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2020年1月

2020年1月26日 (日)

第166回「言ってはいけないその一言 -甘やかし編-」

さて、今回は「甘やかし編」です。
前回の「先回り」と「甘やかし」は、密接に関係しています。「親の都合」ではなく、「子どものため」と考えている点では、同じです。「先回り」の対応をしている人のほとんどは、「甘やかし」の対応も取っています。そのことを見ると、「先回り」と「甘やかし」の根っこは同じで、親が積極的に子どもに関与しようとした場合に「先回り」になり、受け身になった場合に「甘やかし」になると考えられます。
こうして育った子どもは、「先回り」と「甘やかし」をとてもうまく利用します。自分のやりたくないことはなるべく先送りにし、親がやるのを待つ。自分がやりたいことは、それが実現できるよう積極的に親にねだる。そういう傾向がとても強く、自分の思ったように事が運ばないと「だだ」をこねます。
「うちの子どもはわがままで困ります」なんていう人がいますが、「わがまま」の中身をよく聞いてみると、ただの「だだ」。まるで2~3歳くらいの子がだだをこねるのと同じように、高校生がだだをこねているわけです。もちろん、2~3歳の子のだだなら、聞いてあげてもそれほどのことではないけれど、相手が高校生となるとそうもいきません。「髪の毛を染めたい」「エクステしたい」「ジムに通いたい」「ヴィトンのバッグが欲しい」…。普通に考えれば、そう簡単には聞いてやれない「だだ」のはずなのですが、それを聞いてやらなければならない親子関係を作ってしまうのが、「先回り」であり「甘やかし」なのです。
ここでは、親子の力関係が逆転してしまっています。一般的に言って「子は親の言うことをきくもの」なのですが、「親は子の言うことをきくもの」になってしまっているのです。
わがまま三昧に振る舞い、遊びほうけている娘が、終電近くになって帰ってくる。
「お母さん、駅まで迎えに来てよ」
と言われて、のこのこ車で駅まで迎えに行く母親。
「遅かったねえ。夕飯は? まだ食べてないなら、お前の分は取ってあるよ」
本来なら、「もっと早く帰ってきなさい!」と怒るべきなのに、緩んでしまう。怒られるかもしれないと、内心びくびくしながら帰ってきたのに、母親の緩んだ態度を見透かして、
「うん。お腹空いてるけど、コンビニのお弁当食べたいから、どこかコンビニに寄ってよ」娘のために残しておいたせっかくの夕飯は、無駄になってしまう。
「先回り」や「甘やかし」で育った子どもは、人の気持ちを考えません。相手の親切心や優しさをうまく利用するようになります。
「甘やかし」は「受容」とは違います。子どもを受け入れるという点では似ていますが、「受容」が、子どもの心を受け入れることであるのに対し、「甘やかし」は子どもの都合(主に物欲)を受け入れることです。いったん「甘やかし」の中で育ってしまうと、そこから抜け出すのにはかなりの時間が必要になりますから、「受容」と「甘やかし」の違いをはっきりと意識することはとても重要です。
「先回り」と「甘やかし」に共通しているのは、子どもが親から与えるものがとても多く、子どもが子ども自身の手で獲得するものが少ないということです。自分で獲得することを覚えないと、目標や目的意識というものを持ちにくく、結果的に意欲がなくなり、不登校やニートになったり、また目的が矮小化することにより、創造志向でなく強い消費志向を持ったりするようになります。また、誰かにやってもらおうという意識が強く、責任の伴うことを嫌がるようになります。
子どもの要求に対しては、その要求がその年齢の子どもの要求としてふさわしいのか、いつも検証しながら子育てをするくらいの、慎重さが必要だと思います。
どう考えても必要と思えないような要求に対しては、毅然とした態度で拒否しましょう。
「エクステしたいんだけど」なんていう要求に、「いくらかかるの?」はやめましょう。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。 

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第165回「言ってはいけないその一言 -先回り編-」

今日は言葉だけでなく、行動も大きなポイントになります。
今まで述べてきた「脅迫」や「取引」というのは、「親が自分の都合で子どもを動かす」という「親のため」という側面が、はっきりと見えているので、それに気づくことはそう難しいことではありませんし、親が気づいてすぐその行動を変えれば、目に見えて子どもの様子も変わります。ところが、これから扱おうとしている「先回り」というのは、一見「子どものため」に映ったり、親の意識の中に「子どものため」という明確な意識があるので、教育相談やカウンセリングで指摘をしても、なかなかその意識を変えることは難しく、とてもやっかいです。しかも、子どもも親の言動(おもに行動)によって自分が楽になるので、その親子関係を拒否しません。昔は反抗期があるのが当然だったわけですが、うちの研究所を訪れるクライアントさんを見る限り、最近では親の「先回り」が子どもの自立へのエネルギーを奪ってしまい、反抗期をも飲み込んでしまうほどです。子どもが拒絶をしないので、親もその状況になかなか気づきません。「深く潜行し、一気に出る」という感じでしょうか。何か問題が表面化したときには症状が深刻なので、“人間としての存在の回復”(自立)にはかなりの時間(回復の方向に向かっていたとしても、長ければ10年とか20年とか)を要します。大きな問題は、親の子どもに対する姿勢が簡単には変えられないということです。今とても問題になっている「ニート」という状況にも深く関わっていると言えます。
「先回り」の場合の多くは、子どもも親も「被害者意識」を持ちます。「いじめを訴えてはいるけれど、周りにそういった事実が確認できない」、「他人の悪さを強調して自分の非は認めない」、そういった場合は、幼児期からの親の「先回り」が影響している場合がよくあります。本来、一刻も早い対応が求められる深刻な「いじめ」のようなケースを、親の「先回り」による過剰な被害者意識と取り違えてしまう場合もある(学校のような場所ではなるべく問題が公の問題ではない方がいいと考えるので、いじめの問題を「親子の問題」ととらえる傾向にあります)ので、「いじめ」を訴えられる立場(教員とか各種相談機関に従事している人など)の人たちは、充分な検証が必要です。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。 

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2020年1月25日 (土)

