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2006年11月

2006年11月13日 (月)

大腸ポリープ切除

気にしない、気にしない!

去年に引き続き、大腸ポリープを切除しました。

大したことのような、大したことではないような…。

去年は初めてだったし、内視鏡カメラから映し出されるモニターを眺めていたら、どうも形がきれいじゃない。

いつだったか、誰だったかから、悪性の物は形がよくないという話を聞いていたので、その映像を見たとたん、

「えっ、あれって形、悪くない?」

と思ったのでした。

「先生、そこのポリープは形がよくないですよね? 形がよくないのって悪性の可能性があるんでしょ?」

と内視鏡を操っている先生に尋ねると、

「よく知ってるじゃん。そうそう、その通り」

という答えが返ってきました。

「ちょっと大きいねえ。きれいに取っておきますからね。もうちょっと大きかったら、内視鏡じゃ取れなくて、おなか切らなきゃならないとこだったよ」

と言われてしまいました。

取った結果は、悪性ではなかったので、まあよかったんですが、

「大きかったから、残りのやつを全部取ってないので、来年また来てくださいね。ちょうど1年くらい後でいいから」

というわけで、今年もポリープの切除になっちゃいました。

一度経験したことというのは、それほど恐怖心もなくて、今年はずいぶん楽な気持ちで、ポリープを取れましたが、6人同じ日に大腸の内視鏡検査が入っていたんですけど、やはり初めての人は不安なようで、あっちぃウロウロ、こっちぃウロウロ状態。

12年ほど前、耳下腺腫瘍を手術したことがあって、そのときは、腫瘍を取って病理に回しても、良性か悪性かの判断ができないくらい微妙だったので、1週間くらい、生きるか死ぬかと不安な状態で置かれたことがありました。

一度そういう経験をしていると、人間強くなるものですね。

万一悪性だとしても、「精一杯戦って、それでもダメなら残された生をしっかり生き抜くぞ。それで後悔はないや」そんな気持ちになるもんです。

うむ、私だけかな?

けっこういい(?)性格!

こういう人間は、病気になっても早く治るかも…。

外傷だって、気持ちの問題で、早く治ったり、なかなか治らなかったりするらしいからね。

まあ、精一杯ポジティブに生きましょう!

それにしても、金曜日からなんかドロドロしたようなポリープ食とかを出されて、ほとんど何も食べてないような状態なので、

腹へったぁ!

去年は、5キロも痩せちゃったんだよねぇ。

すごいダイエット!

今日のお昼からは、うどんかバターを塗ったパンくらいなら食べてもいいって言われてるんだよ。

早くお昼にならないかなあ…。

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2006年11月 9日 (木)

トイレ

私の会社のある浦和。会社があるというよりは、生まれ育ったといった方が正確かな? 今は合併してしまったので、「浦和レッズ」がないと浦和という言葉は死語になりそうな気配。どうもまださいたま市っていう言葉に慣れませんねえ。浦和駅の東口にパルコがOPENすると、なんとか忘れられない地名になるかなあ?

浦和の人間ていうのは、浦和市民だっていうことに変な誇りがあって、大宮とは違うんだぞっていう意識を心のどこかに持っているものです。初めて会った人にあいさつするのに、名前をいう前から「浦和に住んでます」なんてあいさつしてた人もいましたから。

「おいおい、まず名前だよ、名前!」

昔から県庁所在地で、「文教都市」なんて言われていたけれど、「文教都市」って言うのはいったい何?

わかりにくすぎる!

