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2016年2月

2016年2月14日 (日)

第16回 「ソニーと任天堂とセガを潰せばいい?」

 県内の小・中学生の体力がここのところ急激に落ちてるんですって。

 ほらっ、学年が一つ上がると毎年体育の時間にやらされましたよね。50m走、持久走、ボール投げ、反復横跳び、踏み台昇降・・・。

 たとえば、小学校4年生の50m走はここ数年で0.3秒、中学生の持久走は10秒、小学校高学年のボール投げは男子で2m、女子で1.5m、それぞれ記録が悪くなっているんですって。こうやって数字をあげられると、「これはかなりひどい体力低下だな」って思いますよね。
 案外こういう記録って覚えてて、 「私は50m走××秒だった」とか「僕は持久走×分×秒だった」なんていう人もいるんじゃないのかな? 私ももうすぐ45歳になるのに、「私は小学校××年の時には50m××秒だった」なんて子どもに自慢しちゃったりしてね。「じゃあ今、何秒で走れるんだよ?!」って言われると、話題を変えるしかないけどね。

 さて、こういうことが発表になると慌てるのが学校。発表してるのは県の教育委員会だったり、文部科学省だったりするわけだから当たり前だけど、いろいろな社会情勢を考えることもしないで、いきなり子どもの指導にくる・・・。 突然「朝のマラソンタイム!」とか「休み時間は必ず外に出よう!」とか・・・。

 こういう指導ってどこか間違ってるよね。何のためにやらされてるんだか子どもにはよくわかんない。要するに問題を指摘されたから、「ウチの学校は××をやって体力増進に努めてます」って、そこの学校の校長が言いたいだけなんだから。そんなことで本当に子どもの体力が伸びたことなんてない。

 子どもが外で遊ばなくなったことを原因にあげる人が多いようだけど、だからといって学校の休み時間に外へ出したから体力が向上するなんて誰が信じてるのかねえ??? それも強制的にやったりなんかしちゃって、また子どもに負担を強いてる。外に出るか出ないかは社会的環境の変化による結果であって、遊ぶところもないんだから無理やり出したって意味ないよね。

 私が子どものころは、空き地もいっぱいあったし、校庭は常に開放されてた。「かけっこ」とかいっちゃって、何の意味もなくただ走ってるのが遊びだったりしてね。今はどうかっていうと、空き地はもちろんなくなっちゃったけど、学校開放とかいいながら休日の校庭も、大人のソフトボールとか少年野球とかサッカーとかで使ってる。もちろんそれがすべて悪いわけじゃないけど、そこには子ども全体の体力向上とは矛盾してるものがあることを大人はわかっていなくてはいけないと思う。

 校長先生と話をすると、「開放しても塾や習い事で子どもがこない」って言うんだよね。そのうち塾に通わせてることの批判までしちゃって・・・。それで無理やりマラソンをやらされたり、外へ出されたりする子どもはたまったもんじゃない。習い事や塾の時間が減るんならまだしも、片や学校が受験競争を煽ってる側面もあるわけだから。

 よくPTAの中でTVゲームばかりやって問題だって話が出るけれど、TVゲームが問題なら、とりあえずソニーと任天堂とセガを潰せばいい。でもそうはいかないもんね。TVゲームの売り上げが伸びることで今の日本の生活が維持できているっていう側面もあるわけだし・・・。

 まあ、そういった矛盾ばかりを抱えているわけだから、「体力」の問題も子どもに負担をかける前に、まず大人がやらなくちゃならないことは、子どもが外に出たくなるような環境(物理的にも精神的にも)を整備してあげることなんじゃないのかな。

**6月25日(火)掲載**

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第15回 「がまん! がまん!」

 PTA連合会の集まりの「ご挨拶」の中に「がまんを大切に」という話がありました。あるサッカー少年団で、指導者とトラブルになった5人のレギュラー(?)のお母さんたちが子どもをやめさせてしまったという話。「子どものためには親は多少のがまんをすべし」というお話であったと思うのですが、まあその通りと思うところがある反面、どこかちょっと違和感があって・・・。

