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2022年2月

2022年2月 1日 (火)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第248回「赤ちゃんポスト」

熊本市の慈恵病院が、「赤ちゃんポスト」の設置を市に申請している問題で、厚生労働省は、市に対し「医療法や児童福祉法などに違反しない」として設置を認める見解を示したそうです。
厚労省の辻哲夫事務次官は22日の定例会見で、「赤ちゃんの遺棄はあってはならないが、遺棄されて死亡するという事件が現実にある。今回は十分な配慮がなされてポストがつくられれば、認めないという理由はない」と述べたということです。
刑法施行当時のことから考えると、「子どもを捨てる」ということは想定内、「子どもを捨てさせる」ということは想定外ということだったのでしょう。だから、「捨てる」という行為は罰せられても、慈恵病院の行為のように「救う」ということが前提の「捨てさせる」という行為に対しては認めない理由がないと…。
そうは言っても、専門家の中には、保護責任者遺棄幇助に当たると考える人たちもいるようです。子どもの捨て場所を作るという行為が、「救う」なのか、「捨てさせる」なのか、いずれ法の場で裁かれることになるかもしれません。
多くの赤ちゃんポストが設置されているドイツがよく引き合いに出されますが、歴史も宗教観も違うところを単純に引き合いに出すことは、どうかと思います。
テレビを見ていると、この問題について、ニュースキャスターやコメンテーターが、様々な意見を言っています。おおかたの意見は、「反対だけれど、捨てられて死んでしまう子どもを救うためって言われると…。難しい問題ですね」というような感じでしょうか。
賛成という人たちの考え方というのは、「ポストの設置によって一人でも赤ちゃんが救えるのなら」ということでしょう。そして反対という人たちの気持ちの中にも、「遺棄を助長するから」という気持ちはあるけれど、「死んでしまうよりはまだましかも」という迷いがある、「じゃあ遺棄されて死んじゃってもいいの?!」と言われると、なかなか有効な手段が提示できないだけに、「絶対反対」とは言いづらい。
私は、こういった議論の中に、決定的に欠けていることがあると思います。それは、「子どもが死んでしまうような遺棄の仕方をする人が、わざわざポストまで行って子どもをそこに入れるのか」という議論です。これまでの赤ちゃんの遺棄事件を考えたとき、「もしポストがあったら救えた」というような事例があったでしょうか。いくら考えても、押し入れの中の段ボールに生まれたばかりの赤ちゃんを入れてしまうような人や道端に赤ちゃんを放置してしまうような人たちが、果たしてポストまで赤ちゃんを入れに行くのか、という疑問にぶつかってしまいます。
「捨てる側」と「救う側」の意識のずれは、相当大きなものなのではないか…。
赤ちゃんが死んでしまうような捨て方をする人たちの中に、「子どもを助けて!」という叫びがあるのだろうか、と疑問を抱かずにはいられません。
おそらく、今回のポスト設置で、殺される子どもたちは減りません。私が懸念しているのは、むしろ「赤ちゃんをポストに捨てる」ということを国が認めるということで、命を軽んじる風潮が広がり、殺される子どもが増えるかもしれないということです。多くの人が心配しているように、ポストがなければ捨てられないのに、ポストがあるから捨てられるということは起こるでしょう。それを「ポストのせいだ」と証明するのは難しいことですけれど。慈恵病院は「ポストがなければ、この子は死んでいたかもしれない」というような言い方をして、ポストに入れられる子が多ければ多いほど、ポストの正当性を主張するのだろうと思います。ポストがなかったら、捨てられないですんでいたかもしれない赤ちゃんなのに…。以前、病院やお寺の前などに子どもが置き去りにされるということがよくあった。もしかすると、子どもが死んでしまうかもしれない、でも死なせたくない、そういう葛藤の中で、子どもが生き延びられる可能性が高いところを選んで遺棄した。そこには、「子どもが死んでしまうかもしれない」という遺棄に対する歯止めがあった。絶対死なないとわかっていたら、かなり遺棄はたやすくなる。
子どもは、「社会のもの」、「地域や国の宝」という考え方があります。私もそれには賛成です。子どもは夫婦が育てるというより、国民すべての総掛かりで育てるといった方が正しいのだろうと思います。けれどもそれは、子育てのすべてを地域や国といった社会が負うという意味ではありません。子育ての責任を負っているのは、当然のことながらまず第一に両親です。親が親として子どもを育てられるよう援助していく、それが政治や行政や国民すべてに負わされた負担だと考えるべきです。
