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2016年1月

2016年1月13日 (水)

第11回 「めだかの学校はなかったけれど・・・」

 「ドドドドドッ ドドドドドッ ドドッ ドドドッ」
 「??? なんの工事?」
 カルチャーセンターの中なのに、まるでアスファルトの道路を掘り起こしているような音です。
 「ドドドドドッ ドドドドドッ ドッ ドドッ」
 なんの音かと思ったら、隣の部屋でやっているフラメンコの音です。
 手に付けたカスタネットの音は全然聞こえてこないのですが、あのフラメンコ特有の床を踏みならすステップの音が地響きのように伝わってきているのでした。

 どういうわけか私がカルチャーセンターで陶芸を教えている日は、同じカルチャーセンターの中で音のする講座が多いんです。
♪チャーン チャンチャンチャンチャンチャンチャン チャーンチャンチャンチャーン♪
わかる? わかるわけないよね。これは「京都の恋」。
知らない? 
ベンチャーズが作曲して、渚ゆう子(これでいいんだったかな?)っていう人が、昭和45年に歌って大ヒットした曲。
 大正琴の講座でこの曲を練習しているところもあります。。
「違う、違う! そこは『タ・ターン・タ』でしょ!」
けっこう怖い先生が、けっこう年輩のおばあさん(失礼!)に教えています。
私が中学生のときの曲だから、けっこう懐かしいんですよ。
 そうかと思うと別なカルチャーセンターでは、
♪ターラーラーラー ターラララーララ ラーラーラーラーラーーラー♪(これは、ロシア民謡の「赤いサラファン」)
とオカリナで練習してる。
これも高校の音楽の授業でやったからやっぱり懐かしい。
 こういう曲がいつも隣の部屋から聞こえてくるんです。それなりの年齢の人間にとっては、ちょっと口ずさみたくなるような感じなんですよ。先週なんて、私の講座の人がホントに口ずさんでいましたから・・・。

 それでさっきのフラメンコに戻るんですけど、
すごく激しい「ドドドドドッ」という工事現場のような音はしばらくすると止みます。たぶん休憩が入ったりするんじゃないのかな?
 そうすると今度は、
♪せんせえとー おっともだちー せんせえとー おっともだちー♪
って、かわいい子どもたちの声が聞こえてきます。
 向かいの部屋では、幼児教室をやっているらしいんです。ところがこれがまた懐かしい。5人も子どもを育てたので、よくわからなくなっちゃってるんですが、どうも私が子どものときに幼稚園で習っていた曲を歌っているような気がするんです。
何の抵抗も感じずに、けっこう歌詞が出て来ちゃったりしますから・・・。
 すごい勢いで時代が変わって、次世代について行くのはかなりしんどい時代になってきているのに、幼児教育で扱われている曲だけは古くならない。たぶん、幼稚園に子どもを通園させているお母さんたちも、「京都の恋」は知らなくても、私が幼稚園で習っていた曲には知ってる曲があるんじゃないかなあ??? 「京都の恋」より古いのに・・・。
 「名曲は残る」なんていう言われ方をよくしますけど、
♪せんせえとー おっともだちー♪  が名曲とも思えないし、
♪マツボックリがー あったとさー♪ まで出て来ちゃうと、
「おいおい、そこにいる子どもたち(3歳前後の)ってマツボックリってわかるのかよ」って言いたくなっちゃう。結局、名曲だから残っているんじゃなくて、幼児教育が進んでないんだっていうことに気づくんです。
 時代が変わっているのに教育が変わってないっていうのは、ちょっと心配ですよね。

**2002年5月21日(火)掲載**

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第10回「お父さん! ゆっくりデザート食べてる時じゃないよ!」

 現在、自分の持っている陶芸教室がふたつ。その他あちこちにカルチャーセンターの講座を持たせてもらっている(もちろんひとりでやってるわけじゃなくて、スタッフ13人でやってるわけですけれど)ので、けっこう忙しい毎日を送っています。私が受け持っているカルチャーセンターもいくつかあって、そのうち距離が遠いのが上尾と春日部。これがどっちも困ったことにひどく渋滞するところを抜けなくちゃならないわけ。ところが渋滞っていうのは、毎日必ず渋滞しているわけじゃないので、上尾にしても春日部にしても、早い時は私の本拠地の南浦和陶芸教室から40分弱。

 まあ少し余裕をみて、講座が始まる1時間くらい前に南浦和を出発していたんだけど、ある時渋滞に巻き込まれて、なんと1時間半かかっても着かなかった。なんと30分以上も遅れちゃって、「すいません、すいません」って謝りまくり・・・。

 そんなことばっかりやってると、信用なくして講座を持たせてもらえなくなっちゃうので、以後1時間40分の余裕をもって出かけるようになりました。

 と、これがまた困ったことに早く着き過ぎちゃうことの方が多くなって、時間調整するのが大変。なにせ1時間余っちゃうんだから・・・。

 そんなときはもちろんファミレス。幸いなことに近くにいっぱいあるんだよね。おかげでモーニングメニューなら知らないものがなくなっちゃった!

 というわけでそんな時は朝食を取りながら、この原稿を書いたりしてるわけです。

 ある日の『ジョナサン』・・・

 朝食もだいたい終わり、コーヒーを飲みながら原稿を考えていると、一つおいた向こうの席で、2歳くらいの女の子がすごい勢いで泣き出しました。お父さんとお母さんと女の子の3人連れです。お父さんは私と向き合って座っていますが、お母さんと女の子は私に背を向けて座っているので、女の子がどんな表情で何をぐずっているのかは、よくわかりません。

 ものを書くときっていうのは、気が散るとうまく書けないもので、私は音楽がなっているのも苦手です。夜中に書くことが多くて、シーンと静まりかえっているとけっこうはかどります。ところがファミレスはちょっと違って、音楽もなっているし人の動きもあるのですが、私にとって無機質な人ばかりなせいでしょうか、にぎやかな割にはじゃまになりません。ちょっと一息つきたい時にすぐにコーヒーが飲めるのも利点かな?