未だに、不動産広告では、「文教都市」っていう言葉が踊っているし、実際「いい小学校」を求めて浦和駅周辺に住居を移す人たちも多くいます。今でこそ学校選択制により公立の小学校も選べるようになりつつあるけれど、ずっと昔のそのまた昔、学区外の小学校に通うことを越境入学なんていう言い方をしていました(今も学区があるところでは学区外へ通うことを越境と言うんでしょうけど)が、浦和市は越境を認めなっかた裏で、お金を取って越境入学を認めていたことがあったとか…(お金を取ってるわけだから裏じゃなく表ですけどね)。いつだったか、日テレだったかで大きく取り上げられちゃったりして。

まあ、それほどみんなが通わせたい学校のある「文教都市」浦和なわけですね。

でも今日の話題は、文教都市ではなく「うなぎ屋」。合併前の浦和市のころから、うなぎの消費量が全国一っていうのは、案外知られているようで知られていないことだと思います。最近、5月の終わりころ、「うなぎ祭り」なるイベントを毎年さいたま市役所の前で開催しているので、少し全国一が有名になってきたかな? 私も数年前に知ったんですけどね。

さて、その「うなぎ屋」ですが、全国一というからには浦和周辺にはたくさんあるんです。そうですねえ、今私の会社から、歩って5分くらいで行ける範囲を考えただけでも、お座敷があるようなきっちりとしたうなぎ屋だけで3軒あります。最近、駅周辺が変わってしまって、減ってしまったんです。ついこの前までは、あと3軒はあったかな? もうちょっと足を伸ばせば、その他に1、2、3、4、5、6、7軒くらいは、頭に浮かびます。

その1軒での出来事です。いやいや、前置きが長かった!

私は、ランチのうな丼を食べていました。吸い物(ランチですから、むろん肝吸いではありません)、お新香付きで、1000円です。もちろんうなぎはちっちゃいです。以前に、そこでランチを食べたときにもらった割引券で、ご飯大盛り無料。それを半分くらい食べたところだったと思います。

私は入り口に背を向けて座っていたので、ドアを開けて「すみません」と声をかけて入ってきたおばさんの表情は、見ませんでした。厨房の方から、うなぎ屋のおばさんが「はーい」と出てきました。私の後ろで、入ってきたおばさんがおずおずと

「すみません、トイレお借りしたいんですが…」

と、うなぎ屋のおばさんに声をかけています。うなぎ屋のおばさんは、ちょっとうっとうしそうな表情をしましたが、「はい」と答えました。そこで初めて、入ってきたおばさんが私の脇を通り過ぎ、制服を着て道路の工事の誘導をしているおばさんだということが、私にわかりました。彼女はちょっと急いでいたのか、「はい」という返事を聞くやいなやトイレに消えました。

うなぎ屋のおばさんは、厨房に戻り、中にいる主人らしき人に「工事の人がトイレ貸してくれだって」と言っているのが聞こえました。

しばらくすると、工事のおばさんがトイレから出てきました。トイレの位置は、ちょうど厨房の入り口から真っ直ぐのところにあり、厨房からはトイレから出てくる人が見えます。トイレから出てきたおばさんを、厨房にいた主人らしき人が「ちょっと」と厨房の方へ呼びました。工事のおばさんは、ちょっと頭を前に突き出して、腰をほんのわずかに曲げた姿勢で、厨房の入り口まで行きました。厨房にいる主人らしき人は、私の位置からは見えませんが、工事のおばさんの様子から、怒っていることがわかりました。

「あんたねぇ、食事をするんならわかるよ。何にも食わないで、トイレだけ借りるっていうのはないだろ! 常識がないんだよ!」

という声が聞こえました。店の中に聞こえるので、怒鳴ってはいませんが、身体の小さな年配のそのおばさんには、充分すぎるくらいのすごみの利いた言い方です。

「すみません」

何度も頭を下げながら、厨房から離れたそのおばさんは、入り口のところまで来て、うなぎ屋のおばさんに、

「帰りに寄って、何かいただきますから」

と告げて、店を出て行きました。

私はランチでしたから、1000円でしたけれど、そのおばさんの仕事が終わったころには、一番安いうな重を食べても、2000円以上はします。必死で仕事をして、ずいぶん高いトイレについちゃったなあ。

私は、その一部始終を見て、一気にうなぎがまずくなりました。もうここの店には二度と来ることはないな。

工事を請け負っている会社が、トイレの手配をしていないことは、ひどいことだと思います。けれども、トイレを貸せないこのうなぎ屋も許せないと思いました。

”常識がないんです”。普通、トイレに困っていたら、「どうぞ」って気分よく貸すだろっ!