 本当にお母さんたちががまんをするのが正しいのかなあ??? おそらくがまんはしてきたけれど、それが限界にきてやめさせたのでは? そう考えるほうが自然ですよね。

 幼稚園をやめさせちゃった経験を持つ私の感覚は、ややお母さん寄り。幼稚園と違って少年団は仕事でやっているわけじゃないので、そういう意味では「義務」はないわけですけど、でも何かを教える指導者という点を考えれば、子どもの信頼、親の信頼があってこそ成り立つもの。そこのところが、どうも欠けている。監督、コーチあるいはもう少し幅を広げて、教師とかいう肩書きが付くとなんでも自分の思うようにやっていいという錯覚に陥るんじゃないのかな??? 明らかに主体が入れ替わっちゃったりして・・・。

 子どもや親に媚びることで人気があるのが名監督とは思わないので、時に子どもや親と対立しても頑固に譲らないなんていうのも嫌いじゃないけれど、その前に確固たる信頼関係を築いておくことが必要ですよね。それができないのはいい監督、コーチではない。

 そういうことを抜きに「がまんが大切」はちょっと違うんじゃないかな???  世の中には、「非常識なヤンママ」批判が横行してるけれど、本当にそうかな??? 「今の若い連中は・・・」なんていうのは、今に始まったことじゃなくて、私たちも言われてきたし、たぶんもっと上の世代も言われてきたんじゃないのかな?

 最近強く思うのは、大人の(それも40代・50代・60代)マナーの悪さ。つい一昨日も、ファミレスで大きな声で携帯かけてるおじさんがいたし、「前向き駐車でお願いします」って書いてあるマンションに面した有料駐車場で、思いっきりきっちりバックで停めてるおばさんもいました。ああいう奴に限って自分の家が駐車場の隣だったら大騒ぎするんだろうな、なんて思ったりもしちゃって・・・。

 そうそう、電車の中でも大きな声で平然と携帯使ってる教師も知ってるし、かなりのお年寄りや子どもを抱いたお母さんが目の前に立っても、寝たふりをして席を譲らないのは結構いい年をした(もちろん電車の中で立っていても平気なくらいの)おばさんやおじさんですよね。  「がまんが大切」「マナーが大切」、どちらもその通り。でも、そう言う前に『大人』が考えた方がいいことっていっぱいあるんじゃないのかな???

追記  よく学校のそばに「あいさつ通り」っていうのがあるけれど、あいさつしてる大人を見たことないよ。学校に行ってもあいさつしないのは、子どもじゃなくて先生方だしね。心当たりある?

**6月18日(火)掲載**

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第14回 「PTA PTA PTA」

 腎臓病で入院をしていた麻耶(まや)は、退院後も数年間通院をしました。2週間おきが1ヶ月おきになり、そして3ヶ月おき、6ヶ月おきと徐々に通院の間隔も空いていきました。  退院後2年が過ぎたころ。麻耶は小学校5年生、翔は3歳になっていました。

 尿検査、血液検査の結果から少しずつではありますが、病状も良くなっていることがうかがえました。通院のときにはいつも翔(かける)が一緒です。再入院の心配もほとんどなくなり、南浦和から虎ノ門への通院は麻耶にとっても翔にとっても、「都会へ出る」という一つの楽しみになっていました。

 入院中からほぼ毎日のように採血されていた麻耶は、腕から血を採られることにすっかり慣れてしまっていて、恐怖心がないどころか採血室を出た途端、にっこりしながら、 「今日のお姉さんはけっこう上手だったよ」などといつも採血をしてくれた人の評価をしたりしていました。

 通院の楽しみの一つに、病院のレストランでの食事があります。ながーい待ち時間とほんのわずかな診察のあと、採血をして、そして薬ができるのを待つ間、必ず3人でレストランに寄りました。

 この日もいつものようにレストランへ。

 もちろんそれほど洒落たメニューがあるわけではありませんが、それぞれ食事とデザートを注文して、注文したものがくる間、水を飲みながら話をしていました。まだ3歳の翔にとって、病院(それも電車と地下鉄を乗り継いで1時間以上かかるような大病院)は、とても興奮するところです。ひとりできちっとレストランの椅子に座っていますが、気持ちが高ぶっているのがわかります。