 けれどもこの時は別でした。いったん泣き出した女の子はまったく泣きやみません。
「あー、もう! せっかくまとまりかけてた原稿がどこかに飛んでっちゃう! とりあえず外に連れ出してよー!」
と叫びたかったのですが、じっとこらえて・・・

 いっこうに席を立つ気配はありません。さすがに数分たった時、お母さんが何とかなだめようとし始めましたが、効果なし。さらに数分がたち、やっとお母さんが女の子を抱いて外に出るのかと思いきや、レジの前のおもちゃを見せに行っただけ。女の子の座っていた席はもともとおもちゃの棚のすぐ後ろの席だったので、なんにも変わりません。結局泣きやまないうちにまたもとの席に。

 これを2回繰り返しました。私が様子を見るかぎりでは、女の子はどうやらお母さんに対して不満を持っているようです。

 3回目にお母さんと女の子が席を立った時、「お父さんの出番なのになあ」と思いながら、お父さんの様子を見た私はびっくり!
「ゲーッ、こんなに子どもが泣いてるのに、お前なに優雅にデザートなんか喰ってんだよ!」

 なんと悠然とデザートを喰っているではありませんか! どうやら子育ては「お母さんの仕事」と割り切っているようです。

 さらに数分がたちました。やっとデザートを食べ終わったお父さんのところにお母さんが女の子を連れて戻ってきました。はじめてお父さんが女の子を抱きました。その瞬間、それまで長時間にわたって泣いていたのが嘘のように、女の子はピタッと泣きやんだのです。

 「だから、父親の出番だって言ってんだよ!!」と私は(心の中で)叫びました。

 両親が揃っているんだったら、やっぱり子育ては両方でするものですよね。

 いくらデザートが食べたくても、周りの迷惑も考えた方がいいですよ。たぶんあれは、チョコレートパフェでした。

**2002年5月14日(火)掲載**

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第9回 「5月5日は端午の節句!」

 こどもの日が近づくとついつい口ずさんじゃうのが、
♪はしらのきーずは おととしのー
          5月5日のせいくらべー♪ だね。
そんなこと言うのは私の世代までかなあ???
♪やねよりたかい こいのぼりー♪
なんていう人もいる?
 そういえば、
♪いーらーかーのなーみーと くーもーの なみー♪
っていうの、最近聞かないけどなくなっちゃったのかなあ???
「いらか」なんてなんだかわかんないもんね。「甍」って書くんだけど、私もよくわかんなくて、今広辞苑引いちゃったよ。「瓦葺きの屋根」っていうことだって書いてあるから、要するに「瓦屋根の家がたくさん並んでる」のが、「いらかのなみ」っていうわけだね。ひとつ勉強になった! でも、もしかしてこの歌のメロディー知らない???

 鯉のぼりを立ててる家も少なくなったよね。だいたい庭がないもんね。わが家は10階建てのマンションだから、「屋根より高い」なんて無理だし・・・。

 5月4日、妻と娘の麻耶(まや)、そして初孫の蓮(れん)をつれて、鯉のぼりを買いに岩槻の人形店まで行きました。明日が端午の節句ということもあって、もうどこの店にもほとんど客はいませんでした。五月人形や鎧・兜には、すでにかなり割引になった値札がついていましたが、さらにそこから3、4割値引きをしてくれるという店もありました。

 何軒目かのお店のおばさんが、最近伝統的な行事をする家がどんどん減ってきて、そういう流れの中で、鎧・兜や鯉のぼりも飾る家が少なくなったという話をしていました。

 端午の節句は、病気や厄災を払う日として7世紀初頭にはすでに宮中の正式な行事として位置づけられていたそうです。鯉のぼりはというと、諸説あるようですが、端午の節句に武家の間で行われていた幟を立てたり、鎧を飾ったりといったことが、江戸中期に「登竜門」の故事(鯉は竜門の急流を登れば竜になって天に昇る)になぞらえ、わが子も健康で立派に育ってほしいという願いを込めて、庶民の間に広がっていったようです。

 私も、鯉のぼりについていろいろと考えたんですけれど、もしわが子が健康で立派に育つということだけを願っているのなら、そんなに高く上げる必要もなかったんじゃないかって思ったんです。鯉のぼりを高く、しかもたくさん上げることで、男の子が生まれたぞっていうこととか、その家の権威とかを周囲に示すようになったんだと思うんですけど、ひょっとするとそれだけじゃなくて、男の子が生まれたっていうことを周囲に知らしめることで、逆に社会に対してもしっかりと男の子を育てるぞっていう宣言をしていたんじゃないかなって思ったんですよ。

 最近、子どもの虐待がしばしば報道されますけれど、やっぱりある部分では「子どもが生まれた」っていう宣言を社会に対してする必要があるんじゃないかなって思います。もちろんみんな鯉のぼりを上げたり、ひな人形を飾れっていうわけじゃないですよ。どんな形だっていいんです。個々の親の中に存在する意識の問題で言っているんですから。

 子どもってもちろん自分の子どもだけれど、でも別人格で、本当は社会の大切な財産なんですよね。だから私たち親は、子どもに対してはもちろん、社会に対しても大きな責任を背負っているんだと思います。

 何軒かの店をまわり、鯉の長さが1mのベランダに飾れる鯉のぼりを買いました。6万円だか7万円の兜を2万5千円にしてくれるっていうお店もあったんだけれど、もともと鯉のぼりを買いに来たんだし、娘は手に持てる大きさの千円の鯉のぼりでいいって言うし、結局、財布の中を覗いて5千円の鯉のぼりになっちゃいました。それでも、もとは1万数千円だったらしいですけどね。消費税もまけてもらっちゃった! 