第164回「言ってはいけないその一言 -取引編-」

ちょっと本題に入る前に、奈良県警が“子どもに声をかけちゃいけない”なんていう馬鹿げた条例案の要旨を15日に発表したので、それに対して一言。
もちろんこれは「小1女児誘拐殺害事件」を受けてのものですが、禁止されるのは、「保護監督者が近くにいない13歳未満の子どもに対する(1)惑わしたり、うそをついたりする行為、(2)言いがかり、ひわいな発言、体をつかんだりつきまとったりする行為のほか、(3)13歳未満の子どものポルノ映像や画像の所持、保管」(16日 朝日新聞朝刊)だそうです。親の立場で「子どもを守る」ということに重きを置いて考えるとすれば、支持する人もいるかもしれませんが、こういうものは、その実効性と弊害をきちっと検証しないといけない。そこで、この条例案を見てみると、まず(1)も(2)も声をかけた内容について、誰がどのように判断するのか全くわからず、犯罪の構成要件がはっきりしない。しかもどれをとっても現行法で対応できる。となれば、条例そのものの持つ実効性というものは、全く疑わしいと言わざるを得ません。しかも弊害を考えると、大人と子どもの信頼関係を大きく損なわせ、地域社会の持つ教育力を崩壊させかねない。今までの私の経験から言うと、地域と子どもとの関わりは、防犯の観点からも、子どもの健全育成の観点からも大変重要です。もし、子どもに声をかけることが犯罪になるとすれば、そういった地域社会と子どもとの関わりは、ほとんど失われることになります。それがどんなに子どもを孤立させ、子育てを難しくしてしまうか…。むしろ、積極的に声をかけることを促し、地域社会における大人と子どもとの関わりを密にすることこそ、子どもを守ることにつながると思うのですが…。
教育は人を信頼することから始めるべきです。社会の現状がそれを許さないことも事実ですが、行政がやらなければならないことは、子どもたちの大人に対する不信感を煽ることではなく、“どうしたら子どもが大人を信頼できる社会を構築できるか”を真剣に考えることだと思います。こんな条例案が可決しないといいのですが…。

さて、「言ってはいけないその一言」に戻りましょう。
前回の「脅迫編」同様、親がよくやってしまうパターンに「取引」があります。
先日、スーパーで泣き叫んでいる4、5歳の男の子がいました。なぜ泣いているのかよくわかりません。泣き始めたときは、おそらくはっきりした理由があったのでしょうが、その様子からすると、どうやら本人もなぜ泣いていたのかよくわからなくなってしまっているようでした。
こういう時の親は、本当に困ってしまうもので、泣いている子どもには腹が立つのに、うっかり変な言葉をかけようものなら、火に油を注ぐようなことになってしまう。本来、毅然とした態度で臨むべきなんだろうけれど、周りの買い物客はっていうと「何いつまで泣かしてるのよ!」というような冷たい視線でこっちを睨みつけたり、「呆れた親」みたいな雰囲気で露骨に無視したり…。
結局この時のお母さんは、子どものそばまで行って怒鳴りました。
「いつまで泣いてるの! いい加減に黙りなさい!」
まあ、ここまではよかったんだけど、どうもこの後がいけない。
「泣くのやめたらチョコレート買ってあげるから黙りなさい」
あらあら、なんということ。泣いていることとチョコレートは、まったく関係がないのに…。
その言葉につられてか、子どもの泣き声はあっという間に小さくなり、10秒もしないうちに聞こえなくなりました。
しばらくすると、誇らしげにチョコレートの箱を手にしたその男の子とすれ違いました。どうやら、約束通りお母さんにチョコレートを買ってもらったようでした。
これはこの親子の、“人生における不幸の始まり”なのです。
このお母さんは子どもに、“泣き叫べば欲しいものが手に入る”ということを教えてしまったのであり、この男の子は“欲しいものがあるときは泣き叫べばいい”と学んでしまったのです。

どんな言葉が取引に当たるのか、そして取引がどんな結果を引き起こすのか、次回に続きます。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第163回「言ってはいけないその一言 -脅迫編-」

さて、今回からは、具体的事例を扱いたいと思います。「言ってはいけない言葉」をいくつかのグループに分類して説明します。ただし、小手先の技術ととらえるのではなく、子どもと向き合う姿勢を間違えると、結果としてこういうことを言ってしまうととらえてください。あくまでも、子どもと向き合うときは、『“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです』。いつもそれを忘れないでください。

孫を連れて釣り堀で釣りをしていたときのこと。
「おまえ、何で寄ってくるんだよ」
「うぇーん、うぇーん…」
3歳になるかならないかの男の子が、お父さんのそばに寄っていって何か訴えていますが、お父さんは取り合わず、大きな声で怒鳴っています。少し離れたところに小学生くらいのお兄ちゃんとお姉ちゃんがいて、3人兄弟(?)のよう。もうそろそろ終わりの時間が近いらしく、お兄ちゃんとお姉ちゃんは、時計を気にしています。一番下の男の子は、釣りのような長時間かかる遊びができる年齢のはずもなく、要するに飽きてしまっただけ。
「だから、そういう風にベタベタ寄ってくるなって言ってんだろ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「うるせえんだよ。魚が逃げちゃうだろ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「そんなにいつまでも泣いてると、池の中に放り込むぞ!」
「うぇーん、うぇーん…」
「いいんだな、池の中に放り込んでも!」
と言って、男の子の体を捕まえるふりをしました。さすがに父親にそこまでやられると、男の子も自分の要求が通らないことを悟り、少し後ずさって、泣き声も小さくなりました。私がいるところからは少し距離があったので、子どもの要求がなんだったのかよくわかりませんでしたが、どう見てもそんなに大声で怒鳴りつけなければならない状況には思えませんでした。子どもを怒鳴りつけるお父さんの形相が、あまりにもすごかったので、私もちょっと驚きました。
こんな事例を挙げると、誰もが大声で怒鳴っている父親の形相を想像して、「ひどい父親」と感じるのでしょうが、ここで一番問題なのは、大声で怒鳴っていることではなく、「池の中に放り込む」という脅しです。子どもにとって自分の生命を自分で守ることができないという恐怖は、もうどうすることもできません。大声で怒鳴られているだけならば、最終的な選択は子どもに残されていますが、「池の中に放り込む」と言われてしまっては、子ども自身による選択の余地はありません。もっとも、親も選択の余地を残させないために脅しているわけですから、親にとっては成功ということになるのでしょうが。
皆さん、こんなひどいことはやっていないと思うかもしれませんが、よーく考えてみると身に覚えがあるのでは?
「家に入れません」「家を出て行きなさい」「食事はさせません」なんていうのも、程度の差こそあれ、方向は同じですね。親の決意を示すということも大切なので、100%言ってはいけないとまでは言わないけれど、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”になっているかどうかの確認は必要ですね。ただし、“即、命に関わるような言い方”や“身体的に危害を加えるような言い方”(“手をちょん切るよ”とか”熱湯をかけてやる”というような)だけは、絶対にやめましょう。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第162回「言ってはいけないその一言 -概論 その2-」