 滅多にないこと(私はこのとき以外一度も記憶がない)なのですが、夢中になって話をしていた翔の手がコップに引っかかって、水をこぼしてしまいました。

 私と麻耶はすぐにおしぼりで水がそれ以上広がらないように押さえると、不安そうにこっちを見ている翔に、にっこりと微笑みかけました。

 病院のレストランというのは一種独特な雰囲気があります。外来の診察を終えた人、点滴をつけたままお茶を飲んでいる人、身内の手術が終わるのを待つ人・・・、どの人を見てもそれなりにどこか暗い部分をを持っています。

 翔がコップを倒した瞬間、氷の音とコップがテーブルを打つ音でレストラン中の人たちが、一斉に私たちのテーブルを注目しました。ただでさえ静かなレストランが、さらにシーンとなり、全然大げさでなく、一瞬そこにいる人たちの動作が凍りついたのがわかります。そして、次の瞬間、私が翔に微笑みかけているのを見た”観客”たちは、それまで力んであげていた肩を一斉におろすのでした。 そこに居合わせた誰もが、私が翔を怒鳴りつけることを想像した瞬間だったのです。

 子どもはよく失敗をします。けれども、それを認めようという気持ちをほとんどの大人は持っています。そして、誰かが子どもの失敗を認めた時、それを見ていた大人たちはとても暖かい気持ちになります。 「ああ、怒らなくてよかった!」 ほんの一瞬、暗い病院のレストランの中が”ポッ”と明るくなったことを、私はとても幸せに感じました。

 「やっぱり子どもの失敗を怒るのはやめよう」、その時そう思ったはずの私でしたが、すっかりそんな体験は忘れて・・・  やっぱり子どもの失敗を怒るのはやめよう!!

**2002年6月4日(火)掲載**

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第13回 「あっ、コップの水が!」

 腎臓病で入院をしていた麻耶(まや)は、退院後も数年間通院をしました。2週間おきが1ヶ月おきになり、そして3ヶ月おき、6ヶ月おきと徐々に通院の間隔も空いていきました。

 退院後2年が過ぎたころ。麻耶は小学校5年生、翔は3歳になっていました。  尿検査、血液検査の結果から少しずつではありますが、病状も良くなっていることがうかがえました。通院のときにはいつも翔(かける)が一緒です。再入院の心配もほとんどなくなり、南浦和から虎ノ門への通院は麻耶にとっても翔にとっても、「都会へ出る」という一つの楽しみになっていました。

 入院中からほぼ毎日のように採血されていた麻耶は、腕から血を採られることにすっかり慣れてしまっていて、恐怖心がないどころか採血室を出た途端、にっこりしながら、 「今日のお姉さんはけっこう上手だったよ」などといつも採血をしてくれた人の評価をしたりしていました。

 通院の楽しみの一つに、病院のレストランでの食事があります。ながーい待ち時間とほんのわずかな診察のあと、採血をして、そして薬ができるのを待つ間、必ず3人でレストランに寄りました。  この日もいつものようにレストランへ。

 もちろんそれほど洒落たメニューがあるわけではありませんが、それぞれ食事とデザートを注文して、注文したものがくる間、水を飲みながら話をしていました。まだ3歳の翔にとって、病院(それも電車と地下鉄を乗り継いで1時間以上かかるような大病院)は、とても興奮するところです。ひとりできちっとレストランの椅子に座っていますが、気持ちが高ぶっているのがわかります。

 滅多にないこと(私はこのとき以外一度も記憶がない)なのですが、夢中になって話をしていた翔の手がコップに引っかかって、水をこぼしてしまいました。

 私と麻耶はすぐにおしぼりで水がそれ以上広がらないように押さえると、不安そうにこっちを見ている翔に、にっこりと微笑みかけました。

 病院のレストランというのは一種独特な雰囲気があります。外来の診察を終えた人、点滴をつけたままお茶を飲んでいる人、身内の手術が終わるのを待つ人・・・、どの人を見てもそれなりにどこか暗い部分をを持っています。

 翔がコップを倒した瞬間、氷の音とコップがテーブルを打つ音でレストラン中の人たちが、一斉に私たちのテーブルを注目しました。ただでさえ静かなレストランが、さらにシーンとなり、全然大げさでなく、一瞬そこにいる人たちの動作が凍りついたのがわかります。そして、次の瞬間、私が翔に微笑みかけているのを見た”観客”たちは、それまで力んであげていた肩を一斉におろすのでした。 そこに居合わせた誰もが、私が翔を怒鳴りつけることを想像した瞬間だったのです。

 子どもはよく失敗をします。けれども、それを認めようという気持ちをほとんどの大人は持っています。そして、誰かが子どもの失敗を認めた時、それを見ていた大人たちはとても暖かい気持ちになります。 「ああ、怒らなくてよかった!」 ほんの一瞬、暗い病院のレストランの中が”ポッ”と明るくなったことを、私はとても幸せに感じました。

 「やっぱり子どもの失敗を怒るのはやめよう」、その時そう思ったはずの私でしたが、すっかりそんな体験は忘れて・・・  やっぱり子どもの失敗を怒るのはやめよう!!