ポストの設置によって守られるのは、いったい誰の権利なのか。一見、「死から子どもを守っている」ように見えるけれど、仮にポストで子どもを死から守れた(私はそう考えませんが)としても、やはり犠牲になっているのは子どもに他ならないのです。結局保護されるのは、親の無責任とエゴだけです。
社会全体に、「辛くて苦しいことはイヤ!」という風潮が蔓延している現在、また一つ「大人が楽をする」という流れを作ってしまうことがとても心配です。親が親としての責任をしっかり背負って、それでも楽しく子育てができるよう援助をするのが、あらゆる社会資源の責任。対処療法的スタンドプレイに走るのではなく、遺棄される子どもを守るために、もっと子どもの立場に立った、地に足の付いた援助の仕方を真剣に考えるべきだろうと思います。赤ちゃんポストの設置以外に子どもの命を救う方法がないというほど、日本の子育てに対する支援がやり尽くされているとは、到底思えないのですが…。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第247回「穏やかな春の風景」

「麻耶(まや)に電話してよ。こんな日のこんな時間に来たってダメだと思ったよ。この車の列。20台くらい並んでるでしょ?」
妻が助手席で麻耶の携帯に電話をしました。
「駐車場に入るのに凄い車の列だけど、どうする? 今、列のところを通過しちゃったんだけど、どうしてもグリーンセンターがよければ、戻るよ」
妻の携帯から時折漏れる麻耶の声は、別にグリーンセンターに固執しているわけではない様子。携帯電話での妻と麻耶の会話に聞き耳を立てながら、ゆっくりと車を走らせ、グリーンセンターから離れました。
「麻耶はどこでもいいってよ。列に並んでまで、グリーセンターでスケートにこだわってないって」
2月12日の振り替え休日、笠間での穴窯焼成(第246回参照)に5日間を見ていたのが、たまたま温度上昇がうまくいき、4日間で済んだために生まれた私の休日。孫の蓮(れん)と沙羅(さら)が、アイススケートをやりたがったので、川口グリーンセンターに向かいました。グリーンセンターでのスケートは、未就学児の入場には、原則子ども一人に対し、大人一人の付添が必要です。前回初めてスケートのためにグリーンセンターを訪れたとき、麻耶が一人で蓮と沙羅を連れてきてしまったので、入場してから(原則は子ども一人に大人一人ということになってはいるらしいのですが、このときは何も言われずに入場はできたんだそうです)わざわざ翔(かける)を呼んだということがあったので、めずらしく私と妻そして翔までが一緒に出かけられたこの日は、麻耶一人では連れて行くことができないグリーンセンターでのスケートということになったのです。
「蓮くん、沙羅ちゃん、グリーンセンターは混んでるから、今日は大崎公園(さいたま市(旧浦和)郊外の市立公園)に行ってみよう!」
「うん!」
蓮と沙羅の元気な返事が、後ろの座席から返ってきました。暖冬のためか、すでにいろいろな花が楽しめる今年は、遊具有り、花有りのグリーンセンターのようなところは、小さい子ども連れから年配の人たちまでもが押し寄せるので、混んでいるのは当たり前。ちょっと見通しが甘かったようでした。
妻は、大崎公園も混んでいるのではと心配していましたが、さすがにグリーンセンターとは違い、すぐに車も止めることができました。
蓮と沙羅のお目当ては、有料の遊具。真っ先に二人乗りの足こぎのモノレールとバッテリカーのところへ向かいます。たまたま足こぎのモノレールには列がなく、すぐに乗ることができました。
「バッテリーカーは、どこに並ぶのかなあ?」
「並ばなくてもいいみたいよ。ほら、あの子みたいに自分の乗りたいやつを狙ってて、空いたら急いで走っていって乗ればいいみたい」
「取りっこになっちゃたりしないように、列を作った方がいいんじゃないの?」
「それほど混んでるって判断してないんじゃないの、係のおじいさんたち。待ってる子のことは気にしないで、乗ってる子たちに注意がいってるもん」
シルバーの人たちが整理に当たっていましたが、周りで待っている子どもたちにはまったく意識がいっていない様子。でも、しばらく見ていても、取りっこになっている様子もなく、みんな適当にそれぞれが目指す車に乗っています。パトカー有り、消防車有り、二輪車有り…。ここの周りで子どもに付き添っているのは、お父さんが多いのですが、どうやらお父さんたちが取りっこにならないよう、子どもの気持ちをうまく抑えているようなのです。
「たっくん、ほら待ってる人がいるんだから、早くどいてあげようね」
「マーちゃん、あの車はあの子が乗りたいんだよ。こっちの車に乗ろうね」
まったく大人の怒鳴り声もなく、子どものぐずる声もなく…。