子育てをするとき“カウンセリングマインド”で子どもに接することができれば、子どもはとても楽だし、自由にのびのびと育っていくことは確かだと思います。ということは、結局親も楽な子育てができるということで、とてもなめらかで暖かい親子関係が築けていくことと思います。ただし、これはあくまでも子どもが自立を目指し、将来親を超える存在(地位や名声、財産などといった具体的なものではなく、もっとメンタルな意味で言っているのでお間違いなく)になっていくという意味においてであって、親の“洗脳”によって親の都合のいい子どもに育てるという意味でないことは言うまでもありません。そういう意味の上に立った“カウンセリングマインド”です。時に、親にとっては辛いことになる場合もあります。けれども親は、自分が楽になるため、あるいは自己満足のために子どもを利用しないように。それは、基本の基本です。うまくいかない夫婦関係のはけ口に子どもを使ったり、夫や妻との間の“行き場のない愛情”を子どもに向けるなどということはもってのほかです。“カウンセリングマインド”というのは、当然そういうことも含んでいるわけですが、“カウンセリングマインド”を単なるテクニックと勘違いしてしまうと、本質的な部分が曲がってしまい、全く違った方向に進んでしまうので、単なるテクニックととらえるのではなく、“一人の人間が一人の人間と関わりを持つときの基本”というようなとらえ方をしてください。ですから、親子関係だけでなく、子どもと関わりを持つすべての職業(保育士、幼稚園や学校の先生、看護師、教育関係の相談員、スポーツ少年団のコーチ、保護司などなど)の人たちは、必ず“カウンセリングマインド”で子どもと接するべきです。

もうすでに、この連載の中で述べてきましたが、まず子どもを信頼するところから始めましょう。そういう気持ちがないと、“まずお説教”になってしまって、子どもには受け入れてもらえません。“自分が正しい”という感覚も捨てましょう。相手がどんなに小さな子どもでも同じです。“教えてやる”という発想の中からは、“カウンセリングマインド”は生まれません。“相手を一人の人間として尊重すること”がとても重要です。もっとも、そうできれば、“カウンセリングマインド”で接することができているということなのでしょうけれど。

さてそれでは、子育てにおける“カウンセリングマインド”を具体的にどうとらえたらいいかというと、前回ご紹介した“カール・ランサム・ロジャース”(ロジャーズとも)の“非指示的カウンセリング”(後の来談者中心療法)が基本と考えます。(興味のある方は、“カール・ロジャース”あるいは“来談者中心療法”でネット内を検索してみてください)繰り返しになりますが、“技術よりも態度であり、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さ”です。そして親の役割は、“子どもが自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けること”であり、子ども自身が自分の力で成長していくことを見守るということです。私なりの解釈では、“自ら決定していくのを助ける”ことが行き過ぎてしまったものが「過保護」、“子ども自身が自分の力で成長していくことを見守る”ことができずに、口出ししてしまうのが「過干渉」です。

ちょっと概論が長くなりました。次回から、具体的な例を示してお話ししたいと思います。それまでとりあえず、「何やってるの!」と「早くしなさい!」をやめてみてください。それだけでも、必ずお子さんの態度に変化があるはずです。「何やってるの!」と言ってお子さんの行動を止めたいのなら、「××するのはやめようね」と言いましょう。「早くしなさい!」と言う前に、そう言わなければならない状況を作らないよう親が努力をしましょう。もしどうしても「早くしなさい!」と言わなければならない状況になってしまったら、お子さんが本当に早くしなかったらどうなるのかちょっと考えてみてください。ほとんどの場合、それほど早くしなくてはならない理由はないはずです。「早くしないと幼稚園に遅れる」なんていうのはだめですよ。幼稚園に遅れることなんて、お子さんにとって生死を分けるほど重要なことではないのですから。私に言わせれば、しょっちゅう「早くしなさい!」を連発することは、生死を分けるのと同じくらいお子さんの人生を左右することなのです。まず、受容的態度と共感的態度です。

次回は「言ってはいけないその一言 -脅迫編-」です。


**6月6日(月)掲載**

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第161回「言ってはいけないその一言 概論」

いやいや、翔(かける)は大変なことになってしまいました。どうやらおたふくで抵抗力が弱くなっているところへ溶連菌感染があったようで、結局土曜日から4日間40度以上の熱と吐き気で、何も食べられない日が続きました。アレルギー体質で、使える抗生物質が限られているため、点滴による水分補給と座薬による解熱が中心。主治医曰く「消去法で残ったペニシリンをいちかばちかで使ったら、副作用も出ずに効いてくれました」ということで、水曜日からはなんとか熱も下がり、「はら減った」を連発。病院の食事では足りないと、近くのコンビニで買ったおにぎりやお弁当を病院の食事の後に食べています。木曜日には血液検査をしましたが、“まだまだ”の数値だったようで、金曜日には退院をしたかった本人の希望はかなわず、この原稿がアップされる月曜日に退院ということになりそうです。
長男の努(つとむ)はアレルギー性紫斑病、次女の麻耶(まや)は腎臓病、そして翔が溶連菌感染症と、内科的な病気での子どもの入院は3回目。子どもの数が多いっていうことは、それだけ心配も多くなりますね。
23日から始まった高校の中間試験は、追試期間にも間に合わず、“どうなるんだろう”と心配していたら、試験期間に公欠ということはあったけれど、出席停止だったということは学校にも例がないとかで、現在保留中。どうやら、期末試験の一発勝負で今学期の成績をつけるということに落ち着きそうです。『出席停止』という意味を考えると、まあ妥当な線なのかなっていう感じ。当然のことながら、追試扱いだと何点取っても本試験の8割とか。推薦基準のこともあり、だいぶ気にしていた本人も少しほっとしたらしく、“2週間後の試合に向けて、どうやって体力を回復しようか”ということに意識が向き始めたようです。
さて、2ヶ月ほど前に、なっつんさんから“カウンセリングマインドの子育ての特集”というお話がありました。“主夫”という立場でなく、“教育カウンセリング研究所を主宰する者”として、少しお話をしたいと思います。
現在の日本のカウンセリングに最も影響を与えたのは、カール・ランサム・ロジャースという心理学者です。以前の日本におけるカウンセリング(相談)とは、お説教や説得という概念でしたが、ロジャースの唱える非指示的カウンセリング(後に来談者中心療法)によって、大きく変わることになります。
ロジャースは、カウンセリングに必要な要素は、技術よりも態度であり、そして、その基本的態度は、受容的態度、共感的態度、誠実さであると言っています。来談者中心療法でのカウンセラーの役割は、クライアント自身が自己の内面や現在の事態を理解し、自ら決定していくのを助けることと考えられます。それは、クライアント自身が自分の力でよくなっていくという考えに基づいたものです。
この考え方は、そのまま子育てにも当てはまります。そしてこれを基に、極端な言い方をすれば、親が何もしなければ、子どもはまっすぐ育つことになります。もちろん実際は、子どもに影響を与えているのは、親だけではないので、そうはいかないわけですが…。けれども、こういった発想は重要です。どこまで親が子どもに関わるかという、その距離感と、どういう関わり方をするかというその内容によって、子どもは大きく変わってしまいます。子ども自身の成長していこうとする力をまず信じることです。ですから、まさに技術より態度なのであって、その態度を学んで(学問的に学ぶというよりは、自分の感性を研ぎ澄まし、自分自身が謙虚になる。そしてその中から気づくこと)、実践することが、子育てのポイントなのだと思います。
次回は、具体的なことを述べたいと思います。