**2002年5月28日(火)掲載**


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第12回 「男の子育て」が注目されてはいるけれど・・・

 最近「男の子育て」を取り上げている新聞記事をよく目にします。「ああ、やっと男の子育ても認知され始めた」っていう思いがある反面、「子育て」っていうことが本当に理解されているのかなあと疑問に思うこともよくあります。

 「子育て」っていうことに対する考え方も千差万別なので、どういう子育てがいいとか悪いとかいうのは難しいけれど、「男の子育て」を扱った記事や本をみて感じるのが、”男は無責任”っていうことです。もちろん私が完璧な子育てをしてきたわけじゃないので、中学三年になる翔(かける)についてはもちろんのこと、二十歳を過ぎた息子と娘、三十歳を過ぎた娘と息子、誰を見ても間違った子育てをしてきてしまったのではないかという後悔の念ばかりでではありますが。

 けれどもそういった問題とは別に、「男の子育て」から見えるものは、「みたい時にみる」的発想です。「やってみるとおもしろい」「休暇のときに子どもをみる」「子どもと遊ぶ」こんな言葉が並んでいるものも結構あります。もちろん、日常的に子どもと接する時間が少ない父親にとって重要なことなので、そうできる父親が増えるといいなあとは思います。けれども、これが「子育て」ではないという認識を持つことも重要です。

 テレビや雑誌で取り上げられるようになってから、かなり多くの場所で講演をする機会を与えていただきました。夫婦の年齢差のこと、ステップ家族(継父・継母がいる家族のことを最近そう呼ぶのだそうです)のこと、主夫のこと、性教育のこと、いろいろ話をしますが、さらに細かくいえばその中に「男の子育て」があります。これには重要な要素がふたつあります。ひとつは「男の」ということ、もう一つは「子育て」ということです。

 はじめに述べたように、「男の」という部分については、やっと認知がされてきたので、私がまさに小さい子どもたちを育ててきたころに比べると、ずいぶん「男」が育てることも楽になったなあと感じます。マスコミに登場することで私も少しはそういった世の中の流れに貢献できたのかなあ、なんて時々思うこともありますけれど。

 ところが一般に「男の子育て」といった場合には、ここで終わってしまっていると思うのです。もう一つの要素である「子育て」の部分は常に省略されているような気がします。

 子育ての本質は「休みがない」ということです。自分がどんなに具合が悪くても、子どものことは必ずやらなければならないのです。そこがほとんどの「男の子育て」には欠けています。とりあえず「子どもと接する時間を持つこと」、それで充分だとは思いますが、さらに一歩進んで「休みがない」という子育ての本質を理解することが、女性の子育てを理解することにつながり、さらに「男の子育て」を広げることになるのではないでしょうか。

 「女の」「男の」といったことが話題にならない社会が早く来るといいですけれど・・・
 ちょっと今日は堅い話でした。

**2002年5月28日(火)掲載**

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ありゃ?

雨が上がったら寒くなるんじゃなかったのかな?
今、銀行まで行っただけなのに汗かいちゃった(@@;)

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2016年2月11日 (木)

とんだイクメン

宮崎謙介衆院議員、あきれたもんだと言うしかないね。
「イクメン」っていう言葉が世の中で一人歩きしている感じ。
育児は本来男性も女性もするべきことなんだから、イクメン、イクメンって騒ぐようなことではなく、もっと地味なものだと思うけど…。
世の中の流れを変えるときは、そういう騒ぎ方も一つではあるけれど、それって理容師湯とする人間も出てきてしまうよね。
今回の報道を見ていると、「イクメン」からはほど遠いね。
子育てより、夫婦生活をどうするのかの方が今後の問題としては大きいのでは?

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