**2002年5月7日(火)掲載**

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第8回 「虎ノ門病院の子どもたち その3」

 虎ノ門病院には全国各地から集まった子どもたちが入院しています。みんな地方の大病院でも手に負えなかった難病の子どもたちばかりです。近代的な施設やそこに働く人たちの対応に、小児医療の最先端にいる安心感を感じながらも、またその逆に小児医療の最先端の施設でなければ手に負えない難病であることの不安が入り交じり、心がひどく揺れました。

 命の助からないかもしれない子どもたちは、必死にそしてとても明るく、自分たちに与えられたほんのわずかな空間で、精一杯生きていました。入院生活が数年に及んでいる子、とても難しい手術を何度も繰り返している子、無菌室での生活を余儀なくされている子・・・。

 麻耶(まや)の治療は困難を極めました。二回にわたる腎生検の結果、「IgA腎症typeⅡと急速進行性腎炎の中間くらい」と言われましたが、私たちにはよく理解することができませんでした。主治医の赤城先生はとても研究熱心な方で、時々私と妻をナースステーションに呼んでは一緒に文献を開くということをしてくださいましたが、同じような症例の結末は、すべて数ヶ月後に「死亡」になっていました。

「いやいや、これは一つの症例ということで・・・」
と言葉を濁し、あわてて次の症例へページをめくるのですが、どの症例も結果は同じだったので、結局文献を閉じて見せるのをやめてしまいました。
「今の医学では治療の方法がないんです。けれども、医学の進歩はとても早いので、できる限り今の状態を保っていれば新薬が開発されるかもしれませんから。あとはお子さんの生命力にかけましょう」

 一生懸命励ましてくださる先生のお気持ちは伝わってきましたが、私たちには虚しさだけが残るのでした。

2月に入ってまもなく、点滴が通常よりも急速に落ちてしまう医療事故が起きました。その薬は副作用として血小板の働きを押さえてしまうらしく、危うく体内で出血を起こすところだったそうです。事故に気づいたのは朝の6時だったのにもかかわらず、私のところに連絡がきたのは5時間後の11時でした。絶対的な信頼をおいていただけに大きなショックを受けました。

 2日後、赤城先生に呼ばれ、事故の説明を受けました。「人為的なミスなのか、器具の不具合なのかはっきりしませんが、事故報告をしました」とのことでした。説明の途中、私が「なるほど」と相づちを打った途端、赤城先生は大きな声で、
「お父さん、”なるほど”じゃないですよ。命が危なかったんですから」
と私を叱責しました。事故が起こったこと、そして事故後の対応についても、不満だった私は、この赤城先生の言葉を聞くまでは、とても腹を立てていました。けれども、この言葉を聞いた瞬間、私たち家族のほかにも麻耶の命を必死で救おうとしている人がいることをとても強く感じ、赤城先生への信頼は増しました。

 麻耶の病状はこの事故を契機に奇跡的に快方に向かいました。これまで3ヶ月以上に渡って、まったく症状が変わらなかったのに、この事故を境に症状が激変したのです。偶然にも短時間に大量の薬を注入するという普通では行えない荒っぽい治療をしたことになったのでしょうか? 麻耶はその後、わずか2ヶ月で退院することができたのです。

 麻耶の隣のベッドには、山藤はるかちゃん(仮名)という中学2年生がいました。この子はとても優しい子で、まるで自分の妹のようにベッドから下りることのできない麻耶の面倒をみてくれていました。とても元気そうで私たちの目には重い病気を持っているようには見えませんでした。ある日、妻が麻耶に付き添っているときのこと。突然はるかちゃんが吐いてしまったのです。あまりに突然だったので、何も受けるものがなく、妻がとっさに手で受けてあげました。この時初めて、はるかちゃんの病の重さを実感したのです。

 麻耶の退院が数日後であることを主治医から告げられた直後、はるかちゃんは無菌室に移されました。いよいよ麻耶の退院の日。麻耶はお姉ちゃんのようにかわいがってもらったはるかちゃんに別れを告げようとしましたが、はるかちゃんは無菌室から出ることはできませんでした。無菌室の前までくるとガラスを2枚隔てた向こう(無菌状態を保つため扉が二つある)で、間近に迫った手術のために頭をきれいに剃ったはるかちゃんが、にっこり微笑みながら一生懸命手を振っていました。

 それから3年後。子どもたちも立ち会った翔(かける)の出産のビデオを公開することになり、それが新聞紙上に家族の写真入りで報道されました。
「虎ノ門病院に入院なさっていた大関さんですよね?」
山藤さんのお母さんからの電話でした。
「新聞を見たんです。麻耶ちゃん元気になられたんですね。本当によかった。ウチのはるかは昨年なくなりました」
ショックでした。麻耶の隣のベッドにいるときは、あちこちの病室を走り回っていつも小さい子の面倒をみていた、あのはるかちゃんが・・・。

 言葉が詰まってしまい、住所を聞くのが精一杯で、電話ではそれ以上話をすることはできませんでした。私はベッドから下りられず、つらい入院生活を送っていた麻耶を励まし、支えてくれたはるかちゃんへの感謝の気持ちを手紙に書いて送りました。

 あれから11年、まだ返事は戻ってきていません。

**2002年4月30日(火)掲載**

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第7回 「虎ノ門病院の子どもたち その2」

 急性腎炎かと思われた麻耶(まや)の腎臓病は思いのほか重く、1ヶ月が経ってもいっこうに快方に向かいませんでした。水分と塩分が制限されているため、食事は惨めなものでした。何の味付けもないただ茹でただけのもやしや椎茸、人参などが小さなビニール袋に入った減塩しょうゆと一緒にお皿にのっています。とても小学校二年生の子どもが食べられるものではありません。湯沸かし室にご飯を持っていき、おにぎりにして、ほんのわずかな減塩しょうゆをつけてはそこにあるガス台で焼きおにぎりを作って食べさせていました。

