ってるのかねえ?」
「洋ラン」というイメージからはほど遠いその雰囲気に驚くと同時に、「花を育て、花を飾るという心」はどこに行ってしまったんだろうと思いました。
公園をさらに奥まで行くと、今度は5、6人で夢中になって土を掘り返している家族を見かけました。おおよそ20坪くらいの広さが掘り起こされていたでしょうか。それぞれの手に園芸用のスコップを持って、どんどん掘り起こしているので、最初何をしているのかわかりませんでしたが、どうやらカブトの幼虫を採っているようなのです。しかも、一番夢中になって掘っているのは子どもではなく、お父さんとお母さん。公園という公共の場所で、果たして許される行為なのか/…。そんなことまったく考えていないんでしょうね。
大人が子どもたちに伝えなくてはならないのは、「花がある」「カブトを飼っている」という単純な「状態」ではなく、「花やカブトを飼ったときの安らかな心」であったり、「自然を愛する心」であったりするはずなのに、そういった心はすっかりどこかに行ってしまって、残ったものは人の傲慢な欲だけになってしまったように感じました。

教育再生に一番必要なのは、競争心を煽ることでも、大人から子どもへのしつけでも、ましてや国家から国民への価値観の押しつけでもなく、「人としての優しさ」の大切さを子どもたちに伝えることです。無駄な税金を使って「子守歌を聞かせ、母乳で育児」などという笑っちゃうような提言を国民に押しつける前に、大人が「人としての優しさ」を取り戻せるよう、政策らしい政策を打ち出してもらいたいものです。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

 

| | | コメント (0)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第257回「人、人、人のゴールデンウィーク」

やってきましたゴールデンウィーク!
カウンセリングはもちろん、陶芸教室も祝祭日しか休みがないので、ゴールデンウィークは数少ない連休です。お盆と年末年始は一応連休にはしてありますが、お盆と年末年始というのは、仕事は休みとはいえ、実家に顔を出して、墓参りに行かなきゃいけない、年末年始のあいさつをしなくちゃいけない、年賀状は書かなくちゃいけない、と決まった“お仕事”があるので、実際休みといった実感がない。そういう意味では、私にとっての連休というのは、一年で唯一、ゴールデンウィークなんです。
昨年までは、5月3日の憲法記念日が、義母の誕生日ということもあって、義母を連れて県北のあまり混むことのない観光地(昨年は、本庄市児玉町にある長泉寺の「骨波田の藤」を見てきました)をウロウロとしていたのですが、義母が亡くなった今年は、孫を連れてさいたま市周辺をウロウロ。潮干狩りにも出かけました。
妻の方の両親の介護がなくなったと思ったら、そろそろ私の方の両親の介護が必要となり、ここのところずっと私の実家に泊まりっぱなしなんですが、昼間はなんとか孫と遊ぶことができました。
5月3日は、岩槻方面へ「カエル取り」、そしてそのあと見沼自然公園へ。4日は富津へ潮干狩り。5日は再びさいたま市、大崎公園へ。ざっと、こんな具合。
いやぁ、何年ぶりかで人混みの中で過ごしたゴールデンウィーク。
3日は人混みを避けていたので、「ゴールデンウィークだってこんなもんだよ」と高をくくっていたのですが、4日の潮干狩りは半端じゃない。「これでほんとの行き着くの?」って感じ。インターネットで調べたら、正午前が干潮のピークだっていうことだったので、9時過ぎくらいに富津に着くように出かけて、潮が引き始めたらすぐ潮を追うように海に入って、潮が引ききったあたりで、帰ってくる。まあ、そんな予定でした。ところが、実家に泊まっていることもあり、どうも予定通りに事が運ばない。熊手やビーチサンダルはもちろん、着替えの用意も持たなければならないので、一旦自宅に戻り、結局自宅を出たのが8時近くになってしまいました。当初の予定では、7時くらいに出る予定だったので、この時点ですでに1時間遅れ。これが大誤算で、首都高から大渋滞。高速川口線に入った途端、「葛西まで断続27キロ」の文字。完全に止まってしまうということはほとんどなく、なんとかそこは1時間ちょっとでクリアしたものの、京葉道路に入るところで、「穴川まで4キロ80分」の文字。
「これじゃあ干潮の間に着けないかも…」
仕方なく、京葉道路をあえて通り過ぎ、千葉北インターから一般道に出て、大きく迂回しもう一度高速道路に入り直すということに。それでも、さらにその先の館山道まで渋滞は続き、朝食を食べるつもりだった市原のサービスエリアには混雑で入ることもできず、結局富津まで直行ということになってしまいました。
潮干狩り場のトイレはいっぱいで汚いだろうと予測して、手前のコンビニに入りましたが、そこもでもトイレを待つ人がかなりいて、なんとか孫たちをトイレには入れたものの、かなりのタイムロス。
さらにさらに、「ぎりぎり干潮には間に合った!」と思いきや、潮干狩り場の手前1キロくらいのところから、駐車場に入る車の大行列。
もちろん、潮干狩り場もすごい人でした。駐車場から眺めた海は、人でいっぱい。まったく砂なんて見えません。遠くから眺めていると、蜂の巣の中で働き蜂が折り重なってウジョウジョと動いている光景を思い出しました。それでもなんとか潮干狩りはできたのですが、2時過ぎくらいには帰ってくる予定が、帰りも渋滞で、とうとう7時になってしまいました。
5日の大崎公園も、農業祭でかなりの人出。孫たちが大好きな遊具には小学生が群がり、幼児が遊べるような状況ではありません。そんな中でも、起震車の体験をし、白バイにまたがり、消防車のホースを握り、それなりに楽しい時間を過ごして帰ってきました。かなり長い間、「混雑するゴールデンウィーク」というのを経験していなかったので、「いつもみんなこんな体験をしていたんだぁ」と今さらながら、感心(?)しました。
妻が、
「潮干狩りに行ったときも、大崎公園でも感じたんだけど、子どもたちは別として、どの家族もみんな大人は楽しそうな顔してないね」
と言いました。そう言われてみると、確かに私たちが最近いろいろな行楽地で出逢う大人の人たちと比べて、楽しそうではないように感じます。
「たぶんね、最近行楽地で見かけるのは、リタイアした夫婦がほとんどでしょ。そういう人たちは、旅行を楽しみにきているっていう感じなんだろうけど、ゴールデンウィークのお父さんやお母さんたちにとっては、家族サービスっていう仕事なんだよ、きっと。ほんとは家でのんびりしたいんだろうけど、“ゴールデンウィークくらいは”って、人混みと戦ってるんじゃないのかなあ」
そんな話をしながらそれなりに人混みを楽しんで過ごしたゴールデンウィークでした。


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

| | | コメント (0)

« 2022年3月 | トップページ | 2022年5月 »