【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第228回「義母の死 後編」
義母の手を取っても、握り返す力もありませんでした。ここに妻と私がいるということはわかっているようですが、義母にはすでに自分の意志を伝えるだけのエネルギーが残っていないように見えました。すっかり変わり果てた義母をじっとそばで見つめているのはとても辛くて、私は義母の足の方に下がりました。
しばらくすると、看護師が、先生が話をしたいと言っていると伝えに来ました。日曜日ということで、病院の体制も平日とは違い、看護師の数もほんのわずか、医師も当直の医師でしたが、前回の検査入院の時に撮ったきれいな胸のレントゲン写真と、ほんのちょっと前救急車で運ばれた直後に撮った、胸に水が溜まりすっかり白くなってしまったレントゲン写真を2枚並べて、救急隊からの連絡の時点ではそれほど深刻な状況だと思わなかったということ、ところが病院に着いたときには自分で呼吸ができる状態ではなかったこと、心筋梗塞との判断で取れる限りの処置をしたこと、あと10分到着が遅れたらその時点で亡くなっていただろうということ、そしてここ1~2日くらいが山、それを持ちこたえられるかどうかで、どちらの方向に進むかが決するであろうということを、丁寧に説明してくれました。
娘の麻耶(まや)が、孫の蓮(れん)と沙羅(さら)を連れて病院に来ました。麻耶は、昨年義父が亡くなる前の晩、蓮と沙羅を連れて熊谷から川口の自宅に戻っていました。ところが、その日の晩、父の容体が悪化し、急いで麻耶が熊谷の家に来たときには、、すでに義父が亡くなった後だったので、今回はどうしても義母の臨終の瞬間には、自分も立ち会いたいし、蓮や沙羅も立ち会わせたいと、急いで飛んできたのです。そして努を除く、子どもたち全員が、ほんのわずかな間に集まり、それぞれ義母に声をかけました。どうやら義母には、その様子がわかっているようで、それまでただ苦しそうだった義母の顔が、やや柔和な表情になったように感じられました。
月曜、火曜と一旦は義母の状態も改善に向かい、口から人工呼吸器の管を入れているので、しゃべれはしないものの、点滴をしている手をゆっくりと動かし、画用紙にサインペンで字を書いて、意志を伝えられるようにはなりました。
「今の(看護師)は、(処置が)ヘタ」とか「主治医を呼べ」とか「それは何の薬?」とか、声ではなくサインペンで書かれた文字ではあるけれど、いつもの義母らしい会話が戻ってきたので、“ここ1~2日の山”が、もしかしたらいい方向に越えられたのかな?と期待をさせたのですが、結局火曜日の深夜(水曜日の夜明け前)、息を引き取りました。
最後に画用紙に書いた言葉は、「生か死か?」という言葉でした。とても親切で優しい男性の看護師さんが、義母のベッドでの姿勢を替えに来たとき、義母は、自分が生の方向に進んでいるのか死の方向に進んでいるのかを看護師さんに尋ねたのでした。
「生か死か?」
看護師さんは、義母からサインペンを受け取ると、画用紙に書かれた「生」の文字をはっきりと強いタッチで、何重にも丸で囲みました。義母は小さく頷きました。
結局、その日の晩、義母の異変はその男性看護師さんに伝えられ、医師の必死の心臓マッサージの甲斐もなく、義母は息を引き取りました。義母を見つめる看護師さんの目には、私たち同様涙がいっぱい溜まっていました。
義父もそうであったように、義母の最期も孫や曾孫から何かをもらい、そして何かを伝えているようでした。それまで誰に対しても何の反応も示さなかった義父は、蓮と沙羅が手を撫でた瞬間、「よしよし」とひ孫をなだめるように手を振りました。苦しそうにほとんど何もできないでいた状態の義母も、蓮と沙羅に手を撫でられると、しっかりと蓮と沙羅の手を撫で返していました。一人一人の孫たちにも、自分は死んでいくんだということを、しっかり伝えているようにも見えました。娘や孫、そして曾孫たちに囲まれて息を引き取った義母の顔は、これですべてが終わったというような、今までに見たどんなにきれいな義母の顔よりも、さらにきれいで優しく、穏やかな顔でした。
義母の臨終に立ち会うことができた麻耶や蓮や沙羅は、きっと何かを義母から受け取ったことと思います。昨年、義父を火葬にする話を聞いたとき、「食べるの?」と聞いた蓮は、今回は黙っていました。そして、義母の骨をしっかりと箸で挟んで、骨壺に収めていました。
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
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