 11月15日、麻耶は病院で誕生日を迎えました。無塩のケーキでお祝いをすることになり、知り合いのケーキ屋さんに無塩のケーキを頼みました。
「スポンジは無塩バターを使っているし、生クリームにも塩は使わないからデコレーションケーキは無塩だよ」
とケーキ屋さんのご主人に言われ、デコレーションケーキが無塩だということをこの時初めて知りました。

 5名の先生方は、「まだ急性腎炎の可能性も捨てきれないのでこのまま様子を見る」という意見と「急性腎炎の可能性はほぼ消えたので小児腎臓に詳しい先生のいる虎ノ門病院に転院させる」という意見に分かれました。このまま様子を見た時のリスクを考え、結局虎ノ門病院に転院することになりました。

 虎ノ門病院は、東大病院分院に比べると建物も新しく近代的でした。子どもに対する看護という点でも、行き届いていることが多く、入院するとすぐ栄養士さんが子どもの好きな食べ物を聞きにきます。麻耶はラーメンを出してもらうことになりました。これまで、茹でただけの野菜が中心でしたから、麻耶にとってはとてもうれしいことでした。無塩のパンが出たこともありました。おやつにプリンが出たり、クッキーが出たりもしました。

 今も変わらないのでしょうか? 当時、虎ノ門病院の小児病棟は他の病棟とガラスの扉で仕切られていて、子どもたちはその扉の外には出られませんでした。扉のすぐ近くにはプレイルームがあり、安静度が低く自分の病室から外に出られる子どもたちはよくプレイルームで遊んでいます。残念ながら、麻耶はベッドの上だけの生活でしたから、ほぼ退院までプレイルームで遊ぶことはできませんでしたが。

 面会は午後3時から6時までです。これは非常に厳格に守られていて、親といえども午後3時を過ぎないと一般病棟と小児病棟を仕切る扉の中には入れません。そして午後6時を過ぎると小児病棟から外へ出なくてはならないのです。

 地下鉄銀座線虎ノ門駅を出ると、すぐ近くに霞ヶ関ビルがあります。日本で最初にできた高層ビルで、私が子どもの頃には「36階の男」というテレビドラマができるくらいに有名なビルでした。その高層ビルのためでしょうか、虎ノ門駅から病院までの道は毎日強い北風がビルの間を吹き抜けていました。麻耶は検査が進むにつれ、しだいに重い慢性腎炎であることがわかってきました。
「なんでこんなことになってしまったんだろう? 風邪をひいたと思ったときにもっと違った対処をしていればこんなことにはならなかったのではないか?」
常にそういう思いがつきまといます。どんなにコートの襟を立てて歩いても、容赦なく北風は身体の芯を冷やしました。

 午後3時ほんのちょっと前に、小児病棟の扉の前に着くと、扉の内側から何人もの子どもたちがガラス越しに母親を探しています。母親を見つけた子どもは、にっこり笑って手を振っています。まだ母親が来ていない子どもたちはとても寂しそうです。

 午後6時になると面会時間は終わります。病室から出ることを許可されていない子どもたちは、それぞれの病室の入り口でお母さんとお別れです。病室から出ることを許された子どもたちは、ガラスの扉までお母さんを送ってきます。つらさをこらえ、お母さんが扉の外へ出た瞬間、まだぎこちない歩き方をしている小さな子どもたちは、一斉にガラスの扉にほっぺたを押しつけ、大粒の涙をこぼしながら大きな声で泣くのです。子どもたちの方を一度振り返ったお母さんは、意を決して廊下の角を右に折れ、子どもたちの視界から消えていきます。そして、子どもたちの視界から消えた瞬間、お母さんたちの頬にも大粒の涙が伝うのです。

 この光景は一日も欠かさず、毎日繰り返されました。

つづく 

**2002年4月22日(月)掲載**                                                                                                     

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第6回「虎ノ門病院の子どもたち」

 次女の麻耶は小学校2年生の時 、腎臓病を患いました。秋の運動会も終わった10月半ば、37℃ちょっとの熱を出し学校を休む日が何日かありました。2,3日休むと熱が下がり学校へ行くのですが、しばらくするとまた微熱が出て何日か休む。そんなことが数回続きました。

 子どもって正直なもので、学校を休んだ日でも具合がよくなれば、外へ行って友達と遊んだりします。特に小学校の低学年のうちは、基本的に子どもたちは学校が好きなので、「ずる休み」という発想がないみたいで、子どもの行動はほとんど具合の善し悪しにかかっています。子どもの行動を見ていれば具合がいいか悪いか、まずわかります。

 このときの麻耶は熱が下がっても、外へ遊びに行くことはほとんどありませんでした。
10月30日(土)(子どものことになると不思議なもので、15年も前のことなのにまるで昨日のことのように覚えています)
 相変わらず麻耶は熱が37℃前後のところを上がったり下がったりしていました。たまたまこの日は熱が低めだったので、気分転換でも図ろうかと、粘土を仕入れるための私の益子行きに誘ってみました。麻耶自身も気分を変えたかったようで、一緒に行くことに。妻も一緒に行くことになりました。

 片道約2時間の道のり。向こうで粘土を買って、お昼を食べて帰ってくると、朝出ても帰りはほぼ夕方になります。お昼を食べている時に麻耶が朝から全然トイレに行かないことに私が気づきました。
「全然トイレに行かないみたいだけど、何か飲ませた方がいいんじゃない?」
そしてジュースを飲ませました。

 腎臓病に対する対応としては、これがとんでもない間違いだったわけですけれど、後にこのことが腎臓病に気づくきっかけとなります。

 翌日、そろそろ学校に行く準備もした方がいいということになり、熱も下がっていたので、麻耶をお風呂に入れることに。ところが服を脱がせてみると、おなかから下がパンパン(というかぶよぶよというか・・・)に膨れているのです。4人目の子どもですが、こんなに膨れた子どもの身体を見たのは初めてでした。