バッテリーカーに何度も何度も乗ったあとは、隣の遊具へ。ジャングルジム有り、滑り台有りの遊具です。私がベンチに座って、子どもたちの遊ぶ様子を見ていると、
自分の子どもがケガをしないように見ているお父さん、お母さんたちが、ここでも他の子どもたちに気を遣って、
「順番だよ。一度やったら、後ろに並ぼうね」
「小さい子がそばにいるんだから、乱暴に遊んじゃダメだよ」
と自分の子どもに注意を与えていました。
「最近の若い親」という言われ方をしている若いお父さんやお母さんたち。いやいや、とんでもない。一生懸命いい子育てしてるじゃないの。日本の未来も捨てたもんじゃないかな。それに比べて、最近の政治家は…。
子どもを育てるお父さんやお母さんたちの優しい心に、ほのぼのとさせられた久しぶりの休日でした。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第246回「地球温暖化」

「夜、一人で窯焚きをしてるとね、薪が話しかけてくるんだよ」
「???」
「だからさ、薪がね、“フニャララ フニャララ、チャクチャクチャクチャク…”ってね、しゃべるの! だからさぁ、ほら、こうやって耳に手を当てて、よく聞いてみたんだよ」
「???」
「あぁ~、もう! だからさぁ、こうやってぇ、耳に手を当てるでしょ、それで薪がしゃべってるのを聞いたんだって!」
「言葉?」
「そうだよぉ! 薪が何かしゃべってるんだってばぁ!」
「はぁ? 大関さん、やばいよ!」
「なんで?!」
「ちょっとさぁ、あんまり寝てないんで、おかしくなってんじゃないのぉ?」
「何言ってんの! 薪もしゃべるのぉ! それだけじゃないからねっ! そこのほらっ、煙突の後ろのとこ、赤い大きな光がすーっと登っていったんだからぁ!」
「ほらほら、きたきたっ! そのうち“でた~!”とか言うんでしょ?!」
「えっ? 私は幽霊なんて信じてないもん! 無神論者だし。でも、薪はしゃべるの!」
3回目の穴窯焼成。(第203回参照)四晩の徹夜を覚悟しましたが、空気が乾燥していたせいか、温度の上昇も順調で、大きなトラブルもなく4日目の夜、火を止めて、一晩早く帰ってくることができました。窯の火以外まったく意識させない、文明から隔絶された真っ暗な闇は、人間の弱さと孤独を感じさせます。普段人間社会の中で生きていると、世界は人間で回っているとばかり思っているのですが、この笠間の楞厳寺(りょうごんじ)での窯焚きの時間は、人間は大きな自然の中のほんの小さな生命なんだということを実感せずにはいられません。温暖化の影響でしょうか、2月というのにとても暖かく、窯焚きの間一度も北風が吹きませんでした。昼は暖かく、夜中には夕立のような雨が降る。すぐ近くに落雷があったようで、ものすごい閃光と雷鳴が、孤独感を一層強くさせました。なすすべもない自分を強く意識し、孤独感は増大します。人間なんて、自然界の前では何もできない存在なんだ。
「もしこの雨が強くなって山が崩れたら、私は助かるだろうか?」そんな疑問は、疑問にもなっていません。答えは明らかなのだから。
そんなとき、自分が人間であることを止めて、自然の中に入ってしまうと、ずいぶんと気が楽になります。薪が出すさまざまな音に耳を傾け、屋根をうつ雨の音や木の葉を擦る風の音とも会話をする。自分のすべてを自然にゆだねる。
温室効果ガスの影響で、地球の温暖化が進んでいます。まるで、自然に勝ったように誇らしげに生きる人間。けれども、自然の驚異の前に人間には為す術がありません。自然に勝とうとどんなに立ち向かっても、人間の微力さを痛感するだけです。人間は、一刻も早く自然と対話をし、謙虚に自然と向き合う必要があるのではないかと思います。
子どもたちにどんな地球を残せるのか、私たち大人は少しでも世代間の不平等を埋める努力をしなければならない時がきています。
車の排ガス規制が一段と厳しくなろうとしています。これまでの文明をさらに文明を進化させることで自然を守ろうとしているのです。それもとても大切なことですが、一人ひとりがもっと自然を大切にし、人間も自然界の一員なんだという自覚を持つこと、そして自然に対して謙虚になること、そういうことが求められているんだろうと思います。
地球温暖化は、待ったなしです。異常気象が年々ひどくなっていく中、子どもたち、そしてその子どもたち、そしてさらにその子どもたちにも、平等な地球環境を渡すために、真剣な取り組みをしなければならないということを実感した、自然とのふれあいの4日間でした。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第245回「いじめ加害者の自殺」

とうとう加害少年が自殺してしまいました。今回の千葉県での中学2年生の自殺は、いじめの加害者として指導を受けた翌日の事件で、前日の指導が引き金になっているのではないかと見られています。