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第160回「病院から」

いやいや、とほほっ。
こんなことになるなんて…。
今日は、病院からです。なっ、なんと158回のつづき。まさかつづきがあるとは思わなかったんだけど…。
すでに免疫を持っているかと思った翔(かける)がついにおたふくに。ちょうど前回の原稿を送ろうとしていた16日の朝、この日はゴルフの試合だったのですが、前日から身体がだるいと訴えていたので、試合が行われる狭山と川越の境にあるゴルフ場まで送っていってやることにしていました。
「なんか耳の下が痛くて、しこりがあるみたいなんだけど」
と言って翔が起きてきました。見てわかるほどではないのですが、触ってみると確かに耳下腺がしこっていて、さほどの力を加えていないのにかなり痛がります。
「んー、はっきりはしないけど、おたふくかもしれないなあ。だけど、今これくらいだったら、今日1日くらいは保つだろっ」
そうは言ってはみたものの、本当におたふくだったら、ちょっとうつむくだけでも、耳下腺が痛いから、いい結果を出すのは難しいだろうなと思いながら、帰りも私か妻が迎えに来てやるということにして、ゴルフ場で翔を車から降ろしました。
予定より1時間ほど遅れて翔から連絡があり、妻が迎えに行くことに。戻ってきた翔の顔は、明らかにおたふくの様相です。麻耶(まや)のことがあったので、小さい子どものようなわけにはいかないことは覚悟していました。思春期を過ぎた男性にとっては、無精子症の原因にもなる睾丸炎でも併発しようものなら、なおさら大変です。またまたネットを駆使していろいろと調べた結果、万一睾丸炎を併発したとしても、両方の睾丸が炎症を起こすことはまれで、世間でよく言われるように無精子症になることはほとんどないということがわかって一安心。
翔は麻耶とほぼ同じような経過をたどりました。月曜の晩から熱が高くなり、火曜日、水曜日と39度くらいの熱が続きました。それが木曜日になるとすっと引いて、36度台に。これで終わると思ったのに、金曜日のお昼からまた38度6分の発熱。土曜日になるととうとう39度を超えてしまいました。対処療法以外有効な治療法がないとは言え、一応火曜日に受診して薬を飲んでいたのですが、もらった抗生物質が合わなかったらしく、身体中に発疹ができたりもしたので、土曜日に再び受診しました。
「入院も考えないとね。隔離できる部屋を持ってないと受けてもらえないところもあるからね」と先生に言われ、そうならないように祈りつつ、自宅で様子を見ていたのですが、夜になるにつれ熱は上がるばかり。39度3分、6分、40度3分。もらった解熱剤で何とかなるようなレベルを遙かに超えてしまって、結局入院させることに。土曜日の8時過ぎに近くの公立病院に運んで入院させました。病院で計ったら40度9分。小さな赤ん坊ではないので、さすがにびっくりしました。
そして、今日は日曜日。今、私が一人で付き添っています。本来は付き添いは認められないのですが、熱がかなり高いので、付き添ってもいいとか。あまり歓迎すべきことではないですね。やや落ち着いてはきましたが。
こういうときにいつも腹が立つのは、学校と病院の対応。今までほとんど腹が立ったことのない翔の高校ですが、今回はちょっと。明らかにおたふくとわかった16日、23日(月)から中間テストなので、
「熱が下がってもすぐには学校に出られないから、家で勉強しなきゃね」と翔に言うと、教科書が学校だとか。担任とも懇談会で顔を合わせただけで話をしたことがなかったので、教科書を取りに行きがてら話をしてこようかなと学校まで出かけていくと、おたふくだという連絡はすでに入れてあったのに「具合はいかがですか」の一言がない。
「3年生は1学期の成績で評定平均を出すので、今度の試験は大事な試験ですから」
「はあ。本人もだいぶやる気になっていて、学校の勉強はおもしろいって言っています」
「なんとか受けてもらわないと。まあそう言っても、おたふくは学校に来てはいけないっていう病気なので、もう行ってもいいっていう証明をお医者さんからもらってもらわないといけないんですがね」
“何言ってんだ、こいつ。そんなことわかってるから、こうして1時間近くもかけて親がわざわざ学校まで教科書取りに来てるんだろうが!”。
さらに、「私もおたふくやってないので、うつされると困るんですがね」
“いったい早く来させたいのか、来させたくないのかようっ!”って感じ。
病院は、土曜日なので時間外になってしまうことも考えて、朝のうちにベッドさえ空いていれば入院は可能ということを確かめてはおいたんですが、夜になってしまったので、来院する前に改めて電話を入れて、これまでの経過と入院させたい旨を伝えると、
「とにかく来ていただいて、受診していただかないと。入院するかしないかを決めるのは、こちらの医者ですから」
“当たり前だろうが!”。何分ぐらいで来られますかというから、10分くらいと答えておいたのに、病院に着いてから30分も待たされる。そんなうちにも、熱はどんどん上がって40度9分に。
“時間を聞いたのはいったいなんだったんだよぉ!”
当直の医者は医者で、ほとんど立っているのが不可能なくらいの息子を、背もたれもない丸椅子に座らせたまま、長時間経過を聞いている。
「ベッドが空いていれば入院できるって誰が言ったんですか? 看護師? 医者? 医者がそう言ったの? そう言うことは医者と話さないとね」
“ふざけんじゃねえ! こんな総合病院の外来に電話をかけたって、電話口に医者が出るわけねえだろっ!”
みるみるうちに真っ青な顔になり、汗びっしょりの息子の様子に、妻が、
「外の待合いのベンチに横にさせていいですか?」
と聞くと、近くで様子を見ていた小児科の当直医が、
「汗びっしょりで、つらそうですね」
とやっとベッドで診察してくれることになりました。いったい、医者も何を考えているんだか…。
「熱もかなり高いようだし、ご家族も希望しているっていうことで、入院してもらうことにしますから。隔離しなきゃいけないので、個室になるのでちょっと高くなりますがいいですか?」
“だからぁ、最初からそうしてくれって言ってんだろっ!”
今のところ、何か重大な病気があるっていうことではないんだけれど、早くよくなるといいんですが。
翔の世代は、おたふく風邪の予防接種の有効性と副作用(髄膜炎になる可能性がある)が問題になっていた時期で、どちらかというといろいろなものにアレルギーが強く表れる翔は、予防接種を受けていませんでした。もう、今となっては手遅れ。私の判断でそうしたわけだけれど、翔には申し訳ないことをしてしまいました。ただただ、反省です。

