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2019年2月12日 (火)

第79回「戦争で傷ついた子どもたち」

講演会に呼ばれると必ず話すのが、妻と私の育った時代背景だ。
妻は昭和16年(1941年)生まれ、私は昭和32年(1957年)生まれの16歳違い。16年の開きがあると「同じ時代背景」で育つなどということはあり得ないが、ほんのわずかではあるが戦争を知っている世代とまったく戦争を知らない世代ということで、さらに年齢差が増幅されて感じられることがある。

昭和16年といえば、12月8日の真珠湾攻撃による日米開戦の年。義母は日米開戦の報にショックを受け、14日に妻を早産したという。この前後に生まれた子どもには「太平洋」の「洋」を取って「洋子」という名前が多い。

私の生まれた昭和32年は、どういうわけか高度成長を象徴するような巡り合わせの年だ。小学校入学の年(1964年)が東京オリンピック、中学校入学の年(1970年)が万国博覧会。その後何度か聞いているせいもあろうが、「パーン パカパッパッパッ パッパッパッ パーン …」というオリンピックのファンファーレは今でもよく覚えているし、万国博覧会で数時間も並んで入ったソビエト館の記憶もある。

もちろん食べ物の好みも違う。妻の子ども時代は米を食べることが難しかった。最近はだいぶ変わってはきたが、妻は小麦粉を練って作ったようなもの(すいとん、うどん、お好み焼き、ピザ…)は「代用食」と言ってあまり好まなかった。

私の育った時代も、ファミレスもない、ファーストフードもない、我が家のおやつは、さつまいもの蒸かしたものやじゃがいも・里芋の茹でたものなどということが多く、決して今ほど豊かではなかったが、食べ物に困るなどということは想像もつかない。

妻はよく白米のおにぎりのおいしさを語るが、私の知っている「炊き立てのゆげの立っている白米のおにぎり」のおいしさではなく、「真っ暗な防空壕の中で見ず知らずのおじさんからもらった、たった一つの白米のおにぎり」のおいしさなのだ。

ついさっき、「世界ウルルン滞在記」(TBSテレビ)を見た。“東ちづる”さんの行った「ドイツ平和村」の映像が流れた。「平和村」は、戦争で傷ついた子どもたちを収容し、治療し、リハビリし、祖国に帰すことを目的とするところだ。その運営はすべて募金で賄われているそうだ。現在はアフガニスタンの子どもたちが中心で、われわれ日本人からは、想像もつかない惨状がそこにはあった。地雷で両手を失った子、放射能と思われる被害で顔の形状が変わってしまった子、爆弾で全身がただれてしまった子、頭蓋骨のない子、足のない子、筋肉がえぐられた子…。

ある男の子が、祖国に「帰りたいけど、帰りたくない」と言ったのはとても印象的だ。数ヶ月から数年に渡る治療とリハビリがすんで、祖国に帰れることになった子の発表の日、祖国に帰れることになった子の喜びと残って治療を続けなければならない子の悲しみは私の心を強く打った。調査をした上で帰国をさせるようではあったが、その子どもたちが祖国に帰った時、片親だけでも生きているという保証はどこにもない。私は、どこでどう使われるかわからないので、寄付や募金は好きではないのだが、この子たちのために、なにがしかの金額を送ろうと決めた。

何かと批判の矢面に立たされ、政界引退を決めた野中広務氏だが、先日「ニュース23」(TBSテレビ)のインタビューの中で、「二度と戦争への道を歩んではいけない。日本人が傷つくことも、他国の人を殺すこともあってはならない」と強く叫んでいた。イラクに自衛隊を派遣することが本当に国際平和に貢献することなのか、私にはどうしても疑問に思える。まさに自分の手で子どもを抱き上げ、育てたことのある人間の感覚なのかもしれない。今、目の前にいる子どもたちを絶対悲惨な目に合わせたくない。


**2003年9月22日(月)掲載**
※カテゴリー「子育てはお好き? ー専業主夫の子育て談義ー」は、2002年より2012年までの10年間、タウン情報サイト「マイタウンさいたま」(さいたま商工会議所運営)に掲載されたものですが、「もう読めないんですか?」という読者のご要望にお応えして、転載したものです。

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