報道によると、自殺した少年は、普段いじめられていたといい、今回初めていじめる側に回ったとされています。同級生の男子は、自分の母親に「まじめないい子。彼もいじめられ、ストレスになっていたのでは」と話しているとのこと。倒れていた生徒の脇には「ごめんね」などと書かれたノートが落ちていたんだそうです。しかも、ノートには被害生徒の名前もあり、男子生徒が謝罪の気持ちを記したのではないか、と…。
自殺した場所は、被害生徒の住むマンションでした。自殺した少年にとって、いじめに加わったことが大きな心の重荷になっていたのでしょう。今回の事件は、亡くなったお子さんのご家族だけでなく、いじめの被害者になった子どもとその家族、他の加害生徒とその家族、そしていじめの指導に当たった先生たちなど、すべての立場の人間にとても大きく、深い傷を残してしまったように思います。自殺した生徒の担任で40歳代の女性教諭は、ショックで寝込んでおり、事情を聞ける状態ではないのだそうです。お気の毒なことです。前日の指導に行き過ぎがなかったか、市教委などが事情聴取を行っているようですが、亡くなった少年が、死を選んだのですから、それがどんな内容の指導であったとしても、その子にとっては、自殺をするくらいの「行き過ぎた指導」であったことは明らかです。ただ、それが指導をした教員の責任であるかというと、それもまた違います。
問題なのは、どんな指導をしたかではなく、教育再生会議が盛んに主張している「いじめる側の生徒に対する毅然とした指導」、つまり「いじめる側といじめられる側という区別をして、いじめる側を指導する」という行為であり、その区別が存在する限り、今回のような事件は今後も起こり得ると言えます。「毅然とした」ということに、すべて反対なわけではありませんが、それが「体罰(出席停止とか別室で指導とかいうことに強制力を持たせるようなことも含めて)を伴う厳罰化」を意味するものであるのであれば、それは今回の事件のような引き金になるだけで、いじめの本質的な解決や、自殺の防止につながるとは、到底考えられません。
マスコミをはじめ、いろいろなところで語られている「いじめる子もいじめられていた」とか「いじめる子も、いついじめられる側に回るかわからない」とか、またその逆に「いじめられている子も、いついじめる側に回るかわからない」などの見解も、それはその通りでしょう。けれども、もっと重要なのは、「いじめる側になる可能性」や「いじめられる側になる可能性」ではなく、いじめている子が、なぜいじめるのか(他人をいじめるという行為に走るのか)という点を突き止め、解決することです。
いじめは、いじめを引き起こす原因をなくせない限り、続きます。いじめた子に対し厳しい指導をし、その子がいじめを止めたとしても、いじめを引き起こす原因が解決されていなければ、今度は別な子がいじめをするだけで、なんの解決にもなりません。
いじめた子に対する指導というのは、指導する側にとって非常にわかりやすく、周りに対しても「指導をした」ということが明確になるので、説得力を持ちます。しかも一時的には、いじめた子どもたちもおとなしくなるので、効果があったようにも見えたりしますが、実は見えないところでいじめが起こっていたり、いじめのない状況が長続きするとは言えません。いじめている子どもたちに対する心のケア(どうしていじめたくなるのか)の部分を先送りしたのでは、いじめに対し対策を講じたことにはならないのです。しかも、全体像を見ずして指導をすれば、今回のような加害生徒の自殺という最悪の結果を招きかねません。
今、大人に必要なのは、「いじめる」「いじめられる」の区別ではなく、「いじめられる側」も「いじめる側」も、「大人が作り出した社会構造の中での被害者である」という、子どもに対する優しさや思いやりです。
今回の千葉県の事件で、実際にどのような指導が行われたかは、定かではありません。けれども、それは加害生徒に対する指導の強化という政治的な動きの中で、学校がとった対応であり、学校や指導に関わった教員の問題ではありません。
学齢期に達していないような小さな子どもたちを見ていると、子どもたちの持っている純粋さが伝わってきます。その純粋さを失わせ、「いじめる子」「いじめられる子」の区別を作ってしまっているのは誰なのか、私たちはもう一度深く考えなければなりません。われわれ大人が自分たちの行ってきたことに対する責任を子どもたちに転嫁し、叱り、指導するのではなく、われわれ大人の責任として大人の中で解決していく必要があるのではないでしょうか。子どもたちは、どんな子どもたちも被害者なのです。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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