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第159回「学校の復権」

昨年、公表された国際教育到達度評価学会(IEA)の学力調査結果で、日本の子どもたちの学力が低下していると公表されて以来、「ゆとり教育」を見直す方向で、文部科学省を始め各地方自治体すべてが、ほぼ足並みをそろえて進んでいます。その後、“ゆとり教育後”の子どもたちの学力が、“ゆとり教育以前”の子どもたちの学力を、ほぼすべての教科で上回っているという調査結果も発表されましたが、こちらには文部科学省や各地方自治体は反応薄。これは、中山文部科学大臣の“詰め込みというよりはたたき込み”という教育観と子どもたちにゆっくりと時間を過ごすことを許さず、隙のないスケジュールの中で何かを学ばせようとする社会的状況が大きく影響しているものだと思います。
ゆとり教育で実際に子どもたちがゆとりを得ていたかというと、必ずしもそうとは言えません。家庭の状況により、学校以外の時間をすべて自由な時間にしている子もあれば、それとは逆に学校以外の時間を塾や習い事といった別な管理形態の中に置く子もいます。ゆとり教育が当初考えられていたゆとりを子どもたちに与えたわけではなく、その是非は別として、少しずれた形で子どもたちに変化をもたらしたと言えるのではないかと思います。
埼玉県の場合、“ゆとり教育”以前に、中学校における“脱偏差値教育”があり、子どもたちに対する学校の影響力は、かなり低下していたと言えます。そこに“ゆとり教育”が追い打ちをかけるような形で実施され、保護者の学校に対する信頼が大きく揺らいだ上、子どもや保護者に対する学校の影響力は、さらに低下することになりました。その結果として、子どもに対する教育が“学校という公権力”から、保護者自身の手に移るという現象も起こりました。
けれども私は、“脱偏差値”や“ゆとり”自体が、即そういう結果を招いたとは考えていません。その間、教員の不祥事は相次ぎ、学校を標的とした事件も数多く起こりました。そして今も起こり続けています。教員に対するこれまでの信頼や学校の安全神話はすっかり崩壊してしまいました。雪印や三菱自動車、そしてJR西日本といった民間企業が起こす不祥事と何ら変わることがない性質の問題に、私たちが抱く公権力に対する不安と憤り。そういったものも含めた教育の状況が、今の結果をもたらしているのでしょう。
先日、埼玉県教育委員会が、子どもだけでなく親をも教育する方針を打ち出したという報道がなされました。子どもをどう育てていいかわからない親を支援するということなら、わからなくはありませんが、低下した学校の影響力を回復させることが目的なら、傲慢としかいいようがありません。
どちらかというと私は、学校教育に対して保守的な考えを持っているので、“学校はない方がいい”などと考えているわけではなく、学校に対する社会の信頼を回復することが大切だと考えています。学校が保護者や子どもからの信頼を回復するためには、親への教育をするなどということではなく、絶大なる権力を持つ学校の綱紀粛正から始めないと、本当の意味での信頼は獲得できないのだろうと思います。
親の教育力の低下を否定するものではありませんが、まず行政がしなければならないのは、学校が本来持たなければならない教育力を向上させること。そのことなくして学校への信頼回復はあり得ません。学校が現状から“復権”を果たすには、学校自ら傲慢さを捨て、謙虚になることが重要なのではないかと思います。


※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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2020年1月 5日 (日)