 日曜日でしたがすぐ、かかりつけの小児科の先生に電話をしました。一通り今までの経過を説明すると、
「それはあなた腎臓病よ。水は飲ませちゃだめ。とにかく安静にして」

 腎臓病という言葉の意味と今まで自分が取ってきた対応のまずさとで、頭をガーンとハンマーで殴られたようなショックでした。
「明日すぐ入院できるように私が手配をしてあげるから、とにかく動かさないようにして、安静にして置いてね」

 かかりつけの小児科の先生は女医さんで、お連れ合いが東大病院分院の小児科医でいらっしゃったこともあり、すぐに東大病院分院に入院の手配をしてくださいました。

 このときは私も妻も、そしてかかりつけの女医さんも、麻耶の腎臓病がそれほどひどいものだとは考えていませんでした。

 11月1日(月)
それまで一度も休みにしたことのないカルチャーセンターの講座を休講にし、池袋の先にある東大病院分院に麻耶を車で運びました。

つづく

**2002年4月22日(月)掲載**

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第5回「大人の都合と子どもの都合 第二弾!!」

 今日は車で走っていたら、新入生らしい親子にたくさん出会いました。数時間止めた駅前の100円パーキングでも、私立中学の入学式を終えたらしい親子連れが、私のあとに駐車料金を精算していました。

 我が家のそばに戻ってみると、どうやら近くの幼稚園が入園式だったよう。正装をした親子連れが幼稚園の前に大勢います。 
「そういえば、こんな時代もあったなあ・・・」
なあんて、ちょっと感慨にふけっちゃたりなんかして・・・。

 現在22歳の麻耶(まや)は、年少組から3年間幼稚園に通いました。もう19年も前のことです。このころの年少組は人数が集まらなくて、20名の定員に対して11名しかいませんでした。入学式のあと、クラスでの自己紹介では、みんな同じように「近所に同年齢の友達がいないものですから・・・」幼稚園に入れることにしたって言っていました。我が家は引っ越してきたばかりで、そこに集まった人たちとは若干違ったニュアンスもありましたが、「近所に友達がいないから」という状況はほぼ同じでした。

 子どもたちはもちろんのこと、このときの11名は親同士もとても仲がよくて、幼稚園の行事の時に顔を合わせるだけでなく、お遊戯会(こんな言い方古すぎるかなあ? 確か幼稚園では『生活発表会』とか言っていたような気がする)の衣装を誰かの家に集まって縫ったり、昼食会をしたり、しょっちゅうみんなで集まっていました。子どもの友達を作ることが目的ですから、ある意味で親もそこに集まったお母さんたち(私だけはお父さんだけど)と夢中でコミュニケーションを取っていました。

 それから、8年後。翔(かける)も年少組から幼稚園に入園しました。このころになると年少組の状況は一変していました。入園受付が開始されるとまもなく定員は埋まり、キャンセル待ちまで出る始末。入園式後の自己紹介では、「友達がいないから」などという人は皆無。みんな口を揃えて「子どもを幼稚園に入れて、少し自由な時間を持ちたいと思いました」と。

「ありゃ???」
私は相当なカルチャーショック! なんか急に歳をとったような・・・。

 ちょうどこの年から、翔の通う幼稚園では、通常の幼稚園終了後、5時までの「延長保育」が始まりました。もちろん我が家の翔君も何度かこの延長保育のお世話に。でも、子どもはそんなに長い間幼稚園に預けられていたかったのかなあ??? 「まあ、翔も友達と遊べて喜んでるから」なあんちゃって、勝手にいいように解釈してたけど、’なわけないよねえ???

 これはまさに大人の都合かな?

 例の事件(第3回参照)のあと転園した幼稚園は、バス無し、給食無し、もちろん延長保育などとんでも無~しの幼稚園だったけど、それなりに何とかこなしていたので、やっぱり、延長保育なんて大人の都合だったんだね、きっと。

 何歳から幼稚園にあげればいいかっていうのも難しい問題で、年少組に入園した途端に登園拒否で、結局ほとんどこられないままやめちゃった子もいたから、やっぱり子どもの都合も考えてあげた方がいいんじゃないのかなあ・・・。

子どもにとって「何がよくて、何が悪いか」は、そう簡単に結論の出るもんじゃないけれど、基本的には「大人の都合」はよくないよね。「しつけ」と称して子どもを怒る場合だって、正直に自分の胸に手を当てて考えれば、自分が遊びたかったり、楽をしたかったりする場合がほとんどでしょ? 私もしょっちゅうだけど、あとでいや~な気分になるんだよね。「子どもにとって何が最善か」いつもそのことを頭に入れて、子育てをしたいものですね。

**2002年4月9日(火)掲載**

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2016年1月12日 (火)

第4回「男の子は青の座布団?」

 夕べは鬼怒川のホテルに1泊しました。

急いで仕事を切り上げて、出かけたのが午後4時過ぎ。ホテルに着いたときは6時をとっくに回っていて、あわてて温泉につかって食事をして、あとは寝るだけ。今日は午後から仕事なので、チェックアウトしてすぐ帰路に。いやあ、なんとまあ慌ただしい温泉行きだったことか・・・。

 ここのホテルは公立学校共済組合(公立学校の教員が加入する共済組合)の保養所で、泊まっているのは公立学校の先生とその家族だけ。ウチもその仲間だけど、そういう所ってちょっと普通のホテルとは違って一種独特の雰囲気があるわけ。

 まず気がついたのは、普通のホテルに比べて、セルフが多いっていうこと。これはサービスが悪いっていう意味で言ってるんじゃなくて、「信用されてるな」っていう感じ。「コーヒー1杯 200円。代金は箱に入れてください」みたいなやつ。これって「やっぱり先生には悪い人いないから、こういうことができるんだよな」って、変に社会的優越感を感じたりするわけね。「悪い人いない」なんて嘘ばっかりだけどね。

 それともう一つは食事の時が妙に静かだっていうこと。普通のホテルだとあちこちからいろんな話し声が聞こえてきてけっこうにぎやかなもんだけど、ここはどういうわけか話をしている人が少ないんだよね。夫婦で来てるか、家族で来てるかだと思うんだけど、ほとんど会話をしてる人がいない。「あれ」って気がつくと食堂の中で私だけがしゃべってたりしててね。なんでなんだろう???

