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2021年11月21日 (日)

【子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー】第179回「待つということ」

人の死というものは、たとえそれが93歳という高齢で、”死”が当然予定されたものであったとしても、身近なものにとっては、「そこに存在することがまるで空気のように当然で、”いない”ということが当然には感じられないのだなあ」と徐々に実感がわいてくるものですね。”当然であって当然には感じられない死”ということを悲しむべきなのか、93年という長きに渡る”生”を喜ぶべきなのか、なかなか気持ちの整理がつきません。
義父とはいえ、父には多くのことを学びました。強固な意志、人としての尊厳、生きることへの執着…。
父は人の手を借りることを極端に嫌いました。
数年前の冬、スキー場でのこと。90歳近くになった父は、まだスキー板をつけてリフトに乗っていました。すっかり身体も硬くなり、それほどうまく滑れるわけではありませんでしたが、とりあえずゲレンデを斜めに真っ直ぐ斜滑降で滑り、ゲレンデの端まで行くと、くるっとターンをして、また反対側へ斜滑降で滑るというように、ゲレンデを何度か滑り降りていました。何度目かの時、リフトを降りて、身体を下に向け滑り出そうとした瞬間、スキー板がはずれてしまったことがありました。転びはしませんでしたが、斜面で身体を自由に動かすことはかなり難しいらしく、ブーツをスキーにはめようとしてもなかなかはまりません。父にトラブルがあったとき、すぐに対処できるようそれなりの距離にいた私は、しばらく様子を見ていましたが、あまりにも長時間にわたり苦労している父を見かねて、そばに寄り、手を差し出しました。ところが、すごい勢いで振り払われてしまいました。そして、なんとか一人でスキー板をつけた父は、何食わぬ顔でリフト乗り場を目指し一人で滑っていきました。
父は温泉が好きでしたが、10年ほど前、野沢温泉のペンションでのぼせて倒れてしまったとき以来、父のお風呂には私が必ず同行することになりました。年をとってからは身体が温まるのに時間がかかるらしく、お湯の温度に関係なく、長時間肩まで湯船に浸かります。大きなお風呂の湯船の中を移動するときも、しゃがんで肩を湯船に浸けたまま移動します。一度倒れたにもかかわらず、いつもそんなふうですから、人を頼るのが嫌いな父がうっとうしがらず、しかも万一倒れたときには頭を打つ前に支えられる距離にいるよう心がけるようになりました。
普通なら倒れた経験から、長湯はしないよう気をつけるものですが、頑固な父はそんなことお構いなし。肩まで湯船に浸かると、のぼせない方がおかしいというくらい、肩まで湯船に浸かり、出ようとしません。当然のことながらのぼせるのですが、それからが大変。湯船から出ようという気になっても、一気に出ると野沢温泉の二の舞になってしまうので、まず肩まで浸かっていたものを胸まで湯船から出し、そしてその状態で約10分、そしてお腹、そして膝というふうに約10分ずつかけて、徐々に湯船から上がっていきます。すっかり湯船から出るまでには、ゆうに30~40分を要します。その間、私は例の距離を保ちつつ、父が湯船から出るのをじっと待ちます。つい手を貸したくなるのですが、近くに寄って手を出そうものなら、スキーの時同様、振り払われるので、じっとがまん、がまん。4年ほど前に訪れた乳頭温泉では、膝から下だけを湯船に浸けて、父が上がるの待っていたら、あまりにも長時間温泉に足を浸けていたものだから、湯船に入れていた部分だけが真っ赤にかぶれてかゆくなってしまいました。父が気づかぬよう、脱衣所でこそこそ足をかいていたのですが、食事の時になると父は「なお君(私のこと)はなあ、足がかゆくなっても、わしが風呂から上がるまで、ずっと待っていたんだ」と言いました。いったいどこで見ていたのでしょう?
去年の秋、秋の宮温泉では、湯船から出た途端、気を失って洗い場のタイルの上に倒れて(私がそっと横にしてやった)しまいました。さすがに私も動揺しましたが、息をしていることを確かめて、あとはじっと待ちました。かなりの時間が過ぎたころ、やっと目を開き、珍しく私に向かって「起こしてくれ」と頼みました。この間じっと待つこと2時間。私も気がきではなかったので、そんなに時間が経過しているとは思いませんでした。
子育てにおいても「待つということ」は重要なポイントです。子どもが何かをやろうとしたとき、「早くしなさい」「何するの?」と言うのではなく、ただじっと待ってやること。待ってやることが、子どもを受け入れてやったことになり、子どもの人格を認めてやったことになるからです。大人が子どもに何かを尋ねたとき、次に言葉を発するのは子どもの番。多少時間がかかっても、じっと待ってやる。待ってやることが、自己決定の能力を育て、物事を自分で判断できる子に成長させることにつながるからです。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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