【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第178回「義父の死」
義父が逝きました。9月23日お彼岸の中日、朝7時、それまで早かった呼吸が徐々にゆっくりになり、静かに止まりました。妻がどんなに大きな声で「おとうさん!」と叫んでも、もう二度と返事をすることはありませんでした。
93歳の大往生でした。義父にとって、妻や娘、孫に囲まれての自宅での穏やかな死は、おそらくこれ以上の幸せはなかったのだろうと思います。
春のお花見、夏の海水浴、秋の紅葉狩りは、毎年欠かすことのない年中行事でした。ここ数年の体力の衰えは急で、毎年出かける距離を縮めることを余儀なくされました。何年か前には春の吉野へ出かけました。弘前城の桜も見ました。それが去年は、山形になり、今年は会津になりました。
八幡平の紅葉が好きでした。2泊3日の八幡平への旅は、走行距離が2000キロにも及びます。以前は初日に八幡平まで行けていましたが、最近では2日目に八幡平を目指すようになりました。それでもやはり八幡平でした。ほとんど限界に近い体力にもかかわらず、何も言わず私の車の助手席に座っていました。田沢湖方面から玉川温泉を通って八幡平の頂上へ向かうルートの美しさ。カーブを曲がるたびに、拍手をしながら、
「おー、うつくしいなあ! おーっ、おーっ!」
と歓声を上げた父。まるで子どものようでした。
もう、父の歓声を聞くことはできなくなりました。
祭壇の奧に飾った父の遺影は、今年の春、会津の鶴ヶ城で撮ったものです。右手を挙げて、カメラを構える私に、「おーっ!」と軽く声をかける仕草は、義父のお気に入りのポーズ。じっと眺めていると、今にも写真を飛び出して、「おーっ!」という声が聞こえてきそうな気がします。
21日の午後、それまで比較的落ち着いていた父の様子が急変しました。母との電話で一人で急いで実家に向かった妻から、「すぐ来て」という連絡が入りました。私は、子どもたちに連絡を取りながら、熊谷の実家へ向かいました。どこを眺めているわけでもない視点の定まらない目は、もうほとんど”死”を予感させていました。
翔(かける)は、死が直前に迫った祖父を見て、涙をぼろぼろ流しながら泣きました。麻耶(まや)、蓮(れん)、沙羅(さら)は、じっと立ったまま、眺めています。まだ幼い蓮と沙羅には、その光景が何を意味するのか、よくわからない様子です。何か、とても不気味なことが起こるといった様子で、母親である麻耶の手をぎゅっと握りしめたり、後ずさったり…。しばらくして、曾祖父の脇に座った蓮と沙羅は、促されて”ひいじいちゃん”の手を取りました。おおよその意味は理解できたのか、もうすでに骨と皮だけになってしまっているやせ細った”ひいじいちゃん”の手を、沙羅がそっと撫でています。
と突然、それまでほとんど反応のなかった義父の手が、「よしよし」と子どもをあやすように、上下に振られました。
「やっぱりわかってるんだ!」
驚きました。
93年間、生を尽くしてきた義父が孫と曾孫に生を託した瞬間でした。
通夜が終わった昨夜、「明日、ひいじいちゃん焼くんだよ」という麻耶の話に、
「食べるの?」と聞き返した蓮は、皆の笑いを誘いました。
きっと、曾孫たちも、義父に守られながら、しっかりと育っていくのだろうと思います。今日の午後、義父は骨になります。
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。
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