 ある夫婦なんて、夫さんの方が先に食べ終わっちゃって、奥さん(教員やってると奥さんじゃないかな? ウチなんて妻の方が表さんだからね)がまだ食べ終らないのに立ち上がってそわそわしてるの。

「ありゃりゃ、奥さんかわいそう。あれじゃあ、落ち着いて食べられないじゃん」
と思いきや奥さんはそんなことは物ともせず、あわてることもなく淡々と食べてる。いやあ、これは皆さんに見せてあげたかった。

 そして、もう一つ。大浴場に行ったら、洗い場の桶と椅子がやたら散乱してた。もちろん私が入ったのは男湯の方。10だか12だかあった蛇口の前の桶と椅子のうち、整然と置かれてていたのはゼロ。そのうちの2つの桶は石鹸で汚れた水が入っていました。ここまでだらしなく散乱してるのは珍しいなって思った。それで妻に聞いてみたら、これがまたおもしろいんだよね。女湯の方は、まるで誰も使ってないようにきちんと置いてあるんだって! なんかそんな感じはしたんだけど、これって教員の家族ばっかりのせい??? もちろん普通のホテルに泊まったこともあるけど、こういうのってあんまり覚えがないなあ・・・。教員って男女の役割がはっきり分かれてるのかな???

 そこで結論!
 教育の現場は家庭科の男女共修、男女混合名簿等、制度的にはどんどん男女差別がなくなりつつあるけれど、そこで教えている先生方の意識にはまだまだ男女の役割意識が強く残っていて、本当はいっこうに男女差別がなくなっていない!

 翔(かける)が幼稚園の時、ゴム紐のついた椅子用の座布団を買いました。幼稚園からきた手紙は、希望の色(赤or青)に丸をつけて申し込むようになっていたんだけれど、翔は迷わず赤を選びました。それを幼稚園に持たせると、夕方になって担任の先生から、

「おとうさん、座布団の希望が赤になっていたんですけど、青の間違いですよね?」
と確認の電話が。
「はあ?」
「男の子だから青でいいんですよね?」
「いいえ。翔は赤が希望なんですけど・・・」
今度は向こうが、
「はあ? 赤でいいんですか?」
「はい。翔がそういってますから」
というわけで、翔の座布団は赤になりました。ちょうど一昨日片づけをしていたら、その座布団が出てきたところだったんですよ。色の好みなんて性別じゃなくて、個性の問題ですよね。おそらく現代社会における男女の区別も、本来は性による違いじゃなくて個性による違いによるべきなんじゃないのかな??? 
 私なんか涙もろいから、
「男でしょ、泣くんじゃないの!」なんて言われたら、困って泣き出しそうだよ!

**2002年4月3日(水)掲載**

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第3回「大人の都合と子どもの都合」

「何、もたもたしてるの! 早くしなさい!」
 これは母親が子どもによく言う言葉。もちろん私も何度となく言った記憶が・・・。まずいまずいと思いながら、ついつい出てしまうのがこの言葉。
 でも、なんでこういう言葉が出ちゃうんだろうって考えたことある? 私はしょっちゅう考えてたんだけど、やっぱりこれは大人の都合で子どもを動かそうとするから出ちゃう言葉だと思うんですよね。その状況を思い浮かべてよーく考えてみると、急いでいるのは子どもじゃなくて、もちろん親の方。子どもにとってはいい迷惑ですよね。どうして急がなくちゃならないのか、ちっともわかってないし、納得もしてないわけだから、急げるわけがない。にもかかわらず勝手に急がされるんだから、子どももたまったもんじゃない。当然合わせなくちゃいけないのは大人の方。心を広く持って、じっと待ってやれるのがいい親であることは、誰もが認めるところだと思います。まあ親子だから、たまには子どもに無理を言っても許されるかな? 「しつけ」だなんて思わないで、親のわがままなんだっていう認識を持っていることが重要なんだよね、きっと。
 ここまでは親の話。ここからは、ある幼稚園での話。
 我が家の第5子、翔(かける)を幼稚園に通わせていたときのこと。夏休み前に参観と懇談がありました。参観をしていたら、私は先生のやり方でちょっと納得がいかないところがありました。参観が終わり懇談になったとき、ちょっとそこにふれて(ほんのちょっとだよ)、親としてはこうしてほしいという希望(中身がなんだったか忘れた! 大したことじゃない)を述べたのですが、若い先生は涙を流してしまいました。女性を差別していないつもりの私には「涙は女の武器」は通用しません。が、しかしそれ以上責めても簡単に改善するわけもなく、一応私の希望を言うにとどめておきました。
 ところがその数日後、幼稚園を訪れた私を待ち受けていたのは、主任の先生の言葉。
「大関さん! クラスでああいう話をされては困るんです。まだ若い先生なので何かあっても我慢をしていただかないと・・・」
「はあ? 若くて力のない先生の場合は、子どもも親も我慢をするんですか?」
「そうしていただかないと。まだ力がありませんから、意見を言われても困るんです」
「? 月謝を払ってるのに? 要望も言っちゃいけないんですか?」
「言われても無理ですから」
「でも、そこの部分は主任さんが指導するべきでしょ?」
「でも、まだ無理なんです。若いですから」
 これを聞いたときはビックリ。だいたい若くない先生なんてどこにいるんだよ!
 家に戻って5歳の翔と相談をしました。
「パパはあそこの幼稚園やめた方がいいと思うんだけど、どうかなあ?」
「うん、いいよ」
 一応、翔に相談はしたけれど、意味をきちっと理解しているわけのない翔は、そこの幼稚園をやめることに。このとき私は父母の会の会長をやっていたので、相当幼稚園の中に波紋を広げたようでした。
 本来、子どもの都合で回るべき幼稚園が、先生の都合、幼稚園の都合で回っていることに私は我慢ができなかったのです。翔の上ふたりもお世話になった幼稚園なので、義理もあるし、幼稚園の名前はヒ・ミ・ツ! もちろんいいところもたくさんありましたよ。
 幼稚園の姿勢を非難はしてるけど、翔が幼稚園をやめたのはもちろん、私の都合!!
 その後、翔は転園して2年間元気に幼稚園に通いました。