第158回「わが家のゴールデンウィーク」

私の経営する陶芸教室は、お盆とお正月を除けば基本的に休みは祝祭日しかないので、ゴールデンウィークが唯一の休みらしい休みです。(もっともカウンセリングの方はクライアントさんによって、お休みの日でないとという方もいるので、カレンダー通りというわけにはいかないのですが)
「何しようかなあ?」なんて考えていると、いろいろなことが起こるもので、孫の蓮(れん)が「ほっぺが痛い」なんて言い出しました。よく見てやると、なんと耳下腺が腫れてる。
「ほらっ、仰向けにして上から見てみると、左の耳下腺が腫れてない?」
「あっ、ほんとだ!」
そっと両手で左右の耳の下に手を当ててみると、左の耳の下がかなり堅くなって腫れています。
「麻耶(まや)は“虫歯じゃないの?”なんて言ってたけど、これはたぶんおたふくだよ」
ということになって大騒ぎ。わが家の中で間違いなくおたふくの免疫を持っているのは、私と妻だけ。麻耶は腎臓病を患ったこともあって、予防接種はしていないし、罹った記憶もない。
「翔(かける)はどうだったっけ?」
「予防接種はしてないような気がする」
「罹ったっけ?」
「やってないような気がするなあ…」
これがなんと3日の朝。近くにやっている病院はなし。翔は翔で、6日、7日の試合のためにゴルフ部の合宿中。
「翔、大丈夫かなあ? 連絡してみる?」
慌ててメールを送って、“何でもないよ”という返事が返ってきたものの、考えてみれば罹っていればもうどうしようもないんだから、なにも不安にさせることもなかったのにとメールを送ったことを大後悔。
新聞を開いて近くで休日診療をやっているところを調べ、麻耶が電話をすると、「心配だったら連れてきてください」と言われました。よく意味も考えずに、麻耶が蓮をつれて病院に向かった後、インターネットを開いておたふくについて調べると、薬もなければ、治療のしようもない。“患部を冷やす”って書いてあるところもあれば、“冷やしても効果はない”って書いてあるところもあったりして、要するに“時がたてば治る”っていうか“時がたたないと治らない”っていうか…。
「そんな気がしたんだよ。もうすっかり忘れちゃったねえ」
自分で子どもを育てていたころには、親同士で情報交換をしたり、本を読んだり、病院の先生の話を聞いたり、病気に対する知識もずいぶん持っていたけれど、そういうことってけっこう忘れちゃうらしくて、“耳下腺が腫れているからおたふくかな?”っていう程度にはわかるけど、どう対処すればいいかなんて、何となくそんな気はするものの、すっかり飛んでしまってました。子育てっていうのは、次から次へといろいろなことが起こって、そのつど必要なことは吸収していくけれど、おたふくのように一度罹ってしまうと二度と罹らないような病気の場合は、罹ってしまった時点で必要がなくなってしまうので、忘れちゃうみたいですね。わが家の場合は、麻耶も翔も罹っているか罹っていないかもわからないので、しっかりと覚えていなくちゃいけなかったのかもしれないけれど、ある程度の年齢を過ぎちゃうと、子どもがよく罹る病気についてなんて、意識しなくなっちゃうものですね。子育てってそれでいいのかも???
こういうときのインターネットの威力は絶大で、病気のことならわからないことはほとんどないので、とても助かっています。もちろん大人の病気もね。ただし、勝手な素人判断を招く危険性はあるので要注意!
やっぱり麻耶は、まだ罹っていなかったらしく、3日の晩から耳下腺が痛くなって、4日には顔の形が変わるほど左の耳下腺が腫れてきてしまいました。蓮は熱を出すこともなくたった2日で治ってしまったのに、麻耶は39℃近くも熱が出て、未だに腫れが引きません。大人になって罹ると重いといいますが、ほんとにそうですね。
翔は全然症状が出ていないので、気がつかないうちに罹っていたのかも…。罹っても症状がでない人も30%くらいいるみたいなので、翔は運良くそうだったのかもしれません。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第157回「19歳コンビ大活躍!」

「来週からスクールに通うことにしたから」
と翔(かける)に告げると、
「ほんとにやんの?」
と信じられない様子。
「やるよ」
「ほんとに?」
「やるって言ってるだろ!」

翔がゴルフを始めたのは小学校4年生の時。家から車で15分程のところにあるゴルフ練習場へ週に1、2度送ってやっていました。娘の麻耶(まや)が一時やっていた時期はあったのですが、私も妻も全くゴルフをやりません。「まあ、たまには一緒に付き合ってやるか」とゴルフショップで安物のアイアンのセットと中古のドライバーを買って、ちょっと練習場の打席に立つくらいなもの。翔がゴルフを始めて8年も経つのに、打席に立って今までに打った球の数なんて、よく思い出せば数えられるかも…。ラウンドといえば、翔が小学生だったころ、青木功ジュニアクラブ(プロゴルファーの青木功が主宰する誰でも入会できるジュニアクラブ。年に数回全国各地で合宿があり、青木功本人のワンポイントレッスンが受けられる。ただし、合宿は参加多数の場合、参加経験のない人が優先)の会員特典(子どもと一緒ならばハーフラウンドが1000円)で、翔と一緒にハーフラウンド(9ホール)を2回、それとは別に伊豆で行われたジュニア合宿について行って、待ち時間(寝泊まりも子どもとは別なので、2日間ずっと待ち時間)に1ラウンドしたことがあるだけ。そんなわけだから、翔にしても今さら父親がゴルフスクールに入るということが信じられなかったのでしょう。
翔は現在、高校3年生でゴルフ部に入っています。親がゴルフをやらないなんていうのはウチくらいなもの。中にはレッスンプロもいれば、トーナメントプロもいる。詳しくは知らないけれど、ゴルフ場を持ってるなんていう人もいるらしい。なんかもう私には想像を絶する世界。
高校ももう最後の年になって、翔もあと数回の公式戦を残すのみ。なんとか関東大会までは出場したことがあるものの、あと1歩というところで全国大会の出場経験はなし。いつも最後のところで甘さが出ちゃって崩れちゃう。やっぱりこれがゴルフを知らない家庭の限界かなあ? もし翔が本気でプロを目指そうとするのなら、このままではちょっと…。そこで、私が立ち上がったわけです。(ちょっと手遅れかも…)
女子ゴルフ界は19歳コンビが大活躍。今やゴルフを知らない人も知っている宮里藍。そろそろじゃないかと言われて、その通り先週優勝を果たした横峯さくら。それに1歳年下のアマチュア、諸見里しのぶも加わって、今年はますます女子ゴルフの人気が沸騰しそう。
先週のトーナメントで優勝した横峯さくらは、お父さんがキャディーを務めることで有名でした。ワイドショーでも何度も取り上げられ、親子関係の手本としてコメンテーターたちも褒め称えています。宮里藍もお父さんが師。競技は違うけれど、卓球の福原愛やレスリングの浜口京子も親子関係が度々報道されました。どの親子を見ても、親と子の関係がとても近くて、親が子どもにすべてを掛けたことで成功した例。
横峯さくらが優勝したあと、お父さんもマスコミに引っ張りだこ。あるラジオ番組で、翌日ゲストで横峯さくらのお父さんが出演することを予告していました。司会をしている荒川強啓が「最近、親子関係が希薄な中で、横峯家の親子関係を見習ってほしい」旨のコメントを述べていましたけれど、ちょっと気になりました。
スポーツの世界で親子が力を合わせて、優秀な成績を収めることはよくあります。けれどもそれは、父親や母親が親という立場を超えた非常に優れた指導者(コーチ)であったからであって、普通の家庭の親子関係と同じ次元で語られるべきではない。横峯さくらのお父さんはプロのゴルファーではないけれど、コースの攻め方やパットのラインの読み方などとても優れていて、横峯さくらを知り尽くした誰よりも優秀なキャディーとして、優勝に貢献したわけです。
うちの研究所に相談に訪れる人の大半は、親子関係が近すぎる相談です。子育ての放棄や虐待など、子どもとの距離がとても遠くなっている親子が増えていることも事実ですが、まったく逆に親子関係が近すぎる親子も増えているということもまた事実です。
子どもとの距離を縮めたいなら、親自身が優秀な指導者になること。ただ、ベタベタと友達感覚だけで甘やかしている親子はほとんどの場合子どもの自立がうまくいきません。
さて、我が家の場合、親が優秀な指導者になりうるんでしょうか? どうも、その辺が怪しいので、翔がプロゴルファーとして成功するのは並大抵のことじゃないかもね。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第156回「人間の特徴」

