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2022年2月 1日 (火)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第245回「いじめ加害者の自殺」

とうとう加害少年が自殺してしまいました。今回の千葉県での中学2年生の自殺は、いじめの加害者として指導を受けた翌日の事件で、前日の指導が引き金になっているのではないかと見られています。
報道によると、自殺した少年は、普段いじめられていたといい、今回初めていじめる側に回ったとされています。同級生の男子は、自分の母親に「まじめないい子。彼もいじめられ、ストレスになっていたのでは」と話しているとのこと。倒れていた生徒の脇には「ごめんね」などと書かれたノートが落ちていたんだそうです。しかも、ノートには被害生徒の名前もあり、男子生徒が謝罪の気持ちを記したのではないか、と…。
自殺した場所は、被害生徒の住むマンションでした。自殺した少年にとって、いじめに加わったことが大きな心の重荷になっていたのでしょう。今回の事件は、亡くなったお子さんのご家族だけでなく、いじめの被害者になった子どもとその家族、他の加害生徒とその家族、そしていじめの指導に当たった先生たちなど、すべての立場の人間にとても大きく、深い傷を残してしまったように思います。自殺した生徒の担任で40歳代の女性教諭は、ショックで寝込んでおり、事情を聞ける状態ではないのだそうです。お気の毒なことです。前日の指導に行き過ぎがなかったか、市教委などが事情聴取を行っているようですが、亡くなった少年が、死を選んだのですから、それがどんな内容の指導であったとしても、その子にとっては、自殺をするくらいの「行き過ぎた指導」であったことは明らかです。ただ、それが指導をした教員の責任であるかというと、それもまた違います。
問題なのは、どんな指導をしたかではなく、教育再生会議が盛んに主張している「いじめる側の生徒に対する毅然とした指導」、つまり「いじめる側といじめられる側という区別をして、いじめる側を指導する」という行為であり、その区別が存在する限り、今回のような事件は今後も起こり得ると言えます。「毅然とした」ということに、すべて反対なわけではありませんが、それが「体罰(出席停止とか別室で指導とかいうことに強制力を持たせるようなことも含めて)を伴う厳罰化」を意味するものであるのであれば、それは今回の事件のような引き金になるだけで、いじめの本質的な解決や、自殺の防止につながるとは、到底考えられません。
マスコミをはじめ、いろいろなところで語られている「いじめる子もいじめられていた」とか「いじめる子も、いついじめられる側に回るかわからない」とか、またその逆に「いじめられている子も、いついじめる側に回るかわからない」などの見解も、それはその通りでしょう。けれども、もっと重要なのは、「いじめる側になる可能性」や「いじめられる側になる可能性」ではなく、いじめている子が、なぜいじめるのか(他人をいじめるという行為に走るのか)という点を突き止め、解決することです。
いじめは、いじめを引き起こす原因をなくせない限り、続きます。いじめた子に対し厳しい指導をし、その子がいじめを止めたとしても、いじめを引き起こす原因が解決されていなければ、今度は別な子がいじめをするだけで、なんの解決にもなりません。
いじめた子に対する指導というのは、指導する側にとって非常にわかりやすく、周りに対しても「指導をした」ということが明確になるので、説得力を持ちます。しかも一時的には、いじめた子どもたちもおとなしくなるので、効果があったようにも見えたりしますが、実は見えないところでいじめが起こっていたり、いじめのない状況が長続きするとは言えません。いじめている子どもたちに対する心のケア(どうしていじめたくなるのか)の部分を先送りしたのでは、いじめに対し対策を講じたことにはならないのです。しかも、全体像を見ずして指導をすれば、今回のような加害生徒の自殺という最悪の結果を招きかねません。
今、大人に必要なのは、「いじめる」「いじめられる」の区別ではなく、「いじめられる側」も「いじめる側」も、「大人が作り出した社会構造の中での被害者である」という、子どもに対する優しさや思いやりです。
今回の千葉県の事件で、実際にどのような指導が行われたかは、定かではありません。けれども、それは加害生徒に対する指導の強化という政治的な動きの中で、学校がとった対応であり、学校や指導に関わった教員の問題ではありません。
学齢期に達していないような小さな子どもたちを見ていると、子どもたちの持っている純粋さが伝わってきます。その純粋さを失わせ、「いじめる子」「いじめられる子」の区別を作ってしまっているのは誰なのか、私たちはもう一度深く考えなければなりません。われわれ大人が自分たちの行ってきたことに対する責任を子どもたちに転嫁し、叱り、指導するのではなく、われわれ大人の責任として大人の中で解決していく必要があるのではないでしょうか。子どもたちは、どんな子どもたちも被害者なのです。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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