**2002年4月3日(水)掲載**

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第2回「パパの赤が僕の青で、僕の赤がお母さんの黄色???」

「かける、何やってんだよ」
「・・・」
「だから、ふざけんじゃないって言ってんだよ! ちゃんと色別にカード分けろよ」
「???」
「あれ? おまえ、ふざけてんじゃないの?」
「うん。ちゃんと分けてるよ」
「じゃあ、こっちに緑のカードで、こっちに茶色のカード集めてみろよ」
「これは緑でしょ、これは茶色でしょ・・・。んー? これはよくわかんない」
「あれ? おまえ、ホントにそう見えるの?」
「うん、見えるよ」
「ホント?」
「うん」
「ねぇー、お母さん! かける、変だよ! カードの色分けできないの!」
 隣の部屋で弟の翔(かける)とカードゲームをしていた真(まこと)が叫びました。人間て、不思議なもので、言ってることをそのまま受け取れば、全然難しいこと言ってるわけじゃないんだからわからないわけないのに、自分が体験してないことって、ストンと落ちてこないんですよね。それで、妻も私も真が何を言ってるのかよく飲み込めなかったわけ。
 あわててそばまで行って、状況を確認してみると、
「ほら見て! これで翔は緑と茶色に分けたって言うんだよ。本気だったら変でしょ?」
「??? 翔はふざけてるんじゃないよねぇ?」
「うん。ちゃんと分けてるよ」
 それからが大変。あちこちからいろいろなものを持ってきて、”これは何色?””あれは何色?”と翔に聞いてみました。
 ところが、ここで困ったことに気づいちゃったんですよ。
 実は、たとえば緑のものなら緑のものが、他の人には何色に見えているかがわからない。『色』って客観的だと思っていたんだけど、誰か一人が緑のものを茶色って言うと、みんなこれが怪しくなってくる。最初は翔に確かめていたはずだったのに、そのうち全員が全員に確かめるようになっちゃって、
「これって、赤だよねぇ? あれっ? 赤ってこれでしょ? これっ? 緑?」
「たぶん、そうだと思うけど・・・。でも、赤に見えてるのが他の人には緑に見えてるかも?」
「じゃあ、私が子どもの頃から赤だと思ってた色が他の人には緑で、緑だと思っていた色が赤かも・・・。エーッ、うっそー!」
「じゃあ、これは何色だろう? 私は黄色に見えるけど。翔には何色に見える?」
「茶色」
「真には何色に見えるの?」
「僕はこの色は黄色って習ったけど、でもこれは茶色が正しいかもしれない。そうするとこれを黄色って教えた人は、茶色を黄色って教えたことになるよねえ?」
「??? でも、そうかも! これが茶色? ??? よくわかんなくなってきた! 自分の見え方と他人の見え方が必ずしも同じとは限らないよねぇ」
「ホントに同じ色に見えてるものを同じ名前で呼んでるのかねぇ?」
「パパの赤が僕の青で、僕の赤がお母さんの黄色だったりして!」
「げっ! そんなことないだろ? いや、でもあり得るかも・・・。証明できない!」
 一時間くらい、議論が続いて・・・。
 結論・・・私と妻と真は、同じ色を同じ名前で呼んでいるが、どうやら翔だけはみんなと違う呼び方をしているらしい
 情けないことに、客観的であろうとすればするほど、見えている色が何色で、それが間違いなくその色であるという自信がなくなってきちゃうんです。いかに『色』が主観的なものであるか・・・。
 結局、経験の中で自分がそう呼んでいるだけなんだっていうことに気づきました。実は、他の人に何色に見えているかは全くわからないんです。これは、大発見でした。(意味わかった? わかりにくかったでしょ? わからない人は一度一緒に議論すればわかってもらえると思うんだけどね。そうだ! 誰かとこのシナリオで劇をやってみてもらうとわかるかも!)
 すぐ、翔は近くの眼科で検査を受けることに。もちろん、翔が色覚障害だっていうことがわかりました。
 ここ(眼科)でも、おかしかったですよ。お医者さんが、すっごく深刻で暗い顔をして、
「お父さん、お母さん、こっちへ入ってください」
って、別室に連れて行かれて、
「生活にそれほどの支障はないと思いますが、残念ながら就けない職業もありますから、覚悟してください」
「はぁ? はあ」
そんなに深刻なことなわけ?
 病院を出ると思わず妻と顔を見合わせて、私は翔に、
「おまえの目って、パパの目とちょっと違った色に見えてるらしいよ」というと、
「ふーん」という答えが返ってきました。
 どうやら翔の目は、単独で色が存在するような場合(たとえば空の青のような)は、きちんと見えているようなのですが、色が混在しているような場合(特に紅葉のように茶色あるいは朱色と緑とか)は、茶色一色に見えるらしいことがわかりました。
 大議論の末、他人の色の見え方は実は全然わからないということがわかってしまったので、まあ、翔の色の見え方も個性のうちかなあ、なんて考えてます。
 再来年度から、学校での色覚検査が希望者のみになるようですが、人権に配慮をすれば当然のことと思います。眼科医の言う通り、就けない職業もあるかもしれませんが、7歳で気がついてから、まもなく15歳になろうとしていますが、今のところ不自由を感じたことは一度もありませんでした。
 すべての児童を対象にした色覚検査を続けるよう、文部科学省に要望書を提出した、色覚障害の子を持つ親の団体もあったようです。気づかずに成人してしまい、差別を受ける可能性があることから考えると、そういった主張も理解はできますが、それが学校という公の場で必要かというと、私は必要ないと考えています。あくまで、プライベートな問題として対処するべきです。プライベートであるべきことが、プライベートでなくなっているからこそ、差別が生まれているのですから。
 難しいことではあるけれど、親としては、学校より先に子どもの異常に気づく距離にいたいですよね。