前回の内容をさらに受けて。
「人間の持つ特徴は?」の問いにどんな答えを持つでしょうか?
おそらくいろいろな答えが出てくると思います。「道具を使う」「火を使う」「言葉を使う」「考える」「意志がある」などなど。どれもその通りだと思いますが、私が人間の特徴としてどうしてもあげたいと思うのは、「直立二足歩行」(二本足で立って歩く)と「他の動物よりも未熟で生まれる」ということの二つです。

人間の持つ特徴というのは、子育て・教育を語る上で非常に重要です。それは、人間がその特徴を持ち合わせているからこそ、他の動物とは違う人間らしい子育てが生まれ、さらにその子育てが“人間”を作っていくと考えられるからです。

さいたま市にお住まいの元教育学会会長で東京大学名誉教授の大田堯(おおたたかし)氏はその著書の中で、人間が「直立二足歩行」をする理由について、「手が使えるよう」とか「遠くが見渡せるよう」とかいう理由をあげずに、「その気になったから」と言っています。なんだか禅問答みたいな理由ですが、「その気になったから」という言葉は、「直立二足歩行」を人間の特徴として考えるとき、妙にしっくりきます。ラッコやアライグマだって手は使うけれど立って歩くわけではないし、“遠くが見渡せる”というなら、ダチョウやキリンのように首が長くてもいいわけで、どれをとってもなんとなく不満が残ります。そんな中で、おそらく「その気になったから」という理由を否定できる人はいないんじゃないでしょうか?道具や火や言葉を使うといった特徴にも、当てはまるわけで、「考える」「意志がある」という言葉とも共通する。そういった意味では、「その気になる」ということが、人間の特徴と言えなくもない(もちろん、生物学的な特徴というわけじゃなくて、教育学的に見た特徴ということだけれど)。

また「未熟で生まれる」とはどういうことかというと、他の哺乳動物は生まれたときからその種の形状をし、生まれた直後にはその種の親が持つ特徴をほぼ100%持っているんだけれども、それに比べて人間の赤ちゃんは、親の形状とは違って頭がきわめて大きく、人間の持つ特徴をすべては持っていないということです。このことは、人間は生まれて間もない赤ちゃんの時には非常に弱い存在であるけれど、人間として生きるための多くのことを身につけることによって、優れた適応力を身につけ、他の動物に比べてとてつもなく強い存在になれるのだということにもつながるわけです。

赤ん坊の時からオオカミに育てられた「カマラ」と「アマラ」が、人間社会に戻ってからも、人間には戻れず短い生涯を終えたという話(興味のある方はネット上で「カマラとアマラ」で検索してみてください)は、教育学を学ぶ者にとってあまりにも有名な話です。この「カマラ」と「アマラ」の出来事は、人間が人間として生きることの教育の重要性を物語っているものであり、人間が人間としての正しい教育を受けなければ人間にはなれないという、一つの証明でもあります。

親や社会が子どもにどういったものを与えるかによって、子どもはどんなふうにでも育ちます。そして親が子どもに何を与えたらいいかということは、子育ての大きなテーマでもあります。今までの連載の中でも、子どもに何をどう与えるかということを折に触れ述べてきたつもりですが、“子どもは誰のものか”という視点で見ていくと、自ずから一つの方向性が見えてくるように思います。

人間は「その気になったから立った」という大田氏の話は、まさに子育ての勘所でもあります。この人間の特徴をふまえて、子育て・教育を考えていくことが重要なのではないでしょうか。


**4月18日(月)掲載**

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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第155回「子どもの自立を助けるもの その2」

今日はお風呂です。
私がお風呂に入っていると、孫の沙羅(さら)がやってきて、お風呂のドアの前に立つとどんどん服を脱ぎはじめました。まだ一人ですべてを脱ぎ着できない沙羅は、とりあえず自分で脱げるものをすべて脱いだところで、私の方を見て、
「お風呂はいる、お風呂はいる!」
と私に服を脱がせるように要求しています。
「沙羅ちゃんもお風呂はいるの?」
と私が確認をすると、
「うん!」
と大きくうなずいて、にっこりしました。

湯船に浸かった沙羅は、湯船から手を伸ばせば届くところにかけてあるネットの袋から、凧糸のような糸のついた25cmくらいの棒を出して、
「じいちゃん、つり。じいちゃん、つり」
と言っています。よく見ると、糸の先に磁石がついています。
「おさかな、おさかな」
と言いながら、沙羅が指を指しているネットの中を見ると、鯛、イルカ、クジラ、タコなどの形をしたプラスチックに磁石がついたものが入っていました。それを全部湯船に浮かべて、魚釣りの始まりです。
釣り竿についている磁石は、直径1㎝くらい、魚たちについている磁石は5、6㎜といったところですから、沙羅一人ではうまく釣れません。釣り竿にちょっと手を添えてやって、すべての魚(クジラやイルカは魚ではないけれど)を釣り上げると沙羅は大喜び。
「もっかい、もっかい」
ともう一度やることを催促し、結局同じことを4回やりました。

その後、お風呂に入る度にこの魚釣りを毎回やらされることになったのですが、クジラやイルカ、タコまでいるこの魚釣りは、小さな子どもにとってはとても楽しいもののようですが、大人から楽しさを与えられているという点で粘土遊びと同じ。

