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2021年12月 9日 (木)

【子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-】第218回「“どうして××なんだろう?”という心のゆとり」

「子育て・教育」の勘所というか、とても重要なことのひとつに、「どうして××なんだろう?」という問いがあります。もちろん、子どもに「どうして××なの!?」と詰問するという意味ではなくて、親なり、教師なりが、子どもの様子や行動を見て、(この子は)「どうして××なんだろう?」と自分自身に問いかけるという意味です。
「おまえはどうして××なの!?」という子どもに対する問いかけは、実は子どもに対して問いを発しているわけではなく、大人の価値観に照らして、「なんでこんなことくらいができないのか」とか「なんでそんなことをするのか」などと大人が腹を立てて、子どもを非難しているのだということは、皆さんご理解していることと思います。
「どうして××なんだろう?」という大人の自分に対する問いかけは、これとはまったく違って、客観的事実の観察等から生まれてくる子どもに対する疑問を、自分に対して問いかけたものです。そしてその答えを見出すには、さらに細かい観察をしなければなりません。
今朝も娘の麻耶(まや)が、孫の沙羅(さら)に
「どうしておまえは牛乳に醤油とケチャップを混ぜちゃうの!」
と怒鳴っていました。どういう意味で「どうして…」と言っているのかというと、もちろん、「牛乳に醤油とケチャップを混ぜるのはなぜか」なんて言うことを沙羅に尋ねているわけではなく、「牛乳に醤油とケチャップを混ぜるんじゃありません」と言っているわけです。
「どうして…」という言葉に沙羅は答えるすべを知りませんし、また答える気もありません。麻耶と沙羅の間に残ったものは、”麻耶が沙羅に対して怒鳴った”ということだけです。「××すると怒られる」という次元では、沙羅は学習するので、何回も同じパターンを繰り返すうち、いずれは牛乳に醤油とケチャップを混ぜることはしなくなるのでしょうが、ひとつひとつの事例ごとにこのような学習をさせていたのでは、とんでもない期間と労力を必要としてしまいます。しかも、怒鳴ったり叱ったりして育てるリスクは絶大で、子どもは次第に親の顔色を窺うようになってしまいます。
「どうして…」という言葉を“問い”として、麻耶が自分に向けていれば、状況はまったく違います。
「どうして沙羅は、牛乳に醤油とケチャップを混ぜてしまうんだろう?」
と麻耶が自分自身に問いを発すれば、その後麻耶は沙羅の行動を事細かに観察して、麻耶の感じた「どうして…」を解決すべく、努力をすることになります。そうすることは、子どもを理解することにもつながりますし、子どもも怒鳴られないわけですから、親との関係にも”顔色を窺う”ような不安定要因を残しません。そのうち麻耶は沙羅がどういう性格の子で、どういう思考パターンを取るのか、観察をすることによって客観的事実の積み上げの上に学び、当然のことながら麻耶と沙羅との相互理解は深まります。
これは、教育の現場でも言えることです。保育園や幼稚園、学校で、保育士や教員が子どもとどう接しているかと言えば、「どうして…」を詰問に使っていることが圧倒的に多く、自分に対する問いとして、答えを見つけようとすることは少ないのではないかと思います。子どもの行動に対し、「どうして××なんだろう?」と考えるゆとりを大人が持つことこそ、子育てであり、教育です。子どもと同じ土俵に立って、子どもを怒るのではなく、一歩下がって子どもを客観的に見る余裕、それが子育て・教育の勘所のひとつです。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、地域情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

                                                         

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