**2002年3月19日(火)掲載**

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第1回「なんで私がこんなところで・・・なっちゃったか」

 初めまして! いや、ご無沙汰しています(かな?)。

 大関直隆です 。新聞・雑誌・TV等にはだいぶ出させていただきましたので、ご存じの方もいらっしゃるかと思います。こうして公の活字媒体(HPは活字媒体じゃない?)に登場するのは久しぶり。ちょっとだいぶ前まで、「わが子は中学生」(あゆみ出版)という月刊誌に2年半ほど連載をしていましたので、教育関係に詳しい方はそこでもご覧になっているかもしれませんね 。連載分をまとめて単行本を出版の予定だったのに、出版不況のあおりを受けて、あゆみ出版が倒産しちゃったので出せなくなっちゃったんですよね。けっこうおもしろかったから、もうちょっと早く出版の準備を進めててくれれば、あゆみ出版も倒産しなくてすんだかもしれないのにね。ミリオンセラーも夢じゃないなんて思ってたんだから。カハッ! まだ、そのときの原稿持ってるから、どっかの出版社、買ってくれないかなあ…。

 まあ、そんな古い話はさておき、今回からこのコーナーで連載をさせてもらうことになりました。私が5人の子どもを育てる中で感じたこと、日々報道される子育て・教育に関するニュース、子育てに悩んでいるみなさんからの相談などから、できるだけタイムリーに話題を拾い、私が考える子育てのポイントを伝えていきたいと思います。

 毎週更新ということなので、のんびり構えて今回は、「なんで私がこんなところで子育ての連載をすることになっちゃったか」というお話。

 プロフにもある通り、すでに主夫歴20数年。今はもう専業とはいえなくなっちゃったけれど、過去には専業だったことも。市役所の窓口に非課税証明を取りに行って、窓口の男性に、
「私の非課税証明取りに来たんですけど」って言ったら、
「あなた男なのに仕事してないんですか?」という質問。
「主夫なんですけど…。妻が働いてますので」と言うと、
「でも男でしょ。どこか身体でも悪いんですか?」って。
「だからあ! 主夫なんですけど~!」
とうとう怒鳴ってしまったわけ。ホントはこのやり取りはもっと長くて、5分くらいやってたんです。さすがに隣の窓口にいた女性職員が割って入って、
「少々、お待ちください」
と言って奥に引っ込んでいきました。しばらくすると、上司に相談してきた様子で、
「大変失礼しました。ただいま(非課税証明を)お出ししますので」
というわけで、すっごく嫌な思いをしたこともあるし、子どもを連れてデパートのトイレに行ったら、和式トイレで子どもを置いておくところもなくて困ったこともあるし、子どもをおぶおうとしたらおんぶ紐(ちょっと古い言い方?)が短くて、おなかの前でやっとの思いで縛ったこともある(この紐はもっと困ることがあって、実はオッパイがないので、胸の前で交差した部分がうっかりすると首のところまで上がってきちゃって、息が詰まることもあった)し、もちろん父子そろって公園デビューもしたし・・・ ・・・。というわけです。

 家庭の中を覗けば普通の家庭なんだけど、でも見かけはあんまり普通じゃないことが、連載をすることになったのかな?

 3月8日、文部科学省の「今後の家庭教育支援の充実についての懇談会」が中間報告をまとめて、その中で父親の育児への参加促進を提言していたようですが、まあ私の場合20年も前からかなり本気で実践していたわけ。PTA役員歴も単純に数えて19年。だぶってやってたのを数えるともうよくわからない(35年くらいかな?)。なかなかそんな体験してる人間は少ないので、ちょっと違った角度から子育てや教育を語れると思います。あんまり偉そうなことは言えないけど、なにか参考になることがあれば嬉しいです。

**2002年3月12日(火)掲載**

「マイタウンさいたま」に掲載したものをそのまま掲載しています。

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子育てはお好き? - 専業主夫の子育て談義 -

10年間毎週1回、500回にわたりさいたま商工会議所のタウン情報サイト「マイタウンさいたま」」に連載していたエッセイ「子育てはお好き? -専業主夫の子育て談義-」が、最近までサイト上に残っていたんですが、さすがに時間がたってサイトからなくなってしまったので、一応形跡を残すために(笑)ここに掲載しておくことにします。

毎週の連載ということで、その時々の話題を拾っていましたので若干内容が古く感じるものもあると思いますが、子育てに対する考え方や男の子育て、主夫としての生活など、実生活の中で起こったこと、感じたことをそのまま掲載してありますので、ご興味があったら読んでください。

本来だったら、日付を遡って掲載した方がいいのかもしれませんが、今試してみたら、システム上遡るのが大変そうなので、今日の日付から掲載して、文章の最後に実際に掲載した日時を記入(さっき調べたら少しずれていたり、記載がないのもあったりするので分かる範囲で)しいておくことにしようと思います。

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もう一つ息子の舞台です!

こっちは、スーパーエキセントリックシアター同期の大竹浩一君演出の二人芝居?

大竹君はなかなかの実力派の俳優さんです。
大竹君演出の舞台は初めて観るなあ…

息子の出演は2月21日(日)17:00~
20日(土)17:00~ は 及川奈央さんが出演するので、そちらに食われちゃうかも…

大竹君はどんな演出をするのかな…
こちらも楽しみです!

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息子(大関真)の舞台の情報

息子(大関真)の舞台の情報です。

ROCK MUSICAL PROJECT 「ワンラブ」

しばらく演出から離れることになるらしいので、もうあと何回観られるのかな?

そういう意味では、ちょっと寂しくもあり楽しみな舞台です!

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