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2007年7月

2007年7月29日 (日)

写真、削除しました!

小柳ルミ子さんが、27歳年下の男性と再婚するとか。

いやーっ、びっくり、びっくり!

こういう話題になると、必ずどこかのマスコミから取材の申し込みがあるんだけど、

今回もありました、ありました。

「年齢差(もちろん女性が上で男性が下ですよ)のある夫婦でうまくやっている」という条件でうちに取材の矛先が向いたと言うことらしいのだけれど、小柳さんのことは全然知らなかったので、最初何のことだかよくわからなくて、マゴマゴしちゃいました。

取材の連絡をもらったとき、ドイツから帰国していた努が、ドイツに戻る日が近づいていて、海水浴に出かけていた(ドイツは北の方にしか海がないので、日本のように簡単に海水浴を楽しめないと言うことだったので)ところだったので、直接カメラで画を撮ってもらうことができなくて、結局電話取材と言うことに。

インタビューの映像が流せないから、写真を使うことになったんだけれど、タイミング悪く、この日は写真のおいてあるカウンセリング研究所の事務員が休み。

あちこち手配をしても、うまく鍵を開けて研究所に入れる人間がいなくて、局の人に陶芸教室に本を取りに行ってもらい(たまたま、これまでに出版した何冊かの本が陶芸教室においてあったのを思い出したので)、あとは私のパソコンに入っている写真をメールで送ることにしました。

ところが、Air-H の電波が届かない!

「そうだ! FOMAでもネットに接続できるようにしといたんだっけ!」

というわけで、携帯で試すも、受信はできるのに、送信ができない。

いろいろやっても、どうもうまくいかない。

そのうち、局の人から最終的な取材の電話がかかって来ちゃって、万事休す。

「やっぱり、写真が送れないみたいなんですよ。すみませんね」

「大関さん、ブログをお持ちですよね。そこから写真を取らせてもらっていいですか?」

「あーっ! ブログにならアップできるかも…。すぐやってみます!」

というような成り行きで、ブログに写真をアップしてみることになりました。

これが見事成功!

そして、この前の月曜の夜から、ついさっきまで、Nao's photo にはいつもと違う、テレビオンエア用の写真が公開されていました。

でも、削除しちゃった!

何が言いたいんだか、全然わかんないね。

要するに、さっきまで、いつもと違う写真がアップされてたけど、もう削除しちゃったよっていうことかな?

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2007年7月10日 (火)

父の死

7月6日午前4時7分、父は永眠しました。

父は第2次大戦当時、海軍甲種飛行予科練習生として、霞ヶ浦の航空隊にいました。今でも毎年、同期の方々の集まりを行っているのですが、今年は、6月17日に会津東山温泉で行われました。数年前から歯茎の状態が悪く、形状がどんどん変わってしまうため、入れ歯を何度作り直してもうまく合わなかったこと、目先の具現化された生き甲斐がなかったこと等もあって、「食べる」という「欲」がなくなり、痩せ細り、体力も限界に来ていました。会津までの数時間が果たして耐えられるのか、甚だ疑問ではありましたが、数ヶ月前からそれに参加することを一つの糧として生きてきたという父の状況もあり、全く大げさではなく、それに伴う疲労のための「死」も覚悟で、連れて行きました。

「同期の会」では、精一杯の気力と体力を振り絞って、宴会に参加しました。自分がそこにいることの意味や参加している同期の皆さんのことが果たして理解できているのか…、それもよくわかりませんが、すでに亡くなってしまった戦友の皆さんに黙祷し、そして全員で「同期の桜」を歌い出すと、父も精一杯「同期の桜」を歌っていました。

残念ながら、翌日、会の皆さんと最後まで予定をこなすことはできませんでしたが、なんとか一泊して無事帰ってきました。チェックアウト後すぐに帰路につき、午後1時頃には自宅に戻りましたが、その日の父はいつになく興奮しているようで、普段は夜9時過ぎには自室に戻り寝てしまうのに、この日ばかりは12時くらいまで起きていて、曾孫と遊んだり、話をしたりしていました。

けれども、やはりそれが引き金となり、とうとう食べることに対する「欲」だけでなく、体力もなくなり、7月6日、亡くなったのです。

腹膜炎で死にかけたり、癌で大腸を数十センチも切除したりと、何度か大きな手術は経験しましたが、「俺はどこも悪いところがない」と本人が言うように、確かに現在の父には、病名がつくようなものは一切ありませんでした。周りで見ているものには、明らかに何らかの医療行為が必要としか映らないのですが、父自身がそう考えていると言うことは、「治療」という範疇のものが一切できないということであり、父の「生」は、父の生きる意欲次第ということでもあります。

会津から帰宅して2日目、食べ物も飲み物もほとんど口にせず、気力も体力も限界と思い、救急車を呼んだこともありましたが、父は断固拒否。「俺はどこも悪くないんだ! やることがないから、ここで寝てるんだ!」と言う父を入院させることはできませんでした。

「やることがない」父の、唯一の「やること」が、曾孫と食事をし、遊ぶことでした。我々がいくら呼んでも部屋から出て来ようとしない父も、

「ひいじいちゃん、ご飯だよ!」

という曾孫の呼びかけにだけは反応し、必ず食卓までやって来ます。もうすでに立つことすらままならなかった死の2日前は、這って食卓までやって来ました。

曾孫たちはそれを見て、「ひいじいちゃん、赤ちゃんみたい!」と言うのですが、それは父をバカにしているのではなく、むしろ、よだれを垂らし、紙おむつをし、悪臭を放っている「ひいじいちゃん」をまったく差別の対象として扱っていないことの表れでした。大人なら、手を触れることすらはばかりたくなるような状態の父に、頬摺りすらするのです。そんな曾孫たちと食事をし、遊ぶこと、それが父の唯一の「生」への絆だったのです。

7月5日、私と蓮と沙羅で、「七夕飾り」を作りました。蓮は、まだすべてのひらがなが書けるわけではありませんが、「またひこうきとばそうね」と書きました。沙羅は、ひいじいちゃんの絵を一生懸命描きました。

大人が声をかけると強く手を振り拒否をするのに、「ひいじいちゃん!」と声をかけながらおでこや頬をツンツンと突っつく曾孫たちには、時に笑顔すら浮かべ、握った手を握り返したりするのです。

一昨年の秋、死の直前、大人の呼びかけにはまったく反応しなかった義父が、義父の手をそっと撫でた沙羅に対し、縦に手を振り「よしよし」という仕草をしたのにそっくりだと感じました。人間の生命の継承はこうして行われているんだ、とつくづく感じる瞬間です。

父が息を引き取って間もなく、父の脇に座った沙羅は、じっと父を見つめ、無言ではらはらと涙をこぼしました。

死後の処置をするため、父を広い仏間へ運び出すと、

父のいなくなった部屋の時計を眺めた蓮が、

「(ひいじいちゃんは動かなくなっちゃったけど)時計は動いてるね」

と言いました。

(これはさいたま商工会議所HP「マイタウンさいたま」の連載エッセイコーナー「子育てはお好き? 専業主夫の子育て談義」に掲載したものを、加筆修正したものです)

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