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2016年1月13日 (水)

第8回 「虎ノ門病院の子どもたち その3」

 虎ノ門病院には全国各地から集まった子どもたちが入院しています。みんな地方の大病院でも手に負えなかった難病の子どもたちばかりです。近代的な施設やそこに働く人たちの対応に、小児医療の最先端にいる安心感を感じながらも、またその逆に小児医療の最先端の施設でなければ手に負えない難病であることの不安が入り交じり、心がひどく揺れました。

 命の助からないかもしれない子どもたちは、必死にそしてとても明るく、自分たちに与えられたほんのわずかな空間で、精一杯生きていました。入院生活が数年に及んでいる子、とても難しい手術を何度も繰り返している子、無菌室での生活を余儀なくされている子・・・。

 麻耶(まや)の治療は困難を極めました。二回にわたる腎生検の結果、「IgA腎症typeⅡと急速進行性腎炎の中間くらい」と言われましたが、私たちにはよく理解することができませんでした。主治医の赤城先生はとても研究熱心な方で、時々私と妻をナースステーションに呼んでは一緒に文献を開くということをしてくださいましたが、同じような症例の結末は、すべて数ヶ月後に「死亡」になっていました。

「いやいや、これは一つの症例ということで・・・」
と言葉を濁し、あわてて次の症例へページをめくるのですが、どの症例も結果は同じだったので、結局文献を閉じて見せるのをやめてしまいました。
「今の医学では治療の方法がないんです。けれども、医学の進歩はとても早いので、できる限り今の状態を保っていれば新薬が開発されるかもしれませんから。あとはお子さんの生命力にかけましょう」

 一生懸命励ましてくださる先生のお気持ちは伝わってきましたが、私たちには虚しさだけが残るのでした。

2月に入ってまもなく、点滴が通常よりも急速に落ちてしまう医療事故が起きました。その薬は副作用として血小板の働きを押さえてしまうらしく、危うく体内で出血を起こすところだったそうです。事故に気づいたのは朝の6時だったのにもかかわらず、私のところに連絡がきたのは5時間後の11時でした。絶対的な信頼をおいていただけに大きなショックを受けました。

 2日後、赤城先生に呼ばれ、事故の説明を受けました。「人為的なミスなのか、器具の不具合なのかはっきりしませんが、事故報告をしました」とのことでした。説明の途中、私が「なるほど」と相づちを打った途端、赤城先生は大きな声で、
「お父さん、”なるほど”じゃないですよ。命が危なかったんですから」
と私を叱責しました。事故が起こったこと、そして事故後の対応についても、不満だった私は、この赤城先生の言葉を聞くまでは、とても腹を立てていました。けれども、この言葉を聞いた瞬間、私たち家族のほかにも麻耶の命を必死で救おうとしている人がいることをとても強く感じ、赤城先生への信頼は増しました。

 麻耶の病状はこの事故を契機に奇跡的に快方に向かいました。これまで3ヶ月以上に渡って、まったく症状が変わらなかったのに、この事故を境に症状が激変したのです。偶然にも短時間に大量の薬を注入するという普通では行えない荒っぽい治療をしたことになったのでしょうか? 麻耶はその後、わずか2ヶ月で退院することができたのです。

 麻耶の隣のベッドには、山藤はるかちゃん(仮名)という中学2年生がいました。この子はとても優しい子で、まるで自分の妹のようにベッドから下りることのできない麻耶の面倒をみてくれていました。とても元気そうで私たちの目には重い病気を持っているようには見えませんでした。ある日、妻が麻耶に付き添っているときのこと。突然はるかちゃんが吐いてしまったのです。あまりに突然だったので、何も受けるものがなく、妻がとっさに手で受けてあげました。この時初めて、はるかちゃんの病の重さを実感したのです。

 麻耶の退院が数日後であることを主治医から告げられた直後、はるかちゃんは無菌室に移されました。いよいよ麻耶の退院の日。麻耶はお姉ちゃんのようにかわいがってもらったはるかちゃんに別れを告げようとしましたが、はるかちゃんは無菌室から出ることはできませんでした。無菌室の前までくるとガラスを2枚隔てた向こう(無菌状態を保つため扉が二つある)で、間近に迫った手術のために頭をきれいに剃ったはるかちゃんが、にっこり微笑みながら一生懸命手を振っていました。

 それから3年後。子どもたちも立ち会った翔(かける)の出産のビデオを公開することになり、それが新聞紙上に家族の写真入りで報道されました。
「虎ノ門病院に入院なさっていた大関さんですよね?」
山藤さんのお母さんからの電話でした。
「新聞を見たんです。麻耶ちゃん元気になられたんですね。本当によかった。ウチのはるかは昨年なくなりました」
ショックでした。麻耶の隣のベッドにいるときは、あちこちの病室を走り回っていつも小さい子の面倒をみていた、あのはるかちゃんが・・・。

 言葉が詰まってしまい、住所を聞くのが精一杯で、電話ではそれ以上話をすることはできませんでした。私はベッドから下りられず、つらい入院生活を送っていた麻耶を励まし、支えてくれたはるかちゃんへの感謝の気持ちを手紙に書いて送りました。

 あれから11年、まだ返事は戻ってきていません。

**2002年4月30日(火)掲載**

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