私も、コンビニやガソリンスタンドのトイレを使うとき、何かを買います。たとえジュース1本でも、ガソリン1リットルでも、気持ちの問題ですから。でも、そこにうなぎ屋しかなかったら、そしてどうしてもトイレが必要な状況だったら、うな重を食べますかねえ? おそらく工事のおばさんは、休憩時間にトイレを借りに来たんじゃないと思うんです。2~3分歩けば、コンビニもあるんです。工事のおばさんの行為が当然な行為とは思いません。だから、おずおずしていたんです。どうして貸せないんだろう?

四万温泉に行きました。もちろん観光地ですから当然といえば当然ですが、「トイレだけでもお使いください」の貼り紙をたくさん見ました。トイレを使えば、何か買うという狙いもあるでしょう。そうだとしても、それよりも何よりも、そういう言葉にはホッとするものがあります。人間いつ何時、どんなことがあるかわかりません。そんなとき、みんなが助け合っているという心があるとないでは、どんなに世の中が違ってくるか…。

”Live and let live.

”世の中は持ちつ持たれつ”。助け合ってこそ、平和な世の中が保てるんだと思うんですが。

とても寂しい気持ちがしました。

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2006年11月 7日 (火)

ブログ再開!

昨年義父が亡くなったと思ったら、9月には義母が亡くなり、大きく生活が変化しました。義父も義母も、私たちにまったく世話をかけたわけではなく、最後の最後まで、自分たちだけで生活をしてくれていたので、そういった意味では、まったくわが家の生活に影響はないはずなんですが、春夏秋と必ず毎年、義父と義母を旅行に連れて行っていたのがなくなっただけでも、ずいぶん生活全体に変化があるんだなあと感じます。

義父は昨年93歳でなくなり、義母は義父が亡くなったときの様子では、まだまだ100歳くらいまで生きるのかなあと思っていたのですが、義父より4歳下の義母は、100歳どころか義父の年齢までも生きられず、義父の一周忌も果たせずに、90歳でなく亡くなってしまいました。義母にとって、手のかかる義父でしたので、義父が亡くなってから、義母には義母の楽しみをたくさん味わってもらおうと思っていたのに、どういうものなのでしょうねぇ…。手のかかる義父がいたことが義母にとっての生きていく張りだったのでしょうか。

義父が亡くなってから、ほとんど毎週熊谷に住む義母のもとを訪ねていたのに、義母が亡くなる直前は、私が風邪をひいてしまい、うつしてしまうと大変なので、しばらく義母のところには行けずにいました。それまでも、行く度に食事の量が減っていくので、「これはまずいなあ、今年の冬は越せるかなあ?」と心配はしていたのですが、やっと風邪がよくなり、まさにたった今、これから義母のところへ向かおうとしているその瞬間に、救急車で運ばれ入院したという連絡をもらうとは…。

心筋梗塞でした。ヘルパーさんが来ているときでしたが、胸が苦しくなり自分で救急車を呼び、ヘルパーさんに付き添われて病院に運ばれました。それから3日。意識はずっとしっかりしていたものの、人工呼吸器は一度も外せないままでした。

四十九日は過ぎてしまったんですが、まだここにいます。毎日、曾孫たちが水をあげたり、食べ物をあげたり…。さっき気付いたら、昨日茹でた小さな里芋がひとつ、皮のついたままちょんと置いてありました。曾孫の蓮(れん)があげたものらしいです。人は亡くなっても、こうして孫や曾孫の心の中で生きていくんですね。

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