最近、カウンセリングや教育相談に訪れる子どもたちを見ていると、どの子も母子分離あるいは父子分離がうまくできていません。親から与えられることに慣れ、物だけでなく行動までが親の指示によって決定されていることがほとんどです。子どもが自立を果たすには、子ども自身の努力や工夫が不可欠ですが、そういったものが全くないように感じます。

前回、今回と2回にわたって述べたような遊びは、どんどん大人によって工夫され、子どもたちが考え、工夫する余地がなくなっています。もちろんTVゲーム、カードゲームも然りです。それだけでなく、現代社会が抱える問題の中で、子どもの行動範囲はどんどん縮小し、子どもの行う行為というものが、ほとんど大人の指示なしではできなくなってきています。大人から用意されたことをこなし、「××しなさい」という指示に従って行動する。そういう行動パターンの中からは、なかなか自立心は生まれてきません。
子どもに対して大人が過剰に手を貸すことを慎み、子どもの中から努力や工夫が生まれてくるような関わりを構築していくことが重要に思います。
おもちゃメーカーにすれば、いろいろと手を加えることで値段を上げているのでしょうから、企業戦略上は必要なことなのでしょうが、子どもの発達にはちょっとやりすぎなんじゃあないのかなあ???
粘土は粘土。まっさらな状態で作りたいものを作らせてあげたいですね。


**4月11日(月)掲載**
(大関 直隆)     
元の文章を引用する 

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   Re: 第155回「子どもの自立を助けるもの その2」 2005/04/14 22:54:11  
 
                      なっつん

 
  大関様、こんにちは。

子供達は外に遊びにでても不審者などに気をつけないといけないし、また、遊び場も極端に減ってきていて、なかなか外で遊びづらくなってきている現実があるのでしょうね。
でも、それは今の社会の現実だから受け止めるしかない訳で、憂うよりもその中からどうしたら子供達が自立していけるのか、その方法を親や学校、社会が考えていかなくてはいけないのだと思います。

「大人から楽しさを与えられている」とは子供は感じていないだろうし、また、楽しさを与えられたからといって自立の妨げになるものではないと思います。粘土やおもちゃというものを与えなかったらその楽しさはわからないわけだから与える道具を大人が選んであげるというのは大事なことだと思うのです。そして与えるだけじゃなく一緒に楽しさを共有することで親子のかかわりも増えるでしょうし、子供を理解する手助けになるのではないでしょうか。
しかし自分の子供には与えたくないおもちゃ(例えばゲームなど)も周りのお友だちとの関係で欲しがったりすることもあるのですね。。。これが一番悩ましいところなのですが、自立へ向かう子供にどう与えたらいいのか、どう使うかということを子供が考えれるようなかかわり方をすることが大切なのだと思います。一概にこどもにだけゆだねても,親が○○してはいけない、と禁止をしてしまっても、自立はできないことだと思います。一緒に(親だけが決めるのではなく)ルールを決める、欲しがってもゲームの内容でふさわしくないものは理由をきちんと説明し与えない勇気を持つ、などが必要なのだと私は思っています。

母子分離、父子分離ができていない親子というのはきっとこういうかかわりが希薄だったので、自分の子どもを理解できていなくて発達や自立を「信じてあげる」ことができないのじゃないかな、、、と思うのです。

おもちゃは自立を妨げるものではなくて、大切なのは大関さんのような「手を添えてあげる」ことのような、押し付けじゃないかかわり方を親がしていくことと、よく子供のいうことを聞いてあげて子供が自分が考えていることやしていることを整理してあげることが大切なのじゃないかと私は思います。その結果親子の関係がうまくいくことで、子供が安心して自立することができていくのじゃないかと思ったりしています。

 
  
元の文章を引用する
 

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   すみません 2005/04/18 8:43:15  
 
                      大関直隆

 
  レスできなくて申し訳ありませんでした。
第156回に関連したことを述べておきましたので、是非お読みください。
子どもに何を与え、どう育てるかは誰もが悩むことですよね。
今後もなにか参考になるようなことが述べられればと思っています。

 

※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

 

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「男はつらいよ お帰り寅さん」観てきました!

明けましておめでとうございます!

12月31日(木) 浦和PARCOにあるユナイテッドシネマで「男はつらいよ」シリーズ50作目の「男はつらいよ お帰り寅さん」を観てきました。

渥美清さんが1996年8月4日、68歳で亡くなり、その後「渥美さんなしに寅さんは撮れない」という山田洋次監督の言葉通り、シリーズの新作は発表されずに来ました。

それが今回、渥美さんの映像をCGで織り交ぜながら、これまでの作品を切り貼りしてつなぐという手法(アイディアやコンセプトについては横尾忠則氏が「私の発案」としてトラブルに発展しているのですが)で1つの作品として発表されました。

「お帰り寅さん」は、さくら(倍賞千恵子さん)の息子、満男と光男の高校時代の同級生で、かつて結婚の約束までした初恋の人・イズミ(後藤久美子さん)を中心に展開していきます。

満男役の吉岡秀隆君は、高校受験の際、公立高校を受験したいということで私のところに相談に来て、半年ほど勉強を教えていた時期がありました。結局、公立高校では俳優としての活動が制約を受けてしまうということで、前年に飯能に開校した「自由の森学園」(息子が1回生として在学していて、当時山田洋次監督も教育研究協力者に名を連ねていました)を勧めたという経緯があります。

その自由の森学園に在学していた現在ドイツ在住の息子が、たまたま帰国中だったので、一緒に観に行くことになったんです。

映画は、ちょうど吉岡君がウチに通ってきていた直後、高校生だったころの回想シーンが多く、とても懐かしく観ることができました。

「寅さん」の発する言葉は、長い年月を経ても、心にしみるものがあります。人の生き方の本質をついた言葉だからでしょう。今回(以前に語られた言葉ですが)も、「困ったことがあったらな、風に向かって俺の名前を呼べ。おじさん、どっからでも飛んできてやるから」「何と言うかな、あー生まれてきてよかった。そう思うことが何べんかあるだろう。そのために生きてんじゃねえか」「思っているだけで何もしないんじゃな、愛してないのと同じなんだよ。愛してるんだったら、態度で示せよ」等々、有名なメロン騒動も出てきます。

「古いけど、古くない」
そんな寅さんでした!

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